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「物理学の面白さをみんなのものに――ロヴェッリ新作への扉」冨永 星(翻訳家)

 物理学者の著作が世界中でベストセラーになるという、ちょっと珍しい事態が起きている。著者の名はカルロ・ロヴェッリ。イタリア人の理論物理学者だ。その著作の世界での累計発行部数は250万部を超えている。日本では新作の『世界は「関係」でできている』が発売になったところだが、今回は訳者の冨永星氏にロヴェッリの著作の特長や、新作をより深く楽しんでいただくための書籍や対話の記録を紹介していただいた。

物理学の面白さをみんなのものに

 芸術作品や文学作品であれば、興味を持ちさえすれば誰でも楽しめる。別に、技法やら理論やら分析法を知らなくても、じかに作品の美しさや力強さ、面白さが伝わってくるのだ。ところが理論物理学には、「数式がわからない人間は門前払いを食らってしまう」とか「専門知識がないとちんぷんかんぷんで……」というイメージがつきまとってきた。だからこそ一流の物理学者たちが、自分が惚れ込んでいるものの素晴らしさをより多くの人にわかってもらおうと、さまざまなかたちで紹介を試みてきた。『世界は「関係」でできている』もまた、そのような著作の一つなのである。

「講釈師、見てきたような嘘を言い」とは江戸時代の川柳だが、その伝でいくと「物理学者(ぶつりやさん)、見てきたような本当(ほんと)言い」となる。したがって物理学の本には、「語られていることが本当である」という根拠を示す姿勢が求められる。ところが「本当である」ということを丁寧に説明しようとすると、細かい事実がぎっしり詰まった分厚い本になる。しかるにロヴェッリのこの作品は判型も小さく、本文はたったの200ページほど。それでいて、世界中で物理の素人を含む幅広い読者を獲得している。

 なぜそのようなことが可能かというと、本文と注の二段構えになっているからだ。本文では、物理学に必須の詳細や厳密さに少しだけ目をつむって、文学的な表現が持つ力を最大限に活かすことで、疾走感あふれる「知的冒険の物語」が展開される。そして膨大な注が、本文で犠牲になった専門的な事柄や厳密さ、つまり「本当であるという根拠」に相当する部分を引き受けているのだ。だからこそ、物理に詳しくない人でも、知的な好奇心がありさえすれば、本文を楽しく読み進めることができる。

 本文を最後まで読み、すっかり満足してそのまま余韻に浸る人もいれば、好奇心を刺戟(しげき)されて、そこで語られている「物語」が「本当である証拠」を覗いてみたい、と考える人もいるだろう。そういう場合は、注に挙げられたさまざまな著作(幸いなことに、日本語訳が出ているものも多い)を繙(ひもと)いてみればよい。たとえば『ニールス・ボーア論文集1, 2』やディラックの『量子力学』のページをめくれば、量子論創生期に理論を整備していった人々の息づかいを感じることができる。

 ちなみにイギリスの“The Spectator”という週刊誌では、量子論の哲学に造詣の深い作家アレクサンダー・マスターズが、『世界は「関係」でできている』について次のように評している。「量子論のことをまったく知らなくても十二分に楽しめるが、少しだけ量子論をかじってから読み直すと、ここに書かれていることの重みがまた違って見えてくる。たとえば、レオナルド・サスキンドらの手になる『スタンフォード物理学再入門 量子力学』(数学の素養はあっても物理学が専門でない人が量子力学の驚くべき側面を簡単に理解できるようにまとめられた著作)に目を通してから、この本に戻るのもいいだろう」と。「物理の素養がない人も、楽しい読書体験だけで終わらせず、一歩進んでぜひ物理学の“本当を担保する部分”にも触れて欲しい」と専門家に思わせる何かが、この作品にはあるのだ。

『世界は「関係」でできている』の理解を深める4冊の本

 この作品をはじめて読んだときには、めくるめく知的な冒険にほうっと息をつくとともに、「こういうのを博学多識というのか!」と感嘆した。物理学の最先端でみごとな仕事をしながら、そこで閉じずに文学や哲学に対しても開かれた柔軟な姿勢を保ち続け、己の知識をさらに深めようとするその態度に圧倒されたのだ。この場合の「他分野への越境」は、単なる比喩のレベルではなく、科学哲学などの分野にも物理学と同じくらいの情熱を注ぎ、さらには芸術や文学とも響き合っていく。

 そのようなロヴェッリのスケールの大きさや深さはもちろんのこと、ロヴェッリ自身が量子干渉の実例に直面した際に感じた驚きを読者にみごとに追体験させる文章力にも、すっかり感じ入った。そうはいっても、物理学や哲学の専門家でもない訳者の思い入れだけで訳ができるわけもなく、博識なロヴェッリの作品を日本語にするには、さまざまな情報を収集する必要があった。

 注に挙げられている著作や論文に当たり、さまざまな方のお知恵を拝借し、それ以外の資料にも当たって、ロヴェッリの対談の動画を拾って……。ここでは、そのような作業を通して出合った(この翻訳がなければ決して手に取らなかったであろう)いくつかの参考資料と、ある対話を紹介したい。

1)『明解量子重力理論入門』吉田伸夫
ロヴェッリが提唱している量子重力理論を中心に据えた日本語の本としては、ロヴェッリ自身の手になる『すごい物理学講義』があるが、コンパクトな解説書はそれほど多くない。この著作は、おおもとの問題意識や弦理論にも触れた入門書といえる。

2)『量子力学(第二版)I, II』朝永振一郎
「あまり急がずに量子論を勉強しようとする初学者のために書かれた本」で、「量子力学がいかにして作られたかを示そうと試み」ている。対象読者は学部学生以上なので、次々に数式が登場するまさに物理学の本なのだが、そのまとめ方には著者の量子力学観が現れており、序文を読むだけでも、当時の日本の一級の物理学者が何を大事にしていたのかがよくわかって、ひじょうに興味深い。

3)『マッハとニーチェ:世紀転換期思想史』木田 元
ロヴェッリが再評価すべきだとしている「マッハ」について、現象学を専門とする哲学者が人文思想誌「大航海」に連載したものをまとめた著書。雑誌連載なので、その分野の専門家以外も読者対象になっていて、比較的平易で読みやすい。さらに、マッハだけでなく、ロヴェッリが取り上げたボグダーノフにも言及している。

4)『龍樹』中村 元
ロヴェッリが紹介している『中論』を大学の卒業論文として手がけ、その後45年以上もナーガールジュナの思想に取り組み続けたインド哲学者が、雑誌「現代思想」に連載した文章をまとめた著作。やはり雑誌連載なので比較的平易なのと、仏教者とは違う視点からの記述なので、まったくの素人でもあまり抵抗なく読むことができる。

ロヴェッリとブライアン・グリーンの対話:対立する理論?

 ところで、ロヴェッリの『世界は「関係」でできている』が発表される少し前に、ブライアン・グリーンの最新の著作、『Until the end of time(時の終わりまで)』が刊行された。そしてこの作品が2021年度のPremio Cosmos賞(イタリアの文部省による科学啓蒙の著作を対象とする賞)を受賞したことから、4月にオンラインでグリーンとロヴェッリの対話が実現した(その様子は、動画で見ることができる)。

 ブライアン・グリーンはアメリカの理論物理学者で、超弦理論や多元宇宙論などの一般への紹介でもよく知られている人物であり、一方ロヴェッリはイタリアの理論物理学者で、ループ量子重力論の創始者兼一般への紹介者である。超弦理論とループ量子重力論は、一般相対性理論と量子力学を折り合わせるために考え出されたまったくタイプの異なる理論だが、二人の対話からは、これらの理論の提唱者たちの差異ではなく、基本的な姿勢や考え方の類似点が浮かび上がってくる。まるで肌合いの違う親友同士が、互いを深く理解し、相手の意見に和やかに賛同し合うような60分間。そのごく一部の要約をもって、この稿の締めくくりとしたい。

 数学嫌いを公言しているロヴェッリは、それまでブライアン・グリーンのことを、非常に優れた人物ではあるが、少々距離のある存在と見ていたという。数学の才能に恵まれたグリーンは真理を求めて研究を進めてきたが、自分は疑問を呈すること、挑戦することが研究だと思ってきた、というのである。ところがグリーンの最新作を読んでみて、自分たちが同じ対象にわくわくし、同じ問題と格闘していることを実感し、じつは二人が同じ「部族」に属していることに気づいたという。

 この二人の理論物理学者によると、基礎物理学には大きく二つの文化がある。アメリカを中心とする弦理論に代表されるものと、ヨーロッパを中心とするループ量子重力論を含むもので、後者は空間や時間の「意味」を論じる傾向が強く、より哲学的である。アインシュタインやハイゼンベルクがマッハの影響を受けていたように、ヨーロッパの量子論はそれまでの哲学を背景としてきたために、かなり哲学的な部分がある。一方アメリカでは、戦後多数の物理学者が移住したときに、(特に高エネルギーの分野で)ヨーロッパ的な重い議論を回避しながら研究を行うという方向性が生まれた。それというのも、この時点ですでに量子論の基礎が確立され形式が整っていたからで、もうあれこれ逡巡したり議論したりするのはやめて、とにかくこの理論を使ってみよう、ということになったのだ。つまり弦理論には、「まず使ってみよう!」という文化がある。

 さらに弦理論とループ量子重力論には、前者は野心的に全体像を描こうとするが、ループ量子重力論はそれほど野心的ではなく、とにかく量子的な空間や時間を捉えようとする、という姿勢の違いがあるという。

共通する問題意識

 ではこの二つはまったく相容れない対立陣営なのかというと、そうではない。グリーンはある研究集会で、ループ量子重力論の先駆者であるアブヘイ・アシュテカから、自分の講演とグリーンの弦理論の講演の最初の15分を取り換えたとしてもちゃんと成り立つ、と言われたという。なぜなら、何が問題か、解の可能性の有無といった問題意識は共通しているからで、量子論的素粒子論のマインドセットから出発している弦理論と、時間や空間を展望する一般相対性理論から出発しているループ量子重力論とが、一つの大きな問題に両側からアプローチしている、というのが正しい図なのである。この二つが最終的に真ん中で出合って問題が解明されるのか、あちらが正しくこちらは間違っていたことが明らかになるのか、はたまたどちらも正しくないのか。それはまだわからない、と二人はいう。

 さらにロヴェッリとグリーンによれば、「自分たちは、もうずいぶん長いこと、成功の犠牲者であり続けている」という。ここ30年以上も「標準モデル」の成功が続き、理論を裏付ける確認作業が続いたために、他のモデルをきちんと検討する時間を取ることができないでいるのだ。ヒッグス粒子やブラックホールの図などの発見は、いずれも教科書に書かれている標準モデルが正しいという確認でしかない。物理学者たちはむしろ、「標準モデルで説明できない現象」が見つかるのを心待ちにしている。なぜならその現象が指し示す理論の不足に取り組むことで、自分たちの理解が一段レベルアップするからだ。ミスマッチがあればこそ、理解は前進する。

 そして最後に、「意味」と物理学は両立するという点でも、二人の意見は一致している。宇宙そのものには意味はなく、意味は自分たちの内側から出てくるものだが、だからといって意味が嘘だということにはならない。外側にあるものだけがリアルなのではなく、人間の内側から生み出される美の感覚や意味もまたリアルなのだ。ロヴェッリとグリーンは、価値を認め、美を認め、正義の存在を認める世界観を共有しており、それらの基盤を外に求める必要はない、と主張する。事物の記述はさまざまなレベルで可能だが、それらの記述は互いに矛盾せず、また序列を付けることには意味がない。基礎物理学や哲学やアートといったさまざまなアプローチを理解することで多様な洞察を得ることができ、それらの洞察の集合体こそが、この世界のもっとも満足のいく像を与えてくれるのである。

写真=Pauline Alioua

プロフィール
冨永 星(とみなが・ほし)

1955年、京都府生まれ。京都大学理学部数理科学系卒業。一般向け数学科学啓蒙書などの翻訳を手がける。2020年度日本数学会出版賞受賞。訳書に、マーカス・デュ・ソートイ『素数の音楽』(新潮社)、シャロン・バーチュ・マグレイン『異端の統計学 ベイズ』(草思社)、スティーヴン・ストロガッツ『Xはたの(も)しい』、ジェイソン・ウィルクス『1から学ぶ大人の数学教室』(共に早川書房)、フィリップ・オーディング『1つの定理を証明する99の方法』(森北出版)など。

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