名場面・名文句から読み解く、イギリス小説の傑作——ジェイン・オースティン『高慢と偏見』
オースティン『高慢と偏見』、ブロンテ『嵐が丘』、イシグロ『日の名残り』――。名前は知っているあの傑作小説を、名場面の優れた英文と濃密な文法解説を通してじっくり精読。斎藤兆史氏(東京大学名誉教授)と髙橋和子氏(明星大学教授)の共著による『名場面の英語で味わう イギリス小説の傑作 英文読解力をみがく10講』は、英文の裏側にある意図にまで踏み込んで解釈することで、作品をより深く味わいながら本質的な英文読解力をみがくことのできる一冊です。3月14 日に発売となる本書の刊行を記念して、本文の一部を特別公開します。*本記事用に一部を編集しています。
【作家と作品】
イギリス小説の「偉大なる伝統」の中心に位置するオースティンの小説は、男女の恋愛と結婚に関する時代の価値観を色濃く反映しながらも、決して色あせることのない普遍的で豊かな人間模様を見せてくれます。いまだにドラマや映画の題材となる作家の最高傑作を見てみましょう。
ジェイン・オースティン(1775 - 1817)は、1775年12月16日にイングランド南部のハンプシャー州スティーヴントンの牧師館で生まれました。姉のカッサンドラと一緒に学校で学んだ幼少期を除き、彼女はもっぱら家族との交わりと自宅での読書によって教養を身につけました。一家はやがてローマ風呂の遺跡で有名なバース、それからサウサンプトン、さらにハンプシャー州のチョートンへと居を移しました。
オースティンはすでに10代から詩や物語を書いていましたが、はじめて手がけた長編小説は『エリナとマリアン』(Elinor and Marianne)で、これはのちに1811年に『分別と多感』(Sense and Sensibility)として出版されました。それぞれ「分別」(sense)と「多感」(sensibility;オースティンの時代には‘sensible’が現在の‘sensitive’に近い意味で用いられていたことに注意)を象徴する、対照的な性格の姉妹の恋愛と結婚を中心的な主題とする小説で、1995年には映画化(邦題『いつか晴れた日に』)されて話題になりました。二作目が今回の名場面の出典となる小説で、当初『第一印象』(First Impressions)として出版されていましたが、1813年に『高慢と偏見』として出版されました。彼女が生前に発表したのは、上記の二作に加え、名家の養女となった娘の精神的苦闘と恋愛を描く『マンスフィールド荘園』(Mansfield Park, 1814)と、友人の結婚の世話を焼く主人公が自らの恋愛に目覚める物語『エマ』(Emma, 1816)の二作です。ゴシック小説のパロディとも言える『ノーサンガー寺院』(Northanger Abbey)と、他人の「説得」による婚約破棄を乗り越えて恋人同士が結ばれる物語『説得』(Persuasion)の二作は、彼女の死の翌年、1818年に出版されました。女性には結婚することが求められていた時代にあって、彼女は生涯独身を貫きました。
その作品のほとんどが恋愛と結婚にまつわる当時の価値観を色濃く反映しているにもかかわらず、オースティンは、人間の普遍的な心理や他人との関係性を絶妙な筆致で描き出しており、イギリス国内外で高い評価を得てきました。F・R・リーヴィスというイギリスの批評家は、その著書『偉大なる伝統』(The Great Tradition, 1948)の冒頭で、イギリス小説の伝統の中心に位置する作家としてオースティン、ジョージ・エリオット、ヘンリー・ジェイムズ、ジョウゼフ・コンラッドの四人の名を挙げ、その中でもオースティンを別格と位置づけています。彼女の作品は何度もドラマ化、映画化され、さらにはその作品をモチーフとした小説も映画化されています。カレン・ジョイ・ファウラーの『ジェイン・オースティンの読書会』(The Jane Austen Book Club, 2004)に基づく同名の映画は、2007年に公開されました。読書会に参加する人物たちの私生活とオースティン作品の世界が二重写しとなっており、原作を知っているとより楽しめる映画です。
同じように、原作を知っているとより深く理解できる小説に、ヘレン・フィールディングの『ブリジット・ジョーンズの日記』(Bridget Jones’s Diary, 1996)があります。本作は『高慢と偏見』のパロディで、2001年に映画化されて大ヒットしました。この映画の中に、ブリジットの語りの声でIt’s a truth universally acknowledged that the moment one area of your life starts going okay, another part of it falls spectacularly to pieces.「あまねく認められている真理として、生活の一部がうまく行きはじめると、ほかの部分がとんでもなくガタガタになるものだ」という文が発せられる場面があります。この文の出だしを聞いたとたん、ほとんどのイギリス人は『高慢と偏見』を思い浮かべるはずです。ちょうど私たち日本人が「(国境の長い)トンネルを抜けると…」と聞けば川端康成の『雪国』を思い出すのと同じです。せっかく英語を学ぶなら、英語話者のコミュニケーションの前提となっている教養も身につけたいものです。
【全体のあらすじと名場面】
地方の地主ベネット家の近くの屋敷に、ある日ビングリーという若い資産家が引っ越してきます。五人娘の良縁を願うベネット夫人は、何とかこの青年が娘の誰かを見初めて、最終的にはめとってくれないかと考えます。近所付き合いが始まってみると、このビングリーがなかなかの好青年で、ベネット家の長女ジェインに好意を寄せている様子。ところが、彼の友人で、貴族を叔母に持つフィッツウィリアム・ダーシーなる青年は、一見して高慢ちきで愛想が悪い。ベネット家の次女エリザベスは彼を毛嫌いします。あるとき、ベネット一家は近くに駐屯する軍隊の将校たちと知り合う機会があり、エリザベスはそのうちの一人ウィッカムからダーシーの悪口を聞かされます。自分の父親はダーシー家に仕えた執事であり、自分も遺産を相続できるはずが、ダーシーに阻まれたというのです。またあるとき、ビングリーが何の前触れもなく、いきなりロンドンに帰ってしまいます。これにもダーシーが絡んでいるらしい。エリザベスはますます彼が嫌いになります。そんな中、彼女はダーシーから求婚されます。
まさに青天の霹靂であり、彼女はそれを拒みますが、直後にダーシーから届いた手紙を読み、またある旅行の途中で訪れた彼の邸宅で見聞したことを吟味するうち、彼に対する自分の偏見に気づきはじめます。あるとき、ベネット家の末娘のリディアとウィッカムが駆け落ちをするという事件が起こりますが、それを二人の正式な結婚という形で解決したダーシーに惹かれるようになります。そしてエリザベスは、ダーシーの叔母の反対を押し切って彼の求婚を受け入れ、ビングリーとジェイン、ダーシーとエリザベスの二組の男女の結婚が実現します。
名場面は、青年資産家(=ビングリー)が越してくることを知ったベネット夫人が、青年が娘の誰かの結婚相手になるかもしれないと期待し、彼のもとを訪れるよう夫をけしかけている、作品冒頭の場面です。
【名文句】
小説の冒頭からなんとも衝撃的な命題が現れます。資産家の独身男性に妻が必要だというのは、本当に真理なのでしょうか。19世紀の前半、とくに田舎に住む人たちがそのように考えていたことは十分に考えられますが、a truth「真理」とは大袈裟です。おそらくオースティン自身はそのような「真理」を認めていたわけでも信じていたわけでもなく、ベネット夫人のように、資産家の独身男性が引っ越してくることがわかったとたん、彼を婿候補と考える当時の人々の「常識」を皮肉っているのです。
昔、私のイギリスでの指導教員たるロナルド・カーター教授と一緒に、英語文体論をテーマとするシンポジウムに登壇したことがあります。質疑応答の際、聴衆の一人からirony(皮肉)に関する質問が寄せられました。具体的な質問の内容は忘れてしまいましたが、カーター教授はこの冒頭の一文をまずそらんじたのち、文学におけるアイロニーがどのようなものかを説明しました。イギリス人にとってこの一文がアイロニーの典型例として知られていることを、改めて確認した瞬間でした。
It is a truth universally acknowledged that …
文中の二つのコンマは現代の学校文法では不要なので、これを省いて説明します。冒頭のItは形式主語で、真主語がthat以下の節です。次の例と同じ構造をしています。
It is important that he should tell us the truth.
「彼が本当のことを言ってくれることが大事である」
またuniversallyはacknowledgedを修飾する副詞、acknowledgedはa truthを修飾する過去分詞です。
a single man in possession of a good fortune must be in want of a wife
二つ目のコンマも、先に述べたとおり、現代の学校文法では不要なので、これを省いて説明します。in possession of ... とin want of ... はそれぞれ「…を所有している」、「…を必要としている」の意味です。問題は、法助動詞のmustです。ここでは、「…するはずである」を表すのですが、そもそも法助動詞というのは、語り手の心的態度を表すものですから、It is a truth ...「 真理である」という命題とは本来相いれません。おそらくオースティンは、まるで真理であるかのように「資産家の独身男性なら妻を必要としているはずだ」と信じて疑わない田舎の人たちの思考のありようを、相いれないはずのtruthとmustを重ねることによって、さらに強く皮肉っているのかもしれません。
(斎藤兆史)
※名場面の原文や文法解説などは、『名場面の英語で味わう イギリス小説の傑作 英文読解力をみがく10講』をお読みください。
本書の刊行を記念して、著者の斎藤兆史氏と翻訳家・文芸評論家の鴻巣友季子氏との対談イベントをジュンク堂書店池袋本店で実施します。詳細は下記のURLよりご確認いただけます。
斎藤兆史 Saito Yoshifumi
東京大学名誉教授。東京大学文学部卒業、同大学院人文科学研究科修士課程修了。インディアナ大学英文科修士課程修了。ノッティンガム大学英文科博士課程修了(Ph.D.)。
著書に『英語達人列伝』(中央公論新社)、『英文法の論理』(NHK出版)、訳書にラドヤード・キプリング『少年キム』(筑摩書房)、共訳にチャールズ・ディケンズ『オリバー・ツイスト』(偕成社)などがある。
髙橋和子 Takahashi Kazuko
東京女子大学文理学部卒業。東京大学大学院総合文化研究科修士課程、同博士課程修了。博士(学術)。
著書に『日本の英語教育における文学教材の可能性』(ひつじ書房)などがある。