ひとりの被雇用者として、見て。――「ことぱの観察 #12〔性欲〕」向坂くじら
詩人として、国語専門塾の代表として、数々の活動で注目をあびる向坂くじらさん。この連載では、自身の考える言葉の定義を「ことぱ」と名付け、さまざまな「ことぱ」を観察していきます。
性欲
愛を見分けるために、ここまで近くをうろつくようにして考えてきた。愛のことを考えたかっただけなのに、恋のことを考え、ときめきのことを考えて、ついには欲望のことを考えなければいけなくなってしまった。前回にも書いたけれど、わたしはセックスの欲求というものがおそらく希薄で、実感としてはとても疎い。だから自分自身の体験を通じて考えることができないのが心細い。しかしそれでいて、愛のことを考えるならば、欲望のことを飛ばしてはいけないような気がしている。
なぜか。まちがっても自慢話だと思わないでほしいけれど、これまでさんざん他人からセックスの欲望を向けられ、うんざりしてきたからだ。そしてそれらがほとんどきまって、愛という飾り付きでわたしのところへ差し向けられてきたからだ。
彼らはしばしば、「あなたをひとりの女性として見ています」というようなことを言う。そのたびに、それはなんだろう、と思った。わたしとしてはとてもそれが褒め言葉には聞こえない。「ひとりの女性」として見られるよりも、たとえばクラスメイトや、サークル仲間や、詩人仲間として見られるほうがずっといい。けれども彼らのほうではなにか特別な、前向きな気持ちをこめて言っているみたいだった。そのギャップにいつも面くらって、ときに落ち込み、そしてときに激怒した。わたしは告白されることに関してたいへん素行が悪く、たいていの告白を激怒でもって打ちかえすことで知られている。わたしなりに誠意をこめて激怒しているのだが、今度はそれが相手をおののかせたり、反対に抗戦体制に持ちこませたりしてしまう。そのディスコミュニケーションぶりが、自分でももどかしくて、面倒くさかった。
今度こそ自慢話だが、ここ数年はうまいこと好きになられずに暮らすやり方がわかってきた。単純に結婚したからかもしれないし、もっと単純には歳をとったからかもしれないけれど、ともかく好かれないというのは本当に暮らしやすい。そう思うと、あれこれややこしい面もある結婚も、加齢も、どちらもよいものだと思う。けれども彼らと起こした行き違いについては、まだ未解決のまま残りつづけている。「ひとりの女性として見る」とはなんだろう。彼らはなにを言おうとして、そしてわたしは、なにを受け取ってしまったんだろう。
そしてあの欲望と思しきものは、なにをもってあんなに、愛に見えないんだろう。
わたしのくびになったときというのは二回あって、一回目は初夏、二回目は冬が本格的になりだすころだった。欲望のことを考えるとき、わたしはいつもその冬のことを思い出す。どんなふうにやめるか、ということで、なかなかもめごとになった。会社がわはあくまで合意があっての退職と主張していたけれど、わたしはこれが解雇であることをみとめてほしかった。
小さな会社で、わたしは一緒に働いている人たちのことが好きだった。なんせ一回目のくびのあと、駆け込むようにその会社に直談判して、温情でもって雇ってもらったのだ。心からありがたいと思っていたし、当の仕事もおもしろかった。けれども辞める辞めないという段になったとたん、まさにその温情が、今度はじゃまをすることになった。
わたしが話しあいで労働基準法の話を持ち出すと、雇用主は必ずいやな顔をした。そこで主張されたのが、「ここまで自分たちは契約よりも互いの信頼に基づいたゆるいつながりを作ってきたのであって、法律がどうと言い出すのはおかしい」というようなことだった。たしかにわたしも、心情的なつながりでもって仕事をしていた節はある。けれどかと言って、「契約」のほうだってないわけではないと思った。そうなると雇用主が離職をうながしていう、「雇用の法律に縛られない、個人と個人の関係になりたい」だとか「自分のやりたい仕事で生きる人生を歩んでほしい」だとかの理由も、みんな力のあるがわだけに都合のいい御託に聞こえてくる。いままでの恩を思い返すとわたしも一度はゆらいだけれど、結局決裂することにした。なにより、自分が一度でも「つながり」とやらにほだされ、ゆらいだことが、自分で許せなかった。
そしてとっぴに思えるかもしれないけれど、そのときに思い浮かべていたのが、あの「ひとりの女性として見る」というやつのことだった。
あらためて考えると、「ひとりの女性(男性)として見る」というフレーズはおおむね、相手をセックスの対象として意識することを指すようだ。先に挙げた、告白のときに言われる「あなたをひとりの女性として見ています」というもののほかに、「ひとりの女性として、見て」という依頼の形式で目にすることもある。するとやっぱり、「ある性として見られたい」という欲望もまた存在しているらしい。
使われ方を見ていると、単にセックスの相手というだけではなく、ふだんの自分をいったん脇に措いて、というようなニュアンスが加わっていることが多いように見える。当事者どうしの関係性もそうだし、「ひとりの女性」としてその人の持っている、続柄だったり職業だったりという社会的な役割もそうだろう。そう思うと「ひとりの」という修飾は、既存の集団を離れたいち個人として、というような意味をなしているらしい。
ではその、すでにある関係や役割ではない「ひとりの女性」との関係をあらたに築く、というのは、どういうことだろう。一見、どことなく逸脱の気配があって、セクシーなニュアンスを持った決まり文句になるのもわかる気がする。「ひとりの男とひとりの女」と言えば、しがらみのないシンプルな関係で、互いに欲望しあうまま動いているような印象を与える。けれども、本当にそうだろうか。
くびになりかかったときにわたしの求めていたのもちょうど、「ふだんの関係性はいったん脇に措いて、第三者から見ても正当な処置をしてもらいたい」ということだった。精神的なつながりがあったことはまちがいでなかったとしても、それが不当な辞め方を受け入れないといけない理由にはならないはずだ。わたしは手続きの話をしたいだけなのに、どうしてかたくなに温情の話だけをするのか、ふしぎだった。すなわち、こうだ。
ひとりの被雇用者として、見て。
そのとき、温情がこんなにも目をにぶらせることがもどかしかった。お世話になったとかならないとか、やりたい仕事かどうかとかとは関係のない、単なる契約上の存在として、自分のことを扱ってほしかった。そしてその先にあらわれるのは、しがらみのないシンプルな関係などではないはずだ。むしろわたしに必要なのは、自分にある立場があることだった。ふだんの狭い関係よりももっと広い関係の中にある自分を、きちんと見てもらいたかった。社会的な役割を脱ぐというよりも、むしろ余分に一枚着るようにして。そして、それに照らしてはじめて、「ある性であると見なしたい/見なされたい」という欲望のことがわかった気がしたのだ。
つまり「ある性と見なされたい」ということも「被雇用者と見なされたい」ということに似て、もう一段階社会的な関係の中に身を置きたい、という欲望なのではなかろうか。ふだんの関係に、ひとつ要素を足すようにして。「ひとりの女性として見て」と言いたくなるときにわたしたちを困らせているのは、いまある立場や役割が多すぎたり、重たすぎたりすることではない。むしろ、「女性」という役割が欠落しているように感じられることなのではないか。性別というカテゴリーはあまりに大きく、ふだんの、人それぞれの個別の関係とは、まるで関連のないものに思える。けれどわたしたちはときに、その大きな役割をこそ欲望するのではないか。
そう思うとやっと、性の欲望について考えることができそうだ。より正確にいうと、性欲の、どうやら生殖のためでも快楽のためでもない、あのよくわからないごちゃごちゃした部分について。いまになって思う。「あなたをひとりの女性として見ています」と伝えたとき、彼らの言いたかったのは、「あなたをある役割としてみとめます」というような、彼らなりの肯定だったのかもしれない。けれどそれがわたしには、自分が自分でないほかのものと勘違いされているような、単なる機能としてしか尊重されていないような、むなしい気持ちを起こした。役割でもって見られることはときに心強いけれど、ときにさびしい。告白してきたのが親しいと思っていた相手であればあるほど、わたしは激昂し、烈しく傷ついたのだった。
そして彼らの告白はまた、「わたしをある役割としてみとめてください」という要求でもあったように思う。告白というものがあんなにわたしの神経を細らせたのは、それがうっすらとでも伝わってきたからではないか。わたしもまた温情でもって思ったのだ、従業員をくびにする雇用主のように––––「ここまで自分たちは性よりも互いの信頼に基づいたつながりを作ってきたのであって、性がどうと言い出すのはおかしい」と。
前回、ときめきを「相手が自分の思い通りになってほしいと思っているのに、それが達成されるかが不確実なときに起きる不安、それに伴う身体的なリアクション」ということにした。おそらく性欲もまた、それによく似た要素を持っている。
性欲:
社会の中に自分の性的な役割があることを願い、自分をそれに任命してくれる相手を探し求めること。自分と相手とを、自分の望む社会的な性関係の中へ当てこもうとすること。
あいかわらず、悲しいくらい、彼らのことがわからないままだ。自分の役割、というのが、そんなにほしいものだろうか。しかもおそらくは、ここにいるふたりの関係における役割ではない、もっと広い社会の中での役割。それを与えられたい気持ちは、そんなに切実なものだろうか。ふたりの関係こそがほしいと思うほどに、わたしにはそれが、どうしてもさびしいのだった。
詩人の大島健夫さんが、「性の目覚め」をテーマに書いた詩がある。
この詩の持つ壮絶な渇きに、わたしは読むたびにおののく。自分は性のことを、やっぱりなにもわかっていないと思う。性欲というのはこんなにも、思うままにならない、苦しいものなのか、と思う。彼らはきまって、「つきあってほしい」と言った。その、つきあうというのはつまり、彼らのこんなに直視しがたい、苦しい部分に、ということだったのだろうか。そんなことがありえるだろうか。堂々めぐりのようにここへ戻ってくる。
そんな関係をわたしたちが作れるとしたら、それはもう、愛と呼んで差し支えないのじゃなかろうか。
プロフィール
向坂くじら(さきさか・くじら)
詩人、国語教室ことぱ舎代表。Gt.クマガイユウヤとのユニット「Anti-Trench」で朗読を担当。著書『夫婦間における愛の適温』(百万年書房)、詩集『とても小さな理解のための』(しろねこ社)。一九九四年生まれ、埼玉県在住。