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佐藤健主演で話題の映画『護られなかった者たちへ』に連なる社会派ヒューマンミステリー――中山七里「彷徨う者たち」

ミステリーにとどまらず、社会問題に鋭く切り込みながらそれに翻弄される人々の人間模様を色濃く描いたストーリーが人気の「宮城県警シリーズ」。『護られなかった者たちへ』『境界線』に続く本作は、笘篠&蓮田刑事の名コンビ第3弾。直面する難事件に、笘篠はどのように挑み、蓮田は何を選択するのか――

一 解体と復興

 八月十五日、宮城県本吉郡南三陸町歌津吉野沢。
 渡辺憲一(わたなべけんいち)は作業の手をいったん止め、高台から伊里前湾を眺めた。海はここから一キロ以上離れており、波の具合までは確かめられない。だが一キロ以上離れた場所から水平線を望めるのは、その間に視界を隔てるものが存在しないからだ。
 以前は視線の延長線上に中高層の建造物があったのだろうが、今やその面影もない。東日本大震災による倒壊、および津波による流出で南三陸町の建造物はほぼ壊滅し、その後の撤去作業で多くが更地となった。
「広っれーなあ」
 つい言葉が洩れる。渡辺は山間部で生まれ育ったため、周囲に何もない場所に立たされると漠然とした不安を覚えてしまう。
 本来、復興事業が計画通りに進行すれば新築の建造物がそこかしこに建ち並んでいるはずだが、現状は瓦礫(がれき)の撤去が済んでも槌音(つちおと)は聞こえてこない。宮城には復興の名目で全国から多くのカネとモノとヒトが集まったが、いつしか二年後に開催予定の東京オリンピックに奪われてしまったのだ。お蔭で復興計画は遅々として進まない。
 渡辺が現在担当している仮設住宅の解体作業も似たようなものだ。着手した当初は四十人いた作業員も、今では三分の一以下しか残っていない。それでも愚直に続けていれば物事は前に進む。被災者の災害公営住宅への移転が進むにつれて、不要となった仮設住宅は次々に解体されていく。作業員の数も減ったが、ここの仮設住宅に住まう者もずいぶん減った。確か、もう三世帯しか残っていないはずだ。
 被災民でもなく解体作業を請け負っている身で言えた義理ではないが、住民を根こそぎ移転させる一方で更地ばかりが増えていく状況が果たして復興と呼べるのかどうか。
「おっと」
 渡辺は止めていた手を再び動かし始める。プレハブ住宅なので解体工事は小規模且つ簡便に済む。まず電気やガスなどのライフラインを撤去した後、屋根の撤去→壁の撤去→床の撤去→基礎の撤去と進む。つまり組み立てる手順を逆から行うイメージだ。
 ライフラインが撤去されているかどうかを確認するためには住宅内に足を踏み入れなければならない。渡辺は解体対象となっている左端の住宅に近づき、ふと足を止めた。
 掃き出し窓から覗くと、部屋の中に男が倒れている。部屋着ではなく背広姿だ。
 妙だと思った。解体対象の住宅だから住人は家財道具とともに退去しているはずだ。それがどうして人が残っているのか。
 渡辺は窓を軽く叩いた。
「もしもし。もしもし」
 声を掛けてみたが男はぴくりとも動かない。
 参ったな。
 酔っ払いかそれともホームレスか。夜露をしのぐために無人の住宅に侵入したのかもしれない。
 とにかく退去してもらわなければ。渡辺は玄関に回ってドアノブに手を掛けた。ところが施錠されていて開かない。
 解体担当者は立ち入りのために鍵を渡されている。該当する番号の鍵で中に入る。
 男は目を閉じて口をだらしなく半開きにしている。やはり眠っているらしい。
「すいません。今からこの家、解体するんで」
 男の身体を揺り動かした時、頭がごろりと横を向いて床が見えた。
 血溜まりができていた。
「ひっ」
 後頭部が石榴(ざくろ)のように割れていた。

 死体発見の報せを受けて南三陸署の警官が現場に到着。少し遅れてやってきた機捜と庶務担当管理官が事件性を認め、県警本部の捜査一課に連絡が入った。
「これって過疎みたいなものですよね」
 臨場した蓮田将悟(はすだしょうご)は率直な感想を口にした。同行していた笘篠誠一郎(とましのせいいちろう)は何やら咎めるような目で蓮田を見る。
「以前はこの区画だけで百二十四世帯。ところが今やたったの三世帯。ほとんど限界集落の様相を呈しています」
「時期がきたらもっとちゃんとした住宅に移転するための仮住まい。だから仮設という名前がついているんだ」
 笘篠のもっともな返しに納得せざるを得ない。では時期が到来しても、ちゃんとした住宅に移転できない者たちはどこに行けばいいというのだろうか。
 震災後、南三陸町内と登米市に五十八団地、計二千百九十五戸のプレハブ仮設が整備され、ピーク時には千九百四十一世帯五千八百四十一人が入居していた。それから七年、復興庁の肝煎りで新規集合住宅の建設が進み、元吉野沢の住民は次々と入谷・名足・枡沢といった復興公営住宅へ移転し始めた。だが公営住宅といっても家賃はタダではない。自治体や住宅の規模や立地によって入居費用にも差異が生じており、全ての被災民が入居条件を満たしている訳でもない。
 蓮田には以上のような予備知識があったので、今回死体で発見されたのは移転できていない仮設住民という思い込みがあったが、それはすぐに覆されることになった。
 現場となった住宅の周辺では所轄の捜査員と鑑識係が動き回っている。掃き出し窓の中には唐沢(からさわ)検視官の姿も見える。
「死んでいたのはこの家の住人じゃなさそうだな」
 笘篠は独り言のように呟く。
「家財道具はすっかり運び出されている。鍵は転居時に預けてある。もぬけの殻になった家に元の住人がどんな用事がある」
 検視が終わったらしく、笘篠と蓮田は住宅の中に呼び入れられた。中に入ってみると、確かに家財道具一式も生活用品も見当たらず、撤去が完了していたことを窺わせる。
「住人が移転してからずいぶん経っていたみたいだな。見ろ。床にうっすらと埃が積もっている」
 足を踏み入れるや否や、笘篠はそこら中を観察している。この注意深さと集中力がまだ自分には足りていないと反省する。まだ鑑識作業の最中にあり、二人は歩行帯の上を歩いてリビングに向かう。
「やあ、ご苦労さん」
 唐沢は軽く手を挙げて二人を迎える。フローリングの上の死体はうつ伏せになり、おそらくは致命傷となった後頭部の傷口を晒している。
「後頭部を鈍器で一撃されています。よほど重量のあるもので殴打されたようです。ひと通り体表面を調べましたが他に外傷はない。この一撃が致命傷となったものと思えます」
 笘篠は合掌した後、死体の傍らに屈み込んで傷口を凝視する。蓮田もそれに倣って死体の横顔を覗く。三十前後と思しき小男で既に死斑が現れている。
「死亡推定時刻は昨夜八時から十時にかけて。例によって司法解剖すればもっと範囲を狭められると思う。ただ今回の場合、悩ましいのは別の要因でしょうね」
 他人には唐沢の言い方が思わせぶりに聞こえるだろうが、自分たち捜査員には言わずもがなだった。
 死体の第一発見者は仮設住宅の解体を請け負っていた作業員、渡辺憲一だ。彼の証言によれば玄関ドアは内側から施錠されていたらしい。また報せを受けて駆けつけた南三陸署の捜査員からは、裏口も同様に鍵が掛かっていたと報告されている。
 家の中に入った時、蓮田も周囲を見回して確認したが、この住宅の開口部は表と裏のドア、そして掃き出し窓しかない。蓮田は念のために近づいて仔細に見たが、窓は二か所でロックされておりガラスが破られた痕跡も見当たらない。
 つまり犯人の逃走経路が存在しないのだ。
「笘篠さん」
 笘篠なら何か考えがあるだろうと反応を待ったが、本人は気難しげに眉を顰(ひそ)めている。
「被害者の身元、割れました」
 鑑識係の一人がナイロン袋を携えて駆け寄ってきた。中には運転免許証と身分証が入っている。
『南三陸町役場 建設課土木係 掛川勇児(かけがわゆうじ)』
 身分証の顔写真と死体のそれが一致しているので、掛川本人とみて間違いないだろう。年齢は二十九歳、住所は南三陸町。
「他の所持品は」
「札入れにカード類と現金三万五千四百円」
「携帯端末は」
「持っていませんでしたね」
「南三陸町役場に照会」
 笘篠の指示を受けた蓮田はいったん住宅の外に出て役場に電話を掛ける。身分を名乗って建設課を呼び出してもらうと女性の声が出た。
『鶴見(つるみ)と申します』
「宮城県警刑事部の蓮田です。そちらに掛川勇児という人は在籍されていますか」
『掛川はウチの職員ですが』
「掛川さんと思しき男性が死体で発見されました」
 電話の向こう側で鶴見が絶句するのが分かった。
「もしもし」
『……時間になっても登庁してこないので、どうしたのかと思っていたんですけど』
「本人かどうかを確認したいのです。ご足労願えますか。それと掛川さんのご身内の連絡先を教えてください」
『少し待ってください』
 名簿でも取りに行ったのだろうか、しばらく間が空いてから鶴見が戻ってきた。彼女から緊急連絡先を聞き取り、早速遺族に連絡を入れる。遺族は仕事を中断して向かうと答えてきた。
 住宅の中に戻ると、笘篠が鑑識係と顔を見合わせていた。
「どうかしましたか、笘篠さん」
「やはりドアと窓以外に出入りできる開口部はない」
 蓮田は神妙に頷く。
「他の開口部と言えば天井に設えられた採光窓だが床から三メートルも離れていて、脚立でも使わない限り届かない。そもそも窓は嵌(は)め殺しになっているから開閉自体が不可能だ」
 採光窓は八十センチメートル四方の小ぶりなもので、本来の目的には充分合致していないように見える。これも仮設住宅の安普請といったところか。
 笘篠は不愉快そうに顔を顰(しか)める。何を言わんとしているかは蓮田も承知している。
「分かりますよ。笘篠さん、理屈に合わない話は嫌いですものね」
「理屈に合わない話は、どこかに見落としがあるものだ」
「同意します。だからその見落としが何であるかを見つけるか、さもなければ合理的な説明を見つけなきゃいけません」
 蓮田は嫌われるのを承知で言葉に出した。
「これはもしかすると密室殺人、不可能犯罪かもしれません」
 笘篠は不承不承といった体(てい)で頷いてみせた。
 推理小説やドラマではよく扱われる設定の一つであり蓮田自身もその類の小説を読んだことがあるが、実際の事案で現場が密室状態になることはまず有り得ない。第一、人を殺したのなら可能な限り犯行の痕跡を消してしまうか、いっそ死体そのものを消してしまう方が手っ取り早い。自殺に偽装するのでもない限り、密室状態を作るのは無駄な手間ではないのか。無論、公判を維持するには容疑者に犯行が可能であることを証明する必要があるが、逮捕した時点で自白調書を作成し物的証拠を集めれば充分対抗できる。いずれにしても労多く実り少ないアイデアとしか思えない。
「こうして実在しているなら不可能ということはないだろう」
 笘篠は渋面のまま言い放つ。
「人間がこしらえた小細工なら同じ人間が暴けるはずだ」
 どうやら大真面目に不可能犯罪に挑むつもりらしい。どこか融通の利かない笘篠らしいと、蓮田は心中で感心する。
「両角(もろずみ)さんがいたら教えてくれ」
 両角は笘篠が全幅の信頼を置いている鑑識係だ。もっとも当の両角は個人的に質問してくる笘篠を煩(うるさ)そうにあしらうことが少なくない。
 現場を回っているとすぐに両角は見つかった。不本意そうな両角を宥めて笘篠に会わせる。
「笘篠さん。あんたは相変わらずせっかちだな。報告書を待てないのか」
「読むより直接訊いた方が、理解が早いクチでしてね」
「報告書は最終的な判断だ。誤謬(ごびゅう)や勇み足がない」
「両角さんに限って誤謬や勇み足はないでしょう」
 両角は笘篠を睨んでから、視線をこちらに寄越した。
「あんたは、こんな先輩を見習うんじゃないぞ。現状、毛髪、体液、下足痕(げそこん)は被害者のものを含めて多数採取されている。現場は以前の住人が退去する際に引っ越し業者が出入りしているから分析に時間が掛かる」
「血痕はどうですか」
「被害者のものと思われるものは検出された。それ以外にはまだない」
「内部から全て施錠された住宅で起きた殺人、両角さんに何か意見はありますか」
「俺たちは採取して分析するのが仕事であって、謎解きをすることじゃない」
 そう言ってから両角は家の中を見回す。
「ただし鑑識の立場で言わせてもらうなら、このプレハブ住宅は子ども一人這い出る隙もない。臨場してから内部を隈なく捜索したが、開口部は表と裏のドアのみ。採光窓は嵌め殺し。浴室に換気口があるが、これは十二センチ四方しかない」
「床下から脱出するのは無理ですか」
「畳敷きの日本家屋ならともかく、こういう木質パネル系のプレハブじゃあどうしようもない。フローリングを剝がす訳にもいかんだろうしな」
 プレハブは工場で生産した部材を現場で組み立てる工法だ。フローリングも一体型がほとんどであり、容易に剝がせる造りにはなっていない。
「二つのドアは別々の鍵になっている。今しがたピッキングの痕跡が残っていないか確認したが、道具を使用した形跡はない。だから犯人が被害者を殺害してから外に出て施錠をした可能性は捨てた方がいい。もっとも合鍵でもあれば話は別だが」
 入居者が退去した後で鍵がどんな扱いを受けるのかを確認しておこうと、蓮田は頭の抽斗(ひきだし)に入れておく。
 鑑識作業が続く中、南三陸町役場から関係者が到着したとの報せが入った。
「会おう」
 笘篠が動いたので蓮田もそれに倣う。
 関係者というのは、予想した通り電話の主だった。
「建設課の鶴見です」
 彼女の差し出した名刺には〈建設課課長補佐 鶴見圭以子(けいこ)〉とあった。四十代後半だろうか、まだ髪は黒々としており、穏やかな物腰が印象的だった。
「課長は所用で手が離せないので、わたしが代理で伺いました」
 部下の死亡より大切な所用というのは、いったい何なのかと蓮田は微かに憤る。どうせ面倒臭い確認や手続きを補佐の鶴見に丸投げしたに決まっている。
 急に鶴見が気の毒になり、彼女の対応は自分が買って出た。
「早速で申し訳ありませんが、被害者の確認をお願いします」
 蓮田が先導して鶴見をリビングに連れていく。事前に伝えていたにも拘わらず、掛川の遺体と対面した鶴見は驚愕の顔をみせた。
「ウチの掛川勇児さんに間違いありません」
「捜査にご協力ください」
「わたしができることでしたら何でも」
 少なくとも彼女の上司よりは協力的らしいので、ほっとした。鶴見を伴って外に出る。自分に一任してくれたらしく笘篠は蓮田の背後から見ている。
「掛川さんはあなたの直属の部下だったんですか」
「正確には、彼は土木係だったので間に係長がいます。ただし建設課自体が小所帯なので、掛川さんの仕事ぶりはいつも近くで見ていました。同じシマですしね」
 シマというのは同じ机の並びという意味らしい。
「掛川さんはどんな方でしたか」
「ひと言で言うなら、とにかく真面目でしたね。建設課は復興事業と密接に関連しているので最も仕事量が多い部署の一つですが、掛川さんは文句一つこぼさず黙々と仕事をこなしていました。所謂(いわゆる)、不言実行タイプでした」
「職場でトラブルとかはなかったですか」
「ありませんね。トラブルを起こすような性格でもなければ、トラブルが起きる前に回避してしまうようなところもありました」
「土木係というのはどういうお仕事なんですか」
「町内の土木関係に関して届け出と認可手続きをひと通り。それ以外に仮設住宅の管理も行っています。他の自治体と大きく異なる点はそこでしょうね」
「要するに管理人代わりですか」
「復興公営住宅の建設が進むにつれて移転が促進されています。本来、仮設住宅からの退去と公営住宅への入居はワンセットになっているんですが、実情は入居者全員の希望を叶えるのが困難で、相談係のような役割も担っていますね」
「掛川さんが、そうした相談や折衝も担当していたということですか」
「そうですね」
 鶴見の返事は歯切れが悪い。何か隠していることは蓮田にも見当がつく。
「職場でトラブルがなくても、入居者との間でトラブルがあったんじゃないですか」
「色々な理由で復興公営住宅に転居できない人、または転居を嫌がっている入居者がいます。課としては説得に努めますが、中には解決が難しい事案もあります。そうした事例は単に行政サービス範囲内の行き違いであって、トラブルとは呼べない類のものです」
 弁解がましい説明だと思ったが、役人の立場ではトラブルをトラブルと表現するのが憚(はばか)られるのだろう。同じ公務員でも四六時中トラブルと向き合っている警察官とは大違いだ。
 鶴見の唇を滑らかにする方法はないものか思案していると、背後から笘篠が割って入った。
「ちょっとした行き違いでも他人を殺したいほど恨む人間はいますよ」
 鶴見の表情が一変する。
「行政側が良かれと思ってしていることが、本人には耐え難いほどの仕打ちになる。掛川さんは真面目な性格だったということですが、真面目であればあるほど行政側の決まり事を遵守するきらいがあるから、尚更入居者には冷酷に感じられる。そういう行き違いが殺人事件に発展したことだってある。掛川さんの死がそうじゃないと言い切れますか」
 鶴見は顔を強張らせたまま笘篠を見る。やはり相手の追い詰め方では笘篠に一日の長がある。
「トラブルを公にしたくない気持ちは分かりますが、犯人逮捕が遅れたら亡くなった掛川さんが成仏できませんよ」
「報告書に残るような話じゃないんです」
 鶴見は尚も言い募る。
「現場で処理できる案件は現場で処理します。小さな行き違いなら口頭で報告が上がることもありません」
「つまり掛川さんが現場で処理する程度のトラブルは存在していた訳ですね」
 笘篠の言葉が鋭さを増し、鶴見は一層険しい顔になる。
 束の間、重い沈黙が流れると笘篠が後ろから背中を突いてきた。
 後はお前が続けろ、という合図だった。笘篠が追い詰め、蓮田が証言を引き出す。古典的な手法だが、鶴見のようなタイプには効果的だろう。
「鶴見さん」
 蓮田は一段声を潜めて続ける。
「我々は掛川さんと接触した人物を片っ端から捕まえて事情聴取するつもりです。そうなれば役場の対応に不満を持つ者の声を拾わざるを得なくなります。おそらく、それは一方的な意見であり、ひょっとしたらただの言いがかりかもしれない。しかし鶴見さんが秘匿したことを入居者の側から暴露されたら、彼らの言い分が正しいように印象づけられてしまう。後になって鶴見さんたちが反論しても後出しジャンケンの感が強くなります。それでもいいんですか」
「わたしを脅しているんですか」
「警告しているんです。トラブルには相手がつきものです。相手が存在する限りトラブルの事実は隠しようがありませんからね」
「これは行政云々の話ではなくコミュニティの問題なんです」
 追い詰められた体の鶴見は少し自棄(やけ)気味だった。
「仮設住宅は大抵元の地区単位で入居しています。震災以前のコミュニティがそのまま生きているんです。でも公営住宅への転居は収入や家族構成といった条件で振り分けされるため、従前のコミュニティが維持できません。それを何より嫌がる人もいるんです」
「ご近所との関係が切れるというだけで転居を拒否するんですか。公営住宅の方が新築で設備が整っていて、仮設住宅よりうんと住みやすいでしょうに」
「新しさや設備だけが住みやすさじゃない。そう考える人もいるんですよ」
 理屈は分かるが実感が湧いてこない。蓮田自身は実家を離れて家庭を築いているが、近所付き合いは妻に任せきりで隣宅の住人とは挨拶を交わす程度だ。地域のコミュニティが生活基盤の底上げより重要だとはとても思えない。
「掛川さんから小さな行き違いについて逐一報告は受けていません」
 鶴見の弁解は尚も続く。
「しかし捜査に協力することに吝(やぶさ)かではありません。文書・口頭に限らずわたしが知り得た情報は全て提供しましょう。ただしここでうろ覚えを証言する訳にはいかないので、考えを纏(まと)める時間をいただけませんか」
 体のいい逃げ口上だと思ったが、拒む理由も見つからない。笘篠の顔を窺うと微かに頷いたので鶴見を解放することにした。
「後日、改めて役場にお伺いします」
 こうして釘を刺しておけば蓮田たちを無下に扱うこともないだろう。後は鶴見の部署に有益な情報が残っているかどうかだった。
 鶴見が立ち去るのと入れ違いに今度は掛川の家族が到着したというので、笘篠とともに対応する。
「掛川美弥子(みやこ)と言います。お兄ちゃんが殺されたと聞いて」
「まだ殺人と断定された訳ではありません」
 蓮田がやんわりと訂正すると、美弥子は首を横に振った。
「とにかく会わせてください」
 切羽詰まった様子に押され気味になりながら、掛川の死体に対面させる。
「お兄ちゃんっ」
 実兄の亡骸(なきがら)に取り縋ろうとする美弥子をすんでのところで止める。
「まだ司法解剖が済んでいないので、手を触れないでください」
「お兄ちゃんっ、お兄ちゃんっ」
 女だと舐めていたが存外に美弥子の力は強く、腕力自慢の蓮田でも気を抜けば引き剝がされそうになる。
 羽交い締めにされてしばらく美弥子は藻搔(もが)いていたが、やがて力尽きたらしく脱力して頽(くずお)れた。
「お兄ちゃん」
 顔を覆いもせず泣き出した。こうなれば気が済むまで放っておく方がいい。美弥子は嗚咽を嚙み殺しながら五分ほどしゃくり上げ、ようやく顔を上げた。
「……見苦しいところをお見せしてすみませんでした」
 鶴見に掛川の家族を確認した時、彼の肉親は妹だけだと知らされていた。
「ご家族はあなた一人だけと聞きました」
「両親は震災で亡くなりました。わたしと兄は仕事で出ていたんですけど、両親は在宅していて津波に流されたんです」
 被災地ではよくある話だ。あの日、家にいた者の多くが帰らぬ人となった。家族を一人も失わなかった蓮田など、こうした被災家庭の話を聞くと肩身が狭くなるほどだ。
「それからずっと兄は親代わりになってわたしを大学までやってくれました。就職が決まって、やっと兄も自分の好きに生きられると思っていたのに」
「最近、お兄さんに何か変わったことはありませんでしたか」
「ありません。昨日もいつもの時間に朝食を摂って、一緒に家を出ました」
「昨夜は帰宅しなかったんですよね」
「今まで役場の仕事で午前様になることもあったので、あまり深刻には考えませんでした。こんなことになるなら、昨夜のうちに捜索願を出しておけばよかった」
 掛川の死亡推定時刻は昨夜八時から十時にかけてだ。仮に美弥子が捜索願を提出したとしても掛川を救うのは不可能だっただろう。
「兄の死体は、この仮設住宅の中にあったんですか」
「ええ」
「じゃあ何かの事故や自殺じゃないですよね」
「事故はともかく、どうして自殺じゃないと言い切れるんですか」
「兄がわたしを残して自殺するはずないからです」
 決然とした言い方に、この兄妹の絆の強さが窺える。
「では、お兄さんを憎んだり恨んだりする人物に心当たりはありませんか」
「ありません」
 美弥子は、こちらを睨みながら言う。
「妹のわたしから見てもつまらなく思えるくらいに真面目で、自己主張は控え目で、目立つことは嫌がる人間でした。そんな人間に敵なんて作れるはずがありません」
 鶴見と美弥子による人物評はかなりの部分で重なる。公私の姿がほぼ一致するなら、それが掛川の人となりと考えてよさそうだった。
 自己主張が控え目で目立つことを厭(いと)う人間に敵は存在するのか。
 美弥子の疑問はもっともに思えるが、犯罪捜査の現場に立っている蓮田としてはこう言わざるを得ない。
 聖人君子を憎む人間も存在する。
 真面目であることが免罪符にならないケースなど、いくらでもあるのだ。

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プロフィール
中山七里(なかやま・しちり)

1961年生まれ、岐阜県出身。『さよならドビュッシー』にて第8回「このミステリーがすごい!」大賞で大賞を受賞し、2010年に作家デビュー。著書に、『境界線』『護られなかった者たちへ』『総理にされた男』『連続殺人鬼カエル男』『贖罪の奏鳴曲』『騒がしい楽園』『帝都地下迷宮』『夜がどれほど暗くても』『合唱 岬洋介の帰還』『カインの傲慢』『ヒポクラテスの試練』『毒島刑事最後の事件』『テロリストの家』『隣はシリアルキラー』『銀鈴探偵社 静おばあちゃんと要介護探偵2』『復讐の協奏曲』ほか多数。

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