「欲望の奴隷」からの脱出――『マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学するⅡ 自由と闘争のパラドックスを越えて』(1)
NHK「欲望の時代の哲学」での番組出演が大反響を呼び、ブームを巻き起こしたドイツ人哲学者、マルクス・ガブリエル。「自由」の理念の実験場とも言うべきアメリカの中心地・ニューヨークで、世界が注目している哲学者は何を思い、何を語ったのか。そして、なぜ彼は時代と闘うのか。
当記事は、2020年4月10日(木)発売予定のNHK出版新書『マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学するⅡ 自由と闘争のパラドックスを越えて』の一部を、全2回にわたって先出しで掲載するものです。
人はみな、本来、自由の感覚、意志を持っています。ところが、現代の哲学、科学、テクノロジー、そして経済が人々の自由に影響を与え、自ら欲望の奴隷と化したという議論があります。
私たち人間は自由です。
自らがもたらした不自由の呪縛から、脱出せねばなりません。
――マルクス・ガブリエル
マンハッタンのビル街を遠く望み、心地よい風の吹くニューヨークの桟橋に佇む一人のドイツ人哲学者は、私たちのカメラに向かって前ページに掲げた言葉を口にした。
「欲望の時代の哲学2020~マルクス・ガブリエル NY 思索ドキュメント」は、彼のこの宣言で幕を開けた。「欲望の奴隷」「自らがもたらした不自由の呪縛」という表現から何を連想されるだろうか? 漠然とだが、いまという時代に漂うやり場のないある種共通した思い、解決の糸口が見えにくい課題、やるせない感情などが浮かびあがるのではないだろうか? 格差、分断、環境破壊、不透明化する未来。こうした「紋切り型」で現代の閉塞感を語ることすら、もはや何度目かのデジャヴのようにすら感じられるいまという時代……。
そうした社会状況の中、静かに進行するのはテクノロジーの先鋭化であり、その利便性とは裏腹に拡散していくかに見える、人間の主体性の喪失だ。実際それは、いつの間にかジワジワと効いてくるボディーブローのようで、深く静かに人々の無意識の中に浸透しつつあるように思える。
「AIに意志決定を任せたほうが民主主義より信頼できる」「人生の選択をするならいっそデータ奴隷のほうが幸せだ」。こんな言葉を冗談ではなく聞くようになってどれぐらい経つだろう。いずれにせよ、コンピュータという存在が社会の隅々まで浸透し、そのインフラが社会を構成し、人々の意識をも規定していく現象は、どんどん加速化しているように思われる。もちろ
ん、技術そのものはニュートラル、単に利便性において使えばよいはずだ。だが本当にいつの間にか、その「利便性」は、身近なところで私たちの社会のルール変更を迫るようになり、さらに私たち自身の人間関係の作法も変え、さらに意識、無意識のあり方にもいよいよ変容を迫っていく。イノベーションが最後には大きな渦となって、社会を、人を変えていく。
その激変の時代の中にあっては、原初的な問いこそが大事になる。そもそも、自由とは? 社会とは? 人間とは……? 哲学者の出番、というわけだ。
前回BS1スペシャル「欲望の時代の哲学」では、二〇一八年初夏、東京、大阪、京都と日本を駆け抜けるガブリエルの姿を追い、そのドキュメントをベースにさまざまな場で発せられる彼の言葉を、「マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学する」として再構成した。今回はその第二弾、二〇一九年秋に、ニューヨークという場で彼の思考の軌跡を追い、現代社会への処方箋を語ってもらった記録だ。番組には収めきれなかった言葉を味わっていただきたい。
ひとまずわれわれ取材班が彼に持ち掛けたキーワードは、人間、自由、闘争、倫理、AI……。資本主義、民主主義、社会、文化、精神、そして、欲望。そこから思考の軌跡を追うドキュメントは始まった。
本書の構成を簡単にご紹介しよう。
まずⅠ章では、「自由」をめぐる逆説が展開する。「自由」なコミュニケーションをもたらしたはずのSNSが、実は社会を破壊、人々を分断し、また、「自由」な消費をもたらす消費社会がある種の不自由を生む皮肉を、カントらを手掛かりに明らかにしていく。
Ⅱ章で目指されるのは、袋小路にある資本主義の更新だ。ホッブズ以来の「闘争」という社会観を乗り越えるためにはどんな認識の仕方がありうるのか? ヘーゲルを糸口に格差社会を考える。
さらにⅢ章は、時代のテーマAIが人々の認識に与える影響への考察をきっかけに、人間の思考の本質に迫り、ある大胆な仮説が示される。この三つの章を通して、彼が掲げる「新実在論」をベースとする社会認識のあり方がより立体的に理解できるものとなっていくことだろう。
そしてⅣ章は、大阪市立大学准教授、社会思想家の斎藤幸平さんとの対話だ。二〇一八年来日時もお世話になった斎藤さんに今回も通訳を依頼したわけだが、同行の旅の最後に、あらためてさまざまな話を引き出してもらった。ガブリエルの信頼も厚い斎藤さんだからこそ生まれた言葉、哲学者の本音も味読していただきたい。
終章では、ガブリエルの哲学をどう位置づけ、どう活かすか、その可能性を考えるための補助線を引いてみた。
哲学は、時代との格闘だ。ガブリエルが、カント、ヘーゲルらの思考を引きつつ、いまという時代の課題に立ち向かうとき、あらためて歴史上の知の巨人たちの概念にも血が通いはじめる。ドイツ観念論の系譜の中にある自らの立ち位置を自覚しつつ、巨人たちの精神をいまという時代に召喚した上で「新実在論」が開く視界は……?
早速、思考の旅へ出かけよう。
――丸山俊一・筆
プロフィール
丸山俊一(まるやま・しゅんいち)
NHKエンタープライズ番組開発エグゼクティブ・プロデューサー。慶應義塾大学経済学部卒業後NHK入局。時代のテーマを斬新な発想で企画、制作し続ける。東京藝術大学客員教授、早稲田大学非常勤講師も兼務。著書『マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学する』『AI以後』『14歳からの資本主義』ほか。
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