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大河ドラマ「べらぼう」考証者で蔦重研究の第一人者が、「蔦重版」の真髄を解説!
大河ドラマ「べらぼう」考証者で蔦重研究の第一人者である鈴木俊幸さんによるNHK出版新書『「蔦重版」の世界 江戸庶民は何に熱狂したか』が刊行されました。
細見、黄表紙、洒落本、狂歌絵本……。蔦屋重三郎は、いかに江戸最先端の流行を捉え、庶民から熱狂的な支持を得たのか。喜多川歌麿、山東京伝、大田南畝らとどのような本づくりを行ったのか。具体的な出版物を一つひとつ挙げながら、「蔦重版」の真髄、そして江戸文化・風俗に与えた影響を解き明かします。
本稿では刊行を記念し、本書の冒頭部分を特別公開いたします。
はじめに
蔦屋重三郎の発想と足跡を捉えるためには、彼の関与した出版物を追いかけていくのが一番有効な方法であろうし、ほとんどそれしかない。蔦重は本屋である。在世当時から注目されていた存在であって、他の本屋に比べれば、まだ時人の言及などが残っているほうではある。それでもこの一介の本屋にすぎない彼についての証言は多いとはいえない。その数少ない証言にしても、そのまま真に受けてよいわけではない。この本屋をつかまえる一番たしかな方法は、彼が残した動かぬ証拠、彼の出版物に語らせることであろう。
彼の手掛けた出版物は、彼が生きていた時代の文化の大きな一角を占める。恋川春町や朋誠堂喜三二 の黄表紙、大田南畝(狂名四方赤良)を中心とした狂歌の世界から生まれた狂歌本、山東京伝の洒落本、また喜多川歌麿の美人絵や絵本、また写楽の役者絵。すべてこの時代の文化を語る際に欠かすことの出来ないものたちである。それはどういうことか。
まず、蔦重の出版に関わる発想がこの時代のある部分を牽引していったということが言えよう。当時の江戸人の好尚に訴え、また好尚を引き出すべく仕掛けていく本作りであった。言葉を換えれば、流行の最先端を行く出版物を世に出すとともに、最先端の流行を創り出していったということでもある。
当時の江戸人の多くは、彼の戦略にうまうまと乗せられて、蔦重版を嬉しがって手に取っていたわけである。そして、彼の残した出版物によって、この時代の文化を捉えようとしている現代のわれわれも、同じ術中にはまって当時を幻視しているのかもしれない。でもだまされてみるのも悪くない。まずはどっぷりと蔦重ワールドにはまってみよう。はまった水底に、泉下の蔦重のにんまりした顔を拝めるかもしれない。
なお、本書の部立てについては、おおむね蔦重の足取りを追った形になっているが、その下の章、またそこに取り上げた出版物については、必ずしも時系列によって配列しているわけではない。各章ごとのテーマに沿って出版物を吹き寄せてあるので、部全体を眺めた場合、出版時期が前後していることがままあることをお断りしておく。また、章のテーマを成立させることを優先して出版物を選んだので、必ずしも蔦重版の名品や名物ばかりが並んでいるわけでもない。逸したものも数多いこと、ご容赦いただきたく思う。
第一部 吉原の本屋として
蔦屋重三郎は、江戸時代中期の寛延三年(一七五〇)に江戸新吉原に生まれた。吉原は、江戸の繁華を象徴する場所であった。江戸を訪れた他国の人間が見物にやってくる人気の観光地であり、江戸っ子にとっても自慢のスポットであった。一級の調度、遊女の教養、酒肴の美味、一流の芸、みなここでしか味わえない贅沢である。通という美意識に適う装いと振る舞いを競う場でもあった。最先端のおしゃれ、洗練された会話、最新の情報と一般の上をいく趣味・学芸に接することのできる場所であった。そのような環境で蔦重は成長していったのである。
安永三年(一七七四)正月刊鱗形屋孫兵衛版吉原細見『細見嗚呼御江戸』の刊記に「此細見改おろし/小売取次仕候/新吉原五十間道左りかわ 蔦屋重三郎」と見える。蔦重二十四歳、この時から鱗形屋版吉原細見の編纂に関与し、吉原五十間道で吉原細見の卸売りを行うようになったわけである。いつ頃からかははっきりしないが、これ以前から本屋を開いていたのであろう。蔦屋次郎兵衛の茶屋の一角を借りての片店商売である。吉原見物客向けの吉原細見や廓内で需要のある長唄や浄瑠璃の稽古本など場所を取らない商品を扱っていたものと思われるが、同時に吉原を営業圏とする貸本業も行っていたものと思われる。
第一章 吉原細見と遊女評判記
蔦重の出版事業は、吉原の行事などに際して、その情報を江戸市中に発信する広告的なものから始まる。吉原に生まれ育った蔦重は、血縁・地縁の援護を得て、吉原という機構の一員として、出版物を使った吉原の戦略的な広告を行っていく。蔦重という希代の人材を得て、吉原は初めて情報発信能力を吉原内に得たわけである。
また、年二回発行の「吉原細見」は、遊女屋とその所属の遊女の情報を中心にまとめられた情報的冊子である。幕府公認の遊廓吉原を象徴する冊子でもある。吉原見物に来た人間にとっては恰好の吉原土産であった。鱗形屋版細見の改め(改訂情報収集)、卸、小売りから、蔦重の出版物関与が始まるのであるが、鱗形屋に代わって蔦重が細見の出版も開始していく。そして蔦重の出版物の象徴ともなっていく。それまで江戸市中の版元に頼っていた吉原情報の核心的部分の発信が、吉原の地から行われるようになったのである。
吉原という地に軸足を置きながら、以後、蔦重は当世流行の出版物を手掛けていく。富本浄瑠璃の正本・稽古本であったり、黄表紙や洒落本であったり、通という、当時のかっこよさの指標であった美意識をくすぐる出版物である。そして、そのようなおしゃれな出版物を手掛けているということをもって、蔦屋という店を江戸市中に広告していくのである。
『一目千本』
安永三年(一七七四)七月刊の『一目千本』が蔦重最初の出版物となる。横中本(約十四センチ×十九センチ)二巻二冊の瀟洒で美麗な絵本である。刊記は「安永三甲午歳七月吉日/画工 北尾重政/彫工 元岩井町 古沢藤兵衛/書肆 新吉原五十軒/蔦屋重三郎」とあって、画工は、当時一番画技に定評があった北尾重政である。彫工の名前も入れており、彫板にもこだわって丁寧に仕立てられたものであることを刊記で表明している。
描かれているのは、当時通人の趣味として流行していた生け花、抛入れの図である。序題が「華すまひ」となっていて、相撲よろしく、毎半丁に描かれた東西一対の抛入れの優劣を競う趣向であるが、序に「四季の花を名君の姿によそへ」とあるように、それぞれの抛入れには特定の遊女の名が宛てられている。たとえば、上巻最初の取組は「木蓮花 大もんしや 大山」と「海桐花 たまや 白玉」の「取組」である。色摺りの口絵には土俵と弓矢が描かれていたりもする。
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序に、「この頃一人の大尽来り戯に此里の遊君の角力を見まほしきよしを求む」と、さる大尽の遊女の相撲を見たいという要望を「里雀てふもの承り」とあり、中入り口上を述べている里雀なるものが編者ということになる。しかし、この作品のためだけの戯名であり、その正体は分からない。里雀とは、素見(ひやかし)を意味する語「吉原雀」を俳名風に言い換えたものであろう。
上巻冒頭は桜と軍配を描き「松葉屋はつ風 おもひきやさくらを花の司とは」と行司格で松葉屋初風の句を載せる。下巻も同様、海棠に軍配を描き「扇子屋 滝川 秋なから花の位のかいとうや」と扇屋滝川の句を載せる。中入り口上の末にも「野も山もかつ色見せつ秋の風 里雀」とあり、全体に俳諧趣味濃厚の仕立てである。当時、吉原に遊ぶ通人は表徳、つまり俳名で呼び合うのが例となっていたように、彼ら遊客の基本的趣味は俳諧であり、彼らを迎える茶屋や遊女屋の主人たち、また遊女も俳諧に長じている者が多かった。茶屋の二階などは俳席に供せられることも多かった。そのような環境で育った蔦重も、俳諧に手を染めていたようで、安永六年夏跋、一陽井素外編『誹諧古今句鑑』に三句入集している。
なお、この俳書には北尾重政も花藍の俳名で句を寄せている。当時、俳諧はさまざまな分野と身分の人びとを相互に繋ぎ合わせる力を持っており、吉原では特にその力を発揮したものと思われる。回り遠くなったが、遊女を買わない吉原雀「里雀」を編者としているこの一書は、蔦重の編纂に成るものである可能性が少なくないと思われる。
続きは『「蔦重版」の世界 江戸庶民は何に熱狂したか』でお楽しみください。
プロフィール
鈴木俊幸(すずき・としゆき)
1956年、北海道生まれ。中央大学文学部教授。専門は日本近世文学、書籍文化史。中央大学文学部国文学専攻卒業、同大学大学院博士課程単位取得満期退学。著書に『本の江戸文化講義』(KADOKAWA)、『蔦屋重三郎』(平凡社新書)、『書籍流通史料論 序説』(勉誠出版)など。2005年日本出版学会賞、2008年ゲスナー賞、2013年岩瀬弥助記念書物文化賞受賞、2019年『近世読者とそのゆくえ』(平凡社)でやまなし文学賞受賞。