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サラブレッドはどこへ行くのか?「引退馬」から見る日本競馬

 ターフを去った競走馬は、その後どこへ行くのか?
 世界で最も馬券が売れる国、日本が抱える「引退馬」という産業課題。映画「今日もどこかで馬は生まれる」が高い評価を受けた映画監督・平林健一さんが、サラブレッドの誕生から現役生活、セカンドキャリア、肥育の現場まで、その一生を現場関係者への取材を通して明らかにしたノンフィクションサラブレッドはどこへ行くのか 「引退馬」から見る日本競馬が好評発売中です。刊行を記念し、平林さんが引退馬を追い始めた動機や、愛する競馬への思いが込められた「はじめに」を特別公開します。


 競馬は素晴らしい。筋骨隆々のサラブレッドたちは、まるで芸術作品であるかのように、汗ばむ肌が陽射しに照らされてターフの上で光り輝く。そして人が跨って、言葉通り「人馬一体」で大観衆の前を全速力で駆け抜ける。そんな非日常的な光景は、他の何ものにも替えがたい価値がある。心惹かれる馬が現れ、動向を追いかける。そしてその馬が競走馬としての物語を終えた後、数年の時を経てその血を引く子がターフへやってくる……そんな循環も憎たらしいほどに心を躍らせるだろう。そんな〝唯一無二〟の競技に、心を奪われた一人が他ならぬ私だ。この競馬熱は、これまでもこれからも冷めることはないに違いない。
 私が競馬に傾倒したのは幼稚園児の頃。生粋の競馬ファンで獣医療従事者だった父の影響だ。父の書斎に入り浸り、過去数年分アーカイブされた『競馬エイト』を眺めたり、しゅ辞典や馬券術の本を読み漁るのが日課で、こと血統に関してはかなり詳しくなって、気付けば父の〝アドバイザー〟として毎週末、競馬場やウインズ(場外馬券場)で競馬予想に勤しんでいた。

著者の平林健一さん

 その後、一世を風靡ふうびしたテレビゲーム「ダービースタリオン」のとりこになったり、スーパーホース・ディープインパクトに魅了されたりなど、私から見た競馬の魅力を語るトピックは尽きない。
 しかし実は、たった一度だけ「もう二度と競馬なんか見たくない」と思ったことがある。それは私が18歳の頃、初めてインターネットに深く触れたことに端を発する。かつて好きだった馬の名前を検索すると、ヒットしたのは競馬ファンが集う掲示板で、その馬は「行方不明」になっていると書かれていた。ここで言う行方不明とは、〝この世からの〟行方不明であることを指している。そして、それはその馬に限ったことではなく、多くの馬で同様に起こっているようだった。私は言葉では形容できないほどの衝撃を受けた。
 人生で一番やり込んだテレビゲーム「ダービースタリオン」では、愛馬を引退させる時に決まって、「乗馬として引きとられることになりました」と言われる。今思うと馬鹿げた話だが、私はそれを疑いもなく、信じていた。全ての競走馬は、引退した後どこかの乗馬クラブで元気に生きているのだと思い込んでいた。

 しかし考えてみれば、競馬場以外で馬を見ること自体が珍しい。ましてや、この国に乗馬クラブはいったいいくつあるのだろう? 考えれば考えるほど悪い方向に辻褄つじつまが合ってきて、途方もない悲しみが湧き上がってきた。そしてそれは、テレビゲームの一文を何の疑いもなく信じ込んでいた能天気な自分と、いい面しか映し出そうとしない競馬主催者に対しての、底知れない怒りへと姿を変えたのだった。
 だが、私は競馬から離れることができなかった。競馬から距離を置いたのはほんの数ヶ月程度だったように思う。理由は至ってシンプルで、競馬が持つ「魅力」に「怒り」が勝てなかったからだ。前者から後者を引き算しても〝プラス〟になってしまったのだ。一介の競馬ファンが向き合うには到底大きすぎるこの産業課題に対して、「いつか自分が力を持った時に、この問題に向き合おう」と心に決めて、蓋をした。今思えば、ただ競馬を楽しみたいがために問題を棚上げして、辛いことに背を向けただけかもしれない。それでも、自分なりにとても葛藤した出来事だったことは間違いない。

映画「今日もどこかで馬は生まれる」の成功から見えた景色

 私がその蓋を開けることになったのは、テレビ番組や企業のPR映像を作る会社で映像ディレクターとなった後だった。奇しくもドキュメンタリーを主戦場にする制作者となった私は、図らずも映像表現という手段を通じて世の中に想いを発信するすべを身に付けていた。
 私は思った。「今こそ、蓋を開けよう」と。
 そして社内に映画サークルを作った。その名も「Creem Pan(クリームパン)」。そこで私は同僚から参加者を募って、競走馬の〝その後〟をテーマにしたドキュメンタリー映画「今日もどこかで馬は生まれる」の制作をスタートさせた。その内容は、出産から売買取引、競走生活、そして引退後のキャリアまで、競走馬の一生を包括的に取材し、中立的な立場から引退した競走馬(引退馬)の問題の現状を描き出すというものだった。会社は私たちの活動を最大限サポートしてくれたが、当然、制作費まで援助してくれるわけではない。そこで私たちはクラウドファンディングへの挑戦を決め、結果、210名の方から269万円の援助をいただいて、映画はクランクインした。
 本作制作時に痛感したことでもあるのだが、競馬業界で「引退した馬の〝その後〟は追うな」というのは暗黙の了解だった。そのため、そんなタブーに切り込んでいくことは、想像以上に困難を極めた。しかし、この問題を看過できない競馬関係者が一人、また一人と協力してくれて、構想から足かけ1年半の時を経て、1都1道5県での全12シーンの撮影をもってクランクアップを迎えた。スタッフは本業の傍ら手弁当で奔走ほんそうし、私も有給休暇を全て使い切って何とか完成に漕ぎつけた。本当に大変な毎日だった。もう一度やれと言われてもできないかもしれない。

 2019年12月。その年の競馬の総決算であるGIレース・有馬記念の開催と時を同じくして、「今日もどこかで馬は生まれる」は東京・新宿の独立系映画館K’s cinema にて封切りを迎えた。生まれて初めて自分の作品が映画館で上映されるとあって、「お客さんが一人もいなかったらどうしよう」と不安で仕方がなかったが、劇場に着くと開館を待つ人が長蛇の列を作り、入り口につながる階段にまで溢れていた。まさかの満員御礼。上映後の舞台挨拶、ロビーでの交流。まさに制作者冥利に尽きる体験だった。
 その後新型コロナウイルスの流行に見舞われたものの、全国の独立系映画館で順々に上映を敢行した。2020年には門真かどま国際映画祭のドキュメンタリー部門で優秀作品賞と大阪府知事賞を受賞し、日本映画専門チャンネルでの放送、Amazon Prime Video、U-NEXT、Huluほか10を超えるサイトでの配信、また各競馬場のターフィーショップでもDVDが販売された。北米と韓国でも作品が展開され、一般の方々に劇場やオンライン上で呼びかけていたレビューも1000をゆうに超えるなど、大きな反響を得ることができた。

 しかし私としては、業界の方々からも大きな反響をいただいたことに、ひときわ大きな意味があったと思っている。JRA(日本中央競馬会)が茨城県に有する美浦みほトレーニングセンターで上映会を行なった際に、多くの調教師や騎手の方に足を運んでいただいたことや、競馬開催期間中の船橋競馬場内で上映会を実施したことは、意義深い出来事だった。
 私は馬が好きだ。だがきっと、私以上に馬が好きな人が、馬に関わることを職業にしているに違いない。そう考えれば、引退した競走馬の現実に憂いを感じないはずがない。私は映画の制作と興行を通じて、それを痛感することができた。

競馬大国・日本の課題

 映画の興行活動が落ち着いてきた頃、私はCreem Panを法人化して、人と馬を身近にするサイト「Loveuma.(ラヴーマ)」を立ち上げ、運営をスタートさせた。2024年10月現在、Loveuma.は独自の切り口で引退馬問題を取材・執筆するシリーズから、アンケート調査とその考察、牧場関係者が執筆する連載企画まで多様なコンテンツを有し、年間で約30万人のユニークユーザーが閲覧するサイトとなった。微力ながら人と馬の未来に貢献できているのかもしれないが、サイト運営自体は大きな利益が出る構造ではないため、事業としての売上の多くは広告・PRツールとしての映像・Web・デザインの受託制作で賄まかなっている。本書の執筆時点では3期目を終えようとしているところだが、おかげさまで多くの馬事関係の顧客から支えていただき、会社として成長を続けていることは感謝してもしきれない。
 私が組織を法人化した背景には、引退馬問題が関係している。なぜならば、これまでの活動を通じて、この問題は非常に複雑で根が深く、一朝一夕に解決し得ないもので、長く付き合っていかなければならないものだと気付かされたからだ。このセンシティブな問題に長く関わるためには、業界の中に入り、馴染んでいくことが必要だった。そこで、自分が持つ専門性を事業にして、一企業として馬事業界に影響力を持つことが必要だと考えたのだった。

引退馬問題はなぜ、解決が困難なのか

 引退馬問題はなぜ、それほどまでに解決が困難なのだろうか。
 シンプルに考えれば、競馬があるからサラブレッドが生まれ、引退馬も生まれるのだから、競馬を廃止すれば問題は解決する、ということになる。しかし、幕末の1867年に外国人居留地であった横浜の根岸で競馬が開催されてから、競馬というスポーツは日本で長きにわたり、幾度となく社会現象を巻き起こしながら、多くの競馬ファンに夢を与えてきた。
 そして、競馬とは〝賭け事〟でもある。日本の中央競馬では、馬券の販売はJRAが一元管理している。その売上の一部は国庫納付金となって、畜産振興や社会福祉などに役立てられる。すなわち「税金」のような役割を果たしている。

 ちなみに日本競馬は、売上が世界最大であることにも触れておきたい。(単一主催者としては)売上世界2位の香港競馬の、2022~2023年のシーズン売上は日本円にして約2兆6800億円。日本の2023年の中央競馬の売上は約3兆2800億円で、さらにこれに地方自治体が主催する地方競馬の売上約1兆889億円が加わる。合算すれば、ゆうに4兆円を超える計算だ。日本は最も馬券が売れている国なのである。
 そして何より、主催者であるJRA職員や地方競馬の職員、騎手、調教師など運営の中核に携わる人だけでなく、生産・育成牧場の関係者や、それらを管理する組合法人など、競馬産業のもとで生計を立てている人が数え切れないほどいる。そうした産業の構造や働く人々の存在を無視し、引退馬の余生をつくることのみにフォーカスして産業の廃止を唱えることは、いささか非現実的と言わざるを得ない。
 しかし、馬には命がある。日本では毎年約7000頭のサラブレッドが競走馬になるために生産されている。その一方で、毎年、約5000頭の内国産馬がと畜されている。この5000頭の中には、サラブレッド以外の品種も含まれるが、内国産馬の約8割はサラブレッドなので、その多くが競馬を引退した馬ではないかと推測できる(詳しくは第5章で述べる)。業界で競走引退後に消息がわからなくなるのは珍しいことではなく、先ほども述べたように「その後の進路は追わない(調べない)」という〝暗黙の了解〟が存在しているのだ。

 馬は生産者のもと、「家畜(経済動物)」として生産される。家畜とは「人がその生活に役立つよう、野生動物を品種改良した動物」のことで、ご存じの通り、牛や豚や鶏もここに分類される。だから引退馬問題を語るうえで、牛や豚や鶏を引き合いに出して「馬だけが特別なんですか」という意見を目にすることもある。それはある種の正論だろう。しかし、他の家畜と比較した時に確かに特殊だと言える面もある。まず競走馬には名前があり、競技の性質上、それが一般に認知される仕組みがある。さらに、「血統のスポーツ」と呼ばれるように血統が重要視される競馬は、輝かしい戦績を誇った馬の子孫が数年の月日を経てデビューし、それが繰り返される。ファンにはたまらない循環だ。個性的な馬はニックネームが付けられたりグッズが販売されたりするし、近年では「ウマ娘 プリティーダービー」などで擬人化されて多くのファンに愛されるなど、まさに〝アイドル化〟する。競走馬は他とは比較にならないほどに「人が感情移入しやすい家畜」なのである。
 つまり引退馬問題とは、家畜として生まれたのに、それを超えた存在となり、その後また家畜として処理されることに対する、競馬ファンを中心とした人々の違和感によって生まれている問題だ。
 競馬があるから多くの馬が生まれ、多くの馬が行方不明になる。決して覆らない事実が眼前にそびえたっているのにもかかわらず、困ったことに、私たちは競馬を嫌いになることができない。だから私もこの問題に蓋をして、光だけを見ようとしてきた。しかし、引退馬への関心が高まりつつある今こそ、この問題をしっかりと見つめることが必要なのではないだろうか。

 この本では、競馬産業の中で生をけたサラブレッドの一生をたどる中で、それぞれのフェーズに潜む重要な事象を、有識者や関係者の言葉を紹介しながら、複合的に解説していく。そしてそのうえで、競馬主催者とその関係者を取材して、この問題とどう向き合うべきかを考えた。
 競馬大国・日本が抱える引退馬問題に解決の糸口はあるのだろうか。本書を通じて、読者の方々と共に考えていきたい。


続きは『サラブレッドはどこへ行くのか 「引退馬」から見る日本競馬』でご覧ください。

『サラブレッドはどこへ行くのか 「引退馬」から見る日本競馬』目次
はじめに
第1章 隆盛を極める日本競馬
第2章  馬はいかに「競走馬」になるか 誕生からデビューまでの裏側
第3章  生き残りを懸けて サラブレッドの現役生活
第4章  引退後に進む道 セカンドキャリアの選択肢
第5章  生かすことだけが幸せか 家畜商という存在
第6章  命と経済 生かし続けることはなぜ難しいのか
第7章  それでも生かすために 引退馬支援・養老牧場・新たな産業の可能性
第8章  ハンドルとエンジン 転換期のJRA
第9章 リーダーを育て、共に歩む 私たちにできること、私にできること
おわりに

プロフィール
平林健一(ひらばやし・けんいち)

1987年、青森県生まれ。映画監督、起業家。多摩美術大学卒業。引退馬をテーマにしたノンフィクション映画「今日もどこかで馬は生まれる」を企画、監督し、門真国際映画祭2020優秀作品賞および大阪府知事賞を受賞。JRAやJRA-VANの広告映像をはじめ、テレビ東京の競馬番組など競馬関連の多様なコンテンツ制作を生業としつつ、人と馬を身近にするサイト「Loveuma.」を運営し、引退馬支援をライフワークとしている。本書が初の著書となる。

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