ここに違和感はあるが、帰る国はない――#3シャオルー・グオ『恋人たちの言葉』(2)
研究と恋愛と水上生活と
さて、僕は留学先から出身国に帰ってきた。けれども『恋人たちの言葉』の主人公は、イギリスから中国には帰らない。彼女には帰れない理由がある。もともとは中国南部の農村に暮らしていた。だが農地も動物もすべて処分してしまい、都市に移り住んだ。その後相次いで両親が亡くなったので、もはや中国には帰るべき家も故郷もない。ひとたびイギリスに根付いてしまった以上、もう一度中国に帰っても、馴染めるかどうか自信がない。とにかく中国に帰ることを考えると「やる気がなくなり体調が悪化する」。
それでは彼女は、イギリスでどういう人生を送っているのか。彼女がこの国に来たのは、大学院で映像人類学を学ぶためだ。マーガレット・ミードの自伝『女として人類学者として』を読んで専攻を決めた。知的に武装できた状態で外国の文化の中に入って行きたい、というのがその理由だ。研究テーマとして彼女は、西洋の名画を手で大量に模写し、世界中に売りさばく中国南部の農民たちの工房を選ぶ。だが、独創性や真正性といった西洋的な概念を信じる白人男性の指導教員たちに対して、こうしたコピーの意義を納得させることに彼女は手こずる。
研究と並行して彼女は恋に落ちる。出会いは奇妙だった。ある白人男性が熱心に野の花を摘んでいるのを見たのだ。中国では、そんなことをしている男性を見たことがなかった。のちに彼女は読書会で彼と再会し、急速に関係を深める。彼はオーストラリア出身で,途中からドイツで育った。建築を学びにエジンバラにやってきたが、実際の住み心地など考慮せず、ただ新奇なアイデアを競う、という現代建築のあり方に疑問を持って、公園などを設計する景観建築家となった。
オーストラリアの海岸を懐かしみ、ドイツの広い一軒家でこそ人は気分良く生きられる、と考える彼は、ロンドンの狭いアパートでの暮らしが嫌でたまらない。そこで彼女にこんな提案をする。古ぼけた安い小型の船を買って、自分たちの手で改修した上、そこを家として住まないか。こうして2人の水上生活が始まる。
真の問題は日常生活の中にある
常に水のうねりを感じる暮らしは悪くはなかった。けれども法律でずっと同じところに停泊できないおかげで、次に船を停められる場所をいつも探さなければならない。毎日公園に水を汲みに行き、近くで使えるトイレの場所を探す。燃料にも限りがあるから、寒い日は凍えるほど室温が下がる。どうにもならないのが屋内の狭さだ。2人の仲が良いときはいい。でも少しでも口論をすると、船内の空間はたまらなく小さく感じられる。
常に自然を近くに感じていたい彼には良い暮らしだ。けれども彼女は安定が欲しくなる。大学に行き、カフェや図書館をめぐり、船に戻る暮らしにはもう耐えられない。しぶしぶ彼も同意し、2人はまた地上での暮らしに戻る。しかしこの矛盾を最終的に解決するために、後に彼は大胆な賭けに打って出る。ドイツの広大な荒野を買い取り、そこに大きな家を建てようとするのだ。
一方彼女は、中国南部での調査旅行を終え、どうにか博士論文をまとめて口頭試問に臨む。質疑ではかなり叩かれるものの、なんとか合格して学位を得た。だが彼女は、本当に意味がある対話や取り組むべき問題は大学には存在しない、と感じてしまう。それは普通の人の日常生活の中にあるのだ。それもあってか、彼女は大学での職を探そうとはしない。
寄る辺ない孤立の中で
やがて、そんなことをしていられない事態が持ち上がる。彼女が妊娠したとわかったのだ。生まれてきた子供は西洋人でも中国人でもないような顔をしていた。ドイツに住む彼の両親は喜ぶが、彼女は子育てに追われて、研究も読書もできなくなる。籍は入れたものの、もはや夫婦の間で、文化的な会話はなくなる。話すのはいつも、おむつを買ってきたかどうかなど、日常のこまごまとした話題ばかりだ。
景観建築家の彼は、イギリスの遠方やドイツなどに仕事で呼ばれて、そのまま数週間滞在するようになる。彼女は思う。なぜ誰も助けてくれないロンドンに一人でいて、子供の世話ばかりしなければいけないのか。怒りを彼にぶつけると、そもそも生きるには金が要るだろう、と言い返される。孤立した彼女は精神的にどんどんと追い込まれていく。
あるとき彼女の乳腺が詰まり、乳の出が悪くなる。固く張り詰めた乳房が痛くて仕方がない。意を決して夫に乳首を吸ってもらい、なんとか張りを解消できたのだが、彼女は夫の一言にブチ切れる。なんと彼は、君の乳は甘すぎるから飲みたくない、と言うのだ。なぜそんなことを言うのか。人間も動物である、という現実から目をそらしたいのか。夫への、そしてヨーロッパへの違和感が一気に湧き上がる。中国に帰るという選択肢のない彼女は、ではどうすればよいのか。
明日に続きます。お楽しみに!
題字・イラスト:佐藤ジュンコ
都甲幸治(とこう・こうじ)
1969年、福岡県生まれ。翻訳家・アメリカ文学研究者、早稲田大学文学学術院教授。東京大学大学院総合文化研究科表象文化論専攻修士課程修了。翻訳家を経て、同大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻(北米)博士課程修了。著書に『教養としてのアメリカ短篇小説』(NHK出版)、『生き延びるための世界文学――21世紀の24冊』(新潮社)、『狂喜の読み屋』(共和国)、『「街小説」読みくらべ』(立東舎)、『世界文学の21世紀』(Pヴァイン)、『偽アメリカ文学の誕生』(水声社)など、訳書にチャールズ・ブコウスキー『勝手に生きろ!』(河出文庫)、『郵便局』(光文社古典新訳文庫)、ドン・デリーロ『ホワイト・ノイズ』(水声社、共訳)ジュノ・ディアス『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』(新潮社、共訳)など、共著に『ノーベル文学賞のすべて』(立東舎)、『引き裂かれた世界の文学案内――境界から響く声たち』(大修館書店)など。
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