観察って最高におもしろくて、しないと生きていかれないもんね。――「ことぱの観察 #21〔観察〕」向坂くじら
詩人として、国語専門塾の代表として、数々の活動で注目をあびる向坂くじらさん。この連載では、自身の考える言葉の定義を「ことぱ」と名付け、さまざまな「ことぱ」を観察していきます。
観察
「趣味は人間観察です」という人が少なくなった気がする。
ちょっと前まではよく聞かなかっただろうか。よくカフェに行って人間観察をしています。人といるとき、つい人間観察をしてしまうことが多いです。ぼく人間観察が好きなんですよね。知り合った人にそう言われることもめずらしくなかったし、SNSの通知からなにげなく開いた知らない人のプロフィールに「趣味:人間観察」と書いてあるのもよく見かけた。しかしここ数年、それがめっきり減った。これはわたしの体感にすぎない、しかしかなり確かな体感がある。どうしてだろう。
単にフレーズとして飽きが来たのかもしれない。「趣味は人間観察です」というのは、「趣味はランニングです」というのとは少し毛色が違う。「人間観察」がほかの趣味と並んで語られることはあまりない。「趣味は人間観察です」とだけ言う人は大勢いても、「趣味は写真撮ったり、人間観察したりとか、あとは旅行ですね」みたいに言う人はあまりいないのだ。同じ「趣味」という箱にさしあたって入れられていても、「人間観察」はランニングや読書やフラワーアレンジメントとは離れた場所にある。「趣味は人間観察です」というフレーズは、「趣味はランニングです」というよりもむしろ、こういう発言の方に近い——「わたしの強みはリーダーシップです」。就職活動の例文でよく見かけたひと言だが、ひょっとするとこれもそろそろ流行らなくなっているかもしれない。「趣味は人間観察です」はこれに似ている。つまり、自分がなにを日ごろの楽しみにしているかを語る以上に、自分が人間関係の中でどのようにふるまっているか、またはどのようにふるまうことをよしとしているか、を語るフレーズである。
だからもしかしたら、まずそういう表明をすること自体が、もうあまりおもしろがられなくなってきたのかもしれない。就職活動その他のマッチングでおこなわれるやりとりのなんとも言えない噓っぽさもあいまって、自分のコミュニケーションや関係づくりについて語りづらくなったのではないか。(余談だが最近はその役割を、インターネット上でできる無料の性格診断や占いが代わりに担っているような気がするが、それもわたしの体感にすぎない)。
だいたい、「強みはリーダーシップです」というやつに比べても、「趣味は人間観察です」というやつはどうも信用ならない。自分では輪に入っているつもりでも実際のところはわずかに輪を外れ、そのくせわかったような顔をして、ただ経験則的な主観に照らすだけで相手を分析した気になって喜んでいそうだ。趣味でおこなわれる「人間観察」の「観察」とはしかし多くの場合、他人をよく見るというよりはむしろ自分の持っている既存のフレームにあてはめ、雑多に解釈してしまっているにすぎない。そのごまかしがなんとなくばれはじめ、いい印象を持たれないことが増えて、みずから名乗りづらくなったのかもしれない。
ついでに言えば、「趣味は人間観察です」というフレーズそれ自体が自分をわざと輪の外に置き、他人と区別するようなはたらきを持っている。けれど、フレーズが流行したあとにはその「区別」は意味をなさなくなる。「まわりとちょっと違う趣味」であること自体が意味のうちに含まれていたものが「よくある趣味」になってしまう。それで「人間観察」が自然消滅していったことも大いにありえる。
あるいはまた、ほかの可能性もある。そのあたりの生存戦略をふくんだコミュニケーションは傍に置いて、本題の「人間観察」というものが、もう興味を持たれなくなってきたのかもしれない。人びとが以前よりも他人への興味を失い、もしくは人びとの集合というものが他人に興味を持たせるほどの魅力を失って、「人間観察」がおもしろがられる土壌がなくなってしまったのかもしれない。
それはさびしい。さびしすぎる。ここまでさんざん言ってきたけれど、なんたってわたし、「人間観察」の二十年選手である。名乗ったことこそないけれど、人間観察が趣味であることにはまちがいない。なお、前述の「自分では輪に入っているつもりで……」以下は、そのまんまわたしの自省だ。うまくやっているような顔をして、本当はひどく浮いている。それでいて、自分だけが特別であるように思い込んで、本当はひどくありふれている……それが「人間観察」の根幹にある、卑屈な半笑いの態度である。
さびしいけれど確かに、わたし自身も「観察」の態度をあらためなければいけないと思うことは多々あった。少年のころなどはひどいもので、同じクラスの生徒たちがもしゾンビに襲われたら誰がどうふるまい、その結果局面がどう動くかという想像、若い日には誰もがするあの暗い想像を、わたしもまた楽しんだ。あるときは盗み聞きをし、あるときはまったく関わりのない仲良しグループの相関図を書きとり、あるときは彼らが相互に呼びあっているあだ名を表にした。やりたい放題の思春期だった。
けれどそれは、幸か不幸かわたしが多くのクラスメイトと親交を持っていなかったからできたことで、大学に入っておしゃべり相手ができはじめると、いくらか様相が変わった。生きていてものを言う相手というのは、必ずわたしの想像を外れる。いかに一度つぶさに「観察」したつもりだったことであっても、だいたいの場合は簡単に裏切られる。憎みあっているように見えた二人がしかしいつまでも付きあいをやめなかったり、利発で気づかいにあふれていると思った人がしかし相手を選んでひどい態度をとったりするのを見るたび、わたしは自分の「観察」を修正する必要があった。わたしの「観察」はいつも不完全で、そして自分が付きあいを持つことを想定していない、一方的なものだった。そして思う。観察というのは、基本的に勝手で、失礼なことである。想像を外れるほどに、他人というのはわたしにとっておもしろかった、そのおもしろささえも含めて。
わたしがわざわざ「人間観察が趣味です」と公言しないのは、なによりその失礼さをおそれるためだ。観察をするとき、わたしはかならずなにか間違えている。それに、相手を勝手に自分の価値基準の線上に載せ、外がわからあれこれ適当な言葉を与えている。見た目をこそこそ眺めるのも、自分が聞き手として想定されていないことに耳をすませるのも、許可なくあれこれの記録をとるのも、決してほめられたことではない。
きっと、一番にはそれなのだ。「趣味は人間観察です」と答え、半笑いでプロフィールに書くことが流行った数年前に比べて、失礼さがより恐れられるようになった気がする。人間の価値の基準が複数あることが当たり前に知られ、他人を勝手に解釈したり意味づけしたりすることは下品なことと思われるようになって、よく浮くわたしのようなものもずいぶん暮らしぶりがよくなった。そうして、「趣味は人間観察です」というそのひと言の含む印象もまた、ずいぶん変わった。せいぜい卑屈なアウトサイダー気取りを想像するくらいだったのが、もっとひどい、他者に対する敬意を欠いた、無知で暴力的な者が想像されるようになった。「人間観察」のすたれは、そんなふうに思われることをおそれる態度そのものなのかもしれない。確かにそれは怖い。そうなりたくないと思うし、そう思われるのは心外である。
さて、それにもかかわらず、半年にわたって言葉を「観察」してきた。そればかりか勝手な言葉をあたえ、毎回定義さえしてきた。失礼になるのはやっぱりおそろしく、なるべくフラットに、複数のできごとや用例の上を渡るようにして書くように心がけてきたつもりでも、わたしという眼、観察するわたしというこの窮屈な入れものを抜けだすことは、どうしてもむずかしい。わたしを含まない、純粋な言葉そのもののほうに向かっていきたいのに、どうやってもわたしが混ざってしまう。一番はじめに「友だち」の定義に重ねて、自分のおこなう「定義」というものがせいぜい呼びかけの域を出ないことを釈明したつもりだったけれど、そのあとには何を思ったか「友だち」の定義のほうを訂正してしまった。自分の向こう見ずさがにくたらしい。
思えば他人とのかかわりのことばかり書いてきた。友だちのことにしてもそう、愛の周辺をめぐったあれこれにしてもそう、関係ないような顔をした飲むことや寝ることにしても結局は他人のことを考えた。理由はすぐに分かる。わたしが言葉に足をとられてつまずくのは、いつも他人の前に立たされたときだからだ。
ある言葉があって、同じ言葉を使う他人がいる。しかし、お互いにほかの文脈を持っていて、ほかの意味を考えている。だから会話が食いちがい、ときに関係がうまくいかなくなるのだ。定義をしながら、そしてその不完全さを思いながら、いつも感じてきたことがある。言葉がわたしの中である意味をむすぶとき、そこにはわたしの記憶や、経験や、痛みやよろこびの手触りが、どうしようもなくまとわりつく。そしてきっと、他人の使う言葉には、彼らの記憶や、経験や、手触りが、同じようにまとわりついている。一方ではそういうものを排した純粋な言葉というものに心惹かれていながらもう一方では、そういうものがなくなってしまったなら、それははたして言葉だろうか、と思う。わたしたちが食いちがう言葉で語るとき本当に交換したいのは、言葉にまとわりついた、そういう形のないものなのではなかろうか。
だから言葉を観察することとは、結局他人や、わたし自身や、そのあいだにある関係を観察することだった。「定義」は言葉そのもののほうへは近寄っていけなかった。むしろ、書けば書くほど言葉というものから離れていくようだった。いまは人中にまみれて、その遠さをまぶしく思うことしかできない。やっぱりどこまでもわたしの勝手で、失礼で、独りよがりなことだったと思う。言葉に対しても、人に対してもそうだ。なにかわかったような顔をしていても、いつも不完全だった。
けれど、ではどうしようか、と思うと、やっぱり観察からはじめるしかないような気がするのだ。誤解をおそれずに言うけれど、わたしたちはもっと大胆に失礼になるべきなのだ、と思うことがある。より正確に言うと、「失礼にならないようにする」以外に、もっと重要なことがある、と思うことがある。他人に対して敬意を払わないといけない、ということには疑う余地がないとしても、それは果たして意味づけや解釈で、コミュニケーションや関係づくりで、まちがいを起こさないことだけを意味するのだろうか。
そしてはじめにあるのは素朴なこころ、それはなんというか、さびしいじゃないか。
ある言葉があって、同じ言葉を使う他人がいる。しかし、お互いにほかの文脈を持っていて、ほかの意味を考えている。だからはじめに会ったときには、まずは観察をするほかないのだ。観察だけが、自分と自分でないものとを、はじめにつなげる。そうして予想を裏切られるたび、くりかえし訂正していくしかないのではないか。結局のところ、観察は個人的でしかありえない。けれどもっとも個人的なものこそが、もっともたやすく訂正を受け容れ、重ねていくことができるのだ。
観察:
自分の個人的な見かたを通じて、ある対象を認識しなおすこと。
さて、さっそく、というわけではないけれど、ひとつ訂正しなくてはいけない。「趣味は人間観察です」という人が減ったと書いた。そういう実感があったのは事実である。ところが、そう書くために一度インターネットで検索してみたら、出るわ出るわ、現役で「趣味は人間観察」の人たち。おそらくわたしよりも若い、わたしとはほかのSNSを使っている人たちが、あちこちで「人間観察」について発信しているのだった。これはうれしかった。わたしと同世代の人たちがみんなそう言うのをやめてしまっただけで、もっと下には新しく、卑屈で半笑いの、独りよがりで失礼な若者たちが、きちんと育っていたのである。そうなってみれば、確かに、そうだよね、と思う。そうだよね、そうでなくては。
だって、観察って最高におもしろくて、しないと生きていかれないもんね。
プロフィール
向坂くじら(さきさか・くじら)
詩人、国語教室ことぱ舎代表。Gt.クマガイユウヤとのユニット「Anti-Trench」で朗読を担当。著書『夫婦間における愛の適温』(百万年書房)、詩集『とても小さな理解のための』(しろねこ社)。一九九四年生まれ、埼玉県在住。