「思考入門 “よく考える” ための教室」第1回 〔『考える』について考えてみる〕 戸田山和久(文と絵)
はいみなさんこんにちは。もうすぐお楽しみの夏休みですね。みなさんお待ちかねの新連載もはじまりますよ。テ・ツ・ガ・クの新連載はじまりますよ。これ、思考入門というお題です。漢字だらけだねー。でも、内容ゴーカよ。書いた人すごいよ。はい、戸田山和久さん。上で広瀬すずさんや安藤サクラさんといっしょにグルグルぐるぐる回っとりますねえ。名古屋大学の情報学研究科っていうこれも漢字ばっかのとこで科学哲学おしえてる人ですね。科学哲学何でしょう。はい、科学と哲学のオイシイとこいっぺんに味わえるお得なジャンルのことですね。この連載もお得ですよ。物事をよーく考えるってどういうことかがわかって、先生にほめられる上手な文章がスイスイすいすい書けるコツも教えてくれるっていう。ホントだったらすごいねー。夏休みの宿題にも役立ちますよ。友達にもおしえてあげましょうね。あと戸田山さん、連載で夏休みの怪談大会やってくれるかもしれませんよ。みんなみんな怖いですね。前置き長くなりました。こういうの、屋上屋〈おく〉を架〈か〉す、って言います。昔の人うまいこと言うねー。わからなかったら辞書引いてみましょうね。はい、時間きました。それでは連載楽しんでくださいね。さよならさよならサヨナラ。
連載のねらいとターゲット
「よく考えてからものを言え」とか「よく考えて決めなさい」とか、しょっちゅうお説教されるよね。そのくせ、「よく考える」ってどういうことなの、「よく考える」ためにはどうすればいいの、ってことを教えてくれる人はめったにいない。いないはずだよ。こういう決まり文句を口にする大人って、ご本人がちっともよく考えてないんだから。だから、こういうお説教をされたら、「よく考えてからものを言う」ってどういうことなのかよく考えてから言ったら? と答えればよい。そのあとどういう目にあうかは保証しませんが。
少なくとも、この「よく」は「長時間」という意味ではなさそうだ。「よく煮こんでから醤油と砂糖で味をつけます」の「よく」とは違うのね。だって、長い間うじうじと考えているうちに行動にうつすタイミングを失うことってよくあるでしょ。あるいは、ずっとあれこれ考えているうちに、だんだんわけがわかんなくなってきて、けっきょく最悪のことをしてしまった、ということもある。「ヘタの考え休むに似たり」というしね。「よく」考えるにはそれなりの時間がかかるので、時間をかけて考えることと、よく考えることはイコールだと思われてしまうけど、そうではない。「よく考える」には、ちょうど良いところで考えるのをやめて行動にうつること、考えのやめどきを見定める、ということも入っていそうだ。
というわけで、「よく考える」とはどういうことなのかをはっきりさせて、それができるようになるためにはどうすればよいかを教えてあげましょう。ついでにちょっとトレーニングもやってみましょう。これが連載のねらいだ。
ちょっと背伸びした高学年の小学生と中学生を相手に書くことにする。子どもから大人への途上にあるキミたちにじかに語りかけたい。大人は放っておこう。大人にはもうあんまり期待できないから。子どものうちはまだ「よく考える」のがヘタだ。大人になるにつれ、よく考えるための方法がだんだん身についていく。と同時に、悲しいことだが、よく考えないですますためのノウハウも身につけてしまう。こっちの方のノウハウばかりたっぷり身につけてしまうと、よく考えるべきときによく考えることのできない大人になる。これはね、学歴つまり「いい大学を出ているかどうか」とはあまり関係がない。
いったん「よく考えない習慣」が身についてしまうと、なかなかそこから抜け出せない。よく考える、ということをしないでいるのは、それなりに気持ちがいいからだ。オレの生活がこんなに苦しいのはみんな◯◯のせいだ、って考える人がいる。日本にも世界にも。「◯◯」のところには、「移民」がきたり「イスラム教徒」がきたり「ユダヤの陰謀」がきたり「在日特権」がきたりする。こんなふうに考えたところでちっとも生活が楽になるわけではないんだが、少なくともモヤモヤは晴れて気分はすっきりする、らしい。こうして、偏見とかステレオタイプとかスケープゴート(わからなかったら辞書を引きんさい)がずっと続くことになる。
あるいは、自己愛もときにはよく考えることの妨げになる。
「女の子は仕事なんて向いていないんだから、早く素敵な旦那さまをみつけて、美味しいご飯を作ってあげて、可愛い子どもを産んで育てなさい。それが女の子の幸せなんだから」と娘に言い聞かせる母親がいるとする。これからの社会のなりゆきをよくよく考えたらそうではないはずなんだが。そして、この母親じしん専業主婦の生活に虚しさと不満を溜めこんでいるのに、こういうことを言うとする。どうしてなんだろう。「女の子も手に職をつけて経済的に自立しなさい」と言うことが、自分の人生、自分の選択を否定することになってしまうからだ。誰だって「わたしの人生はこれでよし!」と思いたい。この母親は娘に言い聞かせているように見えて、じつは自分自身に言い聞かせているんだ。
なので、大人はもう手遅れ。よく考えることのできる人は、すでによく考えることができる。よく考えなくなった人がよく考える人になるのは至難の技(わざ)。なぜなら、それをしようとすると、いったん、もっとモヤモヤしたり、「もしかして自分ってダメかも?」と思ったりして自己愛が傷つくからだ。これはシンドイ。
というわけで、まだまだ発展途上にあるキミたちがこの連載のターゲットだ。とは言うものの、ワタシってちょっと考えるのが苦手かも……と思っている高校生、大学生、ひょっとして大人しょくんにも、ホントは役に立つ。そういう人にもぜひ読んでほしい。こっそりと。
「泡型吹き出し」登場
これからお話ししたいのは「よく考える」こととそのやり方なのだけど、その前にまず「考える」ってどういうことなのかハッキリさせておこう。「考える」とは何か。「思考」とは何か。これにちゃんと答えようとすると、抽象的でややこしいことをいくらでも言うはめになる。でも、ここでは思いきり話をかんたんにしてしまう。
コミックの「吹き出し」ってあるでしょ。英語ではスピーチ・バルーンっていうんだって。いちばんよく目にするのはこういうの。
「風船型」っていうそうだ。何にでも名前がついているもんだね。口に出したセリフを表している。尻尾(しっぽ)の先にいるのが話し手だ。
次によく出てくるのがこれ。
「泡(あわ)型」という。多くの場合「尻尾」の部分は、小さいマルが並んだものになっている。口には出さずに思っていることを表したいときに使う。
はい。思考とか「考え」ってのは、この泡型吹き出しのことです。そして泡型吹き出しのなかに書いてあること、それを思考や考えの内容(コンテンツ)という。で、この吹き出しが頭からぷわっと出てくること、それを「考える」という。以上。ね、わかりやすい定義でしょ。
それにしても泡型吹き出しってのは大発明だよね。人の考えって目には見えない。それを目に見えるように表す工夫だ。誰が発明したのだろうと思って調べてみたけど、よくわからない。でも、けっこう古くからあるみたいだ。安永四年(1775年)に恋川春町(こいかわはるまち)という戯作者(げさくしゃ)が絵と文をかいた『金々先生栄華夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)』という黄表紙(きびょうし)がある。「黄表紙」というのは「江戸時代の庶民向けユーモア小説、挿絵入りで二倍お得」と言えばよいかな。金持ちになりたくて田舎から江戸に出てきた金村屋金兵衛という若者が、途中で参詣(さんけい)した目黒不動尊の茶店でうたた寝をしたときに見た夢の話だ。大金持ちのあきんどの養子になって、金ピカの高級ファッションに身を包んで遊び暮らしていたが(当時こういう人を「金々先生」といった)、金目当ての取り巻きにだまされたり、遊びに金をつかいはたしたりしたあげく、家を追い出され、無一文に逆戻り。でも、すべては茶店で粟餅(あわもち)ができるまでに見た夢でした、という夢オチのありがちな物語。
横になっている金兵衛の頭から吹き出しが出ていて、そのなかに、大商人が駕籠(かご)で通りかかり、あとつぎがいないので養子になってくれと言われました、みたいなことが書いてある。つまり、吹き出しのなかは金兵衛が見た夢の内容を表している。形は泡型ではないけど、はたらきは泡型吹き出しと同じだ。この時代の黄表紙では、じっさいに口に出されたセリフは、絵の余白にそのまま書きこまれている。吹き出しは使わない。吹き出しが使われるのは、心のなかの思い(夢もその一種、夢というのは寝ながら考えている状態と言ってもよい)を心の外の世界から隔てるためだということがわかる。風船型が先にできて、泡型はその変形なのだろうと思っていたが、そうでもなさそうだ。
わたしたちは何を使って考えているんだろう?
さて、「考える」イコール泡型吹き出しだとすると、「考える」という心のはたらきについていろいろ面白いことが言える。まず第一に、吹き出しのなかにかきこまれるのは、言葉だけとはかぎらない。金々先生の例でもわかるように、絵が描いてあってもよい。ちなみに、滝田ゆうという漫画家は泡型吹き出しのなかに絵を書き込むことで何とも言えない味わいをかもしだす名人だった。吹き出しのなかに、カナヅチとか頭蓋骨が落っこちてくるところを描いて、呆(あき)れたりがっかりしたりという心の動きを表現していた。
これと同様に、わたしたちが何かを考えるときに言葉を使って考えているとはかぎらない。絵とか図のようなものを頭のなかにおいて、それを使って考えることもある。掛け布団(ぶとん)にカバーをかけるとき。ほら、四隅に紐(ひも)がついていて、ずれないように布団に結びつけるやつあるでしょ。あれって、キミたちはうまくやれますか。わたしは本当に苦手で。どうやってカバーに布団を入れたらいいのか、いちいち考えながらじゃないとできない。そのときは、頭のなかで絵をいじっているようだ。あるいは、レストランで出てきた食材がきれいなかたちに切ってあるのを見て、どうやったらこういうかたちに切れるのかを考えているとき。
わたしたちが考えているときに頭のなかでいじっている何か、これをひっくるめて表象(ひょうしょう)という。頭や心のなかにあることを強調したいときには、心的表象とか内部表象と呼ばれる。心的表象には、言葉のようなのもあるし、絵のようなものもある。もっと他のかたちをしたものもあるかもね。ともかくこういういろんな表象を使ってわたしたちは考えている。だから「よく考える」ことには、言葉だけでなく図をうまく使えるようになることも含まれる。それにしても「表象」というのはなかなかかっこいい言葉だ。キミたちも会話のはしばしでぜひ使おう。新しい言葉を覚えたら使わないとダメだよ。
なにせじかに見ることはできないので、表象がどんなものなのか、何からできているのか、なぜわたしたちはそれをいじれるのか、どうやっていじっているのか、わからないことだらけだ。でも、表象を心のなかでいじりまわすことが「考える」ということだと仮定すると、いろいろなことが説明できるので、心理学ではきっとそういうものがあるのだろう、とされている。こういうのを科学的仮説という。
思考はどうにも止まらない!
ここまでが第一の「面白いこと」。これからすぐに第二の面白いことが言える。「考える」にはいろいろある、ということだ。言葉や絵が入っている泡型の吹き出しは何だって「考え」、思考と言ってよいのだとすると、テストや宿題で問題に答えようとしてうんうん集中して考えるのだけが「考える」ではない、ということになる。「おなか減ったなあ」と自分のいまの状態をモニターするのも、「なにかお菓子が食べたいな」と欲求するのも、「そうだプリンがあったはずだ」と思い出すのも、「冷蔵庫のなかを探してみよう」と意図するのも、「ありゃ、入ってないや」と気づくのも、「妹がたべちゃったんだな。プンスカ」と怒るのも、「それじゃコンビニで買ってこよう。ついでに麦茶も買ってこよう。途中のポストでハガキを出してからにしよう」と計画するのも……みんな「考える」だ。だって、これってみんな泡型吹き出しのなかに置くことができるでしょ。
わたしたちは生きているかぎりずっと考えている。考えるというのは、誰もがいつだってやっている、とてもありふれたことなんだ。起きている間はずっとやっている、それどころか寝ているときにもやっている(夢のことね)。そういう意味では、考えるということはちっとも難しいことではない。むしろ、何も考えないでいることの方が難しくて、特別のトレーニングが必要になる。ヨガとか座禅とか、そのほかの瞑想(めいそう)法のいろいろ。こういう訓練をくぐりぬけて選ばれた数少ない人だけだ。「考えない」ことができるのは。
このように、わたしたちの頭の上にはつねに泡型の吹き出しがただよっていて、そのなかにいろんな内容が浮かんでは消え、浮かんでは消えている。コミックみたいに、ストーリー展開上だいじなときだけに、ここぞとばかり吹き出しが現れるのとは違う。そして、吹き出しの中身はたいていくだらない、どうでもいいことなんだ。そのうえ、わたしたちは一つのことをずっと続けて考えるのがすごくヘタだ。「考え」はあっという間に別の「考え」にとって代わられる。プリンのことを考えていた次の瞬間には宿題のこと、その次にはふくらはぎが痒(かゆ)いこと、さらに次の瞬間には夏休みの計画のことを考え、またプリンに戻る、といったぐあい。吉田兼好の言葉を借りれば、「心に移りゆくよしなし事」ばかりを考えるように、わたしたちの心はできている。こういうのを「気が散る」っていうよね。わたしたちの思考は気が散りっぱなし。
というわけで、どうでもいいことからどうでもいいことへと、あっちに飛んだりこっちに飛んだり。これがわたしたちの思考の特徴だ。このコントロール不可能な思考の動きをぜんぶできるだけそのまま文章にしたらどうなるんだろうね。それにチャレンジした人がいる。ジェイムズ・ジョイスというアイルランドの小説家だ。ジョイスが1922年に発表した長編小説『ユリシーズ』は、首都ダブリンで、1904年6月16日、たった1日の間に起きた出来事を扱っている。しかも、たいしたことはぜんぜん起きない。それなのに1000ページ越えの大長編。なぜこんなに長くなったかというと、ジョイスがこの小説のなかでいろんな実験をやろうとしたからなのだね。その一つが、登場人物の「意識の流れ」を一切の編集なしにそのまんまダラダラ書いてみる、という試みだ。案の定、主人公の「考え」はあっち飛びこっち飛び、とてつもなくとりとめないものになった。
このほかにもいろんな実験がてんこ盛りの20世紀最大のトンデモ小説。ぜひ読みたまえ、と言いたいところだが、登場人物の考えはどうもエロ方面に飛びがちなので、もうちょっと待ってからのほうがよいかも。
考えることができるのは人間だけ?
『ユリシーズ』に脱線したついでに言っとこう。この小説の第12章には一つの謎があった。語り手が誰なのか、という謎だ。多くの読者たちが頭を悩ませてきたが、1996年に柳瀬尚紀(やなせなおき)という英文学者・翻訳家が新説をとなえてみんなをびっくりさせた。第12章で自分のことを「俺」と呼んでいる語り手は、人ではない。犬だ、というのね。そう思って読んでみると、なるほど、いままでどう読んだらよいのかわからなかった箇所がよくわかる、目からうろこ、というのでこの珍説はけっこう評判になった。
柳瀬さん説が正しいとすると、第12章に書かれていることはすべて、ダブリンの路上にくらしていた犬の頭上の吹き出しの中身だということになる。そうすると、柳瀬さんは犬だって考えることができる、と思っているわけだ。で、私もそう思う。犬にかぎらず、どんな動物も考えている。のら猫がゴミをあさっていて、わたしに見つかったときに、姿勢を低くして猛スピードで逃げ出す。わたしには、その頭の上に「ヤベっ」という吹き出しが見える。犬にペットフードを与える。尻尾を振りながらハフハフと食べる犬の頭上には「食べ物、食べ物、うまい、うまい」という吹き出しが見える。
これって、わたしがかってにそのように見ているだけだろうか。つまり、擬人化(ぎじんか)しているだけだろうか。ほんとうは考えていない相手を、あたかも考えているかのようにみなす。これが擬人化だとすると、そういうこともある。自動販売機に1000円札を入れたのに何度も戻ってきちゃうとき、販売機が「だーかーらぁ、しわくちゃの札はいらねえんだよ」とか「おらおら、まっすぐ入れろって言ってんのにわかんねーのかよ」とか、しまいには「あーもうやる気なくした。わりーけどコンビニで買ってくんない」とか思っているような気がする(わたしだけか?)。これは「擬人化」ね。わたしは、ほんとうは機械には思考能力がないってわかってる。だから販売機に向かって本気でおどおどしたり、あやまったりはしない。でも、動物のばあい、ほんとうに考えていると言ってよいと思う。
なぜそう思うのか。動物の心のなかは見えないにもかかわらず。それはね、わたしたちヒトも動物だからだ。ヒトもつくりのかんたんな動物からだんだんと進化した。ヒトになったとたんに、ゼロから「考える」ということができるようになった、この世にいきなり「考える」が現れた、というのは、ちょっと人間を特別扱いしすぎだ。動物も「考え」をもっていた。はじめのうちはすごくシンプルで、ヒトの思考とはあまり似ていなかったろう。ある方向に進化するにつれ、だんだんと複雑なことを考えられるようになる。犬も猫もトカゲもカエルもヒトと共通の先祖をもっている。だから、ヒトに「考える」能力があるなら、程度の差はあるだろうけど、動物にもその能力は備わっているはずだ。
だからといって、ヒトも動物も同じことを考えることができる、とまでは言えない。犬はかなりかしこい動物だ。きっといろんなことを考えられるだろう。だからといって、『ユリシーズ』第12章に書かれているようなことはさすがに考えられない、と私は思う。缶詰のペットフードを食べている犬が「またこれかよ。脂っこいんだよこれは。俺はニッポンジンなんだから、柴犬で。たまには茶漬けでサラサラっていきてえんだよ」って考えていたらちょっとコワい(このセリフは、笑点でおなじみの春風亭昇太師匠の新作落語『愛犬チャッピー』に出てくる)。やっぱりこれは擬人化のやりすぎというものだ。「食べ物、うまい」くらいのことしか考えていないだろう(ただし犬の思考の言葉で)。
なんのために「考える」があるのか
こんなことを書いていると、さっそくツッコミが入りそうだ。犬はこの程度のことしか考えてないだろう、なんてどうしてわかるのか。証拠はあるのか。……うーん、決定的な証拠はないね。本当のところは犬になってみなければわからないだろうし、犬になったらわかるのかもわからない。でも、弱い証拠ならあるんだ。それを話す前に、そもそも動物の頭上にも吹き出しを置きたくなるのはなぜかを考えてみよう。
たとえば、ベルベットモンキーというサルは、ヘビを見つけたときとワシを見つけたときとで、異なった鳴き声を発して仲間に知らせる。鳴き声を聞いた仲間は、ヘビ用鳴き声とワシ用鳴き声とでそれぞれ違った逃げ方をする。ワシのときは木のおいしげった枝のなかに逃げる。そこにワシは入ってこられないからだ。ぎゃくにヘビは枝を伝って入ってこられるので、地上に逃げる。このようにベルベットモンキーは、何を見たかによって異なった行動(異なった叫び、異なった避難)をする。こういう行動をうまく説明しようとすると、あるいは、うまく予想しようとすると、サルの頭の上に「ヘビだ!」とか「ワシだ!」という内容の吹き出しを置きたくなる。ヘビを見たとき、あるいは見張りのヘビ叫びを聞いたときは「ヘビだ!」思考が生じて、それが対ヘビ行動を生み出す。ワシを見たときとかワシ叫びを聞いたときは「ワシだ!」思考が生じて、対ワシ行動を促す。
というわけで、「考え」というものは、刻一刻とうつりかわる環境のなかで、動物がうまく行動して生き延びるためにあるんだ。これはヒトにも当てはまる。わたしたちに思考が備わっているいちばんの(本来の)目的は、生き延びることだ。だから、考えるのが上手でない人はやっぱり生きづらい。キミが人生のなかで出会うかもしれない不幸は、さまざまな偶然によるものが多い。たまたま事故に遭(あ)うとか、たまたま悪意ある人物に出会ってしまったとか。それは偶然だから、キミのせいではない。キミにはどうしようもないことがらだ。だから、そもそも不幸を完全に避けることなんてできない。だけど、よく考えることができないと、その不幸から抜け出すこととか、不幸さを減らすことができない。こういう人は、みずから不幸を招き寄せているように見えてしまう。途中からは「自分のせいだ」とか「自業自得だ」とか言われてしまう。残酷だよね。
というわけで、キミにとって、「よく考える」ことができるようになるべきなのはなぜか。まず第一に、理想からほど遠いこの残酷な世の中で、キミ自身がうまく生き延びるためだ。
生き延びるために思考がある。これは動物についてもヒトについても当てはまる。そうすると、わたしたちの思考がつねにあっちこっちに飛んでばかりいる、ということの説明がつくかもしれない。草原で草をたべている動物がいるとしよう。「食べ物? 食べ物あった! うまい。食べ物? 食べ物あった! うまい……」と考えている。この動物がすごい「集中力」の持ち主で、食事中は食べ物のことしか考えられないとしよう。いっけん、その方が食べ物にありつくためには能率的だけど、遠くから猛獣が迫っていたらどうだろう。食べ物のことを考えたり、周りに敵がいないかを考えたり、ほかのことを考えたり、思考がてきとうにさまよっていた方が生き残りやすいだろう。なぜなら、ふつう生き物はいろんなことが起こる環境で暮らしているからだ。そういう環境では、いちどにひとつのことしか考えない生き物はうまく生きていけない。というわけで、ヒトの思考も、そもそもあっちにいったりこっちにいったりするようにできていると考えるのが良さそうだ。気が散るのは大切なことなのである。
さて、最初の問いに戻ろう。なぜ、「犬はこの程度のことしか考えてないだろう」などと言えるのか。「考え」は生き延びるのに適切な行動を生み出すためにある、ということをふまえると、次のように答えることができる。
犬の思考がシンプルなのはなぜか。犬は人間ほどいろんな行動をしないからだ。うーんとややこしい内容の思考を吹き出しのなかに書きこんで、はじめて理解できるような行動を犬はとらない。脂肪分の多いペットフードを毎日与えていたら、食事を拒否して自分から散歩に出かけるようになった、ということはあまりなさそうだ。もし、多くの犬がこういう行動をとるなら、犬も「脂っこいんだよこれは。健康に悪いじゃないか。このままじゃ病気になっちゃう。そうだ、ダイエットしなくちゃ」と考えることができる、と言えるだろう(もちろん日本語に翻訳してあります)。でも、どうもそうではなさそうだ。病気になってからだが受けつけなくなるまで、与えられるままに食べてしまうのではないかな。だから飼い主が気をつけてやる必要があるんだ。
このように、犬はたしかにいろんなことをやるけど、ヒトに比べるとそのレパートリーは少ない。だから、犬がもてる「考え」はヒトよりシンプルだと考えるのが理にかなっている。
ヒトの「考える」の3つの特徴
ヒトの「考える」はヒト以外の動物の「考える」と共通したところと違ったところがある。でも、その違いは程度の違いだ、という話をしてきた。ヒトの思考は、動物ほどシンプルじゃない、と言ってきたけど、じゃあどのように「シンプルじゃない」んだろうか。今回の最後にこの点をまとめておこう。「よく考える」というのはどういうことかを明らかにしていくための準備になるからだ。
そのために、ひどくシンプルな考えしかできない架空の生きものを想像してみる。その生きものは、2つの思考しかもてない。餌を見ると「食べ物!」思考が生じて、その思考によって、近づいていってパクッと食べる行動が促される。敵を見ると「敵!」思考が生じて、逃げる行動が引き起こされる。犬だって猫だってもうちょっとフクザツだろう。でも、これでもけっこううまく生きていけそうだ。この生きもののシンプル思考と比べて、ヒトの考えはどうフクザツなんだろう。
架空の生きもののシンプル思考
ヒトのフクザツな思考
(1)思考と行動の間に「タメ」がある。この生きものは、「食べ物!」思考が生じると目の前の餌を食べてしまう。思考と行動が直結している。考えたら最後、やってしまう。考えるだけで何もしない、ということができない。わたしたちの場合はそうではない。テーブルの上にシュークリームがある。それを見て「テーブル上にシュークリームあり」思考をもったとしても、すぐに食べるとはかぎらない。思考と行動の間に距離があるんだ。そのおかげで、同じ思考をいろんな用途に使うことができるようになる。冷蔵庫に入れてとっておく、きょうだいに見つからないように隠す、おなかをすかせた人にあげる、大統領に投げつける、そして、無視する。ヒトの思考はただ一つの使い道に縛られてはいないし、とりあえず何もしないで考えるだけ、ということができる。
(2)いまそこにないものについて考えられる。この生きものは、食べ物に見えるものが目の前に現れたときにだけ「食べ物!」思考を抱くことができる。でも、ヒトはそうではない。いまそこにない「もの」や「できごと」について考えることができる。この能力と、思考と行動の間の「タメ」のおかげで、シミュレーションができるようになった。つまり、「もしこのテーブルの上にシュークリームがあったらどうしようか」と考えることができる。やってみるまえにいろいろ考えて、いちばんよいと判断したことだけをやることができる。事前のシミュレーションができなくて、実際にやってみるしかない生きものは、やってみて失敗すると死んじゃう。でもヒトは、じっさいにやらないうちに「かりにこれこれをやったら死んじゃうかもしれん」と考えることができるので、何か別のことをやることができる。こりゃすごく生存に好都合だ。
いまそこにないものについて考える能力は、ついでに、わたしたちにとてつもない恵みをもたらした。この能力があるから、ヒトはいままだ実現していない目的をもつことができる。理想をもつことができる。そして、最大の娯楽ももたらしてくれた。つまり、フィクションだ。
(3)ヒトの「考え」は、この2つに加えてもうひとつ、すごくだいじな特徴をもっている。それは、自分の「考え」について考えることができる、ということだ。わたしたちは、「自分はいま邪悪なことを考えているな」とか、「さっきからわたしの考えは堂々めぐりになってるな」とか、「どうしてこのことを考えようとすると感情的になってしまうのだろう」などと考えることができる。これってすごいことなんだよ。なぜなら、こうした考えをもつことができるおかげで、わたしたちは自分の考えを改善することができるからだ。
そこで次回は、ヒトの思考のこうした3つの特徴についてもう少しつっこんで考えてみよう。そして、「よく考える人」への道を歩み始めよう。
了
プロフィール
戸田山和久(とだやま・かずひさ)
1958年、東京都生まれ。発行部数24万部突破のロングセラー『論文の教室』、入門書の定番中の定番『科学哲学の冒険』などの著書がある、科学哲学専攻の名古屋大学情報学研究科教授。哲学と科学のシームレス化(これもわからなかったら辞書を引きんさい)を目指して奮闘努力のかたわら、夜な夜なDVD鑑賞にいそしむ大のホラー映画好き。2014年には『哲学入門』というスゴいタイトルの本を上梓しました。そのほかの著書に、『論理学をつくる』『知識の哲学』『「科学的思考」のレッスン』『科学的実在論を擁護する』『恐怖の哲学』など。
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