中野京子「異形のものたち――絵画のなかの怪を読む 《妖精、魔物、魑魅魍魎(2)》」
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中野京子「異形のものたち――絵画のなかの怪を読む 《妖精、魔物、魑魅魍魎(2)》」

 画家のイマジネーションの飛翔から生まれ、鑑賞者に長く熱く支持されてきた、名画の中の「異形のものたち」。
 大人気「怖い絵」シリーズの作家が、そこに秘められた真実を読む。
 ※当記事は連載第12回(最終回)です。第1回から読む方はこちらです。

気づかない

 パニック映画でよく出てくるのが、大惨事の最中は泥酔して眠りこけ、無事収束した直後に目を覚ます登場人物。周りが死ぬか生きるかの恐怖を味わっていたのも知らず、呑気に欠伸などして観客の笑いをとる。こういう人はラッキーというべきだろう。

 だからと言って恐ろしい事実に気づかなければいつも幸せ、とは限らない。これまた映画の例だが、『ゼイリブ』(ジョン・カーペンター監督)という古いSF作品。いわゆる「B級」ながら、今やカルト人気の映画がそれを教えてくれる。内容は――平凡な日常を送っていると思っていた主人公が、ひょんなことから特殊な黒メガネをかけて世界を見ると、至るところに人間そっくりに化けたエイリアンが紛れこんでマスコミを牛耳り、人間を操って搾取していたことに気づく、というもの(こうしたテーマが決して古びないのは、目に見えぬ侵略が国内で進んでいる今現在の状況を見ても明らかだ)。
 ただ造型的にこの映画のエイリアンは(まだCG技術が発達していなかったため)、単に髑髏(どくろ)風というだけで異形の度合いがさほどでなかったのは惜しまれる。

 ではオディロン・ルドン(1840~1916)の『キュクロプス』のように雲突くばかりの巨躯(きょく)で、しかも一つ目ならどうか? この怪物に見つめられているとも知らず、美しい裸婦が花の野で眠っている。

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(オディロン・ルドン『キュクロプス』、1914年ごろ、クレラー・ミュラー美術館蔵)

 ちなみに隻眼(片目)と生来の単眼(一つ目)は全く別物。隻眼は両目のうち片方を失くしたわけで、それもたいていは、より大きな何かを得るための犠牲というイメージが強い。例としては、北欧神話の主神オーディン(全知を得るため)、エジプト神話のホルス神(父オシリス神に捧げるため)、実在の人物ではネルソン提督や女性ジャーナリストのコルヴィン(戦闘時の負傷)など。
 他方、顔面中央に目が一つという怪物は世界中の伝説に見られるが、英雄的存在ではない。また実例としては単眼症(脳の形成異常による奇形)に限られるようだ。

 キュプロクスとは「円い目」の意。ギリシャ神話に登場する単眼の巨人たちの総称で、これらのうちの一人がポリュペモス、この絵画の主人公である。彼は美しい海のニンフ、ガラテアに恋着してつきまとうが、彼女には人間の恋人アキスがいた。ポリュペモスは発作的怒りにかられて大岩を投げつけ、アキスを殺してしまう。
 ルドンが描くポリュペモスはどこか子供じみた表情なので、見ようによっては切ない片思いと言える。あまりに真剣に長くガラテアを見つめすぎたため、本来は二つだった目が寄っていって、ついに一つになったのかと思えるほどだ。己のことしか考えられない、客観性を喪失した単眼。つまりそれはストーカーの目だ。異形の目。
 ガラテアは気づかなかった。自分と釣り合わぬポリュペモスなど、眼中になかったからだ(それが眠りという形で表現されている)。もし彼女がもっと早くに気づいていれば、悲劇は避けられたのか?

どちらが夢?

 もう一点、眠りがいかに無防備で恐ろしいものかを描いたのが、イギリスで活躍したスイス人画家ヨハン・ハインリヒ・フュースリ(1741~1825)の『夢魔』。

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(ヨハン・ハインリヒ・フュースリ『夢魔』、1781年、デトロイト美術館蔵)

 これはまた――身も蓋もないが――性夢を語る絵でもある。エロティックで美しい夢の世界と、おぞましく醜い現実、いわば恍惚の裏側を、一挙に我々に突きつける。我々、とは言ったが、日本人はキリスト教徒ほど性の歓びやマスターベーションを厳しく抑圧してこなかったので、本作から感じるものは欧米人と必ずしも同じではないだろう。とはいえ、この眠れる美女にエクスタシーを与えているのは、彼女の夢の中に登場しているであろう相手とは程遠いことだけは確かだ。

 流れるような女性の身体のラインを侵す、醜い魔物の名はインキュブス(「上になる」の意)。グノームのような体、顔は岩のようにごつごつし、頭には角が二本、耳には蛇らしきものが巻きつき、指に鉤爪。飛び出た赤い眼球は魚卵を思わせる。
 この瞬間に彼女がふいに目覚め、インキュブスを見たとしたら……間違いなく彼女は自分の目を信じないだろう。そしてそれこそが夢であったと思うに違いない。幽霊と同じく、異形のものを見た記憶は、多くの場合こうして否定されるのが常だ。

かくれんぼ

 恐怖の最大値は不意打ちだろう。だが負けず劣らず怖いのは、全体像が明確になっていない時の、恐怖を孕んだ予感だ。想像力が恐怖を倍加させる。
 画家もそうしたことは百も承知で、真正面から不意打ち的に(ゴヤの「我が子を喰らうサトゥルヌス」が好例)、あるいは目立たぬ箇所にひそやかに紛れ込ませる。後者の例のひとつが、アーニョロ・ブロンズィーノ(1503~1572)の『愛の寓意』だ。

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(アーニョロ・ブロンツィーノ『愛の寓意』、1540-1545年、ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵)

 謎に満ちた本作は異説もあるが、概ね次のように解釈されている。タイトルどおり、ここには「愛」の、もっと端的に言えば「禁断の愛」の諸相が描かれている。主役は美と愛の女神ヴィーナス(金のリンゴをもつことで示される)と、恋の矢を放ついたずら者クピド(=キューピッド、エロス)。妖しげな雰囲気の彼らは、なんと、母と息子である。
 クピドの背後で髪をかきむしる醜い老婆は「嫉妬」の擬人像。その上部で青いカーテンを拡げ、母子の関係を隠そうとしているのは「夜」。それを逞しい腕で剥ぎ取ろうとする髭の老人は 砂時計を持つ「時」。その下で満面の笑みをみせる男の子は、「性愛の歓び」。主役に薔薇の花びらを投げかけるところだ。足元の仮面は、舞台で使われる「悲劇」用と「喜劇」用。

 では男の子の背後から顔を出す無表情の少女は?
 一見可愛らしいが、これが実は物凄い。まず両腕が一体どうなっているのか、わからない。というより首か腕が尋常ならざる長さでない限り、こんなふうには交差できない。ミツバチの巣を持つのは、親指の位置からして左手だ。右手は背中のほうにあり、サソリの毒針を持っている。西洋では右がポジティブな意味、左がネガティブな意味を持つから、正義の手に毒、悪の手に甘い蜜と、両腕同様、意味もねじれている。
 このあたりで、気持ちが悪いなと感じつつ、目を下半身へと移してゆけば、緑色のドレスの裾がめくれて、巨大な蛇身が露わになっていた! さらにそこから獣の脚まで見える。男の子の体の後ろに隠れて最初は判然としなかったが、少女の正体は怪物なのだ。
 確かに「禁断の愛」の背後には怪物がひそむであろう。

画家の歓び

 とにかくヘンテコなものが大好き、ありきたりなのは描きたくない、この世に決して存在しそうにない怪異を山ほど創り出したい、そのための工夫ならいつまで続けても飽きないし、楽しくて仕方がない、という画家がいる。幼児がお絵描きに熱中するのにも似て、そうした画家の歓びはもちろん画面からびしびし伝わってくる。

 美を、夢を、愛を、恐怖を、教訓を、思想を、歴史を伝える画家がいるように、またギリシャの神々を、イエスを、麗人を、英雄を、風景を、俗世の営みを描く画家がいるように、異形に対する純粋な興味と偏愛から驚異の別世界を展開する画家がいる。
 たとえテーマが神話や教訓であっても、画家がほんとうに描きたかったのは(そして発注者がほんとうに観たいのは)美女ないし美青年の裸体だということが往々にしてあるが、綺想の画家たちもまた外枠にはキリスト教の原罪や天国と地獄を設けながら、その主要テーマの隙間を縫うかのように、また隙間全体を埋め尽くすかのごとく、多種多様な魑魅魍魎(ちみもうりょう)を描かずにいられない。

 そうした画家たちはいつの世にもいるが、今なお褪せぬ魅力で世界中を魅了するのは、ヒエロニムス・ボス(1450頃~1516)とピーテル・ブリューゲル(1526頃~1569)だろう。二人とも北方の画家であり、その生涯に謎が多いのも共通している。彼らが生み出した無数のクリーチャーについては、何の説明もいらない。ただ見てゆこう。 
 まずボスの三連祭壇画『快楽の園』の右翼図「地獄」。

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(ヒエロニムス・ボス『快楽の園 地獄』、1480年―1516年、プラド美術館蔵)

 昆虫や魚、蛙や蛇、武器や家庭用具などと合体したクリーチャーたちは、ころんとした体型。現代日本の若者なら「キモかわいい」と評すかもしれない。中に「ふつうの」ウサギがいて、逆に驚く。

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 ボスからおよそ一世紀後に活躍したのがブリューゲル。彼はデビューしたての頃ボスを真似、いや、端的に言えばボスの模倣作を描いていた。ボスのマニアックな人気にあやかろうとしたのは間違いないとして、こうした世界が好きだったのもまた事実だろう(ボス自体、中世の絵入り写本に描かれた小さなモンスターたちに魅了されたところから出発しているのだから、怪奇と綺想の確かな流れが脈々と続いていたわけだ)。 

 ブリューゲルの『反逆天使の墜落』を見ると、ボスによく似た魑魅魍魎たちも時代と共に洗練されてきたのがわかる。蝶の翅(はね)一つとっても、ボスのモンシロチョウに比べてブリューゲルは美しいアゲハチョウだ。

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(ブリューゲル『反逆天使の堕落』、1562年、ベルギー王立美術館蔵)

 本連載に女性画家の作品が一つしかないことに気づかれた方もいるだろう。女性画家自体が少ないこともあるが、「異形」に強い興味をもつ女性も少ないということを改めて感じた。昆虫やバルタン星人に熱中する女の子が少数派なのだから当然と言えば当然か。
 それはともかく、今やネット時代になり、光の届かぬ海底生物から顕微鏡で見る微生物まで、世界中のありとあらゆる異形のものたちを見られるようになった。それは(男性)画家の想像力を鼓舞するのか、それとも委縮させてしまうのだろうか……。

 これまで「異形のものたち」を読んでいただきありがとうございました。当連載は、加筆・修正のうえ2021年4月にNHK出版新書として刊行いたします。ぜひ楽しみにお待ちください!

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プロフィール
中野京子(なかの・きょうこ)

作家、独文学者。著書に『「怖い絵」で人間を読む』『印象派で「近代」を読む』『「絶筆」で人間を読む』『美術品でたどる マリー・アントワネットの生涯』、「怖い絵」シリーズ、「名画の謎」シリーズ、『ヴァレンヌ逃亡』、『名画で読み解く ロマノフ家12の物語』『(同)ハプスブルク家12の物語』『(同)ブルボン王朝12の物語』、最新刊に『画家とモデル――宿命の出会い』など多数。2017年に特別監修を務めた「怖い絵」展は、全国で約68万人を動員した。 ※著者ブログ「花つむひとの部屋」はこちら

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