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見てはいけない映画を見ること―—『ブルーフィルムの哲学』刊行イベントレポート①

 「ブルーフィルムって何?」「なぜ見てはいけない?」
 ひそかに待望されていたNHKブックス『ブルーフィルムの哲学』が刊行されました。その発売を記念して開かれたイベントの抄録を掲載します。
 参加メンバーは3人、著者で哲学者の吉川孝さん(甲南大学)と、恐るべき緻密さで映画を研究する木下千花さん(京都大学)、独自の視角で歴史学に新風を吹き込む河原梓水さん(福岡女子大学)です。

左から、吉川孝さん、木下千花さん、河原梓水さん
イベントは発売当日、膨大なアーカイブを有する神戸映画資料館(神戸市長田区)にて、
安井喜雄館長・田中範子支配人のご協力をいただいて行われました。

ブルーフィルムに魅了された作家と映画人

吉川:まず著者として、『ブルーフィルムの哲学 「見てはいけない映画」を見る』の内容を紹介します。「ブルーフィルム」はむき出しの性器や性行為を描く映画です。刑法第175条では、猥褻なものを「公的に陳列(=上映)」すること、「頒布」すること、「販売目的」で「所持」することなどが禁じられています。現在でもその骨子は変わっていません。
 インターネット上にはブルーフィルムに相当する映像が溢れていますが、海外のサーバーから配信されているなどのために見逃されているだけであり、今でも販売や配信した業者が摘発されています。
 このような違法の性表現の映画は、日本でも戦前から、劇場で公開されることなく密かに鑑賞されていました。永井荷風、谷崎潤一郎、三島由紀夫など文学者が魅了され、川島雄三、今村昌平、森崎あずまなどの映画人たちも、自らの映画作品にブルーフィルムに関わる題材を反映させています。1960年代から野坂昭如や藤本義一、開高健や吉行淳之介によって紹介され、一般に知られるようになりました。

ボーヴォワールの手法で、違法のポルノの世界を描く

吉川:本書は哲学の本です。ここで「哲学」というのは、何らかの題材を批判的に検討しながら、それにまつわる「世界」を描く営みのことです。ブルーフィルムには制作する人、出演する人、上映する人、鑑賞する人たちがいて、「ブルーフィルムの世界」が形成されていました。目次は次のようになっています。 

はじめに 「禁じられた映画」を見る山田五十鈴
序章 経験を通じて思考すること
第一章 ブルーフィルムとは何かと問いながら
第二章 ブルーフィルムを見るとはどのようなことか
第三章 ブルーフィルムは何ゆえに美しいのか
第四章 ブルーフィルムを前にして何をすべきか
第五章 ブルーフィルムはどのような(不)自由をもたらすのか
第六章 ブルーフィルムとともに生きるとはどのようなことか 
終章 現れるに値するもの 
おわりに 『風立ちぬ』を見る川島雄三

 哲学の本でありながら、山田五十鈴から始まって、川島雄三で終わっています。他にもブルーフィルムに関連する劇場公開された映画や文学作品や漫画などを引用することで、ブルーフィルムの世界を描き出しています。
 こうした手法は、多数の文学作品を引用しながら抑圧された女性の世界を描いた『第二の性』のボーヴォワールに倣っています。ボーヴォワールは、さまざまな女性の経験を集めて、女性がどのように世界を経験しているのか明らかにして、読者のものの見方を変化させようとしており、その意味において哲学でした。

鑑賞空間の現象学の試み

吉川:ここからはお二人のゲストからコメントをいただきます。最初は木下千花さんです。木下さんは、『溝口健二論 映画の美学と政治学』(法政大学出版会)という浩瀚こうかんな学術書の著者であり、そこでは、日本映画史に特別な位置を占める溝口健二の傑作が内務省などの検閲と闘いながら制作されたプロセスが綿密に描かれています。
 このほかにも、中絶に関わる映画の研究、映画理論、ジェンダー論などの最前線で活躍なさっており、私もブルーフィルム研究にあたって、木下さんの仕事を参照しました。

木下:吉川さんの著作は「ブルーフィルムとは何か」を問うことから出発しています。哲学の研究者にとっては自然なことかもしれませんが、これはとても大切なことです。
 たとえば、映画研究者が「メロドラマ」について論じるときに、どの作品を取り上げればメロドラマというジャンルを論じたことになるのかという問題に直面します。吉川さんは、現代では顧みられないジャンルとしてのブルーフィルムを論じ、その文化を「継承する」という独特のスタンスをとっています。

吉川:「……とは何か」というのは、哲学の問いの典型とされています。第一章では、そうしたスタイルに依拠しながら、ブルーフィルムの文化を現代に甦らせるという、通常の哲学ではあまりやらない姿勢を示しています。

木下:第二章後半から第三章では、現象学の方法に依拠して、ブルーフィルムを鑑賞する経験が分析されています。例えば、「私はできる」「運動志向性」などの概念を用いながら、性行為の映像に魅了される鑑賞者の経験が分析されています。しかも、映画館ではない場所で刑法に抵触しながら鑑賞するという特別な状況を考察することは、「鑑賞空間の現象学」の試みになっていると思います。

吉川:意図を汲み取っていただき、ありがとうございます。作品の内容だけではなく鑑賞の状況を考察するのに現象学的手法は適しています。鑑賞の経験といっても単に見るということだけではなく、鑑賞者がどのような人であり、どのような場所にいるのかが重要な意味を持ちます。

マスターベーションしながら鑑賞する

木下:吉川さんのご本では、映画を見ながらマスターベーションをするということが、ブルーフィルムを含むハードコアポルノ映画の鑑賞経験の重要な要素とされています。これはいままであまり論じられていないことで、興味深い論点です。そうした論述が、ジェンダーやセクシュアリティをめぐる問題に配慮しながらなされています。

吉川:ありがとうございます。

木下:ここで質問ですが、マスターベーションのための映画としてのポルノに対して、通常の芸術作品においてなされるような「美的判断」を下すことは可能なのでしょうか。
 一般には、美的判断というのは、美術館などで絵画作品を鑑賞するときになされるものであり、マスターベーションをするようなポルノ作品では、要するに見る人の嗜好に左右されるので、なされにくいと考えられるのではないでしょうか。

吉川:確かに、芸術は美的に鑑賞され、ポルノグラフィは消費されるという一般的な区別を踏まえて、そのように整理できます。しかし、芸術というよりも嗜好とされる「食」についてある種の美的判断がなされ、批評が成立するように、ポルノについての判断や批評も可能です。その場合には、性的興奮が昂まるという観点から、いいポルノとはどのようなものかが議論になるはずです。
 拙著では、この議論を行うに際して美学(aesthitics)の議論を手がかりにしました。西洋近現代の美学では、美術館やコンサートホールなどで美しい作品を冷静に鑑賞する場面が念頭に置かれています。しかし、美を感じ取るのは、そうした場面だけではなく、食べ物を味わったり、踊りながらグルーヴを感じたりする場面でも生じることです。本書は、心身全体が揺り動かされることが美学のテーマになりうる、という立場をとっています。

後半に続きます

吉川 孝(よしかわ・たかし)
甲南大学教授。1974年、東京生まれ。慶應義塾大学文学部哲学科卒、同大大学院文学研究科後期博士課程修了。博士(哲学)。高知女子大学(現高知県立大学)講師・准教授を経て現在、甲南大学教授。専門は現象学にもとづいた、現代倫理学、映画の哲学。著書は『フッサールの倫理学――生き方の探究』(知泉書館、2012年度日本倫理学会和辻賞受賞)、共編著は『映画で考える生命環境倫理学』(勁草書房)、『現代現象学――経験から始める哲学入門』(新曜社)。

木下千花(きのした・ちか)
京都大学教授。東京生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士後期課程退学、シカゴ大学大学院人文科学研究科博士課程修了。PhD(東アジア言語文明学・映画メディア学)。ウェスタン・オンタリオ大学、静岡文化芸術大学、首都大学東京の准教授などを経て現職。専門は映画史、映像理論、ジェンダー、セクシュアリティの研究。著書に『溝口健二論――映画の美学と政治学』(法政大学出版局、芸術選奨新人賞受賞)など。

河原梓水(かわはら・あずみ)
福岡女子大学准教授。岡山生まれ。立命館大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。ベルリン自由大学特別研究員、大阪大学招聘研究員などを経て現職。専門は歴史学、とくにサドマゾヒズム・SMをめぐる、戦後日本の性文化史、思想史、メディア史。歴史研究のオンラインジャーナル『Antitled』およびその発行団体Antitled友の会を運営。共編著に『狂気な倫理――「愚か」で「不可解」で「無価値」とされる生の肯定』(晃洋書房)など。

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