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見てはいけない映画を見ること―—『ブルーフィルムの哲学』刊行イベントレポート②

ひそかに刊行が待望されていたNHKブックス『ブルーフィルムの哲学』について、発売を記念して開かれた豪華イベントを、抄録で公開します!
後半となる今回は、著者である吉川孝さんと、映画研究者の木下千花さん、歴史研究者の河原梓水さんとの、ブルーフィルムの鑑賞をめぐる議論が展開されます。


すべての映画はポルノである?

木下:さらに第四章では、映画についても著作がある現代の代表的な哲学者スタンリー・カヴェルの議論が参照されて、映画には出演者の身体が描かれ、個性が表現されるとも述べられていました。ただ、カヴェルの親しんでいたハリウッドの古典映画において、役者の身体は衣服で覆われているのに対して、ハードコアポルノでは身体の局部が露呈している。吉川さんの視点は、後者にも個性の表現を見出そうとしている。人の顔や身体を剥き出しに描くという点で、ポルノと一般映画が連続しています。そこから踏み込んで「すべての映画がポルノである」と言うこともできるのでしょうか。

吉川:私の本は、ブルーフィルムというハードコアポルノを論じながら、そこを起点にして映画全体を捉え直していることになるのかもしれません。俳優の身体に観客が魅了されるということは、ポルノから一般映画までを貫く特徴です。そのような身体の表現に観客が魅了されるのであれば、たしかに、ポルノ的なものが映画の核心にあることになります。

郷土史家のように

吉川:続いて河原梓水さんからコメントをいただきます。河原さんは歴史研究者で、戦後日本の性風俗誌『奇譚クラブ』の研究に取り組んでいます。『奇譚クラブ』はSMマニアのコミュニティと深い関係がある雑誌で、優れたブルーフィルムが制作されていたのと同時期に発行されていました。
 河原さんの研究は、戦後日本の性表現を対象として、しかも「暴力」とされて禁じられる傾向が強まっているSMを正面から扱っています。歴史学のアプローチは真似できないのですが、私の研究にとっても大きな支えとなりました。

河原日本史学界においては、地方に赴任した研究者はその地域の研究をやるべきだという規範意識があります。郷土史家と呼ばれる人たちも地域の史料を発掘したり、その史料をもとにローカルな歴史を書き記したりします。
 吉川さんの本も、高知という土地の歴史に関わる資料として、高知で制作された名作『柚子ッ娘』のフィルムを発見して国立の施設に寄贈したり、地域の歴史のなかでこれまで注目されなかった側面に光を当てたりしており、歴史家がやっていることと重なる部分があります。とても意義のある取り組みだと感じました。

吉川:歴史研究者からそう言っていただけるのは嬉しいです。私のブルーフィルム研究は、私が高知に住んでいたときに発見したフィルムをどうすればよいのかという問いに導かれました。地域の図書館の資料をかなり活用したり、ロケ地の場所を探りあてたりもしました。
 第六章では、高知から『風立ちぬ』や『柚子ッ娘』の名作を送りだした「土佐のクロサワ」とよばれる謎めいた製作者の実像に迫っています。新聞や雑誌から逮捕や検挙などの記事等を集めて、優れた作品を世に送り出しながら罪に問われる人たちが歩んだ人生を追跡するのはスリリングな作業でした。

失われた経験を探る

河原:木下さんからも指摘があった、マスターベーションをしながらの鑑賞という着眼点について質問です。ブルーフィルムは映写機で上映されて、個室で鑑賞されるわけではないのに、映像を見ながらマスターベーションをすることはあったのでしょうか。

吉川:すべてのブルーフィルム鑑賞者が個室でマスターベーションをしているわけではありません。時代によっても異なるでしょうが、一部のお金持ちは、自宅に映写機を持っていて、個室で鑑賞することができました。そうした時にはマスターベーションがなされたと推測できます。複数の鑑賞者がいる場所での上映の場合には、個室とは状況は異なります。ただ鑑賞するだけだったり、後でマスターベーションをしたりということもあったでしょう。

 歓楽街の「しき」と呼ばれる上映場所などの場合、すぐそばに売春宿などがありました。マスターベーションというよりは、そのままじっさいの性行為につながっていたはずです。

河原:ブルーフィルムの「禁じられたもの」という性格を強調している点が気になっています。ブルーフィルムが鑑賞されていた当時は、法律を破ることについて現在とは違う感覚があって、それほど悪いことをしているという意識はなかったかもしれません。禁じられたという側面を強調する論述には、現在の吉川さんの鑑賞経験が何らかの形で反映されているのではないでしょうか。

吉川:鋭い指摘です。方法上そうなっています。あくまでも私の経験を起点にして、そこから見えてくるものや考えられることを記しています。そうした立場から、摘発を恐れながら鑑賞したり、鑑賞によって秘密ができたりという事例を重視しています。

 禁じられたものを見るという意識があまりなかった鑑賞も考えられます。社員旅行のときに旅館にてみんなで鑑賞する場合などは、禁止を侵犯しているという意識は低かったかもしれません。失われた経験をどのように再現するのかは難しい問題です。実際の鑑賞経験や鑑賞の状況を反映している記述をなるべく多く集めて、失われた経験の多様な側面に迫る必要があります

性行為が映像になる意味をめぐって

河原:吉川さんの本では、ブルーフィルムでは性行為が映像になって、性についての知識がもたらされるとしています。しかし、当時、他人の性行為を見るということは、それほど珍しいことではなかったはずです。

 なぜなら、当時は原っぱや公園などで屋外性交することが恋人や夫婦間でもそれなりに普通に行われていたからです。とすると、性行為を見せるブルーフィルムの新しさや画期的なところはどこにあるのでしょうか。個人的に感じたこととしては、当時皇居前広場などで盛んに行われていた屋外性交について、当時の男性たちはにがにがしい思いをしばしば書き残しています。
 批判のポイントのひとつは、人目をはばからず傍若無人な点です。つまり「観客」は全く無視されている。ところがブルーフィルムが映すのは、「観客」を意識した性交ですね。つまりあらかじめ観客の席が用意されていて、言い換えれば参加させてもらえる性交です。当時の鑑賞者に、ブルーフィルムの鑑賞体験が、屋外性交の目撃経験とは異なりこのように体験されたという可能性はあるでしょうか?

吉川:そう言ってもいいです。カメラの前で観客に向けて性行為が行われて、これまでにない性行為が撮影されました。これによって、性行為を見るということも、通常とは異なる意味を持つようになったはずです。映画にはクロースアップがあり、性器が大写しになります。演者にあえて結合部が見えるような体位をしてもらって、撮影をすることもあります。そうした映像を鑑賞することによって、鑑賞者は実際の性行為を目撃するのとは異なる経験をしたはずです。

 お二人からの指摘によって、本書の意図や特徴が自分にとっても明確になってきていました。どうもありがとうございました。本書は「ブルーフィルムの世界を描く」ことで、刑法で禁じられた「猥褻なもの」にかかわった人間のさまざまな営みを記しておくものでした。本書をきっかけに、すでに忘れ去られていたジャンルについて語られ、失われた作品が発見され、何らかの形で見られることを願っています。とりわけ幻の名作『風立ちぬ』がどこからか現れてほしいです。

(了) 

吉川 孝(よしかわ・たかし)
甲南大学教授。1974年、東京生まれ。慶應義塾大学文学部哲学科卒、同大大学院文学研究科後期博士課程修了。博士(哲学)。高知女子大学(現高知県立大学)講師・准教授を経て現在、甲南大学教授。専門は現象学にもとづいた、現代倫理学、映画の哲学。著書は『フッサールの倫理学――生き方の探究』(知泉書館、2012年度日本倫理学会和辻賞受賞)、共編著は『映画で考える生命環境倫理学』(勁草書房)、『現代現象学――経験から始める哲学入門』(新曜社)。

木下千花(きのした・ちか)
京都大学教授。東京生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士後期課程退学、シカゴ大学大学院人文科学研究科博士課程修了。PhD(東アジア言語文明学・映画メディア学)。ウェスタン・オンタリオ大学、静岡文化芸術大学、首都大学東京の准教授などを経て現職。専門は映画史、映像理論、ジェンダー、セクシュアリティの研究。著書に『溝口健二論――映画の美学と政治学』(法政大学出版局、芸術選奨新人賞受賞)など。

河原梓水(かわはら・あずみ)
福岡女子大学准教授。岡山生まれ。立命館大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。ベルリン自由大学特別研究員、大阪大学招聘研究員などを経て現職。専門は歴史学、とくにサドマゾヒズム・SMをめぐる、戦後日本の性文化史、思想史、メディア史。歴史研究のオンラインジャーナル『Antitled』およびその発行団体Antitled友の会を運営。共編著に『狂気な倫理――「愚か」で「不可解」で「無価値」とされる生の肯定』(晃洋書房)など。

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