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マルクスでもレーニンでもなく、プーチンが熱烈に信奉するもの

 世界中を飛び回り、100か国近くの国々を訪れてきた寺島実郎さんが、自身の体験を軸に、冷静なバランス感覚で「知るべきユダヤ要素」をまとめた書籍『ダビデの星を見つめて 体験的ユダヤ・ネットワーク論』。好評につきこのたび4刷が決定しました。
 ユダヤ人が大切にする高付加価値主義とグローバリズムは、奇しくも、産業資本主義から情報を基軸とする金融資本主義、DX技術の進歩によるデジタル資本主義に分裂しようとしている現代社会において、いわばユダヤ的思考様式や価値観が世界の潮流となりつつあります。世界史的視野からユダヤ・ネットワークを立体視して世界経済の深層に光を当てると、ロシアのウクライナ侵攻や米国のトランプ現象など、激変の世界をネットワーク論から見通すことができます。
 当記事では、なぜプーチンがウクライナへの侵攻に踏み切ることに至ったかのその原点である「プーチンとロシア正教」との関係を、本書の「はじめに」から抜粋してご紹介します。


プーチン大統領の目指す「正教大国ロシア」

 プーチンはソ連時代のKGB(ソ連国家保安委員会)出身であるが、政治の指導者になったあと、不思議なことに社会主義ソ連邦に対する郷愁は一切示したことはない。まるで、一九一七年のロシア革命からソ連邦崩壊の一九九一年までの歴史が、この世に存在しなかったかのように黙殺するのである。例えば、かつてソ連の社会主義者たちが主張していた「資本主義の問題点を見据え、階級矛盾を克服した」労働者支配の歴史的実験こそがロシア革命だったといった主張などには見向きもしない。社会主義体制や計画経済が硬直した官僚制によって機能せず、革命が目指した成果を上げられずに崩壊した、といった議論にも興味を示さない。マルクスやレーニンを持ち出すことは一切ないのである。むしろ、マルクスはユダヤ人の思想家であり、レーニンは父方がユダヤ系で、欧州各地を二〇年もさまよい、二月革命にあたって敵国ドイツによって送り込まれた「外国の回し者」であるかのような捉え方をしていることがしばしば議論に垣間見える。

 その代わり、プーチン大統領の統治理念の中核にあるのは、ロシア正教である。プーチン大統領の演説や発表する論文に見られるのは、「正教大国ロシア」をつくるという強い思いである。

 第一章で詳しく述べるが、私がエルサレムを訪れ、キリストが十字架にはりつけにされたゴルゴタの丘に建つ聖墳墓教会せいふんぼきょうかいに足を踏み入れ驚いたのは、内部がキリスト教の複数の教派によって管理するテリトリーが分かれていて、カトリックのそれは一〇分の一以下のスペースで、ギリシャ正教会、アルメニア正教会、エチオピア正教会、コプト正教会、シリア正教会などの正教系がキリスト教の本道だと言わんばかりに大きな面積を占めていたことである(八三ページ参照)。

 ロシア正教の始まりは、もともとキエフ大公国(キエフルーシ)のウラジーミル公がビザンツ帝国の皇帝バシレイオス二世の妹を妃に迎え、正教会の洗礼を受けたことから始まる(九八八年)。ギリシャ正教を起点とする正教系キリスト教は主にスラブ系民族の国々に広がり、それぞれの国で分かれ、いわば民族宗教としての性格を強め、国家を支える役割を果たしてきたのが特徴である。ビザンツ帝国の国教である正教はビザンツ皇帝を権威づけ、皇帝という世俗の権力が上に立ち、教会はその下に従属していた。カトリックがより普遍的なキリスト教を目指し、世俗の王や大統領などの権力を相対化させ、宗教的権威としてのローマ教皇が精神世界の上に立つ形になっているのとは大きな違いである。

 ロシア正教も、ロシア帝国時代はツァーリ(皇帝)の権力を正当化し、権威づけるための宗教として機能した。ロシア革命後は「宗教はアヘン」とする社会主義体制下で弾圧を受けたものの、ヒトラーがソ連に侵攻した大祖国戦争を機に生存戦略としてスターリンへの接近を図って生き残り、ソ連邦崩壊後には復活を遂げた。

 プーチン大統領が、ソ連をつくった人物であるレーニンを無視し顧みない理由は、レーニンが社会主義者であり、無神論者だからでもある。レーニンは皇帝権力を支えてきたロシア正教を弾圧し、教会を取り壊して、財産を接収し、リーダーたちを国外追放した。そのあとのスターリンは、最初は宗教指導者に対する粛清しゅくせいを行ったが、ナチスドイツとの戦いである大祖国戦争が熾烈しれつになるにつれて、現実路線へ転換し、ロシア正教の総主教に「教会も懸命にロシアを守るために戦う」という誓いを立てさせて、宥和ゆうわ政策へと舵を切った。こうして社会主義体制下のソ連でも、ロシア正教は生き残ったのである。

 プーチンは子どものころ、レニングラードで母親に教会に連れていかれて、洗礼を受けている。こうした社会主義下のソ連邦のスパイだった男は、実はロシア正教の熱烈な信奉者だったのである。大統領に就任した二〇〇〇年には、全スラブ正教の尊敬の対象であったブスコフ洞窟修道院の長老ヨアン神父を訪ね、「ユーラシアの中心にロシアの家を」と励まされている。ロシアは欧州でもなければ、アジアでもない。プーチン大統領は、ユーラシア主義の先頭に立って、ロシアの栄光を取り戻すことを自分の使命として再確認したと言われる。

 現在のロシア正教のキリル総主教は、まさにプーチン大統領の後ろ盾とも呼べる人物であり、今回のウクライナ侵攻を支持する発言を繰り返している。キリル総主教の父はレニングラードの司祭であり、まさに子ども時代のプーチンが洗礼を受けた人物である。

 こうした正教会と国家権力との関係は、日本に住む私たちからはなかなか理解できない。なぜなら、日本人にとってのキリスト教はザビエルが伝えたカトリックか、明治になって広まったプロテスタントであり、その歴史認識といえば、西欧を中心にした宗教改革と市民社会の発展から民主主義や人道主義が高揚し、並行してマックス・ウェーバーが言う資本主義の精神が生まれてきたと理解しているからである。もう一つのキリスト教、東方正教会については、ほとんど関心を払うことなく、ビザンツ帝国や中欧、東欧の歴史も、体系的に学んだことがないのが通常の日本人である。

 ましてウクライナの地に誕生したキエフ大公国に、一〇世紀末にウラジーミル一世という、プーチンがその名を引き継ぐ人物が現れ、キリスト教に改宗し、国民に広くキリスト教を普及させたことの意味を理解するのも難しい。だが、プーチンは本気で正教大国ロシアを目指すと考えているのである。

 ロシア正教をもとに民族を束ねていこうとする価値観から見ると、ロシア革命さえもユダヤ人が考えた社会主義なる西欧思想にかぶれたインテリたちが本来のロシアのあり方を否定しようとした企てに見えるのであろう。プーチン大統領にすれば、ソ連邦の崩壊さえもユダヤ人の画策によって起きたかのように見えるようである。エリツィン大統領の時代に進んだ資本主義化の中で台頭してきたのが、オリガルヒ(新興財閥)である。プーチンは二〇〇〇年にエリツィンのあとを受けて大統領となったが、当時存在したロシアの九つのオリガルヒのリーダーのうち、八人がユダヤ人だったという。大統領としてのプーチンは、ユダヤ人の手によって支配されかけていたロシア経済をロシア人の手に取り戻したと意識しているようである。

 ロシアの歴史は長年にわたってユダヤ人、および、その背後にいるアメリカによって壟断ろうだんされてきたというのが、プーチン大統領の世界認識とも言える。我々の感覚からは、被害妄想のようにも見えるのだが、ロシア正教を基軸にした偉大なロシア民族に対して、アメリカがいつも絡みつき、かき回し、衰退の淵まで追い詰めてくる。だからこそ、かつてナチスドイツと戦い、大変な犠牲を出しつつも打ち破った大祖国戦争を受け継ぐ、第二幕を戦おうというわけである。だからこそ、プーチンの言う「ネオナチ」という言葉には、「ユダヤ人の敵はユダヤ人だ」というロジックが二重構造になっているのである。

 ロシア人の知識層の多くが、無謀とも言えるウクライナ侵攻を強行したプーチンを支持し続ける心理に踏み込んでみると、ロシア正教に共感する大ロシア主義的心情と「反西欧、反ユダヤ的な本音」が微妙に同調していることに気づかされるのである。

※この続きは『ダビデの星を見つめて 体験的ユダヤ・ネットワーク論』でお楽しみください。

プロフィール
寺島実郎(てらしま・じつろう)

1947年生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科修士課程修了後、三井物産入社。調査部、業務部を経て、ブルッキングス研究所に出向。その後、三井物産ワシントン事務所所長、三井物産常務執行役員、三井物産戦略研究所所長、同会長等を歴任。現在は、一般財団法人日本総合研究所会長、多摩大学学長。著書に『人間と宗教』『日本再生の基軸』(岩波書店)、『ユニオンジャックの矢 大英帝国のネットワーク戦略』『大中華圏 ネットワーク型世界観から中国の本質に迫る』(NHK出版)、『若き日本の肖像』『二十世紀と格闘した先人たち』(新潮社)ほか多数。

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