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アフガニスタンで65万人の命をつなぎ、凶弾に倒れた医師は、何を語ったのか――自身について多くを語らなかった中村哲さんの心の内にふれる

 2019年12月4日、アフガニスタンで銃撃され亡くなった医師・中村哲さん。生前の中村さんが出演したNHK「ラジオ深夜便」の6番組より、インタビューに答えるその肉声を忠実に再現した、『わたしは「セロ弾きのゴーシュ」』が2021年10月25日に発売します。「長年の活動の原動力は何でしょうか?」という、インタビュアーの問いに対して、自らを宮沢賢治の童話の主人公「セロ弾きのゴーシュ」にたとえた中村さん。本書は、感慨や本音が随所に表れ、その心の内を知ることのできる貴重な証言の記録です。
 当記事では、ペシャワール会会長でPMS(ピースジャパンメディカルサービス(平和医療団日本))総院長の村上優さんが、本書に寄せた文章をお届けします。

中村哲先生の声が聴こえる
――『わたしは「セロ弾きのゴーシュ」』に寄せて

 中村哲先生は一九八四年に日本の医療NGOより派遣される形でパキスタン北西辺境州(当時)にあるペシャワール・ミッション病院へ赴任しました。その前年に、彼は友人などに呼び掛けてミッション病院での活動を支援するペシャワール会を立ち上げました。派遣母体であるNGOは医療活動に対して財政的な支援ができないために、自ら会を組織したのです。その時から、医師として赴任するだけではなく、長くその地にとどまる展望(覚悟)があったのでしょう。しかし、それが二〇一九年に亡くなるまで、そして亡くなってからも継続される事業になるとはさすがに想像していなかったと思います。現地での言い尽くせぬ困難、次々に起こる出来事、そして何より人々との交歓に真心を込めて向かい合っていくうちに結果としての現在があります。
 この度、中村医師がNHKの「ラジオ深夜便」に残した音声(一九九六年から二〇〇九年までの六回)を柱とする一冊の本が刊行されました。二〇〇三年に宮沢賢治学会よりイーハトーブ賞を授与され、その授賞式にしたためた文章「わが内なるゴーシュ」(ペシャワール会報八一号)と、二〇一九年十二月四日発行のペシャワール会報一四二号に掲載された絶筆「来たる年も力を尽くす」が添えられています。十二月四日は中村先生が亡くなった日で、ペシャワール会事務局は会報発送作業を予定していました。ボランティアの皆さんが茫然自失、涙をぬぐいながら、先生の最後の声を届けるために力を振り絞っていたことが思い出されます。
 初めて「ラジオ深夜便」に出演した一九九六年頃の中村先生は、すでに当初のNGOの契約期間は終了、またペシャワール・ミッション病院も出て、後にPMS(平和医療団・日本)となるNGOを現地のアフガニスタンやパキスタン関係者と立ち上げていました。一九九六年はハンセン病根絶への取り組みとアフガニスタン難民への医療から農村無医地区の医療構築が中心です。二〇〇〇年からは大旱魃に直面、水を求めて井戸掘りから用水路・灌漑事業に活動を拡げていくことになります。その間にアフガン空爆などもあり、「命をつなぐ」ことに具体的に、迅速に、自身が先頭になって立ち働いていました。
 そうした活動を、訥々と言ってもいいような語り口で、わかりやすく話されているのがこの本の成果で、多くの若い方に読んでいただきたいと願っています。優れた文章家でもあった中村先生の著書は十冊以上あり、彼の地での一貫した行動から紡ぎだされる深い思索、心を揺さぶる表現が魅力的ですが、この本は話し言葉が文字になっていますので、いつもの中村先生と話している、先生の声を直接聴いている――そう錯覚するほど親しみやすさにあふれています。
 中村先生は常にひかえめで内向き、大言壮語の正反対の佇まいですが、その事業規模は壮大です。確かに彼の活動は、二〇〇一年のアフガン空爆時を除くと、パキスタン北西辺境州から東部アフガニスタンの農村や山岳地域に限られています。しかしながら、貧困、戦争、そして地球温暖化による気候変動、旱魃や洪水などの自然の猛威の中で、人として生きていくための光や希望を多くの人々に与えてくれました。知性と深い思索に支えられた中村先生の行動が、日本に住む私たち、いや世界の人々にとって大切な啓示となると信じています。
 中村先生は自らを語るとき、しばしば宮沢賢治を引用していました。「注文の多い料理店」「セロ弾きのゴーシュ」「雨ニモマケズ」「永訣の朝」「どんぐりと山猫」などは直接引用していますし、「なめとこ山の熊」「銀河鉄道の夜」「風の又三郎」なども象徴的に思い浮かべています。その一つ一つを解説することはしませんが、本書に掲載された「セロ弾きのゴーシュ」はその代表と言えるでしょう。
 私は「雨ニモマケズ」の詩に中村先生の思想を感じます。

 雨ニモマケズ
 風ニモマケズ
 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
 丈夫ナカラダヲモチ
 慾ハナク
 決シテ瞋(イカ)ラズ
 イツモシヅカニワラッテヰル
 (中略)
 ヒドリノトキハナミダヲナガシ
 サムサノナツハオロオロアルキ
 ミンナニデクノボートヨバレ
 ホメラレモセズ
 クニモサレズ
 サウイフモノニ
 ワタシハナリタイ
 
 中村先生は「ヒデリ(原文は「ヒドリ」)ノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ」を引用されましたが、私はその後の五行「ミンナニデクノボートヨバレ/ホメラレモセズ/クニモサレズ/サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」に最も共感します。愚直に彼の地にとどまり続けた中村先生の姿が髣髴とするからです。先生の座右の銘の一つ「一隅を照らす」がそうであったように……。
 中村先生の初期の著作には、貧しさ、戦争、病気、地球温暖化による旱魃などの不条理に対する怒りの表現がみられ、宮沢賢治の詩「春と修羅」の中の「おれはひとりの修羅なのだ」という一節を想い起こします。しかし、三十五年間にわたって医療・水事業・農業へと活動を進めていく中で、自然との和解を穏やかに説かれるまでに昇華されました。生前最後の著書『天、共に在り』は「自然から遊離するバベルの塔は倒れる。人も自然の一部である。それは人間内部にもあって生命の営みを律する厳然たる摂理であり、恵みである。科学や経済、医療や農業、あらゆる人の営みが、自然と人、人と人の和解を探る以外、我々が生き延びる道はないであろう。それがまっとうな文明だと信じている。その声は今小さくとも、やがて現在が裁かれ、大きな潮流とならざるを得ないだろう」と結ばれています。
 私個人のエピソードで申し訳ないのですが、三・一一東日本大震災の折に、当時勤務していた琉球病院職員と共に「こころのケアチーム」として一年間岩手県宮古市に伺いました。その時、中村先生ならどうするかと思案し、「雨ニモマケズ」を心に刻んでチームの目標に掲げ、デクノボーに徹することにしました。それが、大震災という圧倒的な自然の力を前に、ともすれば襲われそうになる無力感を力に変えてくれたのです。その場にいることの大切さを学んだだけでなく、若いチームがその後も宮古市のスタッフの方々と交流を継続しているのを目の当たりにして、中村イズムの普遍性、どこにでも通用することを再確認しました。
 この稿を書いている間にもタリバンによるカブール無血開城が報道されています。私たちは、中村先生がこれまでそうされていたように、「水が善人・悪人を区別しないように、誰とでも協力し、世界がどうなろうと、他所に逃れようのない人々が人間らしく生きられるよう、ここで力を尽くします。内外で暗い争いが頻発する今でこそ、この灯りを絶やしてはならぬと思います」(ペシャワール会報一二六号)という言葉を胸に、どのような政権になろうとも、現地の事業を続けてまいります。

写真:PMS(平和医療団・日本)

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