新入生しょくん、まずは「論文の書きかた」を身につけよう――対談:山内志朗×戸田山和久(前編)
新入生のみなさん、入学おめでとうございます。新しい一歩を踏み出す前に覚えておきたいのが「論文の書きかた」。『新版 ぎりぎり合格への論文マニュアル』(平凡社新書)の著者・山内志朗先生(慶應義塾大学)と、『最新版 論文の教室』(NHKブックス)の著者・戸田山和久先生(名古屋大学)に、論文執筆をテーマに語り合っていただきました。大学新入生のみならず、学び直しを目論む社会人のみなさんにも必ず役に立つ「知の羅針盤」。まずはその前編をお届けします。
戸田山 きょうのお題は、山内さんの『新版 ぎりぎり合格への論文マニュアル』と私の『最新版 論文の教室』の刊行記念として、大学新入生や新社会人のみなさんを念頭に置いて、論文を書くってそもそもどういうことかを話し合ってみよう、ということです。
山内 私たちは大学時代からの同窓生で、ともに哲学の専攻です。生まれた年は一年違いますが、ともに黒田亘先生のところで学び、勉強会もずいぶんと一緒にしてきました。そんな二人が奇しくもほぼ同時期に論文指南本を出すことになった。『ぎりぎり合格』の旧版が2001年刊行、『論文の教室』の旧版が2002年刊行です。
戸田山 そして今回も、ほぼ同時期にそれぞれの改訂版を刊行したわけです。なんと不思議なご縁。『ぎりぎり合格』の新版刊行が2021年11月、そして『論文の教室』の最新版が2022年1月刊行。またも先を越されてしまった(笑)。
私たちはなぜ論文指南本を書いてしまったのか?
山内 そもそも哲学を専攻しているわれわれが、なぜ論文指南本を書くことになったのか、そのあたりから話を始めましょうか。
戸田山 『ぎりぎり合格』の第一章に、山内さんがこの本を執筆した動機が書かれています。学生の論文を指導する立場に立つと、壊れたレコードプレーヤーのように、同じことを毎年、一人ひとりの学生さんに何度も言わなきゃいけなくなる。だったら一冊の本にまとめて、それを読んでもらったほうが楽じゃないか、と。私の場合も同様でした。
そもそも学生さんは、論文とは何かとか、どのようにして書くのかということを教わってこなかったので、授業でいきなりレポートや論文を書けと言われると困り果ててしまう。そこでまずは、論文執筆のマニュアルをまとめた自家製のプリントを作って配っていたんですね。そんなところに、本書の編集者から、論理的思考をテーマに一冊書いてほしいという依頼が来たので、だったら「論文の教室」で、ということになりました。
執筆を進めている途中で山内さんの本が出た。読んでみたら、面白い(笑)。読んで面白い論文作法の本ってそれまで一冊もなかったから、「あっ、やられた」。ならばこちらは、山内さんとはちょっと違ったセンスで、読んで楽しいものに挑戦してみようという気持ちで書きました。
山内 私の場合は、平凡社の編集担当の人から、『普遍論争』(平凡社ライブラリー)の続編を書いてほしいと言われていたんですね。ただ、そのためには下準備がいるので、3年ぐらいかかる。なにしろ、夏休みの間でさえほとんど毎日学校に行って論文指導をしているわけだから、とグチをこぼしたところ、だったらその経験を書いてください、ということになりました。
「論文の書き方」と銘打った本はたくさんあるけれど、やっぱり私も論文では苦労して何度も失敗してきたわけですから、正統路線からすこし外れて、失敗談をネタにして書くと面白いかもしれない、と考えました。そのほうが、論文を書いている人にも肩の荷を下ろして読んでもらえるんじゃないか、というコンセプトです。
ただし、『ぎりぎり合格』というタイトルは私が出したものではありません。最初はもっと普通のタイトルでした。でも平凡社の営業会議のほうで、これで行きましょうと決まってしまった。私としてはあまり好ましくはなかったけども(笑)、まあ、いいかと。
戸田山 このタイトル、「おっ!」と思いますよね。思わず手にとってしまう。私のほうは、これを超えるタイトルが思いつかなかったので、逆に『論文の教室』と、オーソドックスにいたしました。
山内 旧版の刊行当時、私は新潟大学にいましたが、学生からは「先生、こんな本書いて大丈夫?」って言われました(笑)。
ハンナ・アーレントからファッション論まで
戸田山 『ぎりぎり合格』の第2章では、「平成一二年度新潟大学人文学部の卒論のタイトルを、勝手に材料にして、タイトルの善し悪しを考えてみよう」とあって、学生さんの卒論のタイトルが30本以上も論評されています。これには、ちょっと驚きました。
山内 今だったら学生さんの卒論タイトルを紹介するのは難しくなっていますが、あの頃は比較的緩やかでしたね。
戸田山 ここで紹介されているのは、みんな山内さんが指導した学生さんの卒論テーマなんですか? テーマが哲学関連だけではなく、すごく幅広いですよね。「農村女性の自立に向けて」「アメリカにおけるブルースの歴史とその社会的背景」、「恙虫除け信仰の形態と変容」なんてタイトルもある。
山内 ほとんどは私が指導した学生さんのものです。当時、私は人間学講座というところを担当していました。ようするに科学史と言語学と哲学と心理学にまたがっているような学で、幅が広い。さらになおかつ、情報文化課程というのを立ち上げて、そこにも関わっていたんですよ。哲学を教えながらも、情報文化課程に行くとファッション論、たとえばピアスの研究なんかも手伝っていた。まさに、なんでもかんでもやっていたわけです。
戸田山 なるほど。やっぱり実際に学生さんが考えただけあって、けっこうリアルですよ。論文を書く側だけではなく、指導する立場の人が読んでもすごく面白いですね。
山内 私も学習指導主任をやっていたので、関わらざるを得なかった。論文の執筆のしかたについて、学部全体で面倒を見ようというような感じでした。ゼミの先生と学生さんの関係がきわめて密接だった時期です。
戸田山さんが論文の指導する場合、やはりご専門の科学哲学に関するテーマが多くなりますか。
戸田山 いや、そうでもありません。山内さんと同じです。かつては情報文化学部、今は情報学部というところに所属していますが、いずれにしても学生さんには狭い意味での哲学をやる人はほとんどいなくて、それこそファッションをはじめとして、いろんなテーマを持ってきますね。
山内 私の場合、学生さんが、たとえばハンナ・アーレントをテーマに卒論を書きたいと言ってきたとすると、それは自分の専門外なわけですから、学生と一緒に勉強するというスタンスでした。1人がハンナ・アーレントで、こっちがファッション論で、あっちが中世哲学で、というときには、全部分けて指導するしかありません。だから夏休みには、午前中はこの子、午後はこの子、夕方はこの子とやっていくしかなくて、ある意味では充実していましたが、けっこう大変でした。戸田山さんの場合、そのあたりはどうしていますか? テーマが広くなると時間配分とか、指導のバランスが大変だと思うんですけれど。
戸田山 今はもうあまりたくさんの学生さんは持たなくなりましたが、やっぱり3、4人まとめて面倒を見ようということになると、結局、それぞれに個別に対応する形になる。同じですね。だけど、せっかく同じゼミの仲間なのに一人ひとりバラバラに指導するのもどうかと思いまして、時々みんなに集合をかけて、進捗状況を報告し合ってもらいます。「ヤバい! 私は遅れている」みたいな感じですね。あと、他の学生さんのコメントを聞いていると、自分とは違ったテーマだけれども、「あっ、そういうふうにやるんだ!」という気づきを得ることもありますね。
山内 われわれの学生時代、もう40年ぐらい前のことですが、論文執筆というのは1人で孤独にやる作業だったという気がします。哲学だけではなくて文学部全体がそういう雰囲気でした。みんなで一緒に学ぶとか、上から習うというのではなくて、結局は「自分で学ぶ」ことが多かった。
それが今は、かなり違ってきました。やっぱり学生さんを集めて、それぞれ20分ぐらいでアブストラクト(論文の概要)を発表してもらうと、他の学生も自分があまり関心を持っていなかったところについて知ることができるし、先輩の発表を聞くと、こういうふうに書けばいいんだ、というのがわかる。すごくためになりますね。
「問題意識」をいかに身につけるか?
山内 戸田山さんの本が優れているのは、論文執筆のプロセスがていねいにまとめられているところです。まずは「問題意識」をもってテーマを絞り込むための資料探しのノウハウから、「アブストラクト」の作り方、「アウトライン(構成)」のまとめ方まで、いろいろな材料を取捨選択していくプロセスが具体的に書いてあるから、すごく実践的です。私の指導している学生たちも実は、私の本よりも戸田山さんの本を参考にしていた(笑)。
戸田山 スタートラインの問題意識をどうやって持つかというのが、論文では一番ハードルが高いところです。問題意識をきちんと持てたら、あとは形をつくるだけですから、やる作業は決まってくるんだけど。そもそも、「何を書いていいかわかんないなあ」とか「何が大切なことなのかわかんないなあ」という学生さんに向けて、テーマ探しの具体的なメソッドを作ってみたいと思ったんですね。学生さんとテーマを決めるときに、あまり意識をしないでやっていた方法を、1人でもできるようにまとめてみたということです。
山内さんの場合は逆に、問題意識を持つためにはノウハウはなくて、どこに問題があるのか、どこに面白さがあるのかを感じられる能力・習慣(ハビトゥス)が重要だと書いている。「問題意識」というのは、習慣的な能力・ハビトゥスだというわけですね。そこがすごく面白かった。たしかに、ハビトゥスは具体的な方法にはできませんよね。
山内 ハビトゥスは「暗黙知」みたいなものですからね。明文化にはあまり馴染みません。
世の中を自分にとってどう関わりがあるのかという視点で見ていくと、何かしらの問題意識は持てると思いますが、問題のありかを探すレーダーみたいなものを身につけてもらいたいと思って、ハビトゥスにこだわったんですね。ハビトゥスを身につければ、本を読んで勉強していくような駆動力が出てくると思います。
戸田山 ハビトゥスって要は身について、習慣化したもののことですよね。だから、とりあえずいろいろな本を乱読しなさいというアドバイスが書かれています。その他にも、日常的にレーダーを張りめぐらすような、ある種の探究活動みたいなものを生活の基本とすることがポイントですね。しかし、それってどうやって身につくのかな。けっこう大変じゃないですか。
山内 そう、大変ですよね。とくに現在はネット社会で、多様な情報があふれているわけだから、その中から自分にとって関心がある情報を選び出すのは、たしかに難しいでしょう。
にもかかわらずハビトゥスにこだわっているのは、まさに「習慣」という名の通り、繰り返すことで身につけて、自分にとって面白いものとそうではないものを分けて、あまり悩まないで取捨選択できるような能力だからです。そういう力は、やっぱり若いころでないとなかなか身につかないでしょう。高校までだと、先生が覚えるべきことを指示してくれます。ところが大学に入るというのは、専門の特定の学部、すなわち専門分野に入っていくことなので、自分にとって大事なものとそうでないものを自ら選り分けないといけない。それはいっぺんで身につくわけではなくて、何度も繰り返すことで身につけていくしかありません。
戸田山 山内さんも私も、基本は同じ。ハビトゥスが重要だという根本は同じでも、それをどうやって身につけるかというところがちょっと違います。私ができるだけ分析的に、この順番でこれをやればいいという方法を提示したのに対して、山内さんは、「燃え上がる心に問題意識は宿る」というふうに、熱く(笑)語っている。
野球のコーチにはタイプが二つありますね。バッティングを変えるよう指示するときに、ビデオに撮って、打つときには手首の返しはこうなると分析して指導するようなタイプと、「月に向かって打て!」と言うようなタイプ。長嶋タイプですね(笑)。どちらのメッセージが響くかというのは、学生さんによって違うのかなあという気がしましたね。
難しい言葉を使ったほうがいい? 使わないほうがいい?
戸田山 他にも、この二冊には共通するメッセージがいくつかあります。たとえば、語彙を増やして言葉を使いこなすために、辞書には惜しまず投資しよう、ということは双方とも強調している。けれども、私の本では「使い方を間違えて笑われてもいいから、難しい言葉でもどんどん使っちゃえ」と煽っているのに対して、『ぎりぎり合格』のほうは「難しい言葉を使うのは、辞書を舐めるように読んで、使い方に習熟してから。さもないと馬鹿にされる」と戒めている。ここはちょっと違うところです。
とはいえ、私のほうは実は「後だし」でして。『論文の教室』の旧版執筆中に『ぎりぎり合格』を読んで、山内さんに対する批判的コメントを書き入れたわけですね。あとから書いたほうが有利なのは、先行するものを批判できることです(笑)。『ぎりぎり合格』では、難しい言葉を無理して使うと、「かえってバカさ加減が露呈する」と指摘されているけど、山内さんだって「露呈」なんて言葉を最初から知っていたわけじゃないから、どこかで生半可に覚えた段階でエイヤッと使ったに違いない、と。すいません、そんなことを書いて(笑)。
私は、言葉は試行錯誤で覚えていけばいいし、徐々に正しい用法になっていけばいいと思っています。言葉って、意識して使おうと思わないと一生使わないので、できるだけ難しい言葉にチャレンジしてみようということを学生さんには勧めていました。
山内 言葉づかいには私もこだわっていて、本当は明晰な形で言葉は使うべきだと思うんです。かつてご一緒に数学史の勉強会をやっていましたよね。数式も多いし、図形も使うしで、数学が苦手だとわからないわけですよ。今でも覚えているけれど、デザルグの射影幾何学がテーマとなったとき、戸田山さんは複雑な概念を実に正確に用いて、きわめて明晰に説明してくれました。そうすると、私でも理解できるわけです。
同じことは中世のスコラ哲学でもあります。実はあまりたいしたことを言っているわけではありませんが、専門用語がすごくたくさん出てきます。それぞれについて正確に理解していないといけない。一知半解のままあいまいな形で使うと、とんでもない火傷をしてしまいます。だから、そこはくぎを刺しておきたい。
学生さんにも、卒論を書いていると、難しい言葉や概念にチャレンジしようというタイプがいますよね。それはけっこうなことですが、使い方を間違えると恥ずかしいぞ、と「折伏」していました。新潟大学にいたころからですね。
「難しいこと」への憧れを持とう
戸田山 難しい言葉や概念で煙に巻こうとか、簡単に言えることをあえて難しげに言って、「オレは賢いんだぞ」みたいなのってすごく流行ってたじゃないですか、私たちが学生のころも(笑)。
山内 流行っていました(笑)。
戸田山 山内さんとしては、そういう風潮に対する警戒心を持てってことかなと思いました。でも、昨今の学生さんにはあまりそういうタイプはいませんよね。自分を賢く見せたい、そのためには難しいことを言えばいい、外国語や漢語を使いまくってやれ……とか、そういうことをあまりやりたがらない。私などはむしろ、やったほうがいいんじゃない? と思ったりするわけです。
山内 私の場合、新しい言葉や概念をどんどん使うポストモダン哲学の人たちとも付き合いがあるし、そういう分野と関連する原稿を頼まれることもあります。かつてドゥルーズをテーマに本を書いたことがありますが(『誤読の哲学──ドゥルーズ、フーコーから中世哲学へ』青土社)、そうすると、ドゥルーズに憧れる学生さんが何人か集まってきます。ドゥルーズは新しい言葉をいくつも作って、しかも著作によっては意味を変えながら使っていく。すごく魅力的ではありますが、それを逐一追いかけて正確に把握したうえでないと火傷をしやすいし、論文を書こうとするとまた失敗しやすい。そこを注意しながら指導していました。そういうものに対する憧れっていうんでしょうか、旧制高校的な難しい概念に対する憧れというのは、今でも残っているような気もしますけど。
戸田山 うん。それ自体はとてもいいことだと思うんです。世の中には難しい概念や言葉を使わなければ表現できない、きちんと考えられないことがたくさんあるので、そういうことをしっかり身につけておかないといけない。なので、「難しげなこと」に対して憧れを持つのは大切なことです。逆に、本を読んだり授業を受けたりして、「わかりやすい」を唯一の評価軸にするのはちょっとまずいんじゃないかな。わかりやすいだけでは絶対つまらないですよ。授業の中で消化できないこととか、先生が何を考えているのかよくわからなかったというところがないと、「わかるかぎりのこと」しかわかりませんからね。
山内 東大の哲学科には、桂壽一先生の教訓というものがありました。「授業というのは必ずわからないところが残るように教えるべきである」。これが秘伝のような感じで伝わっていましたね。
論文執筆のキモは「アウトライン作り」
山内 戸田山さんの本では、論文執筆の段取りのつけ方がとても具体的に解説されています。とくにアウトライン、つまり論文の構成をどう作って、それをどのように育てていくのかが、方法論としてていねいに述べられているのがいいですね。まずは、アウトラインを育てるための段取りとして、アブストラクト(概要)を作っておく。そのアブストラクトをもとに、論文で取り上げる項目を箇条書き風にまとめていくのがアウトラインの第1段階。次に、一つひとつの項目を短い文章にして、アウトラインを太らせていくのが第2段階……というように、論文を書くのに迷っている学生さんにとってはとても実践的です。
ようするに、アウトラインというのがすごい。論理学の具体的な応用になっているという感じです。アウトラインを初めから柱にしようというねらいだったんですか。
戸田山 アウトラインって別に僕の独創でも何でもないんで。それまでの論文の書き方本では定番的に紹介されていました。といっても、アウトラインをどう作るかという具体的な方法まで解説されている本はなかったので、学生さんを指導するときには、そこにポイントを置いていました。アウトラインを真ん中に置いて2人でやりとりをすると、話が具体的に進んでいくわけです。「これから何をやったらいいか」とか「自分はどこまでできたか」ということを測るための地図として、アウトラインは役に立つと実感したので、私の本の柱にしました。
山内 アウトラインを基本にすると、論文を書く側・指導する側ともに、たいへん助かります。すごい問題意識をもって、高いテンションで卒論を書き始めた学生さんがいました。「第1章の問題意識のところは書き上げました。次の第2章は何を書いたらいいんでしょうか?」というんで、じゃあ2章について一緒に考えようというふうに、その都度、指導しないといけない。
そんなときにアウトラインを初めから作っておけば、論文がどう流れていくのかがわかるし、次にどういう作業が必要なのか、手元にどういう資料をそろえるべきなのか、何を調べるべきなのかという段取りをつけることもできます。締切に間に合わせやすいという、たいへん大きなメリットもあります。論文には必ず、提出する期限がありますからね。きちんとしたアウトラインができていれば、締切からさかのぼって、この段階では何をすればいいかが一目瞭然でしょう。そういう意味で、戸田山さんの本は、ちゃんと提出期限までに間に合うような論文執筆法になっているところがすばらしいと思いますね。
「書き出し」だって大切だ
戸田山 といっても、論文の場合「書き出し」も大切ですよ。書き出しって頭を悩ませますよね。うまく書き出すことができたら、あとはツルツルッと出てくるような感じのときもある。山内さんの本では、良い書き出しと悪い書き出しの具体例がたくさん紹介されている。学生さんにとって役に立つなと思いましたね。お互い褒めあっているようですが(笑)。
山内 戸田山さんも書き出しにはかなり苦労されるほうですか。
戸田山 そうですね。とくに書き出しだけで、この後読んでもらえるかどうかが決まるような気がして。ただの強迫観念かもしれないけれど(笑)。
山内 論文にせよ書籍にせよ、私も最初の文章をどう始めるかは、やはりすごく悩みます。何を書くかは決まっても、書き出しによってその本の色は決まってしまいますから。今回は少し柔らかく書くのか堅く書くのか、とか。あるいは最初の文章が決まると、そのあとのスピードも決まるから書きやすくなるけれど、それが浮かばないと、書くネタは決まっていても、どう配列しようか悩むところがありますね。
最初の文章を書くのに一番悩んだのが、『湯殿山の哲学』(ぷねうま舎)という本を書いたときです。一番目の文章がまったく浮かばなかったんですね。最初の文章が決まったら、あとはサラサラッと書けることが多いので、書き出しはとても大切だと思います。そのあたり、人によって始まり方の意味合いもちょっと違うかもしれません。戸田山さんの場合はどうですか。
戸田山 書き出しの部分って、その本全体のトーンを決めちゃうから。そこをネジネジ書くと、全体も非常に複雑な、ねじ曲がったものになるし、ストーンと書くとスッスッスッとスピード感をもって進んでいく。だから、最初の一文が全体を支配するという感じです。
もう一つ、変な言い方だけど、最初の一文で読者のハートをわしづかみにしたいということです。「おっ、面白そう」って思ってもらいたいわけで。書き出しはすごく大事ですね。
山内 冒頭に伏線を張っておいて、最初にあることをチラッと見せたりして、これから起こることを連想させるような始まり方もありますね。戸田山さんの『恐怖の哲学』(NHK出版新書)はいろいろなところに伏線を張って、それが回収されるような構造で書かれていました。ヒッチコックの映画のようです。
戸田山 たしかに映画ですね。ここらへんで、あとで重要になる登場人物をチラッと映しておこうかとか。美しい風景だけど、そこにちょっと怖いものを映し込んでおこうとか。
山内 だから、戸田山さんの書くものにはすごく流れがあります。画面の流れに引っ張られるような感じでサラサラと読んでしまうというか、惹きつけられてしまうというのは、映画との対応関係があるのかなあと思っていました。
「論文らしき」言葉づかいとは?
山内 戸田山さんは、よく映画も観ていますよね。私の場合、論文のアナロジーになるものとしては、映画より漫画ですかね。あとは落語です。そんなにたくさん聴くわけではありませんが、家族そろって落語好きなので、寄席とかにもよく行きます。
落語にはオチがある。落とし話だから落語だと思われていますが、実は落語にとってオチはあまり大事じゃない。最初の出だしを聴くとオチもわかるわけですよ。落語というのは、終わるためにはオチが必要なんだけど、でも面白いのはオチではなくて、その途中なんですね。だから私などは、何気ないせりふなのになぜ笑ってしまうんだろうと考えてしまいます。そのあたりが『ぎりぎり合格』にも反映したのかな、なんて気がします。
戸田山 はい。『ぎりぎり合格』のユーモアのセンスって、すごく落語チックです。たとえば、自虐的なところ。噺家さんは「私らのような者は……」と、どちらかというと下手に出るような、自虐ネタが多い。山内さんもこの本で、自分は論文がヘタだ(だった)としきりに謙遜していますが、これを決して真に受けてはいけない(笑)。でも、こういう自虐的なところが落語っぽいと思いました。
他にも、冗談と本気の中間みたいなところがあって、冗談を言っているように見えて、すごくシリアスな、大事なメッセージを言っていたり。大事な話を言っているふりをして、これを本当に信じちゃダメだよ、みたいな。この本から学ぶうえでは、読者にもけっこうなセンスが要求されるかもしれません。
山内 やっぱり、スコラ哲学とかやっていると、ねじれちゃうのかもしれません。ちょっとひねっているところも多いから、笑えることは笑えるんだけど、ひきつった笑いをくすぐるようなところがあって。
戸田山 本書には文章指南として、論文らしき文章にするための言い換え例がいくつも挙げられています。論文の最後に「単位をください」とか「合格させてください」とか、教師に向けたメッセージを書いてしまう学生さんがいるけれど、それではかえって逆効果です。では、これをいかにもそれらしき文章に直すとどうなるかというと、「解明できた点は必ずしも多くはないが、若干なりとも寄与できたと思われる」。
山内 冗談のつもりだったのに、この本の刊行後、この通りの文章が最後に書いてある論文が全国各地で実際に何本も提出されたと聞いて、びっくりしました。他にも、「〇〇はバカだ」の言い換え例を「〇〇の見解には再考の余地が残る」としたところ、「山内の見解には再考の余地が残る」と書いてある論文が提出されて、実は非常にバカにされているんじゃないかと(笑)。私の本で一番ウケたのは、言い換え例かもしれません。
戸田山 面白いですよ。本気なのか冗談なのか、ちょっとわからないところがある。
山内 論文らしからぬ言葉づかいをどう直すかという実例を学生さんにいくつか見せたところ、「先生、おもしろい!」と大ウケしたんで、サービスとして本に入れてみました。
*2022年3月16日収録 構成:編集部
プロフィール
山内志朗(やまうち・しろう)
1957年、山形県生まれ。東京大学大学院博士課程単位取得退学。専攻は哲学。新潟大学人文学部教授を経て、慶應義塾大学文学部教授。著書に『天使の記号学』『存在の一義性を求めて』(以上、岩波書店)、『ライプニッツ──なぜ私は世界にひとりしかいないのか』(NHK出版)、『普遍論争』(平凡社ライブラリー)、『新版 ぎりぎり合格への論文マニュアル』(平凡社新書)など。
戸田山和久(とだやま・かずひさ)
1958年、東京都生まれ。東京学大学院人文科学研究科単位取得退学。専攻は科学哲学。現在、名古屋大学大学院情報学研究科教授。著書に『科学哲学の冒険』『最新版 論文の教室』(以上、NHKブックス)、『恐怖の哲学』(NHK出版新書)、『思考の教室』(NHK出版)、『論理学をつくる』(名古屋大学出版会)、『哲学入門』(ちくま新書)、『教養の書』(筑摩書房)など。
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