たったひとりでも、届けたい相手に届けば……――「マイナーノートで」#31〔なぜ書くか?〕上野千鶴子
なぜ書くか?
自分がものを書いて生きるようになるとは思わなかった。
小さい頃から読むのも書くのも好きだった。だが書くことで生きる道は、ハードルが高そうだった。お金に換えなくてもすむのなら、書くことと読むことで人生を過ごせたらこんなによいことはない、と思えた。老後は何をして過ごす? という問いに、わたしと同世代の沢木耕太郎さんが、「書くことと読むことがあればじゅうぶん」と答えていたのを見て、わが意を得た思いだった。だから失明するのがこわい。読めなくなるからだ。最近ではパソコンの音声出入力があるが、それでも耳で聞くのと目で読むのでは違いそうな気がする。
友人のひとりが60代で聴覚を失った。医者からいずれ聞こえなくなりますよ、と宣告されてから、まるで聴きたい音楽のすべてをアタマにインストールしておくかのように、CDを買いあさり、朝から晩まで四六時中、大音量で聴き続けた。その鬼気迫る姿を思い出す。
死ぬまでのあいだに聴きたい音楽のすべてを聴き尽くすことはできないし、読みたい本をすべて読み尽くすこともできない。それどころか毎年、いや毎月、次々に新刊本がこの世に送り出され、そのうちの一部がわたしの手元にも届く。頼んでいない本や、未知のひとからの生原稿も、読んでくださいと、どかんと届く。残り時間が少なくなる実感がある。時間を奪われたくない。おもしろい本だとよいが、そうでなければ時間をムダにした、返せ、と言いたくなる。
だから自分の本を送るときにもためらいがある。あなたの大切な時間を奪うことになってしまってごめんなさいね、と。
書いた本は読まれなければならない。本は出版市場に差し出された商品だからだ。編集者が伴走して、ひとつの作品を創りあげてくれる。編集者はまだ見ぬ作品を送り出すプロデューサーである。売れた本を見て同じようなテーマで第2弾、第3弾を、という依頼には、「柳の下にどじょうは2匹いません」とお断りしたくなる。それに対して、今までやったことのないことや、手がけたことのないテーマに挑戦してほしいと言われたら、むらむらとその気になってしまう。
このエッセイの担当編集者は、かつて、それまでわたしが触れてこなかったことを書いてほしい、と無理難題をふっかけてきた。自分が読みたいものを、と。こんな在庫がありますが……とありものを提示したら、却下された。そうしてできたのが、『ひとりの午後に』(NHK出版、2010年/文春文庫、2013年)である。他人には見せたくない宝物、とはいっても海辺で拾ってきた貝殻や、ふと見つけたきれいな色の小石、片方だけ残って捨てられないイヤリングなど、自分以外のひとにはなんの価値もない思い出の品々なのだけれど、それを容れる小さな宝石箱のような、わたしにとっては特別な本になった。そしてそれを愛してくださる読者の方たちがいた。
この連載のタイトルは「マイナーノートで」である。音楽の世界でメジャーとマイナーは長調と短調。昼より夜。太陽なら朝日より夕陽。月なら満月より下弦の三日月。消え入りそうに細く先の鋭く尖った三日月を、 Lady’s Slipper と呼ぶのだと、外国にいるときに教わった。教えてくれたひとの、そのときの声や調子まで覚えている。
大事にしているが、他人には見せたくないものがある。「見せると減る」と言ったのは、作家の富岡多惠子さんだった。そのひとも逝ってしまった。一緒に旅をしたときの思い出がひとつひとつよみがえる。
エッセイって何だろう? ある文芸誌が「エッセイについてのエッセイ」を書け、と作家のエッセイ特集をしていたが、どの人も書きにくそうだった。エッセイは日本語で「随想」と訳す。こころ随うままに……何を書いてもよいのだそうだ。古来、作家の随想には身辺雑事が多い。なんでこんなものを読まされるのだろう、と鼻白むこともある。初めて三大紙のひとつにエッセイを連載したとき、さる方から、あなたにエッセイは書けない、やめておきなさい、と忠告されたことがある。わたしはエッセイの書き手になれただろうか? その連載は『ミッドナイト・コール』(朝日新聞社、1990年/朝日文庫、1993年)という本になった。ここでもわたしのエッセイは、夜と結びついている。
わたしはなぜ書くのだろう? 端倪すべからざる作家の倉橋由美子は、「なぜ書くのですか?」と問われて、「なぜなら、注文があるからです」と答えた。なら注文がなくなれば書かなくなるのだろうか? 安楽死させてください、と唱えた脚本家の橋田壽賀子さんは、生きていてもしようがないと思うようになったのは、「仕事がなくなったから」だと言った。世の中には注文がなくても書き続けるひとたちがいる。書かずにいられない人たちもいる。作家というひとたちはそういうひとらしい。わたしはどうだろう? 注文がなければ書かないだろうか、と思うこともある。
わたしは研究者になった。研究者は職業的に書き続けるが、自分自身について書くわけではない。だから「考えたことは売りますが、感じたことは売りません」と言ってきた。にもかかわらずたびたび禁を犯した。そのたびに作家にならなくてほんとうによかった、と胸をなで下ろした。作家は自分自身を戦場にして、自分を内側から抉るようにして書くからだ。今年の芥川賞受賞作、市川沙央さんの『ハンチバック』(文藝春秋、2023年)を読むとそれがよくわかる。だが市川さんだって、読者に読んでもらいたいと思ったにちがいない。
そしてそれだけのことをしたにもかかわらず、ひとは他人に関心を持たない生きものであることが骨身に沁みることもある。さんざん長い文章を読まされて、なんでわたしがあんたについてこんなことを知らなければならないの、と思うこともしばしばだ。
だが研究者も、論文で自分を語ってしまう。学術論文を読んで余りの切実さに涙したこともあるし、論文にはおのずと己が出る。論文だから血も涙もない、などということはない。
文章を書くのは、宛名のない手紙を書くことに似ている。メッセージは虚空に向けて投げられる。いや、この言い方は正確ではない。届けたい相手はたしかにいる。学生たちにも、論文を書くときには、届けたい相手を、できるだけ顔も名前も具体的に思い描いて書け、と指導してきたのではなかったか。
本を書くたびに、この人にはたしかに届いたと思える、ストライクゾーンどまんなかの感想を送ってくれる読者が、少数だが、いる。批判と誤解の嵐のなかでも、そんな読者がひとりでもいれば、書いた甲斐があったと思える。長いあいだ書き続けてきて、わたしは読者と編集者に恵まれた、とつくづく感じる。
何か言うたび、書くたびに、たくさんの批判やバッシングを受けてきた。だが、いつも思うのだ。何を言っても、何を書いても、かならず正解と誤解の両方が生まれる。正解8割、誤解が2割なら、いや、たとえ正解6割、誤解が4割でも引き算して正解の方が多ければそれでいいではないか、と。この割合が逆転してもかまわない。たったひとりでも届けたい相手に届けば、と。誤解や批判を怖れていては、口を噤むしかない。
幸いなことにわたしにはいまだに「注文が来」ている。いつまで続くだろうか。「注文が来」なくなったとき、わたしは書かなくなるだろうか。それともブログやYouTubeで発信し続けるだろうか。誰にも知られずに、思い出という大切な宝物を抱えて、黙して過ごすのもよいかもしれない。さんざんことばということばを酷使して使い散らしたあとに、富岡さんの言ったせりふが残る。
「ひとは何のために書くか。書かずにすませるようになるためよ」
そのとおりに、かのひとは逝った。
(了)
(タイトルビジュアル撮影・筆者)
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プロフィール
上野千鶴子(うえの・ちづこ)
1948年、富山県生まれ。社会学者。認定NPO法人ウィメンズアクションネットワーク(WAN)理事長、東京大学名誉教授。女性学、ジェンダー研究のパイオニアであり、現在は高齢者の介護とケアの問題についても研究している。主な著書に『家父長制と資本制』(岩波現代文庫)、『スカートの下の劇場』(河出文庫)、『おひとりさまの老後』(文春文庫)、『ひとりの午後に』(NHK出版/文春文庫)、『女の子はどう生きるか 教えて、上野先生!』(岩波ジュニア新書)、『在宅ひとり死のススメ』(文春新書)などがある。