絵を描いて有罪となった学生――証拠はねつ造され、彼らは刑務所に送られた。『証言 治安維持法』
2020年10月24日、元美術教師の松本五郎(まつもと・ごろう)さんが亡くなられました。松本さんは、太平洋戦争中、北海道・旭川において、教員や学生ら79人が治安維持法違反を理由に検挙された「生活図画教育事件」の被害者の一人です。事件当時、学生だった松本さんは、美術部での活動が治安維持法違反に問われ、刑務所に送られました。
近年、松本さんは依頼がある限り、講演を引き受け、そのときの体験や抱いた思いを伝えようとしていました。治安維持法は遠い昔の無関係な法律ではなく、その時代を知らない私たちにも重要な示唆を与えるというのが、松本さんの考えでした。
当記事は、『証言 治安維持法』(NHK「ETV特集」取材班著、荻野富士夫監修、NHK出版新書)、第五章「絵を描いて有罪となった学生 生活図画教育事件」より、その一部を抜粋して紹介するものです。
人間の心までおかしくなった時代があった。そういう時代の嫌な思いを将来、再び味わうことのない平和な世の中を実現するために、残された歴史の生き証人みたいな形で話して伝えていきたい――。松本さんの言葉です。ひとつの法律が、人々の暮らしに何をもたらしたのか。ぜひ、治安維持法が施行されていた時代、そして現在にも思いを馳せながら読んでください。
美術教師を目指していた青年
二〇一八年二月、北海道河東(かとう)郡音更(おとふけ)町は、田畑も町も見渡す限り真っ白な雪に覆われていた。
まず訪ねたのは、九十七歳の松本五郎さんである。柔らかな目もとが印象的な松本さんは、暖房が効いた室内で四歳になるひ孫の女の子と一緒に新聞の折り込み広告を切り抜いては台紙に貼り付け、切り絵作りに励んでいた。
元教師だった松本さんは、幼少のころから絵を描くことが好きで、引退後のいまも絵画サークルを主宰し、町の人たちに絵を教えている。色とりどりの油絵が飾られた部屋の一角には木のイーゼルが置かれ、白いキャンバスには、積み木遊びを途中で放り出してはしゃぐ、ひ孫の姿がデッサンされている。
「子どもの子どもらしい姿が描きたいんだよ。『こうしたい』『ああしたい』と自分で考えて遊ぶ子どもを表現したい。この子の未来はどうなるのかとか、いろいろなことを考えながら描くんです。絵を描き出したら、時間がたつのも忘れる。本当に一日中描いているね」
松本さんは一九四一年九月、旭川で教師を育成する師範学校に通っていた二十歳のときに「新」治安維持法によって検挙され、懲役一年六か月の有罪判決を受けた。話を聞くと、松本さんは前触れもなく捕まったわけではなかった。検挙に至るまでの間、師範学校を舞台に、治安維持法改正前後の取締りの強化を背景にしたさまざまな出来事が起きていたという。
同年一月、師範学校の五年生だった松本さんは二か月後に卒業を控え、教師として働くことが決まっていた。絵が得意な兄の影響で入学とともに美術部に入った松本さんは、最終学年には部長も務め、将来は美術教師になりたいと期待に胸を膨らませていた。
後列右から2番目が当時20歳の松本さん
「放課後になるといつも絵を描きに出かけたね。石狩川の堤防に行って風景を描いていると、近くを通った女学生がみんな絵を覗くの。私は顔を真っ赤にしながら描いてね……まあ、そんな青春があったんだ。一生懸命作品を描いて展覧会をして、ある程度評価もされて、順調に絵画活動が進む中で将来を夢見たわけだ。紙芝居で吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』を題材にした作品を作って、小学校で実演したりもしました。夢多き最終学年だったんですよね。それが突然、暗転した」
事の起こりは、冬休みが明けた一月十日のことだった。帰省先の中標津(なかしべつ)から寮に戻った松本さんは、美術部顧問の教師だった熊田満佐吾(くまだ・まさご)さんが治安維持法違反で検挙されたことを友人から知らされた。熊田さんは誠実な人柄で、西洋美術のほか、小説や映画、音楽に対する造詣も深く、自宅でレコード鑑賞会を開くなど、部員の学生たちから慕われる存在だった。
部長だった松本さんは、学校に戻るなり管理職の職員などから部の活動内容や熊田さんとの関係について執拗な聞き取りを受けた。当時、治安維持法に関する知識がほとんどなかった松本さんは、熊田さんの振る舞いの何が問題とされたのかまったくわからなかったという。
「治安維持法の名前くらいは聞いていたけど、条文をしっかり読んで検討するなんてことはやっていなかったからね。『治安を維持』するのだから、何も悪いことではないんじゃないのという程度の認識さ。でも、振り返ると、先生は、『進め進め、兵隊進め』って人が死んでいく戦争に対しては批判的で、戦争はやるべきでないという考えだったように思うね。まさか自分が捕まるとは思っていなかったと思うけれどもね」
思想善導の末の検挙
学校による松本さんたちへの聞き取りが行われたあと、全校生徒が講堂に集められた。集会では、熊田さんが検挙された理由について、学校内で「紙芝居研究会」「ルネッサンス研究会」「読書会」「レコード研究会」などのサークル活動を通じて危険思想を広めたためだと説明された。
そして、会合に参加して熊田さんの影響を受けた危険人物として、松本さんをはじめとする六人の学生の名前が公表され、うち五人に留年、一人に退学の処分が下された。わけもわからず留年組とされた松本さんだったが、学校の決定に従うほかなかった。卒業していく仲間たちから取り残されることになった五人の留年組に対し、学校側による思想善導が始まった。
「まず親が呼び寄せられたの。親子ともども護国神社[戦争で亡くなった兵隊をまつる神社]に連れていかれて、御幣(ごへい)でお祓(はら)いだ。思想善導のセレモニーだね。大きな太鼓をドンドン打ち鳴らして、悪魔を祓うということだったんだろう。反省文をたくさん書かせられたりもしたね。大勢の生徒が通る目の前で、校内にあった神社の掃除をさせられたり、参拝させられたり。そんなことで我々の思想が変わるわけでもないのに。それでも一年やれば卒業させるという学校の約束があったから、まあ面従腹背(めんじゅうふくはい)ということで頑張ったのね」
当時、旭川は帝国陸軍第七師団の駐屯地の一つだった。師範学校では、全寮制による軍隊式訓練が取り入れられ、国家に忠誠を尽くす人材の育成が目指されていた。松本さんが入学した一九三六年には昭和天皇の行幸を受けて天覧体操を行ったこともあり、国策に沿った教育方針は揺るぎないものだった。
執拗な思想善導を受けながら、松本さんは八か月に及ぶ留年生活を送った。しかし、卒業の約束は果たされなかった。一九四一年九月二十日の早朝、松本さんたちの寄宿舎にオーバーを着た五、六人の警官が踏み込んできた。松本さんは、当時の様子を手記に残していた。
何の用事だろうと考える余裕もあたえず、[警官の]中の一人が松本五郎という生徒はいるか、ときかれたので、「ハイ私です」と答えると、「我々は警察の者だ、君に聞きたい事があるので、署まで来てもらいたい」といった。頭に浮んだ事は、熊田先生と私の関係をきかれる位だろうと思った。彼等は私を自分の部屋まで案内させ、本棚・本箱・机の引出をあけて日記・手帳・手紙・本など取上げた。大げさな事をするものだと思ったが事情がわかればすぐ返却されるだろうと、軽く考えていた[中略]警察署についたら事務室で事情聴取をされるだろうと思っていたら、土間の通路を隔てた事務室の反対側にある施錠された部屋の錠をはずした。そして角材の頑丈な扉が開かれた。「そこに入れ」と命ぜられた。何たる事か、まるで罪人扱いではないかと思ったが反抗もできず中に入ったら途端扉がしまり、ガチャンと施錠されてしまった。(松本五郎『証言 生活図画事件』)
このとき松本さんは、学校の思想善導に従って生活していた自分が罪に問われるとは夢にも思っていなかったという。
「何で捕まったのかもわかんないもん。描いた絵が悪いと言っていたから、『どこが悪いんですか』と聞いたら、『非常時と言われる時代に、本を読んだりみんなで話し合ったり、それは非協力的で世の中を批判しているのではないか』と。独断的な理由で、さんざんいじめられたね」
限界まで拡大していた検挙対象
前述した治安維持法の改正が行われていたのは、熊田さんの検挙から松本さんが検挙されるまでの間に当たる一九四一年三月のことだった。つまり、熊田さんは改正前の治安維持法で、松本さんは「新」治安維持法の下で検挙されたことになる。新たな治安維持法では、法律の適用範囲が限界まで拡大されていた。
治安維持法の改正が必要な理由を説明する司法省刑事局の資料「改正治安維持法説明書(案)」(一九四一年三月、『治安維持法関係資料集』第四巻所収)では、「現行法の不備なる点」として以下の四点が挙げられている。
一、支援結社に関する処罰規定を欠如せること
二、準備結社に関する処罰規定を欠如せること
三、結社に非ざる集団に関する処罰規定を欠如せること
四、宣伝其の他国体変革の目的遂行に資する行為に関する包括的処罰規定を欠如せること
「新」治安維持法ではこれらの欠陥をすべて埋める改正が行われた。概要について、四つの項目に沿って見ていきたい。
一の「支援結社」とは、いわゆる外郭団体と言われたような結社のことだが、この時点ですでに共産党も外郭団体も壊滅状態になっていたのはこれまで見てきたとおりである。しかし当局は、共産党に限らない何らかの「国体変革結社」と、それを支援する結社が存在する可能性に鑑み、規定を新設した。
二の「準備結社」とは、共産党を直接再建しようとする人たちではなく、再建の「準備行為」をする結社のことで、「結社性を認め得る読書会、研究会の如く集会宣伝啓蒙等の方法に依り党的機運の醸成に努むると共に共産主義者を養成結集して党再建に資するが如き行為を担当せるものをも包含する趣旨」(「改正治安維持法説明書(案)」)とされた。さらに、これまで「国体変革結社」を組織することにのみ科されていた死刑が、支援結社や準備結社を組織した場合にも適用されることになり、極刑の適用範囲も広がった。
三の「結社に非ざる集団」とは、これまで「グループ」などと呼ばれてきた小規模な集団のことである。こうして、規模や性質にかかわらず、国体の変革に資するとみなされた集団は罰せられることになった。一、二、三の集団の目的遂行罪も新設され、集団のさらに周辺にいる人たちにも適用範囲が広がった。
さらに注目すべきことは四の「宣伝其の他国体変革の目的遂行に資する行為」に関する処罰規定である。これは、結社や集団に属していなくても、個人の行為として「国体変革」の目的を持って宣伝、その他の行為を行えば、治安維持法違反とされるという規定だった。これによって、治安維持法が成立当初に持っていた結社を取り締まるという性格は消え去った。
適用対象の拡大という点からもう一つ注目されるのが、国体否定と「神宮若は皇室の尊厳を冒涜(ぼうとく)すべき事項」の流布に対する処罰規定と、目的遂行罪の新設である。この規定により前述した「類似宗教」への適用がより容易になり、キリスト教をはじめとする宗教団体への治安維持法による弾圧が加速していった。
松本さんたち美術部の学生は、考えられるすべての対象を網羅したと言ってもいいこの「新」治安維持法の下で検挙された。
犯罪の証拠とされた絵
熊田さんに続いて松本さんたち美術部の生徒が検挙された事件は、「生活図画教育事件」と呼ばれている。北海道内で「生活図画」と呼ばれる美術教育を行った教師や、その生徒、卒業生を含む七十九人が検挙された事件だった。生活図画とは、現実の日常生活をリアルに見つめ、その中により良い生き方を求めて絵画で表現するもので、同じ流れを汲(く)む「生活綴方(作文)教育」などとともに北方性教育運動として東北地方や北海道でよく取り入れられていた。
なぜ彼らが罪に問われたのか。松本さんが見せてくれたのが、美術部で展覧会を開いたときに撮影した絵画の写真である。授業の様子や放課後の活動など、身の回りの日常を描いた絵が並ぶ。このとき展示した絵は、ほとんどすべてが「犯罪行為」の証拠品として警察に没収されたという。
下の図1は、松本さんがレコードの鑑賞会を開いたときの様子を描いた、「レコードコンサート」という絵だ。
図1
松本さんは、白黒写真の中にしか残されていない作品を見返しながら、次のように語った。
「未来の明るい生き方を描くんだという、自分の心を表現したつもりなんだけれどもね。その人らしい真剣でまじめな生き方を追求していかなきゃならんというのが、生活図画の主張だったんですよ。こういう絵を見て特高はどう評価するかっていうと、やっぱり危険思想を持っているという先入観がありますから、『この目つきがおかしい』『良からぬことを考えているんでねえか』とこちらの内心を覗き見るようなことで結局罪になるんです。一般の人が見て、何で罪になったのかわからないようなことでも、ちゃんと罪に結びつくんです」
実際に松本さんの絵はどのように解釈されたのか。松本さんから裁判の判決文を確かめてほしいと依頼を受けて、私たちは旭川の検察庁に問い合わせた。担当者によれば、「当時の判決文の保管期限は五十年とされているが、それが過ぎたものでも各検察の判断で保管されている場合があるので探してみる」という内容の返答だった。
数日後、「松本さんの判決文は見つからず、破棄したと思われる」との回答があった。結局、松本さんの絵の何が問題とされたのかを知ることはできなかった。
韓国では戦前・戦中の判決文の多くがインターネットで公開されている。治安維持法違反事件関連の判決文は戦前・戦中史の研究においても重要な意味を持つものであり、日本でも適正なルールに基づいた管理と公開が望まれる。
絵を描くことがなぜ罪となるのかに話を戻そう。司法省刑事局「生活図画教育関係治安維持法事件資料」(『思想資料パンフレット特輯』第三十巻、一九四一年)には、当時証拠品として押収された絵画のコピーとともに、その絵のどこが問題なのかという理由が記されている。
次の図2は、当時帯広の小学校に勤務していた教師が、学生時代、美術部で雪かきに励む子どもを描いた油絵だ。
図2
この絵は「小学校に於ける勤労作業場面を描けるものにして児童の意欲的なる表情と姿態は作者の階級意識を如実に現し」ているため、描いたという行為が目的遂行行為に当たる疑いがあるとされた。
図3も松本さんと同じ師範学校の美術部の卒業生が学生時代に描いた絵で、精米所で働く人たちの様子を描いた作品である。
図3
これは「資本主義社会の下に於ては機械は搾取の道具であるが共産主義社会に在っては機械と人とが真に一体となって働くことが出来るとの作者の意識を此の画面に表現せるもの」であり、同じく絵を描いたことが目的遂行行為だとされた。
図4は、旭川の中学校に通っていた五年生が、熊田さんたちが開催した絵画展に出品したポスターだ。
図4
学生の勤労動員を勧めていた当時の文部省の方針に沿ったものとも見えるこのポスターは、「戦争に依る農村の労力不足を一般に認識せしめ反戦思想を啓蒙するもの」として、この絵を展示した行為が問題だとされた。
本を写し書きした尋問調書
以上見てきたような絵の解釈は、さすがに取締り側だけで勝手に決めつけるわけにはいかず、最終的には本人に同様の供述をさせなければならない。有罪の決め手となる、共産主義やコミンテルンへの認識についても条件は同じである。しかし、松本さんら学生たちは、本などで目にしたおぼろげな知識がある程度で、共産党やコミンテルンの目的・理論については素人同然だった。
一方、長年にわたる治安維持法の運用で経験を積んできた特高には、検挙者に必要な供述をさせるためのあらゆるテクニックが蓄積されていた。留置所に入った松本さんに最初に行われたのが、あえて取り調べをせず、いつ取り調べるかという情報も与えずに、ただ勾留を続けることだった。
「留置所に入ってすぐ取り調べがあると思っていたら、調べないの。一日ずっと何もせずに黙っていたら、ちょっとおかしくなりそうになりますよね。それが十日たっても二十日たっても音沙汰がない。もうしまいにはノイローゼみたいになって、髪の毛が針金になった感じがするんですよ。実際には硬くなっているわけではないけれど、触ったら頭が痛い。『ああ、完全に病的だな』と感じた。そういう状態になって一か月ぐらいたってから、やっと呼び出しが来たわけですよ。やれやれと思って行ってみたら、ロイド眼鏡をかけたおっかない顔した特高刑事が取り調べに入ってきて、いきなり質問さ。『貴様は共産主義を信奉して、同級生や下級生に啓蒙したろう』と。びっくりしてね。『そんなこと、考えたこともありません』と言ったらね、『この野郎、貴様は警察をなめる気か』と恫喝(どうかつ)さ。震え上がりましたね。いまにも拳骨(げんこつ)が飛んできそうな剣幕でしたから」
取り調べが始まると、松本さんは自白を促され、「共産主義を信奉した」と手記に書くよう命じられたという。しかし前述したように、松本さんには共産主義についてくわしく書けるほどの知識がなかった。
「『コミンテルンとは何だ』『唯物史観をどう思う』『プロレタリアの芸術論を書け』とか。『共産主義の基本的な考え方を書け』とか。書けないのね。だから、『わかりません』と言ったら、本を出してきて『じゃあ、ここに本があるからこれを見て書いてもいいぞ』と言うの。れっきとした教本さ、マルクス主義のね。見ていいから書けって、徹底的に書かされるのね。『これが足りない』『もっと書き足せ』と、強要によってできた尋問調書なんですよ」
自白調書の証拠採用
特高が自白調書にこだわった背景には、一九四一年の治安維持法の改正があった。改正前の法律では、強引な尋問が行われて人権を損なうことがないよう、捜査段階において作られた自白調書は一般の刑事裁判では証拠にできないとされていた(大正刑事訴訟法三百四十三条 注・一部、軽微な事件は別とするという例外があった)。しかし「新」治安維持法の第二十六条では、検事が被疑者や証人を尋問することや、司法警察官に尋問を命令することが法律で認められた。これにより、尋問に基づいて作られた自白調書が証拠として採用されることになり、裁判における価値は飛躍的に高まった。
刑法学者の内田博文(うちだ・ひろふみ)氏によれば、検察にとってこの改正は長年の悲願だったという。
「捜査機関の人間は過去に帝国議会に対して、自白調書が有罪の証拠となるように何度も要請していました。そのときに帝国議会で問題になったのは、『それを認めたら自白を取るために拷問するのではないか、現にあちこちで行われている拷問を公式に認めることになるのではないか』ということです。『拷問をなくすほうが優先順位が高い』として、捜査機関の申し出は認められなかった。ところが戦時体制が徐々に深まっていく中で、自白調書に証拠としての有用性を認めることが重要とされていく。検察官が作成したいわゆる検面調書が有罪証拠能力を持つように改正されたわけです」
さらに内田氏は、このときの治安維持法改正こそが、現在の「自白偏重」とも言われる日本の刑事司法の始まりとなったと指摘する。その理由は、自白調書に有罪証拠としての能力を付したこの規定が戦後も温存され、拡大されたからだ。
「捜査官にとって、このような制度は非常に便利なわけです。敗戦後の混乱の中で、治安維持法だけではなくて、あろうことか一般の刑事事件すべてについても、一定の条件の下で検面調書の証拠能力を認めていく。のみならず、警察官が作成したいわゆる員面調書[司法警察員に対して行った、被疑者や参考人の供述を記録した調書]についても、一定の条件の下で証拠能力を認めることになってしまいました。本来、あくまでも治安維持法[や国防保安法事件]に限定して認められた制度ですので、戦後の日本国憲法の下ではもう一度ご破算にして、改めてその是非をきちんと議論した上で存続させるかどうかを考えるべきでした」
内田氏によれば、現在、アメリカやイギリスなど裁判で陪審制度を運用している国では、自白調書の証拠採用を禁止していることが多いという。その理由は、自白が捜査側の取り調べによって左右されやすく、証拠としての信憑性が低くなりがちであるためだ。
「戦後の日本の刑事裁判の特徴の一つである、捜査段階の自白調書に有罪証拠としての証拠能力を認める制度は、戦前の治安維持法の発展上にあると考えていいと思います。それが、現在も自白調書を巡って『誤判ではないか』という争いが頻繁に起こる一因となっているわけです」
ねつ造された証拠
自白を迫られ、手記を書くよう命じられていたとき、松本さんは留置所の劣悪な環境に悩まされていた。食事は悪臭が染みついた木の箱に詰められていてほとんど喉を通らず、汲み取り式の便所にふたを乗せただけの室内は、不潔そのものだった。
「ある日、パンの差し入れが来て、いっぺんに食べたらもったいないから枕元にしまっていたら、夜中にドブネズミが入ってきて、争奪戦だ。いま思い出してもゾッとするけど、そんな不潔な環境でね。夜になったら布団部屋から布団を運ばされるのね。誰が使ったかわからんような湿った汚い煎餅(せんべい)布団で、そこにコロコロしたシラミがいっぱいいるわけ。夜中になると、布団からシラミが自分のシャツに入り込んできて、体を齧(かじ)るんですよ。痛いぐらい痒(かゆ)いから、目が覚める。昼も夜も安らぐ暇(ひま)がない。いったい俺はどうしてここにいるんだろうかって……」
精神的にも肉体的にも弱り切っていた様子を見透かされたかのように、松本さんは特高から、ねつ造した尋問調書に拇印を押すよう求められた。
「この人間[特高]は真実を追求しようとしていないことはすでにわかっていた。でも、検事や判事のところへ行ったら、必ず[特高の]ボロが出るだろうと。そう思って一応、『相違ありません』と拇印を押したわけだ。もう押す以外になかった。とにかく一日でも早くこの環境から抜け出したい。嘘を言ってもいいからこの場を凌(しの)げればいい。そんな、やけっぱちみたいな気持ちで判を押しちゃった。精神的にも肉体的にも限界で、病的だったかもしらん。その尋問調書がこれからの取り調べの唯一の基本になるなんて夢にも考えなかった」
いったん、特高による証拠のねつ造に荷担させられた松本さんたちは、次々と新たなねつ造を求められていくようになる。前出の司法省刑事局「生活図画教育関係治安維持法違反事件資料」の中には証拠品の一つとして、検挙される八か月前に松本さんと美術部の友人である菱谷良一(ひしや・りょういち)さんとの間でやりとりされたという手紙の内容が掲載されている。そこには、資本主義を憎み、公権力や戦争を憎む学生の確固たる意志が記されていた。
昭和十五年一月
発信者 菱谷良一 受信者 松本五郎
現在社会の矛盾生活の苦るしみの原因は資本家の暴圧であり吾々プロレタリアートは常に其の本に泣かねばならぬ。日常生活に於ける矛盾、警察こそ吾々の直接の敵であって最もにくむべき奴等だ。
**
発信者 松本五郎 受信者 菱谷良一
吾々はもっと此の矛盾を追究せねばならない。それには本を読むことが必要だ。君はもっと先生につきあって啓蒙された方が良い。支那事変も資本家が自分の欲のために行っている戦争だ。人民は資本家の手先きになって死に或は死にまさる苦痛を味わっているのだ。此の矛盾に対しては吾々は如何なるそしりを受け様とも解決するために道を講じ勉強して行こう。(「生活図画教育関係治安維持法違反事件資料」)
この文通の相手とされた菱谷さんもまた、当時検挙された学生の一人だった。
菱谷良一さんも松本さんと同じく、美術を愛するふつうの学生だった
現在九十六歳で旭川に暮らす菱谷さんはベレー帽をかぶり、たばこの缶ピースを愛するユーモラスな老人である。菱谷さんは今回、私たちの取材に対し、証拠とされた手紙は自分の意志によるものではなく、特高に要求され書いたものだと証言した。
「これは全部私が[検挙されたあとに留置所で]作ったの。松本が私に返事を書いているのも留置所で作ったもの。いま考えると恥ずかしい話で、迎合だよね。向こう[特高]が言えば嫌とは言えない。ふだん手紙をやりとりしていたんだったら書けと言われて、書く以上は映画の話なんかをしているよりもこういう内容にした方がいいと[指示された]。これがみんな証拠になるのさ」
「地獄だったね……よく生きていたと思う」
証拠をひととおり揃えられた菱谷さんと松本さんは、検挙から三か月後の十二月に送検され、他の学生たちとともに当時の拘置所となっていた旭川刑務所に送られた。そして極寒の独房に閉じ込められ、裁判が開かれるのを待ち続けた。
零下三十度を下回る寒さの中、手足の指先はひび割れて血が滲(にじ)み、凍傷を防ぐために全身を摩擦しながら亀のように縮こまって過ごしたという。拘置所生活が長引くにつれ、菱谷さんはたびたび精神的な不安に襲われた。
「孤独でした。仲間がいればおしゃべりできるけど誰もいない、一人なんだ。ものも書けない、音楽も聴けない。それに良心の苦しみ。人殺しや泥棒をしたら良心に苦しめられるのはふつうだけど、私は悪いことはしていないんだ。だけども三段論法でね、『刑務所に入るのは悪人だ。俺は現在刑務所にいる。ということは俺は悪いことをした』と考えてしまう。親兄弟にも友達にも迷惑をかけている。国家にも重大なことをした。だから申し訳ないと反省する。そういう呵責(かしゃく)に苦しんでね……。リストカットってあるでしょ。あれみたいに[刑務所作業の]裁縫道具だった太い木綿針みたいなのを腕にブツブツ刺してね。出てきた血を壁になすりつけてモヤモヤをはらした。内心の抵抗っちゅうのかな。自分の血をバーって壁につけて感情を表現するの。地獄だったね……よく生きていたと思う」
このころ、菱谷さんと松本さんにはわずかな望みがあった。特高が作成した捜査資料を基に拘置所で行われる、検事や予審判事による取り調べである。ここで疑いを晴らすことができれば、不起訴や免訴となって釈放されたり、起訴猶予となって裁判沙汰にならずに済んだりするのではと考えていた。
「検事はみんな大学出ているだろうから、こんなばかげた作り話は本気にしないだろうと。『嘘偽(いつわ)りは見ればわかる、お前は釈放だ』と帰してくれるという淡い望みを持っていた。でも結局、検事には『菱谷はすごいこと書いているなあ』と皮肉られただけ。予審判事も同じ。そのままベルトコンベアーで行っちゃった。そして裁判にかけられて、最終のゴールまで行ったわけ。ちゃんと[有罪の]賞状もらってきたの」
一九四三年、裁判で松本さんと菱谷さんの有罪が確定した。懲役一年六か月で三年の執行猶予が付いたものの、すでに検挙されてから二年が過ぎていた。
松本さんは、一九四一年の検挙から七十七年がたった今回の取材の中で、事件を次のように振り返った。
「日本は法治国家だって思っていた。法律があって善悪を決めて、悪い者は罰するけれども、良い者は守ってくれる国家だと思っていたわけさ。きっと最後にはわかってくれるだろうと、子どもっぽい信頼感がありましたね。だけどね、警察から検事、裁判所まで一貫して、ついに真実が暴けなかった。暴けなかったと言うよりも、暴かなかったと言うほうが本当かもしれません。だからあの時代以来、法律や規則みたいなものは、場合によっては人間の自由を束縛する材料になる危険があるということを考えるようになりましたね」
「新」治安維持法においては検挙の範囲が拡大しただけでなく、司法処分も厳重化していた。起訴率を例にとると、最も検挙者数が多かった一九三〇年から三三年にかけて三〜九パーセントだったのが、四二年は四十九パーセント、四三年は三十七パーセント、四四年は五十七パーセントと飛躍的に高くなっている(『治安維持法関係資料集』第二巻、第四巻)。
同じ傾向は公判や行刑にも見られた。一九三〇年代の公判における科刑の三分の二近くが二年以下の刑期で、多くが執行猶予付きだったのに対し、たとえば四四年の新受刑者のうち二年以下は三分の一以下しかおらず、残りはすべて三年以下から十五年以下の刑期だった。
荻野富士夫氏は、この時期の取締り側の文書に登場する「思想洗浄」という言葉に、戦時下における治安維持法運用の本質が表れていると指摘する。
「思想を洗い流す、洗浄するという言い方です。戦時体制が進行する時代にあって、『何か一つでも異物が含まれていると、それは全体に影響を及ぼすのだから、何とかしなければ』と彼らは考えるわけです。具体的な行動というよりは、単一の思想になじまない考えを持っていること自体が取締りの対象になるということですね。それはたとえば、対象をリアルに見る生活図画であり、自分たちの貧しさを子どもの目で見て客観的に文章にする生活綴方だった。そういう教え方をすること自体が、当時の日本においてはあってはならないと。だからそれらを洗浄した、一掃した」
「新」治安維持法が作られた一九四一年以降の検挙者数は、国内では三千百二十人と二十年間の運用の中に占める割合は多くない。しかしこのとき検挙された人たちの多くは、松本さんや菱谷さんのように、日常をより良く生きようとしていただけのふつうの国民だった。
了