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食べものを前にすると、なぜ「食べたい」と思うのか? その答えは、遺伝子組み換えゼブラフィッシュの放つ「光」が教えてくれる

 NHK Eテレ、異色の知的エンタメ番組「ろんぶ~ん」を書籍化した『奇跡の論文図鑑 ありえないネタを、クリエイティブに!』より、番組MCを務めたロンドンブーツ1号2号・田村淳さんも「刺激的だった」と評した論文を紹介!
 国立遺伝学研究所・川上浩一(かわかみ・こういち)教授らの論文「獲物を視覚的に認識したときの視床下部下葉(ししょうかぶかよう)摂食中枢の活性化」。その独創的な研究内容をわかりやすく解説します。

イラスト=藤田 翔

遺伝子組み換えゼブラフィッシュの実験で、人間の食欲に迫る

 遺伝学の専門家、川上。その研究のテーマは、脳や神経回路がどのように機能しているかを遺伝子レベルで解明すること。
 今回の論文で検証したのは、視覚と食欲の関係性である。生物は食べものを見たとき、なぜ「食べたい」と思うのか? その理由が、脳の働きから解き明かされる。ちなみに、彼のデスクには常にお菓子が置かれている。「論文執筆中は甘いものが手放せない」という川上だが、研究に対する姿勢はまったく甘くない。

「どうしておなかがへるのかな」という歌詞の童謡がありますが、答えを言ってしまうと、脊椎動物の食欲は脳の視床下部という部分が司(つかさど)っています。
 さまざまな先行研究によって、視床下部を破壊すると餌を摂らなくなることや、逆に刺激すると餌を求めることが、すでに明らかになっているのです。
 さらに言えば、食欲を引き起こす神経活動は、血糖値の下降や上昇だけでなく、「目の前に現れたなにかが、食べられるかどうか」の認識によっても活性化することがわかっています。たとえば、ある実験では、サルに日常的によく食べている餌を見せると、視床下部の神経行動が活性化することが判明しました。
 ここで問題としたいのは、「動物に食欲が起こるのは、本能によるものなのか」ということ。しかし、サルもそうですが、実験の対象となっているのは、すでに何度も餌を食べたことがある動物。つまり、「食事の経験のある動物」です。それでは、「食事の経験のない動物」だとどうなるのでしょう?
 なにかを見たときに食欲が湧くのは、経験によるものか、本能によるものか――。実験によって動物の脳内で起きていることを観察し、それを検証したのが川上先生の論文です。

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世界の研究者がゼブラフィッシュを選ぶ理由

 実験に使用したのは、観賞用の熱帯魚として知られる、ゼブラフィッシュ。摂食開始前の稚魚、つまり「食事の経験のない動物」を選びました。

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ゼブラフィッシュの成魚(画像提供/川上浩一)

 安くて飼いやすいというゼブラフィッシュ。世界中の研究者が実験に用いるそうですが、選んだ理由はそれだけではないと川上先生は語ります。
「ゼブラフィッシュには背骨があり、心臓や肝臓などの内臓もひと揃い持っています。そして、遺伝子の約70%が人間と同じであるとも言われています。また、ゼブラフィッシュは卵から生まれるので、生後親の世話を受けません。自ら最初の『食事』を行います。しかもその時期のゼブラフィッシュは、脳が透明で外部からの観察が容易です。つまり生命のもっとも早い段階での摂食行動における脳の動きを研究するには、とても優れたモデルなのです」
 しかし、川上先生が使用したのは、ただのゼブラフィッシュではありません。なんと、川上先生自身が実験用のモデル生物として開発した、脳や神経細胞が働くと発光する遺伝子組み換えゼブラフィッシュなのです。
 光を発する理由は、2008年にノーベル化学賞を受賞した下村脩(しもむら・おさむ)さんが発見した緑色蛍光タンパク質(GFP)を利用して遺伝子組み換えを行っているから。食べものを見て脳が反応している様子が発光によってひと目でわかるのです。

光るゼブラフィッシュ誕生秘話

 さらっと書きましたが、この光るゼブラフィッシュの誕生までには、血のにじむようなドラマがありました。実験の内容に触れる前に、その誕生秘話を紹介しましょう。
 話はおよそ30年前にさかのぼります。若き日の川上先生は、遺伝子組み換えで微生物の研究を行っていました。そんな折、新しい研究を始めようと意気込み渡航したアメリカで、ゼブラフィッシュに出会います。
 当時、ゼブラフィッシュを研究対象としている研究室は日本にはほとんどなく、世界的にもそれほど多くありませんでした。また、ゼブラフィッシュでは、遺伝子組み換えの実験や研究を行うことが難しいとされていました。にもかかわらず、川上先生が研究に挑戦しようと考えたのは、モデル生物としての比類のない長所にありました。
「私たち人間もみな、1つの細胞から始まります。それが2つに分裂し、4つ、8つと増え、体の構造ができていく。その過程が人間だと見えません。一方ゼブラフィッシュの稚魚の体は透明なので、脳細胞や心臓の細胞ができる過程を続けて見ることができるのです」
 研究は30の水槽からスタートしました。しかし、なかなか思うように進みません。当時の研究ノートからは、川上先生の苦戦ぶりが手に取るように伝わってきます。
「まったく出ない。どうしてだ?」「希釈(溶液の濃度を下げるために、水や溶媒を加え薄めること)からやり直し」「これは明らかに間違い」……。
 1年経ち2年経ち、試行錯誤を重ねること実に4年、ついにそのときが訪れます。遺伝子組み換えによって、心臓が緑色に光るゼブラフィッシュが誕生したのです。ほっとして体中の力が抜けたという川上先生は、「これで今後も、(研究者として)やっていけると確信しました」と当時を振り返ります。
 その後、さまざまな部位を光らせることに成功します。たとえば、肝臓と目の水晶体が光るゼブラフィッシュ。肝臓でしか働かない遺伝子や、体の違う部分(この場合、肝臓と目の水晶体)で同時に働く遺伝子があり、そうした遺伝子の働きを利用すれば、2つの部位で同時に光るようになるのだとか。

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骨格が発光するよう遺伝子組み換えをされたゼブラフィッシュ(画像提供/川上浩一)

 いまでは1700種ものゼブラフィッシュを開発し、世界中の研究者に供給、実験で使ってもらっています。川上先生が開発した技術やゼブラフィッシュを実験に用いた論文は、年間およそ1000本も生み出されていると言います。
 研究室の一角にある通称「フィッシュルーム」には、約3,000に上る水槽が所狭しと並びます。
「遺伝子が2万、3万あるとすれば、ゼブラフィッシュの遺伝子を1つずつ変えていっても、大ざっぱに言うと2~3万種類の遺伝子組み換えゼブラフィッシュを作らなければなりません。3000の水槽では、足りないくらいです」

脳のどこが反応しているか?

 では、この光るゼブラフィッシュで、どうやって「目にしたものに対して食欲が湧くのは、経験か本能か」を明らかにできるのでしょう?
 実験方法は簡単です。ゼブラフィッシュの稚魚にゾウリムシを見せ、それを食べるときに脳のどこが光っているか(=反応しているか)を確認するのです。これでゼブラフィッシュの視床下部下葉という部位が光れば、初めて見たはずのゾウリムシを「食べたい」と思っている、つまり、食欲は本能に由来するものだというわけです。
 するとゾウリムシを目視した瞬間、ゼブラフィッシュの視床下部下葉がピカピカと光り出しました。これによって、なにかを目にしたときに湧く食欲は本能的なものであり、しかも視覚情報が重要な意味を持つと考えられるのです。

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視覚か? 嗅覚か?

 ただ、これだけではゼブラフィッシュが視覚以外に嗅覚も使っている可能性を否定できません。そこで、同様の方法でゾウリムシではなくビーズや気泡を見せるという実験も行いました。すると、餌だと思って間違えて食べるという瞬間を観察できました。

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 ここからわかるのは、ゼブラフィッシュには「ゾウリムシくらいのサイズで動くものは食べものである」という情報が、遺伝的に脳にインプットされているということです。
 おそらく進化の過程でその餌を食べてきた個体が生き残ってきたから、そうした反応を示すようになっているのでしょう。「あるサイズのものが、あるスピードで動くと反応する神経回路」を生まれながらにして持っているのです。
 また、視床下部を破壊すると餌を摂らなくなると前述しましたが、それでは、視覚情報を司る脳の細胞を破壊してみるとどうでしょうか? この場合、ゼブラフィッシュは餌を捕獲しなくなることが観察されました。
 一方、嗅覚を司る細胞を破壊しても、餌の捕獲が止まることはありませんでした。やはり、餌を捕獲する際、視覚情報が重要であることは間違いなさそうです。

脳回路を超高速で伝達される、餌情報

 しかし、川上先生はこれだけでは満足しませんでした。目で見た情報が、どうやって視床下部下葉に伝わるかも明らかにしようと考えたのです。
 そこで今度は視床下部下葉以外の部分も光るゼブラフィッシュを作ってしまったのです。さあ、どうなるのでしょうか?
 すると、視床下部に加えて前方に2か所ピカピカと光る部分がありました。光ったのは、「前視蓋(ぜんしがい)」と呼ばれる神経細胞の集合体です。そしてそれらの神経細胞の発火(興奮)は、視床下部の摂食中枢へと伝達されることが発見されました。これによって視覚情報が食欲へとつながるプロセスの一部も解明されたというわけです。
 特筆すべきは、そのスピードです。川上先生が発光時間を観察したところ、情報が神経を伝わる速さは1000分の1秒の世界。「あ、なにか動いた、食べたい」という情報処理が一瞬のうちに行われているのです。

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食欲の正体

 1950年代から神経行動学の世界では、「獲物検出器」という概念が提唱されてきました。目で見て食べものかどうかを判断する仕組みのことです。しかし、実際に獲物の検出に特化した脳の領域が存在するかどうかは解明されませんでした。川上先生の研究グループは、今回の実験で、神経細胞の集合体であるこの前視蓋こそ、「獲物検出器」の正体であると突き止めたのです。
 論文ではその他にもいろいろなことが検証されています。たとえば、サルは満腹時に視床下部における視覚反応が低下することがわかっていますが、ゼブラフィッシュも同様であること。たとえば、ゼブラフィッシュの視床下部の反応が、餌を食べた後にさらに大きくなる(大きく光を放つ)ことなどです。後者については、餌の味を経験したことが関係していると思われますが、そのメカニズムを理解するためには、さらなる研究が必要になりそうです。
 翻って、こうして得られた知見は、人間とどの程度まで一致していると言えるのでしょうか?
 ここからは推測の域を出ませんが、生まれたばかりの人間の赤ちゃんは、小さいものをなんでも口に入れようとします。これももしかすると、小さいものを見ると「食べたい」というシグナルを発する神経回路が遺伝的に存在しているためかもしれません。実験でゼブラフィッシュに起きていたことと似たような現象が、人間にも起きていると言えそうです。
 このような神経回路の研究を積み重ねていけば、過食症や拒食症など摂食障害の治療にも役立つかもしれないと川上先生は語ります。

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研究者にとって、幸せとはなにか?

 自身の研究について、「まだまだ始まったばかり。やるべきことは山ほどある」と謙遜(けんそん)する川上先生。「研究者」という存在を、次のように定義します。
「研究者には、芸術家や職人のようなところがあります。まず苦しみながら1つのアイデアを生み出します。その後はひたすら実験。うまくいかなかったら、やり直し。その繰り返しです。成功するかどうかなんてわからない。ただそこになにか光るもの、成功の兆(きざ)しのようなものが見えれば、そこから先に広がっている世界を想像できるのです」
 そう言ってほほ笑む川上先生。開発に成功した最初のゼブラフィッシュの光が、脳裏をよぎっていたのかもしれません。自身の研究について、改めて思いの丈(たけ)を語ってもらいました。
「もちろん、この研究を進めていけば、いろいろな応用が期待できます。しかし、私がゼブラフィッシュの研究をしているのは、それだけが理由ではないのです。そもそも、魚が光っていること自体がとてもワクワクしませんか? 私が行っているのは基礎研究。研究そのものの面白さが伝えられたら、いちばんうれしいです」
 川上先生が研究を始めてから30年。毎日顕微鏡を覗いていても飽きることはないと言います。その理由はゼブラフィッシュの美しさに魅せられたから。
「ゼブラフィッシュの子どもは、とてもキレイなんですよ。まるで美しい絵画を見たときと同じような気持ちになる。初めて顕微鏡を覗いたとき、『ゼブラフィッシュに賭けよう』と決めました。この魚で毎日実験できるのは、幸せなことだと思ったのです」
 研究テーマとして毎日向き合うなら、好きなものの方が間違いなく良いでしょう。「研究者にとって、幸せとはなにか」と聞かれたら、次のように定義できるかもしれません。なによりもまず、好きなものを研究することである――。
「キレイなものを見ながら、研究できるってとってもいいと思いませんか?」
 目を輝かせる川上先生。今後もゼブラフィッシュをテーマにたくさんの研究成果を達成してくれるに違いありません。

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*論文出典
Akira Muto, Pradeep Lal, Deepak Ailani, Gembu Abe, Mari Itoh and Koichi Kawakami ❛Activation of the hypothalamic feeding centre upon visual prey detection(獲物を視覚的に認識したときの視床下部下葉摂食中枢の活性化)❜ , Nature Communications Vol.8 , 2017


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