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ビスケットのおいしい食べ方――料理と食を通して日常を考察するエッセイ「とりあえずお湯わかせ」柚木麻子

『ランチのアッコちゃん』『BUTTER』『マジカルグランマ』など、数々のヒット作でおなじみの小説家、柚木麻子さん。イギリスでの講演旅行を大盛況のうちに終え、無事帰国した柚木さんが新たに取り入れた食習慣とは?
※当記事は連載の第44回です。最初から読む方はこちらです。

#44 Dunking

 10日間のイギリス・オーサーズツアー(講演旅行)を終え、時差ボケと興奮が未だ冷めやらない。過密スケジュールだったため、お土産を買えないまま、最後の数時間でスーパーマーケットの箱入り紅茶を爆買いした。スコーンのアフタヌーンティーを楽しむ余裕も当然なく、移動の合間にサンドイッチやイングリッシュブレックファーストをパッと食べるくらい。しかし、移動の列車から田園風景を眺めたり、、講演先の大学の図書館や書店をうろうろしたりできただけで、私は十分満足である。
 イギリスは今、読書がブームらしく、どんな書店も信じられないくらい活気づいていた。多くの書店で見かけたジェーン・オースティンやブロンテ姉妹、ヴァージニア・ウルフなどの19~20世紀の女性作家たちのパズルやカードなどのグッズが種類豊富で、それもいわゆる萌え絵ではないことに、感動した。最初、自分の本がイギリスで売れていると聞いた時「とはいえ、前提となる日本のこの独特の感じ、伝わっているのかな?」と思っていたのだが、日本の小説や漫画は非常に人気のため、サイン会や講演会で会う読者さんの多くが、現在の日本の政治や経済をよく理解していた。また、イギリスはジェンダー平等が進んだ国、と羨んでいたところがあるが、読者さんの多くが、ルッキズムや仕事と家庭の両立に悩んでいて、カルチャーショックだった。滞在中、格差からくる社会的分断にも遭遇し、ユートピアなんて場所はないんだなあ、と感じ入ったりもした。ドイツに行った時も思ったが、歴史ある建物や古典文学が溶け込んだ豊かな街並みを歩くと、私のような人間は、いろんなフィクションを思い出しロマンティックに酔いしれてしまうが、同時にそれは他国からの搾取の歩み(現在進行形でもある)と重なっていて、考えなしで憧れるのは危険だなあ、と思ったりもした。
 六都市を回り講演をこなしたが、一生懸命練習しておいた英語スピーチが、これまでの人生でいちばんくらいにウケたのはめちゃくちゃ嬉しかった。エージェントさんには一生分くらい褒められた。とにかく明るい安村さんが、イギリスのオーディション番組で爆笑をさらったのが記憶に新しいが、あれと同じ雰囲気の受け入れられ方だった。日本だとややトゥーマッチとされる私の喋りや作品(安村さんにも同じような傾向がある気が)はモンティ・パイソンの国だとちょうどいいのか、単に日本ブームにピタッとハマったのか、帰国後ある先輩作家が指摘したように「クールでもミステリアスでもないやたら元気な日本人女性が珍しかったのでは?」の可能性もある。あの快感がどうしても忘れられないので、今後も英語の勉強は続けようと固く心に誓った。
 もう一つ、私に多大な影響を与えたのは、ビスケットを紅茶に浸す文化である。講演会の前、大学や市民ホールや図書館の控え室で、私は司会の方や通訳さんと一緒に待機していたのだが、そこには必ずと言っていいほど「ヨークシャーティー」というブランドの市販のティーバッグの箱と、市販のビスケット、ビネガー味のポテトチップス、とろっとした濃い牛乳が入ったプラケース、そして丸ごとの小さなりんごが用意されていた。
 私は控え室でのみんながお茶を楽しむ様子を眺めるのが好きだった。立派なティーセットによるよそゆき時間ではない。それぞれのやり方で、紙コップにティーバッグを入れ、半分ちょい上くらいまで熱湯を注ぎ、濃く色が出た後、牛乳をどぽどぽ注ぐ。そして、ビスケットをミルクティーに「ダンク」してパクリ。紅茶といえばビスケットがセットなのか、「ヨークシャーティー」からビスケットのフレーバーをつけたお茶なる個性派も発売されている。
 この浸し方には、それこそ、日本人が牛丼の食べ方やたまごかけご飯にそれぞれのこだわりが滲むように、個人差がある。お世話になった通訳のベサンさんは、ビスケットを一瞬浸して、さっと引き上げるお気に入りのやり方を教えてくれた。観察した結果、三秒間がベスト、だと学んだ。ちなみに、控え室に置いてあったビスケットの多くが、口中の水分を持っていかれるようなもそもそした舌触りで、甘い香りがして、オーツが入っていた。日本のクッキーのようなサクサク感はなく、絶対に飲み物が必要になる重い味だ。しかし、このもそもそビスケット、熱いミルクティーに三秒浸すと、夢のように美味しくなる。口の中で紅茶を吸った生地がほろほろっと解けていく。イギリスを象徴する味として病みつきになった。
 日本に帰ってきてから、あの控え室で食べたのと同じものを探したが、イギリス製の市販クッキーというと、バターたっぷりサクサクのウォーカーが人気で、私が求めるものとは違う。あんまり見かけなくなったけれど、ダイジェスティブビスケットのザクザク感はダンク向きだ。グランマワイルズというブランドのバタースコッチビスケットがいちばん記憶に近い味がする。このブランドからオーツビスケットも出ているらしく、もし見つかればそれがベストだと思う。
 手の込んだティータイムをなかなか用意できないけど、ティーバッグの紅茶にビスケットのダンクなら仕事の合間でもなんなくやれる。驚くほどに気持ちが変わるし、身体もあたたまる。たくさんお菓子を食べるより、ビスケット一枚に熱いミルクティーを浸す方がリフレッシュする。何もかも真似するのは無理だが、イギリスの良いところをちょっとずつ私の日常に溶け込ませられたらいいな、と思っている。

 次回の更新予定は12月20 日(金)です。

題字・イラスト:朝野ペコ

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プロフィール
柚木麻子(ゆずき・あさこ)

ゆずき・あさこ 1981年、東京都生まれ。2008年「フォーゲットミー、ノットブルー」でオール讀物新人賞を受賞し、2010年に同作を含む『終点のあの子』でデビュー。 2015年『ナイルパーチの女子会』で山本周五郎賞を受賞。『ランチのアッコちゃん』『伊藤くんA to E』『BUTTER』『らんたん』『オール・ノット』『マリはすてきじゃない魔女』『あいにくあんたのためじゃない』など著書多数。雑誌でのドラマ批評連載をまとめた最新刊『柚木麻子のドラマななめ読み!』が好評発売中。

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