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「思考入門 “よく考える” ための教室」第7回 〔「三人寄れば文殊の知恵」だといいんだけど……〕 戸田山和久(文と絵)

みなさん、あ・け・ま・し・て、おめでとうございます。年が明けたところで気持ちもあらたに「思考入門」7回目。前回は、私たちの脳ってそもそも論理的にはできていない、というクラ~イお話になっちゃいましたねえ。でも大丈夫。それを乗り越える方法ちゃんとありますよ。今回はそのうちのひとつについて、戸田山さんきっちり話してくれます。「それって、どんな方法?」答えはかんたん、「みんなでいっしょに考える」こと。「そのためには、どうすればいいの?」はい、くわしく知りたい人は、以下をじっくり読んでくださいね~。

生まれながらのアホさかげんをのりこえる3つのやりかた

 わたしたちの脳はそれほど論理的思考が得意ではない、論理的思考向きにできてはいない、ということがわかった。生まれつきいろいろなバイアスがそなわっていて、論理的に考えることを妨げている。脳という、わたしたちが考えるためにもっているただひとつの器官が考えることのジャマをするわけで、なんとも困ったことだ。
 困ってばかりいても仕方がない。それならどうしたらいいのかを考えてみよう。考えるためのヒントは「科学の発展」という事実のうちにある。
ヒトは一人ひとりをとってみるとそれほどカシコクはない。しかも、むかしに比べてとくにカシコクなったとも言えない。いまから二〇〇〇年以上むかしに活躍した、ソクラテスとか孔子とかガウタマ・シッダールタ(お釈迦〈シャカ〉さまのこと)と、わたしの「個人としてのアタマの良し悪し」を比べてみたら、わたしは絶対にかないそうにない。
 けれども、人類全体として見たら、ずいぶんカシコクなったようにも思える。ここに名前をあげた大昔の先哲たちは、遺伝子の本体がDNAであることも、宇宙にブラックホールという天体があることも知らなかった。いまの人類は、1日で地球のうらがわまで旅ができるようになったし、いろんな生きものの遺伝的性質を好きなように変えることすらできるようになりつつある。もちろん、この二〇〇〇年のあいだに科学がとてつもなく発展したおかげだ。
 このことからわかるのは、科学は「ヒトの一人ひとりがもつ愚かさをのりこえるしくみ」をそなえているらしい、ということだ。それはどんな「しくみ」なのだろうか。次の3つにまとめられるのではないかと思う。

1)みんなで考える
2)テクノロジーを使って考える
3)考えるための制度をつくって考える

 今回はこのうち、第一の「しくみ」についてくわしく述べよう。

科学者たちは「手分けして」考える

 科学は「みんなで考える」ということをすごく大事にしてきた。だからこんなに発展できたんだ。いま、日本にはどのくらい科学者がいるだろうか。おおざっぱに見積もって、だいたい数十万人だ。プロのサッカー選手は二〇〇〇人くらいだって。科学者はサッカー選手の何百倍もいるね。サッカー選手、あるいはユーチューバーになるより、科学者になるほうがずっと簡単だ。まじめにコツコツ勉強・研究すれば、たいていなれる。キミたちも科学者を目指したまえ。特に才能はいらないよ。
 もちろん、科学研究のテーマはたくさんあるから、数十万人の科学者が同じ問題にとりくんでいるなんてことはない。それでも、同じ問いをけっこうたくさんの科学者が考えている。すごく単純に考えても、一つの脳で考えるより、いくつもの脳でやったほうが正しい答えを思いつきやすそうだ。
 「三人寄れば文殊〈もんじゅ〉の知恵」って言うでしょ。文殊というのは文殊菩薩〈ぼさつ〉のこと。文殊菩薩は智慧〈ちえ〉をつかさどる菩薩だ。仏像に刻まれるときは、獅子に乗っていることが多い。とにかく、めちゃめちゃカシコイわけで、一人で考えていてもダメだけど、複数で考えれば文殊菩薩レベルのカシコサになれるよ、ということを言っている。科学はこのことわざを地で行っていると言えるね。
 しかし、科学の「みんなで考える」は、たんに複数の頭を使う、ということにはとどまらない。「みんなで手分けして考える」でもあるんだ。つまり分業。例をあげて説明しよう。 
 二〇一〇年に恐竜学者が、中国で発掘された羽毛〈うもう〉恐竜(シノサウロプテリクス、シノルニトサウルス)の羽毛の色がわかったと発表して注目を集めた。最近の恐竜の復元図って、かなりカラフルな色が使ってあるけど、あれって復元した人のかってな推測でしょと思っていたので、色をちゃんと復元する方法があるのか、と驚いた。 
 その恐竜学者はこんなことをやったんだ。恐竜の羽毛の部分を電子顕微鏡で観察する。そうすると、細胞に含まれる色素の粒だったと考えられる二種類の小さなつぶつぶが見つかった。細長いのはユーメラノソームという色素らしい。球形のはフェオメラノソームという色素らしい。どちらもいまの鳥の羽に含まれていて、ユーメラノソームはこげ茶色のメラニン色素、フェオメラノソームはオレンジ色のメラニン色素を含んでいる。これらの証拠から羽毛の生〈は〉えた恐竜の体色が復元できるかもしれない。
 恐竜学者が、シノサウロプテリクスはこんな色だったと主張するとする。それにはサポートが必要だ。そこで電子顕微鏡写真をもちだしてくるとしよう。いろいろなツッコミをうけるだろう。そこに写っているものがたとえばユーメラノソームだとどうして言えるのか、ユーメラノソームを含んでいればこげ茶色になるというのは正しいのか、などなど。これは恐竜学者、生物学者の領分なので、十分に答えられるはずだ。
 でも、そもそも電子顕微鏡で見えたものがほんとうに存在すると言っていいのか、電子顕微鏡はありのままを拡大して見せてくれているのか、というツッコミに恐竜学者は答えることができない。このツッコミはヘリクツではない。顕微鏡の歴史ではつねに繰り返されてきたツッコミだ。昔の顕微鏡はレンズの性能が悪いので、レンズがつくりだしたまぼろしなのか、ほんとうに見えているのかを区別するのが難しかったからだ。
 いやいや、電子顕微鏡はミクロの世界のありのままを見せてくれますよ、信頼していいですよ、とお墨つきを与えるのは恐竜学者ではなく、それを設計した工学者だ。これに対しても、「そんなふうに設計するとちゃんと見えるのはなぜですか?」とツッコまれたら、こんどは電子顕微鏡の原理にまでさかのぼってサポートしなければならない。そうすると、物理学者にお出まし願うことになる。電子線とか、電磁場とかについてわかっていることを使って、こういうしくみで電子顕微鏡は小さいものを拡大してみせることができるのです、と説明することになる。
 これぜんぶ一人でやっていたらたいへんだ、というかそもそもできない。恐竜学者は自分の主張のサポートのかなりの部分を、他の分野の研究者に委〈ゆだ〉ねているんだ。このように、サポート作業が手分けしておこなわれ、他の研究者を信頼してはじめて科学の研究はなりたつ。だから、その信頼を裏切るようなこと、つまりデータをでっちあげたり、都合よくねじまげたりするような研究不正がおこなわれると、科学者はとても困る。困るから怒る。

イラスト①

これが科学者たちの「分業体制」だ!

アリさんに学べ

 みんなで考えることによって、人類は一人ひとりの愚かさを克服してきた。科学はそれをすごくうまく利用して発展してきた。だからキミもそうしなさい、と言いたいわけだ。一匹ずつをとるとたいしてカシコクはないが、集団になると一匹にはないカシコサが現れる。こういう現象を集合知とか群知能という。
 たとえばアリ。一匹ではそんなにカシコクない。だけど群になると、すごいことをやらかす。たとえば、アリ塚という巨大な巣をつくったりする。しかも頑丈〈がんじょう〉で、環境によく適している。でも、その設計図を頭に入れている天才アリくんがいるわけではない。
 よく知られているのは、エサ運びだ。一匹では運びきれない量のエサが見つかったとする。最初に見つけた一匹はその一部を巣穴に持ち帰るのだけど、フェロモンという物質を地面になすりつけながら帰ってくる。アリは目が弱いので、フェロモンの匂〈にお〉いが頼りだ。他のアリくんたちもフェロモンの濃いほう濃いほうに進むことでその道をたどっていく。で、エサにたどりついて、持って帰る。そのときにそいつらもフェロモンを分泌〈ぶんぴつ〉する。こうして、フェロモンの匂いがプンプンの道みたいなものができてくる。すごいのは、何匹もがこの道を行ったり来たりして、さらにフェロモンをなすりつけているうちに、この道がだんだんエサと巣穴の最短経路に近づいてくるということなんだ。
 最短経路を見つけろ、という問題はじつはすごい難問で、コンピューター学者たちが知恵を絞って、よい答え方を見つけようと苦労してきた。アリはたくさん集まることによって、この問題を解いているってわけだ。だから、最近はアリの真似をして採点経路を見つけるアルゴリズム(問題解決のための手順・方法)をつくろうという研究もさかんになってきた。
 アリでもやってるんだから、わたしたちもやろうじゃないの。キミの抱える問題をいっしょに考えてくれる仲間をつくること。それによってキミは自分の思考能力をうんと広げることができるかも。

イラスト②

アリさんたちの最短経路づくりのプロセス

「集合愚」にお気をつけあそばせ

 と、ここまではとてもポジティブ・シンキングなわけだが、よく考えてみるとそんなに話はかんたんではない。というのも、みんなで考えたらもっとアホになってしまった、ということも同じくらいよく起こるからだ。みんなで考えると一人ひとりを超えたカシコサが現れるのを「集合知」というのなら、こちらの方針は、みんなで考えることで一人ひとりのもつ愚かさが増幅〈ぞうふく〉されたり、個人のときにはなかった新たな愚かさが現れてくる、ということだ。「集合愚」と名づけてもよいかもね。
 この集合愚現象について、はじめてまとまった研究をしたのがアメリカの心理学者、アーヴィング・ジャニスだ。ジャニスがその研究をしようと思ったきっかけは、次のような疑問を抱いたからだという。
 ケネディ政権と、それを引き継いだジョンソン政権は、とても優秀なスタッフをかかえていた。なのに、とても愚かな政策をとってしまった。まず、ベトナム戦争のやめどきを間違えて泥沼化させてしまった。「キューバ危機」にいたっては核戦争一歩手前まで行ってしまった。なぜだろう。アメリカ社会で最もカシコイはずの人々を集めて考えたはずなのに、なぜこんなにバカげた決定をしてしまったのか。
 ジャニスの答えは、そりゃみんなで考えたからだよ、というのね。正しくは、みんなで考えることのよくない面が現れてしまったからだ、と言ったほうがよいかな。ジャニスは、集団で考えることがかえって愚かな意志決定を生み出すという現象を「集団思考」と名づけて、それがどういう特徴をもつのか、なぜ起こってしまうのか、それを避けるにはどうしたらよいかを調べた。
 かいつまんで述べるなら、集団思考は次のような特徴をもっている。

1)自分たちの正しさを疑わなくなる傾向
2)オレたち負けないもんね幻想
 こんだけ仲間がいるんだからぜったい大丈夫だ、失敗なんかしない、と楽観的な見通しをもってしまう
3)ステレオタイプ化 自分と意見の異なるグループや敵対する相手を、「軽蔑すべき邪悪な愚か者」という型にはめて見るようになる
)自己検閲 みんなの意見を察知して、それに自分の意見をあわせようとする。「空気を読む」ってヤツ
5)全会一致の幻想 「みんなの意見」と異なる考えをもっていても、自己検閲によりだれもそれを言わないで黙っている。そうすると多数派に賛成したことになってしまう。みんなおなじ意見だった、全員が賛成したということになる。
6)心をガードする傾向 自分たちの意見や決定に反する意見や不利な証拠に心を閉ざして、なかったことにする

 こうやって見てみると、個人の心がもともともっているいろんなバイアスを修正するどころか拡大して、それにさらに集団ならではの「新しい愚かさ」をプラスしたもの、ということになるかな。
 集団思考に陥るとどうなるか。じぶんたちに都合のよい偏〈かたよ〉った情報しか利用しなくなる。他の意見や自分たちのと違うプランをちゃんととりあげて検討せずに、すぐ捨ててしまう。捨ててしまったらもう二度と振り向かない。じぶんたちのプランの問題点やリスクを考えられなくなる。じぶんたちの案がうまくいかなかった場合にどうするかをあらかじめ考えておこうとしなくなる。……こりゃアホな結果になることは火を見るより明らかだね。
 どんなグループでも集団思考は起こりうる。ぼくたちのグループは集団思考をまぬがれていると胸を張れる人はいるかな? クラス、クラブもそうだ。おとなも集団思考の餌食〈えじき〉になることは多い。会社の部とか課といったセクション、プロジェクトチーム、PTA、ママ友の集まり、自治会、マンションの理事会、保護者会。はては社会的団体、政党、内閣……。
 学者が集まってつくった研究会なども集団思考に陥ってしまうこともある。そういう研究会に参加して「敵認定」されると、すごくイヤな目にあう。
 よくよく考えてみると、子どもよりおとなのほうが集団思考にハマりやすいかもしれない。だって、おとなのほうが生きていくうえでいろんな集団に属さないといけないからだ。そして、おとなの属しているグループは、子どもたちも含むグループ外の人々にも影響を及ぼすものであることが多いから(政府なんてまさにそうだ)、それが集団思考に陥ると、たくさんの人がとても困ったことになる。だって、核戦争まで行っちゃうかもしれなかったし、未来世代の生存を脅〈おびや〉かすかもしれないんだぜ。

集団思考へのハマりかた

 じゃあ、どういうグループが集団思考にハマりやすいのだろう。ジャニスいわく、均質性〈きんしつせい〉と凝集性〈ぎょうしゅうせい〉の高い集団が、規範の欠如やコミュニケーション不全などの構造的欠陥を抱え、外部からの批判・脅威などストレスの高い状況に置かれたとき、である。漢字が多いな。説明しよう。
 「均質性」というのは、人種とか階層とか考えかたとか価値観とか歴史観とか趣味とか……が同じような人たちばかり集まっているということ。「凝集性」というのは、そういう似かよった人たちが、すごく仲良くむすびついているということ。「オレたち」と「アイツら」がきれいに分かれちゃってる、と言ってもいいや。すごくパワーのあるリーダーが君臨〈くんりん〉していて、逆らうとひどい目にあっちゃう(出世できないとか、殺されちゃうとか)、なんて集団も凝集性が高くなるね。敵味方のハッキリ分かれた気の合うお友だち集団ってことだ。
 「規範の欠如」というのは、より大きな社会、たとえば国際社会のルールがそのグループ内では通用しないってこと。民主的にことを進めるには証拠にもとづいた議論が必要だよねというルールを無視して、自分に都合のいいデータをでっちあげたり、都合の悪い文書はなかったことにするなんてのは、規範の欠如だね。 
 「コミュニケーション不全」ってのはまともに話が通じない、ということ。リーダーみずからヤジを飛ばすとか、説明すると言って何も説明しないとか、同じ答えを繰り返すだけでみんなをウンザリさせるとか。これが「構造的欠陥」だというのは、そのグループの特定の個人がそういうアホな人だというだけでなく、グループ全体がそれを許す、どころかサポートする体制になってるということ。「忖度〈そんたく〉」とかね。
 こういう集団が、他のグループや市民デモや一部マスコミとかからたえず批判されつづけ、よその国や競争相手からの脅かされつづけていると、集団思考に陥ってしまう。カンのするどいキミは、ははあ、筆者はここで現政権に当てこすりをしているんだな、と思っただろう。そのとおり、いまの政権はかなりの程度、集団思考に陥りやすい組織の条件を満たしていると思う。というか、あまりにうまく当てはまるので、書いている本人が驚いている。で、このことはみんなもうすうす分かっていたのだと思う。だから「お友だち内閣」なんて名前がついている。言い得て妙だね。

なぜ知的な若者たちがサリン事件を引き起こしたのか

 グループが集団思考に陥っちゃうのは、メンバーに悪意のある人がいるとか、誰かが陰謀をたくらんでいるからではない。人々がつくったグループが、ジャニスの指摘した条件を満たすと、自然にそうなっちゃう、ということなんだ。こういうのを集団力学っていう。集団思考は集団力学の産物だ。
 なので、世の中は集団思考だらけと言ってもよい。他にいくらでも例を挙げることができる。「大雨で川が増水しているから、そこでバーベキューやってちゃ危ないよ。避難しなさい」という呼びかけに「こっちは楽しくやってんだ、オマエらは引っ込んでろ」と答えて遭難しちゃった仲良しグループとか。
 オウム真理教も悲しい例だ。キミたちにとっては生まれる前の事件かもしれないけど、一九九五年に、オウム真理教という新興宗教を信じるグループが、東京の地下鉄車内で猛毒のサリンをまきちらして、たくさんの犠牲者を出した。入信した人には科学者の卵も多く、総じて知的でしかも世の中を良くしたいと切望する真摯〈しんし〉な若者たちだった。そんな彼らがどうしてこんな事件を引き起こしたのか。その一部は、集団思考で説明できるのではないかと思う。
 だって、ジャニスの条件がこれにもすごくピッタリ当てはまるんだもん。教祖のもとにひとつの信仰で結びついた均質性と凝集性の高い集団が、外部の社会から引きこもって、批判と「教団への弾圧」という脅威にさらされ続けていたわけだから。

フィルタリングが閉鎖空間を生み出す

 次に、インターネットについて考えてみよう。
 わたしがインターネットに出会ったのは、いまから二〇年以上も前、三〇歳をちょっと越えたころだ。人生の途中で出会ったわけだ。そのときは、みんなインターネットにバラ色の夢を託していたなあ、と思い出す。便利な道具であったのはもちろんだが、インターネットにはそれ以上の意味合いがあった。世の中を根本的に変化させるものだと思われていたんだ。もちろん良い方向に。
 インターネットは、情報をフリーにする。「自由」という意味と「タダ」という意味の両方で。そして、世界中の人々が互いに語り合うことを可能にする。これによって、異なる意見をもつ人々を出会わせ、自由でオープンな議論を生み出す。ネット上に、真に民主的な社会が実現できるかもしれない。こうした未来像は「サイバーデモクラシー」と呼ばれていた。
 ちょうどそのころ、わたしは新設の「情報文化学部」で教えることになった。なので、サイバーデモクラシー関係の本をずいぶん買ったし、授業でも使った。いまではそうした本は、書棚の隅っこにひっそりと眠っている。代わりに置かれているのは、ネット中毒やらフェイクニュースやらGAFA(Google、Amazon、Facebook、Apple)がどんなに社会と経済をゆがめ、不健全なものにしているかを告発する本ばかりだ。世の中変わってしまったなあ、とため息が出る。
 インターネット技術は、異なる意見をもつ人々の出会いを促進するどころか、むしろジャマするものになってしまった。このことを指摘して告発した本に、イーライ・パリサーの『閉じこもるインターネット』がある。この本でパリサーが警鐘を鳴らしたのは、フィルタリング技術の発展だ。フィルタリング技術って何? これまでにキミがどんなサイトを閲覧〈えつらん〉してきたかの情報をもとに、検索エンジンがキミの好みにあわせて見たい情報だけを自動的に選んでくれる(フィルタリングする)技術のこと。
 *翻訳は2012年に早川書房から出ている。ちょっと難しいかもしれないけど、興味のある人は図書館などで手にとってみて。
 あることがらについて、みんながどんな意見をもっているかを知りたいとしよう。キミは、キーワードをグーグルの検索ウィンドウに入力して、いろんなサイトを覗〈のぞ〉いてみようとするはずだ。いろんなサイトへのリンクがダーっと並ぶ。しかし、このときキミが「みんなの意見」だと思っているものは、グーグルの検索エンジンがキミのために取捨選択してくれた「キミのような人が読みたいだろう意見」にすぎない。キミが捕鯨反対派なら反対派の意見が並ぶ。賛成派なら賛成派の意見が並ぶ。キミがネトウヨっぽい人なら、お仲間の意見が並ぶ。キミはそれを読んで、みんなも自分と同じように思っているんだと知って安心する。そうでない考えは頭のヘンな少数派の意見だ、と思うようになる。これでは、異質な他者との出会いも対話もあったものではない。
 インターネットって、いっけん多様な意見への通路に見えるけど、ところがどっこい、わたしたちは自分と似たような意見の中に閉じこめられているんだ。パリサーは、このことを「フィルターバブル」と名づけた。わたしたちはフィルタリング技術のもたらす閉鎖空間(それがバブル)の中にいる。バブルってシャボン玉だよね。透明なだけに閉じこめられているのに気づきにくくてヤッカイだ。
 さらに、ソーシャルネットワーク(SNS)は、ネットワーク上でだれとつながっていたいかを選べるという特徴がある。そうすると、ネットワークで出会った、自分と似たような考えの持ち主ばかりとつながることになる。こうして、ネット空間は同じような意見の人ばかりからなる、いくつもの閉じたコミュニティに分かれていってしまう。そこでは、異質な意見を表明してもかき消され、みんなと同じ意見を表明すると、そうした意見がどんどん増幅〈ぞうふく〉されてかえってくる。まるで音の響きやすい部屋の中で、自分の声がいつまでもこだましているようだ。そうすると、ああやっぱり自分の考えは正しいんだと確信を深めることになる。
 キミはまさに、みんなといっしょに考えることによって、バイアスをまぬがれるどころか、自分の偏見をますます強めてしまう。こういう現象は「エコーチェンバー」とよばれている。
 開かれた議論の場になると期待されたインターネットという空間は、あっという間に変質して、均質性と凝集性の高いコミュニティに人々を囲いこみ、集団思考を促進するものに化けてしまったというわけだ。

では、集団思考に陥ることをどうやって避けたらいいの?

 というわけで「みんなで考える」ことは、個人の愚かさをのりこえるうえでとても大切なんだけど、ときとして逆効果をもたらすということがわかった。そうすると、論理的によく考えるためには、たんに「みんなで考える」のではダメで、どのような「みんな」とどのように「考える」のかが重要になる。この点をもうちょい展開してみよう。
 集団思考に陥りやすいのは、均質性と凝集性の高いグループだった。だから、この2つを弱めてあげればよい。
 均質性を弱めるにはどうすればよいか。答えは簡単、ちょっと違う意見の持ち主に入ってもらえばいいんだ。たとえば、外部の人、つまり異分野の人、違う職業の人、異文化の人……をゲストに招いて議論に加わってもらう。グループ内の異分子を追い出さない(よくやるんだ、これ。あいつがいるとウルサイから、オレたちだけで決めちゃおうぜ、みたいに)。グループのメンバーにあえて反対派・異端者の役割を果たす人を指名する。
 ちょっと説明がいるかもしれない。カトリック教会を例にとろう。「こんな不思議な出来事が起こりました。奇跡じゃないでしょうか」あるいは、「この方はこんなことをなさいました。ぜひ聖人と認めてください」。こうした申し出が教会に寄せられる。ここで、はいはい奇跡ですね、聖人ですねとかんたんに認めてしまうわけにはいかない。ほんとうに奇跡なのか、聖人なのかできるかぎり厳密に審査しなければならない。そこで、聖職者の中から「悪魔の代理人」と呼ばれる人が選ばれる。この人は、奇跡も聖人も存在しないという前提に立って、寄せられた申し出に徹底的にツッコミを入れまくる。それに耐えて残ったものだけがほんとうの奇跡として認められるわけ。
 教会って、均質性も凝集性も高い組織だよね。だからこうやって、あえて批判者の役割をつくって、集団思考に陥ることを避けているわけだ。キミたちがおこなう議論でも、提案に見落としはないか、十分にサポートされているか、もっとよい策はないかを検討するために、だれかに悪魔の代理人の役をやってもらうとよい。
 凝集性を弱めるにはどうするか。権限が強すぎるリーダー、メンバーみんなに尊敬されるカリスマ的リーダー、こういう人が束〈たば〉ねているグループは凝集性が高くなりがちだ。リーダーだって間違える。でもグループの凝集性が高いと、だれも反対できない。だから、優れたリーダーは、ときどき議論に欠席する。リーダーがいるときにはみんな説得されているが、いなくなると「リーダーが言ってたあれって、やっぱりおかしいんじゃないかなあ」というような意見が出てくる。これって、じっさい企業とかでの会議のやり方として推奨〈すいしょう〉されている。
 ようするに、いろんな人がゆるーくつながっているグループは「みんなで考える」が上手にできるというわけだ。もしかしたら、科学コミュニティはこういう集団なのでうまくいったのかもしれないね。

「批判」の正しい意味を知っておこう

 さて、いろんな人からなる「みんな」がひとつのことを考えると、当然のことながら、意見の対立が生じるし、お互いに批判のやりっこをすることになる。ここでキミたちにお願いしたいのは、「批判」とは何かについての考え方を変えることだ。
 「批判」というと、相手の主張をコテンパンにやっつけること、相手を完膚〈かんぷ〉なきまでに叩きのめすこと、相手をやりこめて自分の考えを通すことだと思っている人が多い。こういう人は、議論や討論もケンカの一種だと思っているみたいだ。異常に勝ち負けにこだわるんだもん。まあ、テレビの討論番組なんて、そういうイメージをあおっているところがあるしね。

イラスト③

「批判」についての一般的なイメージ

 かつて、お酒を飲みながら議論していて、相手の批判にうまく反論することができずに、「うーん、もしかしてキミの考えの方が正解かもね」と言ったことがある。そのときの相手の言葉に私はすごく驚いた。「じゃ、ぼくの勝ちってことでいいですね」って言ったんだ。えっ。ぼくらは勝ち負けを競ってたんですか?
 負け惜しみを言うわけじゃないけど、こういうことを言うヤツはアホである。なんのために議論をするのか、なんのために批判をするのかがわかっていないからだ。「みんなで考える」をやっているとき、そこでおこなわれる批判と反論は、相手をつぶすためのものではない。みんなで知恵を出し合ってちょっとでも真理に近づくため、ましな案を考え出すための共同作業の一部なんだ。
 批判されると、自分の主張のサポートがまだ十分でないことがわかる。そうしたら、もっとよいサポートを探すか、主張をちょっと修正して、批判に応える(これが反論)。そうしたら、相手がさらに反論に反論してきた。このときは、サポートを改善するか、主張をさらに手直しするかすればよい。こうして、最初よりもっと正しく、もっとちゃんとサポートされた主張にきたえなおしていくことができる。

イラスト④

「批判」ってそもそもは共同作業の一部なんだ

 だから、批判・反論されても頭にくる必要はない。傷つく必要もない。むしろ、だれからも反論されないことのほうがよくない。だって、それって、キミの主張は正しくても間違っていてもどうでもいいことだ、と言われているのと同じだから。

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プロフィール

戸田山和久(とだやま・かずひさ)
1958年、東京都生まれ。発行部数24万部突破のロングセラー『論文の教室』、入門書の定番中の定番『科学哲学の冒険』などの著書がある、科学哲学専攻の名古屋大学情報学研究科教授。哲学と科学のシームレス化を目指して奮闘努力のかたわら、夜な夜なDVD鑑賞にいそしむ大のホラー映画好き。2014年には『哲学入門』というスゴいタイトルの本を上梓しました。そのほかの著書に、『論理学をつくる』『知識の哲学』『「科学的思考」のレッスン』『科学的実在論を擁護する』『恐怖の哲学』など。

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