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連載 シン・アナキズム 「ヴァンダナ・シヴァ」第3回

政治思想史家の重田園江さんによる好評連載「アナキスト思想家列伝」第7回! デイヴィッド・グレーバーの著作をはじめ、いまあらためて注目されているアナキズム思想について、その繊細さと多様性を保持しながら魅力を伝えていく連載です。今回は2人目「ヴァンダナ・シヴァ」の第3回をお届けします。
※「ヴァンダナ・シヴァ」の第2回を読む方はこちらです。

日本の種苗法改定について

 ここで、日本の種苗法改定について簡単に述べておこう。これほど重大な法案がコロナのどさくさでろくに審議もされないまま、昨年12月に国会を通ってしまった。とくに大きな話題にもならず、農家以外には無関係と思われたままだが、そうなのだろうか。種苗法改定は、2018年の種子法廃止につづく農業をめぐる重要な法的環境の変化であった。まず種子法は、簡単に言うと、国と都道府県がタネの開発に責任を持ち、安定的に農家に提供することを定めた法律であった。これを廃止するということは、たとえば各都道府県の農業試験場が行ってきた、質のいい品種を維持して農家に提供するという非常に手間のかかる作業を民間に任せるという、ひと昔前に流行した民営化の一環のような話である。なお、種子法廃止後は東京を除く46道府県が、種子供給を公的責任で行う制度を維持するために条例などによる対応を行っている。地方自治体が種子法廃止に困惑したということだろう。
 種苗法改定は、表向きは日本で開発された新品種の権利を守ることを目的としている。とくに改定支持派がネット上で行ったのは、日本で開発された品種の海外流出を防ぐという主張であった。しかし、この法律は、「種苗の権利」を開発権者が一定期間保有し、登録品種に関しては、農家が登録権者による有料の許諾を得ずに自己増殖や自己採種した場合には、処罰の対象となる(民事罰および刑事罰)という内容である。カネを払わないと農家は登録品種を使えないということになる。タネの特許とその侵害への罰則という組み合わせは、どうしてもグローバルタネ企業のやり方を連想させる。しかも、そもそも海外に持ち出された種苗の海外市場での流通は、国内法である種苗法の適用範囲外なので処罰できない。無断持ち出しによる海外流通を防ぐには、持ち出しが疑われる外国で一定期間内に品種登録する必要がある。
 また、危惧されるのは、たとえばコメの場合には、登録品種の割合の大きさである。種苗法改定に先立って、農林水産省が農家を説得するために説明資料に掲げた登録品種の生産量割合は、全品種中17%だった。だがこれはかなり低く算出された数字であることが、あとで明らかになった。主な理由は、たとえば一般品種であるコシヒカリの中に含まれる、登録品種「コシヒカリBL」を一般品種として算定しているためである。農林水産省の詳細データを元に印鑰(いんやく)智哉が算定しなおした数字によると、生産量で40%、品種の数で64%が登録品種である。[※1]
 このように、改正反対論者が危惧するのは、グローバルタネ会社にタネの権利が日本の公的機関から払い下げられ(タネの民営化)、しかも自家採種できないことによって、農家がタネ会社に依存させられることである。そういったことは起こらない、モンサントにタネを取られるなんて陰謀論だというなら、モンサント社が(買収されたので)すでに存在しないということ以外に、なぜそれが起こりえないかの理由を示すべきだろう。また、海外での品種登録なしに種苗の海外利用を防ぐことができるのか、むしろ品種登録を国が率先して行う方が効果が高いのではないか、という疑問にも答えるべきだろう。すでに起きた海外流出を批判する人たちは、日本の貴重な種苗を守りたいのなら、タネと苗の権利が外国企業にわたり、日本の農家が毎年使用料を払う仕組みになる可能性について、なぜそれが改定種苗法によって「原理上」あるいは「法文上」起きないと言えるのか説明すべきではないだろうか。
 公共事業の民営化や労働市場の規制緩和など、グローバル化に対応するという名目での無思慮で残酷な市場化が一通り終わって、いまや最後の砦である農業が市場化とグローバル化に攻め立てられているのが日本の現状である。

技術は中立的か

 シヴァは、単一品種による短期的な高収量のみを求める農業のあり方を、「精神のモノカルチャー」として批判している。そしてたとえば、大量の水を必要とするためインドの大地を枯渇させてきたユーカリの植樹と伝統的な樹木との、生命維持システムに及ぼす影響の違いを図示している。

図版(1C)

【図版】シヴァ『生物多様性の危機』に掲載された図
右図は伝統的樹木が、左図はユーカリが農村の生命維持システムに及ぼす貢献を示している

 これによってシヴァは、早く成長し高収量であることを謳うユーカリが、いかに限定された用途にしか役立たないのか、他方で伝統的な植樹が多元的な用途に役立ち、自然と社会の分散的な多様性とつながりを保証する源となるかを示している。[※2]
 科学哲学者・物理学者であるシヴァは、近代科学全般に批判的なのではない。データによる検証が正しく行われ、情報が公開されれば、化学物質や遺伝子組み換え作物の危険性を評価するのに役立つ。だがその立場は、1995年から2000年の間モンサントの会長兼CEOであったロバート・シャピロが、グリーンピースの会合にリモート出演したときに言ったこととはまったく異なるものだ。シャピロはグリーンピースの批判に答えて「技術自体はよくも悪くもない。悪くなるのは使い方のせいだ」と言った。これに対しては、モンサントの技術の使い方に文句の一つも言いたくなるが、そもそもこの、「技術自体の中立性」というのは、非常によく使われるレトリックなのだ。これは私が子どものころから科学を免罪する決まり文句として使われてきた。たとえば原子力技術開発についてよく聞かされたセリフだ。
 ではほんとうに、技術開発そのものは価値中立なのだろうか。遺伝子組み換え作物も、ターミネーター技術も枯葉剤も、その技術は価値中立なのだろうか。それが当初の目的と異なる用途に使われ、あるいは予想しなかった健康被害を生んだとしても、それは使い方が悪く、あるいは被害を予測できなかったのが悪いのであって、技術そのものに罪はないのだろうか。これは、モンサントのCEOにだけは言ってほしくないセリフだ。なぜならこの会社は、汚染と健康被害を隠蔽し、科学的根拠の不十分な報告書を作り、ロビー活動で政治家を黙らせ、「回転ドア」で当局を味方につけて農民たちを窮地に追いやったのだから。
 数十年にわたって汚染された水や土壌に晒された人々の生は、取り戻すことができない。その間にこの会社は利益を上げつづけ他社を買収し、世界有数の巨大化学バイオ企業となった。誰が被害の責任を負うのか。有害性を隠蔽し、再調査を要請した技官をクビにした人たちは、すでにその職にはない。農家相手に特許侵害補償の裁判を起こしたモンサントの弁護士は、さっさと他にキャリアを移したかもしれない。そもそも会社のためにやったことについて、その構成員は責任を問われない。それだけでなく、最高責任者(CEO)も健康被害などについて刑事罰に問われることは、アメリカではこれまで前例がないようだ。つまり、命をないがしろにして地球を取り返しがつかないほど汚しても、誰もその責任を負わなくていいのだ。技術の使い方に責任を持つ必要がなかったら、誰が倫理的な要請を金儲けより優先するだろうか。

商材化されたユーカリ

 これに関してシヴァ自身は、技術が中立か否かという二者択一とは異なる科学観を提示している。それは、すでに植樹のところで挙げた例から分かるとおり、包括的で広い視点から科学技術を捉えるやり方である。技術は、それが目的とする単一の結果に対するパフォーマンスによってのみ評価されてはならない。自動車は生活を便利にするが、排気ガスで空気を汚し、交通事故で人命を奪い、何より動力のためのエネルギーを莫大に消費する。自動車を作り、道路を作り、それに付随して作られるものによって出る利益は、宇沢弘文がいう「社会的費用」を考慮に入れて相殺されなければならない。森の木がもたらしてくれるものは、その木をパルプやバイオマスにすることで得られる収益だけではない。木が生えていることそのものが、保水力や生物多様性を涵養する。また落ち葉や枯れ枝の利用価値は計り知れない。故郷のオーストラリアを離れたところで栽培されるユーカリは、こうした「森の力」を与えることができない。それが生き育つ文脈から切り離された植物は、単なる商材と化してしまうのだ。
 ユーカリがなぜインドで栽培されているのか、不思議に思う人は多いだろう。ユーカリといえばコアラ、コアラといえばオーストラリアが日本での大方のイメージだからだ。ユーカリは製紙用パルプの原料となる、商材用木材の一つである。しかも成長が早いため収益を見込んだ大量植樹が、インドやブラジルなど各地で行われてきた。しかし、シヴァが指摘するように、ユーカリは「大食いの」木である。成長が早いということは、それだけ多くの水や養分を必要とする。これが地域の生態系に与える影響は大きい。
 これについて、「ユーカリはサトウキビなどに比べると水消費は大きくない」といった正当化の議論が見られる。だが、森を形成し保水機能を担い動植物を涵養する中心となる樹木という存在を、畑の農作物であるサトウキビと比べること自体、おかしいと思わないのだろうか。また、一時期大流行したバイオマスの原料としてもユーカリはもてはやされた。ただしバイオマス発電はその環境負荷と、現実に森林破壊をもたらしていることへの批判が強く、今では代替エネルギーとして疑問符がついている。
 これらのユーカリ植林擁護論においては、ユーカリはつねに「商材」であって、森の生態系とその循環に組み込まれて生きる地元民にとっての樹木という発想はない。そしてもう一つおそろしい点は、オーストラリアの森林火災が記憶に新しいように、ユーカリの葉がテンペルという引火性の物質を発するため、火がつくと瞬く間に燃え広がるということだ。私たちは火傷したコアラの画像に心を痛め、温暖化の弊害を想像するだけだが、世界に広がるユーカリ林がもたらす被害についても、もう少し想像力を高めた方がいいということになる。

コアラ(RGB)

【写真】コアラの親子とユーカリの木(Creative commons)
http://free-photo.net/serach/entry.php?id=6103&search=%E3%82%B3%E3%82%A2%E3%83%A9

 近代科学技術に見られる単線化された因果論的思考は、近代経済学の単純化されたモデルにフィットしやすい。それらはともに、科学のために抽象化と一般化を行い、具体性や経験性を削ぎ落としていくことで成り立つ。近代経済学を育てた資本主義的な市場の世界では、インプット(投資)に対するアウトプット(収益)の計算だけが重要である。そこには、全体としての自然の循環といった発想が入り込む余地はない。そうした用途と切り離すことができない形で開発される新技術は、それ自体中立ではなく、特定の商業目的によって視野狭窄に陥った産業的思考によって、はじめからバイアスがかかっているといえる。

私的所有に抗する

 長々と書いてきたが、シヴァの活動のアナキスト性はどこにあるだろう。ここまで書いたこと全体から、シヴァの活動がアナキスト的な志向を持つことは分かるはずだ。グローバリゼーションと大企業の利益に対して徹底してオルタナティヴな生を提示し、地域に根ざしてそれを実践する。彼女の「タネの学校(ビジャ・ヴィディアピース)」には、世界各地から、ヒッピー風な感じの人々が集い、有機農業とタネの保存、そしてエネルギーの有機的再利用を学んでいる。いまあるもの、いままであった手近なものを変えることなく用いることで、市場の利益を追求するグローバル化の流れに対抗する。そして手近なものを意味づけなおし、それが全体の中で持つ役割に注目する。これ自体とてもアナキスト的だ。
 またシヴァは明確に、民主主義と自由貿易を対立的に捉えている。「自由貿易とは、国家の壁や環境規制、倫理・社会規制を取り払うことで、大企業が欲しいものを手に入れ、売りたいものを売る自由を意味しています」[※3]。この自由は、民主主義における自由とはほど遠いものだ。ここまではっきり、自由貿易が誰を利するかについて断言できるのは、長い思索と運動によって、この世界の間違いがどこからくるのかについて確信があるからだろう。
 シヴァはまた、所有についても興味深い指摘をしている。彼女は『ウォーター・ウォーズ』で、水の私的所有という発想を厳しく批判する。そもそも国家であれ共同体であれ、水を所有することはできない。たとえば自分の所有する土地に川が流れていたとして、その川の水を好きなように使っていいということはない。水は上流からやってきて下流に去っていくものだ。それに対して流域の人々や動物が有するのは、所有権ではなく「使用権」のみである。「水は使ってもよいが、所有することはできない」[※4]のだ。
 彼女は、ギャレット・ハーディンによる「コモンズの悲劇」の逸話が含む欺瞞性を批判している。ハーディンは、共有地においては誰もが他者より多くの資源をそこから引き出そうとし、一方でその維持のための労力を惜しむため、荒廃してしまうと主張した。これが、市場経済において一定の条件が満たされる場合の資源荒廃と独占についての「たとえ」であるなら、共有地というタームを持ち出すのは不当だ。なぜなら、共有地とは誰も責任を取らない場所ではないからだ。ハーディンが考える共有地とは、私的所有がデフォルトになった社会において、その例外として誰の責任下にもないという、現実には存在しない場所である。現実の共有地は、共同的な責任の下にあり、共同で管理されている。川や井戸の使用権もこれと同じである。だから、共有地の悲劇が提起するのは擬似問題で、その答えにも現実的な意味はない。
 「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」だ。それを所有権によって独占して、大規模農業で使い尽くしたり、ボトルに詰めて売りさばいたりするなんて、使用権を有するあらゆる生物の権利に対する、生き死にに関わるレベルでの侵害なのだ。
 所有は限定されるべきで、むしろ使用こそが重要である。外からやってきた強欲な人々は、もともとそこにいた住民や動植物による使用を、所有権の侵害として責め立て、追い払う。これは、マルクスの『ユダヤ人問題によせて』にちゃんと書いてあることだ。使用権の観点からすると、モンサントのような会社が特許を根拠にタネの権利を独占するなど、まったくあり得ない。世界中の名も知られぬ農民たちが植えてきたタネという太古からの存在を、なぜアメリカの一企業が独占できるのか。自然が与えてくれる無際限の恩恵であるタネにバイオ技術でちょこっと手を加えただけで、それを自分のものだと主張し、カネを払って買えなんておかしいだろう。有り体に言ってしまうと、自然に大きく依存する農業に関しては、特許も知的所有もくそくらえ、なのだ。生きるためには食べなければならない。食べるためには食物を作り、収穫しなければならない。そうした根本的なニーズに対して、なぜ商品経済とどこかで勝手に決まった特許の仕組みが優先されなければならないのか。こんなところには何の道理もないのだ。シヴァがいかなる意味でアナキストなのか分かっただろうか。

料理をすれば分かること

 最後に、今回の話はスピリチュアルエコロジーとサヨクの陰謀論風味が強すぎると思う人がいるかもしれない。あるいは、たしかにこのままではいけないけど、どうしたらいいか分からないという人も多いかもしれない。そういう人には、料理してみることをお勧めする。いつも料理をしていると、材料の良し悪しでできがまったく違うことが分かる。土がついたままの野菜は持ちがいいが、洗ってある人参やサツマイモはすぐダメになることも分かる。出来合いの出汁で作った料理の味は薬っぽく、豆腐はものによって味が全然違うことも。揚げ油も調味料も、妙な薬っぽいものと自然な風味のものとがある。旬の野菜は季節外れのものとは包丁を入れたときの感覚が違うし、スポンジみたいな油揚げやえげつないピンクのハムもあれば、何もつけなくてもとても美味しいパンもある。料理をすること、それをゆっくり食べることで、自分が何かとつながっていることを感じずにはいられない。
 私たちとつながっているものの一つが、生命の源であるタネであり、タネを育てる水と森なのだろう。グローバル化とは、遠くの人をつないでいるようでいて、実はリアルな他者を想像できないまま、暴力的な資源の移転の片棒を皆が担がされる仕組みだ。だが、森を感じることもできない絶望的な都市に生きていても、食べることを通じて人は自然とつねにつながり、その循環の只中にいる。遺伝子組み換えやグローバリゼーションに反対し、まともな生活を取り戻そうとすることは、人が食べ、排泄するかぎり、当然の行いなのだ。
 この野菜は、どんな苗から育ち、どんなタネがその苗を作ったのか。私が「食べる」ことは、そのタネが目的を果たしたということでもある。肉を食べるとき、魚を食べるとき、それらの命はおそらく想像を絶する過酷な環境でその生を送り、終えている。そのことを想像してみる。ついでに、100エーカーの森に佇み、ハチのブンブン音から見事な目的論に到達したプーさんと、悠久の生命の循環から世界の成り立ちを説いたアリストテレスを想像してみる。そして、ヒマラヤの麓にある、採石のために山は切り崩され水は涸れて人口流出が止まらず、植民地支配にはじまる近代化によって傷ついたデヘラードゥーンで、有機農業とカフェとタネ店を運営し、タネの学校を開く、ヴァンダナ・シヴァの姿を想像してみてほしい。

「ねこと森政稔」を読む

*   *   *   *   *

※1 印鑰智哉「底が抜けた国会:農林水産委員会での種苗法審議」2020年12月1日
http://blog.rederio.jp/archives/5619
農林水産省のデータは
https://www.maff.go.jp/j/seisan/syoryu/kensa/kome/
このなかの平成30年産米の確定数値のうち、品種別の統計を総計すると割合が算出される。
※2 ヴァンダナ・シヴァ、戸田清・鶴田由紀訳『生物多様性の危機――精神のモノカルチャー』明石書店、2003、p.45, 46。
※3 『ヴァンダナ・シヴァのいのちの種を抱きしめてwith辻信一』(ナマケモノDVDブック)でのインタヴュー
※4 ヴァンダナ・シヴァ、神尾賢二訳『ウォーター・ウォーズ――水の私有化、汚染そして収益をめぐって』p.50

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プロフィール
重田園江(おもだ・そのえ)

明治大学政治経済学部教授。1968年西宮市生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。日本開発銀行へ入行、退職後、東京大学大学院総合文化研究科相関社会科学専攻博士後期課程単位取得満期退学。2005-07年ケンブリッジ大学客員研究員。2011年、『連帯の哲学Ⅰ――フランス社会連帯主義』で第28回渋沢・クローデル賞受賞。ほかの著書に『フーコーの穴――統計学と統治の現在』(木鐸社、2003年)、『統治の抗争史――フーコー講義1978-79』(勁草書房、2018)、『フーコーの風向き――近代国家の系譜学』(青土社、2020)など。

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