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本邦初、聞き書き形式による西洋哲学史入門

哲学の泰斗が集結した新シリーズ『哲学史入門』第1巻を試し読み!

NHK出版新書の新シリーズ『哲学史入門』が4月10日に創刊しました。シリーズ第1巻『哲学史入門Ⅰ 古代ギリシアからルネサンスまで』は、著者に千葉雅也さん、納富信留さん、山内志朗さん、伊藤博明さんをむかえ、 斎藤哲也さんが聞き手を務めます。刊行を記念し、本書の一部を特別公開します。


はじめに 斎藤哲也

 本書は、本邦初の聞き書き形式による西洋哲学史の入門書です。
 初学者向けから大学で使用するテキストまで、すでに哲学史を解説した本は数多く刊行されています。そこにあえて「哲学史入門」と銘打って、本書を世に出すことにしたのは、哲学史を学ぶことの面白さを臨場感をもってお伝えしたいと思ったからです。
 初学者向けの哲学史本は、わかりやすく書かれているけれど、図式的に整理されすぎているきらいがあります。そのため、学術的な水準から見て、疑問符が付くような説明もしばしば見かけます。一方、プロの哲学(研究)者が執筆している通史的なテキストは、専門性は担保されていますが、初学者は人名や概念の多さに圧倒されてしまう。とくに複数の著者が共同執筆している哲学史の教科書は、本の性格上、記述がどうしても平板になりがちです。
 従来の本とは違ったかたちで、哲学史の面白さを伝えるにはどうしたらいいか。そこで思いついたのが聞き書き、つまりインタビュー形式というアイデアです。
 僕は専門家ではないけれど、人文系のライターとしてこれまでたくさんの哲学(研究)者にインタビューをし、対談をまとめてきました。おっ、このアプローチで哲学史に入門するのはどうだろう。僕が入門者となって、哲学研究の第一人者たちに質問を投げかけ解説してもらうのはどうか。ライターとしての腕をふるってそれを活字にまとめ、読みやすく構成する。研究者の語り口や息づかいが聞こえてくるような哲学史があったら面白いし、学問的な水準を落とすことなく、ワクワクするような入門書になるにちがいない。そんな着想から企画を立ち上げ、インタビューを積み重ねてできあがったのが、本書を皮切りとした『哲学史入門』です。
 この『哲学史入門』は、シリーズ三冊で西洋哲学の歩みをたどっていきます。第一冊目の本書がカバーするのは古代ギリシア哲学からルネサンス思想まで。以降、二冊目ではデカルトからドイツ観念論までの近代哲学、三冊目では20世紀の哲学・思想を中心に取り上げます。
 本シリーズの最大の特徴は、なんと言っても登場いただく指南役の顔ぶれでしょう。インタビュー形式ではありますが、ノリはさながら第一人者による哲学史入門連続講義。平板な哲学・思想解説ではなく、哲学のプロフェッショナルから哲学史・思想史のダイナミックな見方や捉え方を学ぶことができる。手前味噌な言い方になりますが、ほんとうに贅沢なシリーズになりました。

個性豊かな指南役

 一冊目となる本書の内容を簡単に紹介しましょう。
 巻頭を飾る序章は、「哲学史をいかに学ぶか」と題した千葉雅也さんへのインタビューです。そもそも哲学史を学ぶとはどういうことなのか。哲学に関心を持った人が哲学史をどのように学んでいけばいいのか。『勉強の哲学』を書かれた千葉さんならではの実践的なアドバイスが満載です。実際の哲学史に足を踏み入れる前に、このパートで「哲学史の学び方」をざっくりとイメージしてみてください。
 続く第一章からいよいよ本論の始まりです。本書では、納富信留さん、山内志朗さん、伊藤博明さんを指南役に迎え、古代ギリシア哲学、中世哲学、ルネサンス思想を学んでいきます。
 インタビューでは、扱う人物やテーマ、論点をできるだけ絞り込んだうえで、各時代の哲学史の急所や難所となる話題を取り上げるようにしました。千葉さんもおっしゃっていますが、たった一つの哲学史なんてありえません。2500年以上にわたる哲学の営いとなみを歴史として語る以上、人物やトピックの選び方しだいで、無数の哲学史を語ることが可能です。ですから本書で取り上げる人物やトピックも、生徒役である僕と指南役のお三方の関心や問題意識に引っ張られていることはたしかです。というより、せっかくの聞き書き形式ですから、その利点を活かして、語り手の個性や関心をできるだけ引き出すようなインタビューを心がけました。
 ちょっとだけ頭出しをしておきましょう。たとえば納富さんは、20年以上前からソクラテスの「無知の知」という邦訳は誤っていることを力説し続けています。山内さんは、ドゥンス・スコトゥスの「存在の一義性」という概念と研究者人生を賭か けて格闘し、伊藤さんは通常の哲学史には収まり切らないルネサンス思想の豊穣さを繰り返し語ります。こんなふうに熱量たっぷりの哲学史語りが本シリーズの大きな魅力と言えるでしょう。
 各章の冒頭には、インタビューを読むうえで最低限知っておいたほうがいい基礎知識と、インタビューの読みどころを添えたイントロダクションを設けています。こちらで肩慣らしをして、インタビュー本編にお進みください。すでにある程度、哲学史に親しんでいる読者は、イントロダクションを飛ばしていきなりインタビューを読んでもかまいません。また章末には、指南役が推薦する三〜四冊のブックガイドを掲載しています。ピンと来たものがあったら、本書の次に手にとってみてください。
 前置きはこのくらいにして、そろそろ哲学史の門をくぐりましょう。願わくば、シリーズ三冊を完走していただければ幸いです。

哲学史をいかに学ぶか 千葉雅也

哲学史を知らないと、一人の哲学者を理解することもできない

斎藤 千葉さん自身は、哲学史をどういうふうに学んできたんですか。

千葉 僕は哲学科ではないので、哲学史全体をカバーするような授業は受けていません。古代哲学に関する授業は少し受けましたが、哲学史的な教養に関してはほぼ独学ですね。
 ただ哲学や批評理論を専門にやっていく場合、歴史上、絶対に読まなければならない本ってあるんですよ。カントの「三批判書」とかね。僕は友人たちと読書会を開いて、そういった本を読んでいきました。フーコーの『言葉と物』やデリダの『グラマトロジーについて』など現代思想の本にも手を付けていましたね。当時はろくに読めませんでしたけど。
 そうやっていろんな本を読んでいくと、読まなければいけない本が次々に出てくるんです。マルクスの話題が出たら、『資本論』を全部とは言わずともかじらなきゃいけない。とにかく話題にのぼるような有名な本は一通り手をつけなければいけない。そういう空気のなかで勉強してきました。

斎藤 『勉強の哲学』では、ハイデガーを例にとって、個々の哲学者もまずは入門書を複数読めとアドバイスしていましたね。

千葉 そうそう。哲学史を勉強して、カントでもニーチェでも、気になる哲学者やもっと知りたい哲学者がいたら、その入門書から入ればいいと思います。そのときに、入門書と一緒に原著も一冊買い、パラパラ見てから、入門書を読むような感じですかね。
 たとえばカントだったら、黒崎政男さんの『カント「純粋理性批判」入門』(講談社選書メチエ)のような入門書と一緒に、『純粋理性批判』も買ってくる。それで目次だけでも眺めると、なんとなく順番が目に入ってくるじゃないですか。そのぐらいで入門書を複数読んで、その後にまた原著に挑戦してみる。

斎藤 根本的な質問なんですが、どうして過去の哲学者も含めて、哲学史を学ぶことが大事なんでしょうか。

千葉 結局、一人の哲学者を学ぶといっても、哲学者の間の影響関係を知らないと、十分に理解することができないからです。たとえば、二〇世紀のドゥルーズという哲学者について知ろうと思ったら、ドゥルーズが依拠しているベルクソンについてある程度知らないとわからないんですよ。さらにベルクソンを理解するためには、今度はベルクソンが誰を相手取っていたかを知らなきゃいけない。そうすると、カントをはじめ、いろいろな哲学者が関わってくるわけです。
 哲学者はそれぞれ独立でゼロから仕事をしているわけじゃなくて、歴史的な積み重ねの上に成り立っている。だから哲学の先生として言えば、一人の哲学者について学ぼうと思ったら、哲学史を勉強しないと、正直なところお話にならないんですね。

概念の考古学

斎藤 急にハードルが上がった気が(笑)。

千葉 先生の立場としては、それが正直なところなんですよ。もちろん一人の哲学者について、単独でもある程度の理解を得ることはできますが、少なくとも哲学の知識を専門的に使うような場面になったら、哲学史の積み重ねを知っていることは言わずもがなの前提なんですね。だから、何の役に立つかとか考えず、四の五の言わずにやれ、としか言いようがない面もあります(笑)。
 ついでに言っておくと、こういう話を聞いて、理系と違うという印象を持つ人っていると思うんですね。たとえば、最新の量子力学を学ぶ場合、ニュートンの古典力学を理解することは必要ですが、ニュートンのいろいろな思想やその背景まで掘り起こす必要があるとは思わないわけですよ。
 ただ、理系分野でも、最先端の理論を切り開こうとしたら、既存の理論が歴史のなかでどのように生まれたか、その経緯を理解することが重要なのだろうと思います。当座のことだけを考えていては、最先端の展開を構想することはできないでしょう。未解決のままお蔵入りした問題、中途半端な状態のまま置き去りにされた問題などが過去にはあって、それらを掘り出すことによって、理論はさらに進化していくんですよ。

斎藤 プロの研究者って、そういうところに敏感なんですね。

千葉 だと思いますね。いまだって、何か世の中を騒がす事件が起きても、だいたい一週間ぐらいでみんな忘れちゃったりするでしょ。そういうことが学問の世界にはいっぱいあるわけですよ。大事なことなのに、たいして深い理由もなく忘れられてしまう。学者はそこに目をつけるんですね。
 とくに、博士論文を書いて学界でがんばろうとしている、野心的な若手研究者は、やっぱり過去に宝探しの冒険に行くんですよ。「ここに忘れられていた思想があった!」みたいなものを発見できたら、めっけものなわけです。
 哲学史の場合、そこで掘り起こすのは概念や、考え方の枠組みです。化石みたいになっている概念を掘り出して調べる。一言で言えば、概念の考古学をやっているわけです。
 こういう研究は、ほんとうに宝石を探しにいくような魅力があるんですが、一般の人にはなかなか難しいものです。哲学でこの種の研究をするとなると、三、四か国語プラス古代ギリシア語やラテン語の素養が求められます。古代語を操って埋もれた文書のなかから驚くべき思想を見つけるという魔法使いのような仕事ですからね。
 そういうファンタジーのようなことが、いまこの時代でもできるんですよ。もちろんそれは独学では無理で、大学、大学院で修業を積まないとできませんが、哲学史研究の先端には、そのぐらいワクワクするような冒険があるということも、ちょっと伝えておきたかったんです。

斎藤 プロを目指さない人でも、著作や論文を通じて、どういう冒険をしているかがわかるだけで楽しそうです。

千葉 基本的な積み重ねの地層が見えればいいんですよ。一個の地層だけを見るのではなくて、「この地層がこう曲がっているから、上に載ってるところもここが曲がってるんだな」みたいなことがわかるようになってくると、がぜん面白くなりますよね。

※この続きは『哲学史入門Ⅰ 古代ギリシアからルネサンスまで』でお楽しみください。

「哲学の起源」を問う――古代ギリシア・ローマの哲学 納富信留

起源は一つなのか

斎藤 西洋哲学史では、「哲学は古代ギリシアから始まった」ということが通り相場となっています。最初に大きな問いを投げかけますが、そもそも「哲学の始まり」ということを、どのように考えればいいでしょうか。

納富 ギリシア哲学史を語る場合、どうしても起源や始まりが強調されます。しかし、始まりとは何なのか。当たり前のように「哲学の始まり」や「哲学の誕生」と教科書には書いてあるけれど、それがどういう意味なのかを考えるのは、殊の外難しい。それじたいが哲学的な問題です。
 順に解きほぐしていきましょう。「古代ギリシアで哲学が始まった」という、ゆるぎない歴史観が西洋にあるのは事実です。誤解しないでほしいのですが、「古代ギリシアで哲学が始まった」という歴史的な事実があったということではなく、西洋の人々―――非西洋でもかなりの程度共有されていますが―――がそう認識しているという事実がある、ということです。
 私の理解では、「古代ギリシアで哲学が始まった」という認識は、アイデンティティの問題に関わっています。つまり、始まりを言うことは、自分のいまを言うことなんです。
 これは哲学に限りません。「私はどこそこの生まれです」とか「この王家は神に遡さかのぼります」と言うことは、自分がいま、どうであるかを照らし出すことでもあるわけです。

斎藤 「自分はみすぼらしい身なりをしているけど、実は貴族の家に生まれたんだ」と言う人は、たしかに自分の始まりを語ることで、暗に「だから自分は高貴な人物なんだ」ということを示してますね。

納富 だから「古代ギリシアで哲学が始まった」という認識は、西洋哲学がどういう自己限定をしているかということとの合わせ鏡になっているんですね。
 ではそれをどう考えるかというと、「歴史的事実ではない以上、それはイデオロギーだから壊そう」と言う人もいるかもしれません。しかし私は、そんな簡単な話ではないと思います。というのも、「始まりとしての古代ギリシア哲学」が、非常にうまく機能してきたからです。
 たとえば、ルネサンスも古典主義の時代も二〇世紀もそうなんですが、ギリシアに立ち戻り、始まりを問い直すことで、もう一回新たに哲学を作り直してしまう。ハイデガーやデリダだって、ギリシア哲学を批判しながら哲学を作り直そうとしたわけです。
 そういう意味では、始まりは固定されているのではなく、戻ることによって始まりじたいもまた変化していくんです。つまり、ギリシア哲学に立ち返って考察することじたいが、私たちの現在の哲学を変容させ、新たな哲学を形作っていく始まりになるわけです。

斎藤 でも、生まれの貴賤のように、始まりや起源を定めることは、時に暴力や差別を生む温床になりませんか。

納富 もちろん、起源を問うことの落とし穴には警戒すべきです。一つの起源を設定することで、ある意味で非常に強固なイデオロギーが生じるわけですよね。実際、いまでも西洋のギリシア崇拝は強固にあります。たとえば私が留学していたイギリスは、言ってみればヨーロッパの僻地なんですが(笑)、先生たちは「われわれはギリシア文明の直系の子孫だ。君たちは離れているけどね」とはっきり言うんですよ。最近もある講演会でフランス人が「われわれフランス人こそ直系だ」と言ってました。ドイツもイタリアも同じです。ギリシアに遡る意識は、それくらい強烈なんですね。
 そこを崩すには、起源を一つではなく、複数にすればいいんじゃないか。ギリシア哲学史のなかに複数の筋を立てることで、少なくとも別の風景が見えてくるんじゃないか、そう考えています。起源というと、ふつうは一つと思いたくなるけれど、問題群に応じて異なる始まりを採用すれば、多様なギリシア哲学史が描けますよね。そうやって多元的・多層的に哲学史を見たほうが、一つの筋しかない単線的な哲学史よりも、哲学史の可能性が広がるし、より豊かな見方ができるようになると思います。実際、放送大学で担当している「西洋哲学の根源」という科目では、一〇の筋を立てて、それぞれについて講義しているんですよ(表1)。

(表1)「哲学史の筋」10本

ギリシア哲学史前半期の時代区分

斎藤 「始まり」ということに関連して伺います。かつては、ギリシア哲学史を区分するときに、「ソクラテス以前の哲学」という括り方をしていましたが、近年は「初期ギリシアの哲学」という括り方が目立つようになってきました。これはどういう理由からですか。

納富 まず単純に、「ソクラテス以前」で括られている哲学者のなかには、ソクラテスより若い人も入っていたんですよ。たとえば原子論者のデモクリトスはソクラテスより若いけれど、従来はイオニア自然学の系譜から「ソクラテス以前の哲学」に入っていました。だからまず、時代的に見て「ソクラテス以前」はおかしいわけです。
 もう一つの理由としては、ソクラテス以前という言い方は、ソクラテス以前・以後で哲学が根本的に変わったという前提と価値づけが入ってしまっているんです。乱暴に言うと、ソクラテス以前の人たちはある意味では未熟な哲学だという偏見があったわけです。たとえば、ディールス&クランツ編『ソクラテス以前哲学者断片集』では、ソフィストをソクラテス以前に含めてしまっていますが、それもそういった背景からです。
 でも、そこで取り上げられているソフィストの多くは、ソクラテスとほぼ同世代か、少し若いんです。それなのになぜ、ソクラテス以前のほうに入っているかというと、ソクラテスより劣っているという理由で「前」だとされたからです。

斎藤 なるほど。それで「初期ギリシア哲学」に変えようと。

納富 ただ、二〇一六年に出版されて、世界的な標準となっているラクス&モスト編『初期ギリシア哲学』という全九巻の資料集では、ソフィストもソクラテスも「初期ギリシア」に入っているんですね。こちらは要するに「プラトン以前」ということなんです。これはこれで、プラトンが本格的な哲学を始めたんだという偏見が入っている。むろん、まとまった哲学著作が残っているのはプラトンが最初だという、資料的な事情もありますが。

斎藤 時代区分一つをとっても、難しい問題があるんですね。納富さんはギリシア哲学史をどのように区分しているんですか。

納富 大きく「ポリス社会の哲学」という前半期と、「広域王国・帝国の哲学」という後半期に分けて、前半はアリストテレスが死んだ紀元前三二二年までとしています。ちょうどこの時期は、ギリシアのポリス社会が終わって、ヘレニズム時代へと転換する変わり目にあたるからです。

(表2)前半期:ポリス社会の哲学

 後半期の詳細についてはのちほど説明することにして、いまは前半期だけ説明しておきましょう(表2)。前半期は、「初期ギリシア哲学」と「古典期ギリシア哲学」というふうに二分しています。これは、地理と政治社会をふまえた歴史区分です。
 先ほど挙げたデモクリトスなどは、年代的には古典期に入りますが、活動地域や関心テーマの連続性から「初期ギリシア哲学」に組み込んでいます。一方で、ソフィストは「アテナイの古典哲学」期に入れることで、ソクラテスやプラトンを特別視するような偏見は取り除かれるんですね。
 こうすると、初期ギリシア哲学は、イオニアとイタリアを舞台とした、自然を中心とした哲学で、次の古典期は、民主政が進んだアテナイで行われたポリス中心の哲学というふうに、ある程度スッキリするんです。

斎藤 納富さんの時代区分はしっくり来ますね。

納富 実際のところ、哲学研究者もあまり時代区分を気にしてないんですよ。たいていは、地理や政治社会状況を考えずに、思想的な影響関係だけで哲学者をつないでしまいます。そうやってしまうと、イオニアが中心なのか、アテナイが中心だったのかなんて関係ないんですよ。
 でも、それは歴史としてはまずい。歴史である以上、時間と空間をふまえ、誰と誰が同時代であるとか、活動地域がどのあたりであるとかいったことを精査する必要があります。この二つの要素を欠いては、歴史とは言えないんですよね。哲学史も「歴史」ですから。

※この続きは『哲学史入門Ⅰ 古代ギリシアからルネサンスまで』でお楽しみください。


斎藤哲也(さいとう・てつや)
1971年生まれ。人文ライター。東京大学文学部哲学科卒業。人文思想系を中心に、知の橋渡しとなる書籍の編集・構成を数多く手がける。著書に『試験に出る哲学』シリーズ(NHK出版新書)、『読解 評論文キーワード 改訂版』(筑摩書房)など。

千葉雅也(ちば・まさや)
1978年生まれ。立命館大学大学院教授。専門は、哲学および表象文化論。著書に『現代思想入門』(講談社現代新書)、『デッドライン』(新潮社)など。

納富信留(のうとみ・のぶる)
1965年生まれ。東京大学大学院教授。専門は西洋古代哲学。著書『プラトンとの哲学』(岩波新書)、『ギリシア哲学史』(筑摩書房)など。

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