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少女時代の終わり――#1 イーユン・リー『ガチョウの本 The Book of Goose』(3)

『ガチョウの本』において、天才作家・アグネスを作り出したのは、一心同体とも言える二人の少女の野望と、それを利用しようとする大人たちの思惑でした。イーユン・リーはなぜ、フランスからアメリカに渡る女性の物語を書いたのでしょうか? 世界文学の案内人として知られる都甲幸治さんが考察します。

完璧な世界の卵

 ファビエンヌとアグネスの関係は一心同体と言っていい、あまりに深いもので、すれ違いなどなかった、と書いた。本当にそうだったのか。この物語が大人になったアグネスによって語られている以上、それを確かめるすべはない。だが当時、二人がそう感じていたのは事実だろう。けれども異性愛を前提とする不寛容な世間は、彼女たちに厳しい。そして二人の関係にはやがて、決定的なひびが入ることになる。

 皮肉にも、その発端となったのは、遊びとして二人で作り上げた物語だった。本書で何度も語られているように、ファビエンヌはある不満を抱えている。社会的地位も教養もなく、貧しい少女の自分が、どんな哲学や思想を抱いていたとしても、人々は見向きもしない。ならば自分の存在を世界に刻みつけるために、こうした自分の内側で起こっていることを本にして世間に発表してやろう。

 こうした野望を抱くことで、アグネスとの関係は決定的に危機にひんする。なぜならファビエンヌは、見た目が良いが空っぽなアグネスを利用して本を出してやろう、と決意するからだ。そしてまた、世に受けいれられないインテリであるデヴォーさんを利用して作品を整え、しかもパリの編集者たちとの繫がりまで作るのである。

少女たちの欲しかったものは何か

 ファビエンヌの思惑は成功する。だが成功すればするほど、自分が疎外されていくことに彼女は気づく。マスコミの注目を一身に浴びて、アグネスはイギリスに渡る。しかしファビエンヌは、生まれた村で変わり者として軽蔑され続ける。だからこそ、彼女はやがて、アグネスへの嫉妬に心を支配される。そして、ようやく村に戻ってきたアグネスの前で、彼女はまるで動物のような声で激しく叫ぶ。そもそも世界から人間扱いされるために本を書いたのに、だ。

 一方アグネスも、ファビエンヌに利用されるだけの存在ではない。パリに行き、イギリスに渡ることで彼女は経験を重ね、やがて独自の視点を獲得する。そして、卵なんてどれでも同じでしょ、と言うタウンゼンドさんについてアグネスは思う。「違う雌鶏めんどりが生んだ卵は見た目が違うことも知らないなんて、タウンゼンドさんはどうしようもないな」。

 こう考えられるアグネスは、すでにタウンゼンドさんの言う教養のインチキぶりを見抜いている。目の前にあるものさえ理解できないタウンゼンドさんに、人間の心などわかるわけがない。ましてや文学など無理だ。しかも、ある種の正義に基づいたタウンゼンドさんの態度に、アグネスは偽善と欺瞞を嗅ぎつける。タウンゼンドさんの言う救済など、結局は子供からの搾取さくしゅでしかない。

イーユン・リー(1972年~)。(フランスの書店Librairie Mollatによる『ひとりでいるより優しくて』の紹介動画より。元動画URL: https://www.youtube.com/watch?v=xPqsavwuKrY )

「自分」を脱ぎ捨てること

 こんなふうに見てくると、『ガチョウの本』はイーユン・リーの今までの作品が正統に発展したものだ、ということが見えてくる。これまで、彼女は多くの著作で、中国や外国にいる中国人たちの姿を描いてきた。フランスからアメリカに渡る女性を描いた本書は、一見そうしたものとは違う。だが、言語や国境を越えることで人は自由を得られるのか、そして小説は心の奥底を映すメディアとなり得るのか、というこれまでの彼女のテーマを、本書はしっかり継承している。

 アグネスは、アメリカに行き英語で書くことで、初めて天才少女小説家だった自分を脱ぎ捨て、きちんと距離を取った上で、自分にとってはこれ以上ないほど貴重だった、少女時代のファビエンヌとの関係を描き切ることができた。そのさまはちょうど、アメリカに渡り、英語を獲得することで、過去から現在に至る自分の人生を踏まえた作品を書けたイーユン・リー自身の姿にも重なる。だからこそ、このフランス人女性の物語である『ガチョウの本』を、中国人のイーユン・リーがアメリカで、英語を使って書くことには必然性があるのだ。

第一回了

題字・イラスト:佐藤ジュンコ

都甲幸治(とこう・こうじ)
1969年、福岡県生まれ。翻訳家・アメリカ文学研究者、早稲田大学文学学術院教授。東京大学大学院総合文化研究科表象文化論専攻修士課程修了。翻訳家を経て、同大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻(北米)博士課程修了。著書に『教養としてのアメリカ短篇小説』(NHK出版)、『生き延びるための世界文学――21世紀の24冊』(新潮社)、『狂喜の読み屋』(共和国)、『「街小説」読みくらべ』(立東舎)、『世界文学の21世紀』(Pヴァイン)、『偽アメリカ文学の誕生』(水声社)など、訳書にチャールズ・ブコウスキー『勝手に生きろ!』(河出文庫)、『郵便局』(光文社古典新訳文庫)、ドン・デリーロ『ホワイト・ノイズ』(水声社、共訳)ジュノ・ディアス『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』(新潮社、共訳)など、共著に『ノーベル文学賞のすべて』(立東舎)、『引き裂かれた世界の文学案内――境界から響く声たち』(大修館書店)など。

関連書籍

都甲幸治先生といっしょにアメリカ文学を読むオンライン講座が、NHK文化センターで開催されています。

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