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英語を学ぶこと。文学を楽しむこと――斎藤兆史氏 × 鴻巣友季子氏 刊行記念対談

濃密な解説を通して、イギリス小説を原文でじっくり精読する『名場面の英語で味わう イギリス小説の傑作 英文読解力をみがく10講』の刊行を記念して、著者のお一人である斎藤兆史さんと、翻訳家・文芸評論家の鴻巣友季子さんの対談が開催されました(2024年3月22日 於:ジュンク堂書店池袋本店)。多くのお客様にご来場いただいたなか、お話は作品のセレクションから、イギリス小説の「絨毯問題」に広がり…。最後に駆けつけてくださった共著者・髙橋和子さんの執筆秘話も含め、当日の模様をダイジェストでお届けします。


■古典と偏愛のせめぎあい

鴻巣:今回の御本には、イギリス小説の英文読解が10講収められています。取り上げた10作品はどのような基準で選ばれたんですか?

斎藤:まず、「イギリス小説だったらこれは入れるでしょう」というものは入れました。エミリー・ブロンテ『嵐が丘』、チャールズ・ディケンズ『オリヴァー・トゥイスト』などです。

鴻巣:当然ながら、サマセット・モームも入っていますね。

斎藤:モームの『人間の絆』は私の好みなんです。

鴻巣:そのあたりが知りたいんですよ。これは古典だからという選択と、いやいや、私の好みなんだというあたりのことですね。

斎藤:普通に選んだらモームはイギリス小説の名作10作には入らないんじゃないかな。カズオ・イシグロも私の好みなんだけど、彼はノーベル文学賞も取ったし評価も定着しているので、結びの作品は文句なしに『日の名残り』に決まりました。

ジョウゼフ・コンラッド『闇の奥』は共著者の髙橋和子さんの好みです。髙橋さんにはこの本の元になったNHKテレビ「3か月トピック英会話」のテキストのときから手伝ってもらっています。彼女はコンラッドに思い入れがあるため、とてもいい章になっています。

鴻巣:やはり「スタンダード」と「思い入れ」のせめぎあいがありますよね。私もいま、NHK「ラジオ英会話」のテキストで「名著への招待」という連載をしています。英米の名作文学を“知られざる一面”といった切り口から紹介しているのですが、やはり「これは入れなくてはいけない古典だ」という作品は入れつつ、意外な作品が入らなかったりしています。ナサニエル・ホーソーンやハーマン・メルヴィルは入らないのに、デュ・モーリエ『レベッカ』は入れる予定で。やはり自分の偏愛が出てしまいますね。

ジュンク堂書店 池袋本店でのイベントの様子。

■一般論か、皮肉か、それが問題だ

鴻巣:いま、学校の英語教育ではスピーキングが重視されています。しかしこの本を読むと、読解の大切さというものを改めて感じます。会話は、読み・聞き・書く生活の中で総合的に形成される合わせ技なんですよね。スピーキングだけを鍛えようとしてもそれは無理なんです。話す前提として、まず大量のインプットが必要になるわけですが、その意味でもこの本は素晴らしいと思います。英語がわかるようになることで、文学作品がよりおもしろくどんどん読める。どんどん読めることでさらに英語が上達する。そんな往還的な効果を持つ本だとも感じました。

読解の例を私から紹介したいのですが、まずおもしろいのが、Lesson 1で取り上げているジェイン・オースティン『高慢と偏見』です。地方の地主ベネット家の近くに、ビングリーという若い資産家が引っ越してきます。この青年はいわゆる独身貴族。ベネット夫人は色めきたち、うちの5人娘の誰かを見初めてくれないかと考えます。夫のベネット氏とのあいだで「早くビングリー氏に会いに行って」「いや、お前と娘たちだけで行けばいい」と押し問答するなかで、ベネット氏が「やっぱりお前は行かない方がいい」と言うんですね。なぜかと言うと、「お前が行くと年頃の5人娘がかすんでしまうから」。これはお世辞なのかどうかあいまいなのですが、ベネット夫人は意外と真に受けて、そうね、私も若い頃は相当鳴らしました、みたいなことを言うわけです。

そして、そのあとです。ベネット夫人が、とは言え年頃の娘が5人もいれば自分の見かけなど気にしていられない、と言うと、夫は「気にするほどの見かけじゃない場合もあるだろうさ」と言うのです。原文は‘In such cases, a woman has not often much beauty to think of.’。ここで斎藤さんは、womanの前にあるのが定冠詞the ではなく、不定冠詞aであることに注目しています。なるほど、ここはピリッとくるところなんですね。

「このベネット氏の発言は意味深長です」と斎藤さんは書いています。というのも、a womanとすることで、あくまで一般論として娘が5人もいれば女性は自分の容姿など気にしない、と言っているのか、あるいは少しおだてるつもりで「お前は別だけどね」との意味を込めているのか、それとも、気をよくしている夫人に「調子に乗るんじゃないよ」と皮肉を言っているのか、いろいろな意味に考えられるわけです。これがtheだったらつまらない。特定されてしまいますから。

斎藤:文法の具体的な分析は本に譲るとして、つまりコミュニケーションてこういうことなんじゃないの、と思うわけです。これは一般論なんだろうか、それとも嫌味なんだろうか、とあれこれ考えて語り合う。いまの学校教育では、ある人の発話から正確に意味を読み取り、ひとつの答えを導き出すことが重視されています。それももちろん大事なのですが、言葉の本当のおもしろさはそれに尽きるものではありません。オースティンの書くセリフには、皮肉が二重にも三重にも効いています。原文を読み、これはどういう意味なんだろうかと議論する。これもまたおもしろいのです。そこに文学の果たす役割があると思います。

■イギリス小説の絨毯問題

斎藤:Lesson 7で取り上げているモームの『人間の絆』もその意味でおもしろい。人生の意味とは何かに悩む主人公が、あるとき詩人から「人生とは何かの答えはペルシャ絨毯にある」と言われ、のちにペルシャ絨毯の断片を受け取ります。主人公はしばらくその意味がわからないのですが、あるときふと、「人生に意味はない」と悟るのです。ペルシャ絨毯の模様というものは、意味はなくとも美しい。人生もそのようなものではないか。こう気づいて主人公は幸福感に満たされるのですが、私はこれも言葉のおもしろさであり、文学のおもしろさだと思います。一片の絨毯から何を悟るのか。Life had no meaning. これはAIには出せない答えではないでしょうか。

鴻巣:イギリス小説には実は絨毯がよく出てきますよね。たとえばヘンリー・ジェイムズは、物事の根底に潜むものの意で「絨毯の下絵」(figure of carpet)という言葉を使っています。私が翻訳したヴァージニア・ウルフ『灯台へ』にも絨毯が出てきます。リリー・ブリスコーという独身の女性画家が、バンクスという40過ぎの言語学者といい感じになるのですが、2人はくっつきそうでくっつかない。あるとき、バンクスは家を引っ越すから絨毯を一緒に見に行ってくれないかとリリーを誘います。ここでの絨毯も意味深長なのです。というのも、当時の独身女性にとって、口に出して言及しうるもっともパーソナルな家の中のアイテムが絨毯だったようなのです。「ダウントン・アビー」のバイオレットお祖母さまもそう言ってました(笑)。キッチン用品はパーソナルすぎる。ましてやベッドシーツなど完全にアウト。ですから、「絨毯を一緒に選んでくれませんか」は、バンクスからリリーへの、自分の人生に関与してほしいというほのかな誘いとして、ギリギリの表現なのです。

斎藤:それはおもしろいですね。絨毯なんて何気ないものと思ってしまうけれど、実は絨毯でないといけない必然性や象徴性がある。

鴻巣:text(文)とtextile(織物)は語源も一緒ですしね。

斎藤:そうか、おもしろいなぁ、イギリス文学の絨毯問題(笑)。

Lesson7 サマセット・モーム『人間の絆』より。

■文法と文学をつなぐ

鴻巣:ほかにもこの本には、ウルフの『ダロウェイ夫人』を取り上げての自由間接話法の解説や、イシグロ『日の名残り』のクライマックスの場面に見る仮定法の重要性など、読みどころがたくさんあります。英文学に関しては、自由間接話法が読めるかどうかで現代小説が読めるか否かが決まると言っても過言ではありません。また『日の名残り』で、主人公の執事スティーヴンズがほのかに想いを寄せていた元同僚のケントン嬢が、実は彼女も彼との未来を思い描いたことがあったが現実にはならなかった、と告白する場面に登場する、仮定法過去完了what might have been。ここは本当にグッとくるくだりなのですが、この本はここにも非常に鋭い光を当てておられます。

斎藤:仮定法のような、ささいに思えるけれど重要な文法がわかるかどうかが、文学が楽しめるか否かの境目であり、自分の英語が一段上に行くかどうかの境目なんだと思います。「なんとなくわかっている」というのとはやっぱり違うんですよね。なぜここは仮定法が使われているのか。「あったかもしれないが現実にはあり得なかったこと」をケントン嬢が語ることが、スティーヴンズにどういう影響を与えていくのか。そのあたりをしっかり理解してほしいと思い、解説を書きました。今回の本では、できるだけわかりやすくなるよう、文法構造の説明に図を多用しています。これも英文解釈の本としては新機軸かもしれません。 

『日の名残り』は、主人公スティーヴンズの一人称で書かれた小説です。彼が最初から最後まで語り手をつとめるのですが、彼の語りと現実の食い違いが、微妙な緊張感を伴って物語に重層性をもたらしています。このクライマックスの場面でも、再会したケントン嬢はすでに結婚し「ベン夫人」になっています。スティーヴンズも、会話の中では彼女に「ベンさん(Mrs. Benn)」と呼びかけています。しかし地の文では、彼はずっと「ケントンさん(Miss Kenton)」と言い続けています。つまり、スティーヴンズの思いと、彼が口で言っていることには齟齬があるわけです。

語り手は本当のことを言っていない。それが伝わってくる仕掛けがこの小説にはたくさん散りばめられています。そのあたりまでわかるようになると、文学が本当におもしろくなります。でもそれは文法がわかっていないとやっぱり読めないんですね。多くの人は文法はつまらないと諦めてしまいますが、それをマスターすると、文学をより自然に読めて、かつ深くおもしろく味わうことができる。そこをなんとか繋ぎたいと思ってこの本を書きました。

この本では、「こう読めば文学も読めますよ」という方法をできるだけわかりやすく示したつもりです。お読みいただいたあとは、できれば10作品のうち1作品でも英語で読んでみてほしいと思います。そうすると、英語というものは情報を正確に読み取るとか言いたいことが相手に伝わるとかのレベルだけでなく、もっと深いものだということがわかっていただけるのではないでしょうか。

——ここでもう一人ゲストが到着しました。共著者の髙橋和子さんです。

髙橋:すみません、学校の仕事があって遅くなりました。私はこの本の原稿を、駅のベンチや電車の中などありとあらゆる場所で書いたのですが、どこで書いても自然とその世界に入ることができました。よい文学作品とはそういうものなのだなと改めて感じています。みなさんにも、文学作品をゆっくり読んでいただく時間を持っていただけたらとてもうれしいです。

斎藤:この本には女性作家の作品がかなり入っています。イギリス小説の場合、特に意識しなくても名作を選ぶと自ずとそうなるんですね。そうした女性作家や女性の登場人物の視点というものが、髙橋さんの解説やコラムを読むと非常によくわかります。そこもぜひお楽しみいただければと思います。

鴻巣:私も、この本を通して自分が書き継いでいる連載へのヒントをいろいろといただきました。10講と言わず、新たな作品を読解する第2弾に期待しています。

斎藤:よい作品はまだまだありますから夢は広がりますね。ちょっと落ち着いてから考えます(笑)。


『高慢と偏見』や『日の名残り』の解説は、ぜひ『名場面の英語で味わう イギリス小説の傑作 英文読解力をみがく10講』でお楽しみください。

斎藤兆史 Saito Yoshifumi
東京大学名誉教授。東京大学文学部卒業、同大学院人文科学研究科修士課程修了。インディアナ大学英文科修士課程修了。ノッティンガム大学英文科博士課程修了(Ph.D.)。東京大学文学部助手、同大学院総合文化研究科准教授・教授、同大学院教育学研究科教授、同大学教育学部附属中等教育学校長を歴任。
著書に『英語達人列伝』(中央公論新社)、『英語の作法』(東京大学出版会)、『英文法の論理』(NHK出版)、訳書にラドヤード・キプリング『少年キム』(筑摩書房)、共訳にチャールズ・ディケンズ『オリバー・ツイスト』(偕成社)などがある。

髙橋和子 Takahashi Kazuko
東京女子大学文理学部卒業。東京大学大学院総合文化研究科修士課程、同博士課程修了。博士(学術)。
著書に『日本の英語教育における文学教材の可能性』(ひつじ書房)などがある。

鴻巣友季子 Kounosu Yukiko
翻訳家、文芸評論家。英語圏の現代文学の翻訳紹介とともに、古典の新訳にも力を傾注する。主訳書に、ブロンテ『嵐が丘』、ミッチェル『風と共に去りぬ』、ウルフ『灯台へ』、クッツェー『恥辱』、アトウッド『昏き目の暗殺者』『誓願』『獄中シェイクスピア劇団』、ゴーマン『わたしたちの登る丘』他多数。主著書に、『謎とき『風と共に去りぬ』』『文学は予言する』(以上新潮選書)、『翻訳教室はじめの一歩』(ちくま文庫)、『翻訳ってなんだろう?』(ちくまプリマー新書)など。共著に『みんなで読む源氏物語』(ハヤカワ新書)など。各紙の書評委員や文芸時評を担当。日本ペンクラブ女性作家委員、獄中作家・人権委員、日本文藝家協会理事。

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