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哲学はどこにたどりついたのか、哲学を勉強するとはどういうことなのか——大好評シリーズ『哲学史入門』完結!

哲学研究の第一人者が集結し、西洋哲学史の大きな見取り図を示すシリーズの第3弾『哲学史入門Ⅲ 現象学・分析哲学から現代思想まで』が大好評発売中です。著者に谷徹さん、飯田隆さん、清家竜介さん、宮﨑裕助さん、國分功一郎さんをむかえ、20世紀の現代哲学として、現象学、分析哲学、フランクフルト学派を中心とした社会哲学、フランス現代思想を扱います。
刊行を記念し、斎藤哲也さんによる「はじめに」の全文、そして國分功一郎さんがカントの『純粋理性批判』を引きながら哲学史を学ぶ意義について語る終章『「修行の場」としての哲学史』の冒頭を特別公開します。


『哲学史入門Ⅲ 現象学・分析哲学から現代思想まで』はじめに

 『哲学史入門』第三巻へようこそ!
 本書は、聞き書き形式で哲学史を語っていく『哲学史入門』全三巻の最終巻にあたります。第一巻では、古代ギリシア哲学からルネサンス哲学までを、第二巻では、一七世紀から一九世紀までの西洋近代哲学史を取り上げました。最終巻となる本巻は、いよいよ二〇世紀西洋の現代哲学・現代思想に入門します。
 指南役に迎えるのは、谷徹さん、飯田隆さん、清家竜介さん、宮﨑裕助さんの四人。この四方に、それぞれ現象学、分析哲学、フランクフルト学派を中心とした社会哲学、フランス現代思想について、インタビューしています。そして巻末では、國分功一郎さんに「哲学史を学ぶ意義」を語っていただき、本シリーズは幕を閉じます。
 前巻の「はじめに」でも申し上げたことですが、第三巻だからといって、第一巻と第二巻を読んでいないと理解できないということはありません。また、どの巻にも言えることですが、各章の内容は独立しているので、興味のある哲学者やトピックが扱われている章から読むことができます。
 さて、思いっきり引いた視点で、二〇世紀の現代哲学・現代思想を見渡すと、(ドイツ・フランスを中心とした)大陸系と英米系という二つの潮流に分けられます。その両潮流を形作ってきた哲学が、本巻前半二章で取り上げる現象学と分析哲学です。
 ほぼ同時期に産声をあげた現象学と分析哲学は、二一世紀の現在に至るまで、深化をとげながらカバーする分野も広がっています。しかしながら、どちらも独特の「入門しがたさ」があって、入門の段階で挫折する人が多い。
 登山に喩えるなら、どちらも頂きは険しく、登りはじめるだけでも相応のトレーニングや装備が必要です。それぞれの章の指南役である谷さんと飯田さんは、ともに頂上まで登りつめ、大勢の登山者を育て上げてきたプロフェッショナルです。
 インタビューでは、急所や難所も熟知している二人の大先達に、必要な装備(概念)や地図(系譜)、その登り方(方法論)まで、懇切丁寧にレクチャーしてもらいました。二人のライブ感あふれる語りは、これから入門しようとする人、あるいは一度挫折したけれど再挑戦してみようという人の背中を押してくれるはずです。
 ドイツとフランスの現代思想を取り上げる後半二章では、社会哲学を専門とする清家さんと、デリダ研究者の宮﨑さんを指南役に迎えています。
 清家さんには、かつて僕が編集した『現代思想入門』(PHPエディターズ・グループ)でフランクフルト学派の解説原稿を執筆してもらいました。その勢いのある筆致と同様、今回のインタビューでも歯切れのよい語りに脱帽しました。
 宮﨑さんは、雑誌やウェブメディアでの寄稿や発言を読むにつけ、その該博な知識や視野の広さに舌を巻くことしきりでした。深い思想理解に裏打ちされた、絶品のフランス現代思想解説を堪能ください。
 掉尾を飾る國分さんは、なんとカントの『純粋理性批判』を引きながら、哲学史を学ぶ意義について語ってくれました。これじたいが出色の哲学史講義となっており、インタビュアーという立場を忘れて、聞き惚れてしまいました。
 三巻目の「はじめに」ともなると、前口上も屋上屋を架さざるをえないのですが、本巻も前二巻と同様、登場いただく研究者の語り口や息づかいが聞こえてくるような、臨場感あふれる構成を心がけました。味わい深い脱線はもとより、ふと漏れる本音やこぼれ話など、聞き書きならではの哲学史入門をお楽しみください。
 各章の冒頭には、インタビューを読むうえで最低限知っておいたほうがいい基礎知識と、インタビューの読みどころを添えたイントロダクションを設けました。こちらで肩慣らしをして、インタビュー本編にお進みください。すでにある程度、哲学史に親しんでいる読者は、イントロダクションを飛ばしていきなりインタビューを読んでもかまいません。また章末には、指南役が推薦する三〜四冊のブックガイドを掲載しています。ピンと来たものがあったら、本書の次に手にとってみてください。
 シリーズ三巻のなかで、この巻をはじめて手に取った方は、気に入ったら第一巻、第二巻にも手を伸ばしていただけると、この巻の内容もいっそう深く理解できると思います。願わくば、シリーズ三冊を完走していただけると幸いです。
 前置きはこのくらいにして、そろそろ二〇世紀哲学史の門をくぐりましょう。

國分功一郎「修行の場」としての哲学史 より

カント先生から哲学史の意義を学ぶ

斎藤 一口に哲学に入門するといっても、さまざまな入門の仕方があると思います。哲学入門書でも、固有名詞や専門用語を使わずに哲学的思考を身につける本もあれば、具体的なテーマを入り口にして哲学に誘いざなうような本もあります。このように哲学に入門する複数の道があるなかで、哲学史を学んで哲学に入門することにはどのような意義があると思われますか。

國分 いま質問いただいたような問題を考えるようになったのは、自分が教員になって哲学の授業をするようになってからのことです。それまでは、スピノザやドゥルーズのテクストを一つひとつ理解しようと必死に勉強してきただけで、哲学史を学ぶ意義を真剣に考えたことはなかったんですね。
 しかも僕は社会科学系の出身で、日本の大学では文学部の哲学科に在籍したことはないので、日本の文学部での哲学史の授業がどういうものなのかも経験していません。だから自分が授業をするようになってからは、自分なりに哲学史を学ぶことの意義を模索してきました。だから今回は、哲学史についてこれまで考えてきたことを話すいい機会だと思っています。
 前置きはこのくらいにして本題に入ると、実は以前、カントの『純粋理性批判』のなかのある一節を読んで、それが僕の考えていたことそのものズバリだったというか、「カント先生、そうですよね!」という納得感が得られるものだったんです。だから、今日はそれを引用しながらお話しさせてください。

斎藤 よろしくお願いします。カント先生がどんなことをおっしゃっているのか、興味津々です。

國分 引用するのは、『純粋理性批判』の第二部「超越論的方法論」にあるテクストです。ちなみに、『純粋理性批判』は大きく「超越論的原理論」と「超越論的方法論」という二つのパートに分かれているんですけど、超越論的方法論は超越論的原理論に比べるととても短いので、付録のようなものとして受け取られがちです。このパートについてドゥルーズは、「これはほとんど理解されていない。カントによれば、この〔『純粋理性批判』という〕書物の全ては、方法を論じた百ページに満たないこの第二部を導入するものであるというのに」と言っています(ドゥルーズ『基礎づけるとは何か』國分功一郎、長門裕介、西川耕平編訳、ちくま学芸文庫、一三八頁)。こういう目配りの仕方にも、ドゥルーズのセンスのよさが現れています。
 さて、この「超越論的方法論」の終わり近くに「哲学を勉強するとはどういうことなのか」を説明している箇所があるんですね。大事なところなので、少し長いのですが、そのまま抜き出します。

……それゆえ、すべての理性の学(ア・プリオリな)のうちで学習されうるのは数学だけであって、しかし哲学(それが歴史学的なものでないかぎり)はけっして学習されえず、理性に関して言えば、たかだか哲学すること、、、、、、だけが学習されうるにすぎない。
 ところで、あらゆる哲学的認識の体系が哲学、、である。哲学が、哲学することのすべての試みを判定する原型と解されるときには、哲学は客観的な意味のものでなければならず、この原型はあらゆる主観的哲学を判定するのに役立つべきであるが、そうした主観的哲学の構造はしばしばきわめて多様であり、きわめて変化しやすいものである。かくして哲学は、どこにも具体的には与えられていない可能的な学という一つのたんなる理念であるが、長いこと、人は種々さまざまな道をたどってそうして理念に近づこうと努めるのである。ついにはその結果、感性のせいでひどく雑草の生い茂った唯一の小径こみちが見いだされ、これまで失敗してきた模型を、人間に許されているかり、原型に等しくすることが成功するにいたるのである。そのときにいたるまでは人はいかなる哲学をも学習することはできない。なぜなら、どこに哲学はあるのであろうか、誰が哲学を所有しているのであろうか、また何にもとづいて哲学は認識されるのであろうか? 人が学習しうるのは哲学することだけである。言いかえれば、理性の普遍的な諸原理を遵守しつつ或る種の現存する試みに即して理性の才能を鍛錬することだけであるが、それにもかかわらず、そうした現存の試み自身をその源泉において探究して、確証し、あるいは拒否する理性の権利は、つねに保留されているのである。
 しかし、そのときにいたるまでは哲学という概念は、一つの学校概念、、、、にすぎない、すなわち、学としてのみ求められ、そのさいこうした知識の体系的統一以上の何ものかを、したがって認識の論理的、、、完全性以上の何ものかを、目的としてもつことのない認識の体系という学校概念にすぎない。しかし、さらに世界概念、、、、(conceptus cosmicus)というものがあるのであって、この世界概念は、哲学という名称の根底にいつでも置かれていたし、とりわけ、この概念がいわば人格化されて、哲学者、、、という理想において一つの原型として表象されたときには、そうである。この点に関しては哲学は、すべての認識と人間的理性の本質的な諸目的(teleologia rationis humanae)との関連についての学であり、また哲学者は、理性技術者ではなく、人間的理性の立法者である。そうした意味においては、おのれ自身を哲学者と名づけ、理性のうちにしかひそんでいない原型と同等であると僭称せんしょうすることは、きわめて思いあがったことであると言わなければならない。
 数学者も、自然科学者も、論理学者も、前二者が総じて理性認識において、後者がとくに哲学的認識において、どれほどすばらしい進歩をとげたにせよ、それでも彼らは理性技術者でしかない。さらに理想における教師というものがあるのであって、この教師は、これらの理性認識すべてを査定し、それらを道具として利用し、かくして人間的理性の本質的な諸目的を促進する。こうした教師だけを私たちは哲学者と名づけなければならないであろう。しかし、そうした哲学者そのものはどこにも見いだされないが、そうした哲学者の立法の理念はいたるところであらゆる人間理性において見いだされるから、私たちはもっぱらこの後者に固執して、何を哲学が、このような世界概念(★)にしたがって、体系的統一に対して目的という観点から措定そていするかを、いっそう詳しく規定してみようと思う。

★ここで世界概念、、、、というのは、あらゆる人々が必然的に関心を抱くものにかかわるような概念にほかならない。したがって私は、或る学が或る種の任意の諸目的に対する練達性についての学としてしかみなされないときには、その学の意図を学校概念、、、、にしたがって規定する。

カント『純粋理性批判』原佑訳、平凡社ライブラリー、下巻、2005年、160-163頁。傍点による強調は原文。

「哲学」と「哲学すること」の違い

國分 冒頭の一文「それゆえ、すべての理性の学(アプリオリな)のうちで学習されうるのは数学だけであって、しかし哲学(それが歴史学的なものでないかぎり)はけっして学習されえず、理性に関して言えば、たかだか哲学すること、、、、、、だけが学習されうるにすぎない」ですでに非常に重要なことが言われています。
 カントは「歴史学的」な哲学ではない哲学、すなわち「ザ・哲学」のようなものはけっして学習されえないと言っているわけです。歴史学的な哲学を学ぶというのは、プラトンの哲学とかトマス・アクィナスの哲学とかデカルトの哲学などといった、誰それの哲学をまさしく哲学史の一コマとして勉強するということです。
 それに続けて「理性に関して言えば、たかだか哲学すること、、、、、、だけが学習されうるにすぎない」とありますね。ここはしばしば「哲学を学ぶことはできない。哲学することを学びうるだけである」というカントの名言として引かれる箇所で、インターネットでもよく目にしますが、このような引用の仕方では、この一節で説かれている哲学史を学ぶ意義についてのカントの主張がないがしろにされてしまっているように感じます。

斎藤 たしかによく見かけますね。たいていは、哲学は受動的に学ぶことはできず、自分で主体的に考えることを学ぶことができるだけだ、といった意味で解釈されている気がします。

國分 このようにパラフレーズしてしまうと、哲学史を学ぶ意義がないがしろにされてしまうだけでなく、「哲学すること」もまた曖昧になってしまいます。
 カントはすこし後で、「人が学習しうるのは哲学することだけである。言いかえれば、理性の普遍的な諸原理を遵守しつつ或る種の現存する試みに即して理性の才能を鍛錬することだけである」と説明していますね。
 「或る種の現存する試み」とは、これまでに哲学史の中でそれぞれの哲学者が試みてきたことですから、カントの言う「人が学習しうるのは哲学することだけである」とは、一人ひとりが、諸々の哲学体系を勉強しながら、、、、、、、、、、、、、、、自分の理性的な才能を磨きあげていくことだとわかります。


この続きは『哲学史入門Ⅲ 現象学・分析哲学から現代思想まで』でお楽しみください。

斎藤哲也(さいとう・てつや)
1971年生まれ。人文ライター。東京大学文学部哲学科卒業。人文思想系を中心に、知の橋渡しとなる書籍の編集・構成を数多く手がける。著書に『試験に出る哲学』シリーズ(NHK出版新書)、『読解 評論文キーワード 改訂版』(筑摩書房)など。

國分功一郎(こくぶん・こういちろう)
1974年生まれ。東京大学大学院教授。専門は17世紀哲学、現代フランス哲学。著書『暇と退屈の倫理学』(新潮文庫)、『スピノザ─読む人の肖像』(岩波新書)など。

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