アメリカ文学史に屹立する「何もしない」英雄――『教養としてのアメリカ短篇小説』より、「書記バートルビー」を読み解く第2講を全文公開!
“I would prefer not to.”(「わたくしはしない方がいいと思います」)とは、『白鯨』の著者として知られるハーマン・メルヴィルの短篇小説「書記バートルビー」に出てくる表現です。上司に言いつけられた仕事をこの言葉によって拒絶しつづけ、それ以外一切の説明をしない奇妙な人物・バートルビー。アメリカ文学史に屹立するこの「英雄」の物語が発表されたのは1853年。150年以上前の作品ですが、先ごろ日本経済新聞の一面下コラム「春秋」(https://www.nikkei.com/article/DGKKZO79805920S2A200C2MM8000/ :注・リンク先は会員限定記事)でアメリカの若者に広がる「アンチワーク」の運動や、デイヴィッド・グレーバーの名づけた「ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)」の概念など、今日的な文脈に関連付けて言及されました。150年以上前に発表されて以来、古びることなく多くの文学者や哲学者を惹きつけてきた「書記バートルビー」の魅力はどこにあるのでしょうか?
昨年10月の「NHK100分de名著 ヘミングウェイ スペシャル」で指南役を務めたアメリカ文学研究者・翻訳家の都甲幸治氏(早稲田大学文学学術院教授)が、珠玉の短篇小説を歴史的・文化的・社会的背景を踏まえて読み解く『教養としてのアメリカ短篇小説』より、「書記バートルビー」を扱った第2講「屹立する剝き出しの身体」を全文公開します。
ああ、人間の生よ!
ハーマン・メルヴィルの「書記バートルビー――ウォール街の物語」は『教養としてのアメリカ短篇小説』で扱うほかの短篇小説と比較すると少々長く、中篇といってもいいボリュームですが、ものすごく面白いので、読んだことのある方は最後まで楽しめたのではないでしょうか。
まずはストーリーを概観しましょう。舞台は19世紀半ば、ニューヨークのウォール街にある法律事務所。物語は、この事務所を構えている年配の弁護士によって語られます。弁護士といっても「正義を貫く」とか、そのために闘う、いわゆる法廷弁護士ではないようです。「心地よい隠れ家(が)の落ち着いた静けさの中に引っ込んで、お金持ちの方々の債権証書や抵当証券、または不動産権利証書なんかに囲まれて、気分よく仕事をする方を好む人間」と自称している、何も個性がないことを逆に誇りにしているような感じの人物です。
ある時、この法律事務所が突然とても忙しくなる。「ニューヨーク州衡平法裁判所主事」という、不動産取引に関する公平性を審査する仕事がまわってきて、この手続きが非常に煩雑なものであることがその理由です。まだ技術革新が進んでおらず、コピー機やプリンターといったものは影も形もない時代ですから、法律の文書を作ると、関係者のぶんを手書きで写さなければならなかった。それで、書記とか筆耕人と呼ばれる、文書の写しを作成するスタッフが必要になってくる。もともとこの事務所には書記が二人と見習いの少年が一人、あわせて三人のスタッフがいたのですが、もう一人増やそうということで、求人広告を出します。
そこに、バートルビーという名前の青年が応募してくる。彼は最初に登場した時からけっこう変わった人物として描かれます。「青白いほどこざっぱりして、哀れなほど礼儀正しく、救いがたいほど孤独な姿」をしており、物静かな男。後述しますが、既にいる二人の書記が、それぞれ「狂おしい性質」「激しい気性」の持ち主で手を焼いていた語り手は、「静かな物腰」の彼が良い影響を及ぼすと期待して雇うことにする。注目すべきはその仕事ぶりです。「まるで、書き写すのに長い間飢えていたかのようで、私の書類を貪り食っているように見えました。その上まるで消化のために休むこともないという様子です」。めちゃくちゃ仕事してくれる。語り手は、これでもう少し楽しそうにしてくれたら最高、と思うんですが、「彼はひたすら物静かに、青白い顔で、機械的に筆写していました」。
そして最初の印象にたがわず、だんだんバートルビーの奇行が目に付くようになってくる。たとえば、昼になっても、どこにも食事に行かない。注意深く観察していると、ジンジャーナット、安価なしょうが入りのクッキーのことですが、どうやらこれを何枚か食べているだけらしい。ほかにも、ある日曜日、教会に行こうとした語り手が、近くまで来たからということで事務所に寄ってみると、思いがけないことに、中からだらしない格好をしたバートルビーが出てくる。語り手が入ろうとすると、「今とても取り込んでいるので私の用事が済むまでそのへんをぶらぶらしてきてください」などと言う。どうやら勝手に事務所に住み着いているということが分かる。もう、この時点で追い出したほうがいいと思うんですけれども、語り手は、まあ何か事情があるのなら仕方がないか、という感じで言われた通りにしてしまう。
さらに困ったことに、バートルビーはだんだん仕事をしなくなる。最初のうちは書類の確認のための読み合わせや、誰かを呼びに行くようなちょっとしたお使いなどを頼むと、「わたくしはしない方がいいと思います」と断られることが続く。なぜしない方がいいと思うのか訊ねても、「わたくしはしない方がいいと思います」、英語だと“I prefer not to.”とか“I would prefer not to.”と繰り返すだけで、理由を説明してくれない。バートルビーが「しない方がいい」と思うことの範囲はだんだん広くなっていき、ついに、もう筆写はしないことに決めました、と言って書類を写すこともやめてしまう。これは本来の業務ですから、さすがの語り手も厳しく理由を問いただすのですが、バートルビーは「あなたはその理由をご自分でおわかりにならないのですか」、つまりは、本当は自分でわかっているのでしょう?と言い返してくる。全然分からない。
仕事をしないバートルビーが何をしているかというと、窓から見えるほかの建物の壁をぼーっと眺めているか、あるいはただ事務所の自席に座っている。雇っている側からすれば働かないのではクビにするしかないので、語り手は説得を試みますが、彼は辞めないし、出て行ってもくれない。
業を煮やした語り手がどうするかというと、事務所を引っ越します。これもすごい発想の転換ですが、使用人が出て行かないなら仕方ないといって、主人である語り手のほうが出て行く。バートルビーはもとの建物に取り憑いた亡霊のように、階段とか玄関ホールとか、建物全体をうろつくようになって、次に入った事務所の人たちが困ってしまう。やがて警察が呼ばれて、バートルビーは浮浪者として「墓場」、すなわちニューヨーク市の刑務所に連れて行かれます。
語り手は、バートルビーをよく知る人物として刑務所に出向き、彼に面会します。バートルビーは語り手のことを覚えていたものの、「あなたには何も言いたくはありません」と拒絶する。そしてどうやら、ずっと「私の体に合わないと思います。まともな食事には慣れていないのです」などと言って、刑務所でも普通の食事を一切していないようなのです。
取りつく島がないので語り手は帰りますが、やはり気になる。数日後、どうしたかなともう一度見に行ってみると、バートルビーが刑務所の中庭の芝生の上で目を開けたまま倒れているのを発見する。寝ているのかと思ったら、なんと死んでいた。結局、「今日は食事をしない方がいいと思います」などと言いながらずっと何も食べず、そのまま死んでしまったんですね。
これが物語の結末ですが、そのあとに説明がつく。語り手の事務所で働きはじめる以前、バートルビーはどうやら配達不能郵便物局というところで働いていたらしい。配達先が見つからないとか、もう宛名の人物がいなくなってしまったとかで届けられない郵便物がたまっていく場所。たとえば指輪とか紙幣のような、受け取った人の役に立つようなものが入っている場合でも、配達もできないし、差出人に戻すこともできない。そうした郵便物を燃やすために仕分けする、なんの希望もない仕事。そんな仕事あるの? と思うんですが、バートルビーはずっとその仕事をしていたよう。配達不能郵便物、英語だとDead Lettersという言い方なのですが、これってDead menの一人になってしまったバートルビーにすごく似ていますよね、という説明です。郵便物は宛先に届くことはなく、バートルビーは周囲と壁で隔てられたようにコミュニケーションが取れない。「ああ、バートルビー!ああ、人間の生よ!」と言ってこの短篇は終わります。
もう、本当に謎だらけの話です。それでも、ぐっと引きつけられるような細部が多いので、何度も読んでしまう。読むと、分からない部分が気になって、また読みたくなる。そういう魅力を持った作品だと思います。
忘れられた巨人
ここで著者のハーマン・メルヴィルについて見ていきましょう。メルヴィルは、アメリカ文学を研究する人たちにとっては、いちばん「偉い」文学者といってもいい存在です。もちろん偉いアメリカ文学の作家は何人もいるでしょう。けれどもヨーロッパの文学から離れ、アメリカ独自の文学を確立した19世紀半ばのアメリカン・ルネサンスの作家として、メルヴィルはナサニエル・ホーソーンと並び卓越した地位を占めています。しかも航海や鯨に関する膨大な知識を詰め込み、世俗的な面白さを持つ物語から高尚な神学的議論まで、まさに世界の海を背景とした『白鯨』を書いたメルヴィルは、その後のアメリカ文学の展開を決定的に方向づけた重要な存在だと言えるでしょう。しかしながらそれゆえに、一般的な日本文学とあまりにスケール感もテーマ設定も異なるという点で、日本人の読者にはいささかとっつきにくい存在になっているのではないでしょうか。
最も有名な作品の『白鯨』にしても、日本で誰もが普通に読んでいるかというと、そうでもない。映画で観たとか、児童文学的な文脈で部分的に読まれた方のほうが多いかもしれません。
メルヴィルは1819年、19世紀初頭のニューヨーク市に生まれます。父親が膨大な借金を抱えて亡くなってしまったので、12歳で学校をやめて、親族の伝手で銀行に勤めたり、資格をとって小学校の教員をしたりしてなんとか暮らしていました。文章も書きはじめていたようです。しかし、そういう生活に耐えられなくなって、1839年に船乗りになる。ここが決定的に重要なところです。『白鯨』は18か月間捕鯨船に乗っていた経験を生かして書かれた作品ですし、「バートルビー」にも「しかし彼は一人ぼっち、全宇宙で完全なまでに一人ぼっちに見えました。まるで大西洋のど真ん中で難破した船のひとかけらです」という描写があるように、メルヴィルには海にちなんだ作品がとても多い。アメリカ海軍の水夫になったりもしています。
船上の暮らしから逃亡し、南太平洋の島でしばらく過ごしたこともあった。そんな自分の体験を踏まえて書いた、半ば旅行記で半ば冒険物語のような『タイピー』や『オムー』といった作品で、メルヴィルはデビューしてからしばらくの間、たいへんな人気作家になります。実際、これらの作品も非常に面白いです。
しかし、本人はそういうものに飽き足らず、ホーソーンと親交を結んで、その影響を受けた作品を書くようになります。本書の「イントロダクション」で述べたようにホーソーンは「ロマンス」の自由さについて語った文学者で、『緋文字』などの重要な作品を残しています。リアリズムに基づくというよりも、象徴の力を作品の推進力にしているのが彼の作品の特徴といえます。
そして『白鯨』こそホーソーンの影響を受けて書いた作品で、これはアメリカ文学史上で最も重要な作品の一つでもあります。あまりに重要なので少しだけ触れておきますと、ほとんど狂気の存在であるエイハブ船長という人が、かつて自分の片脚を食いちぎった巨大な白い鯨を追いかける物語です。モビー・ディックと呼ばれるその白鯨は巨大な怪物のような存在で、世界の海をめぐりながらエイハブ船長と死闘を繰り広げる――と、一応はまとめることができます。しかし、『白鯨』の面白いところは、本筋とは関係のなさそうなちょっとしたコミカルな場面や、鯨に関する書物からの長々とした引用、あるいは、神が作ったはずの世界になぜ悪が存在するのか、もしかしたら神はいないのではないか、というような哲学的な問いとそれにまつわる思考の断片といった、さまざまな要素が混合されたものとして長篇小説が構成されているところです。英雄的な人物と怪物的な存在の死闘、と一言で説明してしまうと、いろいろなものがこぼれ落ちてしまうような、非常に独特な読書体験ができる作品です。
『白鯨』が出版されたのは1851年で、その少し後、1853年に「バートルビー」も書かれました。短篇もたくさん書いていて、ひどい雷雨のなかで避雷針を売りに来る男の話や、未婚の女性だけが働く工場の話が有名ですが、『白鯨』と同じように、「要するにこういう話」と言ってしまうとちょっとズレてしまうような、不思議な手触りのある作品が多い印象です。
『白鯨』の後に書いた長篇は『ピエール』という作品なのですが、これもわりとややこしい作品で、はじめは流行作家だったメルヴィルもだんだん人気が衰え、世間から忘れられていくことになります。しかたなく1866年から20年間、ニューヨーク市の税関吏を務めました。安定した収入の得られる役人をやっていたということですね。ちなみにホーソーンも税関の役人をやっていました。
メルヴィルは19世紀末、年号で言うと1891年に亡くなって、その頃には忘れ去られた作家になっていた。1920年代に入って、やっと非常に偉大な作家だったという見直しが起こって、そこからアメリカ文学史が書き替えられていくという流れがあります。
資本主義の象徴、ウォール街
「書記バートルビー」に戻りましょう。背景となるのは19世紀半ばのニューヨーク、ウォール街です。この舞台が重要なポイントのひとつです。ウォール街はマンハッタン島の南にあるエリアで、もともとはオランダ領ニューアムステルダムと呼ばれていました。最初はオランダの植民地だったので、ネイティヴ・アメリカンやイギリス人の侵攻から共同体を守るために砦を作った。実際に壁があったので「ウォール」街と呼ばれるようになった。この砦は使われないまま17世紀末に壊されてしまうのですが、「ウォール街」という名前だけが残った。
そうした歴史的背景ばかりではなく、「書記バートルビー」には壁や壁状のものの描写がやたらと出てきます。まずは事務所の周囲の環境です。「一方の端の窓からは、大きな吹き抜けの側面にあたる白い壁が眺められました」と書かれていて、「もう一方の端からの眺めは(中略)長い年月にわたってずっと日陰になっていたことによって黒ずんだ、そびえ立つようなレンガの壁だったのです」とあるので、建物の両側が壁であると分かります。さらに事務所のフロアに「すりガラスのはまった折りたたみ戸」を設置して弁護士と書記のスペースを分割している。そしてバートルビーの机の近くにある小さな窓については、「以前はその窓を通して、眼下に汚れた裏庭やレンガ造りの一部などを眺めることができたのですが、新しいビルが建てられたため、その頃になると何も見えず、いくらか光が入ってくるだけでした。その窓から三フィートもないところに壁が迫ってきており、光ははるか上の、非常に高い二つの建物の間から差し込んできていたので、まるでドーム型の天井のとても小さな窓から光が届くような具合でした」とも書かれている。物理的な壁の描写ですが、人と人の間に「壁」があることの象徴的表現にもなっています。
ニューヨークはもともと東海岸の商業の中心地でしたが、その役割が強化されていくのは、物語の舞台になっている19世紀初頭です。このことには地理的な背景があります。カナダとアメリカ合衆国の間に、五大湖と呼ばれる、大きな湖がつながっているエリアがあります。この五大湖エリアと東海岸をつなぐエリー運河が開通したのがこの頃なんです。
エリー運河からは、ハドソン川を通って大西洋に出られる。大きな船を使って、五大湖まで直接行けるようになる。当時は陸路と海路であれば、海路が圧倒的に安い。すると、ハドソン川の出口にあたる場所であるニューヨーク、特にマンハッタン島やウォール街のあたりが、アメリカ合衆国の商業的な中心になっていく。最初のうちはこのエリアにも住宅地区と商業地区の両方が存在していたようですが、住宅地区は北のほうに全部移動してしまって、南側はほんとうに商業地区だけになります。ウォール街は、そのど真ん中なわけです。勃興するアメリカ、19世紀資本主義の中心ですね。日本で言ったら大手町やかつての日本橋兜町といった感じでしょうか。
そういう場所に、完全に何もしないし、ほとんどものも食べないバートルビーが現れて、ただじっと窓の外を眺めている。そんなふうにイメージしていただくと、少しずつ分かってくるのではないでしょうか。
強烈な個性をもつ登場人物
「書記バートルビー」の細部を見ていきます。まず登場人物が強烈です。あらすじのところで見たように、たしかにバートルビーは奇妙な人物です。しかし、語り手の法律事務所に最初からいる他の書記たちも、十分にヘンな人たちだということが言えます。
最初に出てくるのはターキー(「七面鳥」)というイギリス人。語り手と同世代で、けっこう年配の人です。この人は、午前中は「健康的で血色が良い」と見える顔色で、大量の仕事を素早く堅実にこなしてくれる。しかし、だんだん日が高く昇ってくるにつれて、その顔は「燃え盛る石炭のような光を放つ」ように、つまり、どんどん赤くなっていく。その輝きが正午に頂点に達すると、落ち着きがなくなり、仕事のミスが増え、さらには攻撃的な人格になる。「そんなときの彼の行動は、異様で、凶暴で、混乱して、軽率なうえ、無鉄砲さまでが顔を出しました」。午後になるともう普通に仕事ができない。でもターキー自身は、自分は常にきちんと仕事ができていると思い込んでいる。語り手は、ターキーに「君ももうだいぶ年だし、午後はちょっと休んだほうがいいんじゃないの?」という意味のことを言ってみたりしますが、「私が居なかったらこの事務所の仕事はまわらない」というふうに反論され、押し切られてしまう。こうしたターキーとのやり取りは、後のバートルビーとのやり取りの前触れになっているとも言えます。
もう一人がニッパーズ(「鉄線切断鋏」)です。この人は二十代で、わりと若い書記なのですが、午前中いつも消化不良でイライラしていて、「さらに仕事のまっ最中に、不必要な怒声を、言葉というより、シューシューという異様な音とともに発したりするのです」。変な音を出すだけでなく、暴れるし、あるいは背中を楽にするとかいって、ずっと机の角度をいろいろいじったりする。最終的に「オランダ風の家の急勾配の屋根」という表現が出てくるんですが、めちゃくちゃにそそり立った感じに机の角度を変えて、自分でそうしているのにもかかわらず「これじゃ腕に血が回らなくなる」とか言って怒りまくっている。しかしニッパーズの消化不良は午後には収まり、比較的穏やかになってしっかり仕事をしてくれるようになる。
総合すると、ターキーとニッパーズが交互に大暴れしている。まあ、午前も午後もどちらか一人はしっかり働いてくれるわけですが、それでも大人二人ぶんの効率には及ばないのではないかと思います。でも、語り手は、この二人にはなじみがあるし、前から働いてもらっているから、などと言いながら、両者の奇行をなんとなくずっと受け容れて長いことやっているわけですね。
そう考えると、バートルビーも二人の書記も変わった人なのは間違いないんですが、その変な人たちに押し切られるようなかたちでずっと受け容れ続けて、奇妙な人たちに居場所を提供しているように見える語り手が、実はいちばん変わった人なのではないかとも思えてきます。この語り手のおかげで、読者である我々はバートルビーという人物に出会うことができる。
この、いつも誰かしら大騒ぎしている事務所に、新たな書記バートルビーが登場する。バートルビーは、静かで、青白い顔をして、受け身な人物として現れる。しかも、仕事を命じられると、異常な量をこなしてしまう。思い出していただきたいのは、食べる比喩を使って仕事の様子が描写される部分です。「書類を貪り食っている」とか、「消化のために休むこともないという様子」と書かれていましたよね。僕は何度もこの作品を読んでいるので、後にバートルビーがものを食べなくなることを知っています。その観点から考えてみると、書類を「貪り食っている」ときは過食の状態、その後、一切筆写をしなくなる部分は拒食の状態なのではないかと思えてきます。バートルビーは仕事という部分においても、ある種の摂食障害的なイメージをまとっていると言えるのではないか。このことは最後にあらためて触れます。
I would prefer not to.
バートルビーが繰り返し口にする「しない方がいいと思います」という言葉も重要なポイントになります。原文では“I would prefer not to.”とか“I prefer not to.”という表現なのですが、これは英語でもそれほど使うとは思えない、わりと奇妙な言葉遣いです。上司に命令されたことについて、「する」と「しない」を比較して「しない」方がいいと言うのであれば、普通は理由を述べます。しかし、バートルビーは絶対に理由を言ってくれない。
語り手である上司はイライラしているけれども、寛容な上司でありたいという気持ちもあるので、命令した仕事をやらなければいけない理由を諄々と言って聞かせる。そういう場面があります。これは通常の慣習だとか、君がやらないとほかの人に迷惑がかかるとか、好き嫌いとかを言っていてはだめだとか、そもそも仕事なんだから上司のいうことは聞かなければいけないとか、およそ常識的な人が思いつきそうな理由すべてを述べる。
対して、バートルビーは反抗するわけではない。あるいは、上司が言ったことを否定もしない。むしろ、「あなたの意見は正しい」とも言う。しかし、「しない方がいいと思います」という返事は変わらず、全然仕事をしてくれない。
とはいえ彼に話している間、彼は私の言ったことを注意深く考え、その意味も完全に解し、その抗いがたい結論に異議を唱えることができないことは了解しつつも、同時に、何か至高の考えが彼の中で働いて、彼を説き伏せ、あのように言わせたのではないか、という風に思えました。(牧野有通訳「書記バートルビー――ウォール街の物語」『書記バートルビー/漂流船』所収、光文社古典新訳文庫。本文中の出典を特に示していない引用は同書に拠る)
バートルビーの顔を見ていると、説明をひとつひとつ聞いて、納得していることが分かる。にもかかわらず、上司の命令よりさらに強い強制力をもつ「何か」なのか、それとも上司の命令とは質が異なる理由なのかはよく分からないけれども、「至高の考え」によって、バートルビーは何もしないのではないか、という気がしてきたということですね。
「書記バートルビー」を読んでいると、この「至高の考え」とは何かを考えさせられます。われわれは通常、理性に基づいて、自分の意思で能力や身体をコントロールしている。問題なくできているときはそのことを意識しなくてよいのですが、病気になったり、あるいは鬱(うつ)状態になったりしたとき、急に身体が抵抗するようになって、普段は自分が身体をコントロールしていたんだ、ということに気づく。あるいは、「黒猫」で話題にしたアルコール依存症もその一例ですが、理性的に、自分自身に対して「飲んではいけない」と言って抑えようとする力が強くなればなるほど、抵抗も強くなってアルコールの誘惑に負けてしまう。先ほど摂食障害のイメージという話をしましたが、この作品を読んでいると、バートルビーのなかにも自分ではコントロールできない、名づけることもできない何物かがあり、それがだんだん大きくなっていくのを感じるように思います。
さて、仕事をさせたい上司と「しない方がいいと思うのです」というバートルビーのせめぎ合いの結果何が起こるかというと、バートルビーが説得されて働きはじめるのではなく、事務所内のほかの人たちがバートルビーに近づいていく。具体的には、「しない方がいいと思います」とか「何とかしない方がいいのですが」という言葉遣いがどんどん伝染していく。ターキーもニッパーズも語り手も、全員が無意識のうちに使いはじめる。会話の相手が使うと気づくのですが、言った本人は気づかないし、自分がそんな言葉遣いをするわけがないと思い込んでいる、という状況になります。“I would prefer not to”とか“Prefer to”といった言葉遣いが蔓延し、全員が共感しながら洗脳されていく。
どうしたものか、近頃私はこの言葉、「方がいいと思う」という言葉を、厳密に言えば、使うのがふさわしくない時でも、無意識に使うのが癖になってしまいました。ですから、この書記と付き合っていることがすでに深刻なほど精神面に影響を与えていると思うと、身震いするほどでした。
そして、日曜日に事務所に入ろうとした語り手は、どうやら住み着いているらしいバートルビーに「今はあなたを入れない方がいいと思うのですが」と言われると、なんか引いちゃう。この時点で、命令を出すのはバートルビーで、上司であるはずの語り手がそれに従うという、上下関係の転倒が起こっているわけですね。これは資本主義的な価値観のもとではまずい状況です。指揮命令系統がきっちり機能すればこそ、初めて生産性が上がり、お金も儲けられる。事務所の全員が、何も仕事をしない人に近づいていくうえに、そんな人の言うことに従ってしまったら、もうどうにもならない。
そんなことは語り手も理屈では分かっているはずなんです。しかし、なぜか分からないけれども、バートルビーの受け身の姿勢に魅入られてしまうと、バートルビーのある種の魅力というか、力に抵抗できなくなる。バートルビーがこの場所を離れたくないというのなら、それを受け容れて、致し方なく事務所を移転する。
語り手はどこかの時点でバートルビーを命令に従わせることをあきらめ、全面的に屈服しています。あらすじで見たように、バートルビーは浮浪者として刑務所に連れていかれる。語り手が面会に行くと、「わたくしはあなたを知っています」、でも「あなたには何も言いたくはありません」ときっぱり拒絶されてしまう。もはや「しない方がいいと思います」という丁寧な言い方すらしない。そしてバートルビーは、死んだ手紙のように、誰ともコミュニケーションを取らないままに死んでいく。
「何もしなさ」と摂食障害の文学
何度か「ウォール街は資本主義の中心」という話をしてきましたが、この作品はやはり場所が重要な意味を持っています。副題にある「ウォール街の物語」というのが実によく効いている。
この作品の舞台である十九世紀半ばであれば、アメリカ合衆国には、農村共同体のようなほとんどお金を使わずに暮らせる場所も、極度に資本主義化された都会もある。この作品の舞台は、その中でも、最も先鋭的に資本主義的な場所といえる。生産的に、効率的に働かなければ、生きている価値がない、意味がない、この街に居る理由がない。そんな場所に、何もしない、何も生産しないバートルビーが現れ、なおかつ、何も食べない。周囲の生産性の高さと、バートルビーの何もしなさ。このコントラストによって、果たして我々の社会において、何もしない、何も生み出さない、ただ剝き出しの身体として生きている人間には、存在意義がないのだろうか――。そんなことが問いかけられているように思うのです。
そしてバートルビーの描写に特徴的な摂食障害のイメージ。文学と摂食障害という組み合わせで連想されるのが、フランツ・カフカの「断食芸人」です。この世には「美味いと思う食べ物が見つからなかった」という理由で食べることを拒否した芸人が断食を続けてどんどんやせ細っていき、サーカスの動物小屋に行く通路にある檻の藁の中で死んでいる。そんな作品です。
あるいは、ハン・ガンという韓国の作家が書いた『菜食主義者』という作品。タイトルにある菜食主義者とは、この物語に出てくるヨンヘという女性のことで、彼女は非常につらい出来事を経験します。そして肉食は動物の命を奪う暴力的な行為だという理由で、まず肉を食うことを拒否して菜食主義者になる。精神病院で過ごすうち、やがて「わたし、もう食べなくてもいいの」と言い、自分は植物だと考えるようになり、最終的には水しか飲まなくなって、おそらくは死んでいく。そういう物語です。
弱肉強食という言葉が暗示しているように、食べるというのは一種の暴力でもあります。私たちの社会は、いかに文明化したといっても暴力を内包している。生産できないものには「死ね」と宣告するような、不寛容さに満ちている。摂食障害文学の登場人物たちは、このような世界を拒否して死んでいく。彼らは愚かなのか。むしろ、彼らの姿を見ることで、我々は、ふだん見ないようにしている自分の醜さや狡さといったものへのまなざしを取り戻すことができるのではないか。「書記バートルビー」の物語から「摂食障害文学の系譜」を考えてみてもよいかもしれません。
〔読書リスト〕
ロンドン/深町眞理子訳『野性の呼び声』(光文社古典新訳文庫、2007)
カフカ/山下肇・山下萬里訳『変身・断食芸人』(岩波文庫、2004)
ハン・ガン/きむ ふな訳『菜食主義者』(クオン、2011)
【『教養としてのアメリカ短篇小説』目次】
イントロダクション
第1講 暴力と不安の連鎖――ポー「黒猫」
第2講 屹立する剝き出しの身体――メルヴィル「書記バートルビー――ウォール街の物語」
第3講 英雄の物語ではない戦争――トウェイン「失敗に終わった行軍の個人史」
第4講 共同体から疎外された者の祈り――アンダソン「手」
第5講 セルフ・コントロールの幻想――フィッツジェラルド「バビロン再訪」
第6講 存在の基盤が崩れるとき――フォークナー「孫むすめ」
第7講 妊娠をめぐる「対決」――ヘミングウェイ「白い象のような山並み」
第8講 人生に立ち向かうためのユーモア――サリンジャー「エズメに――愛と悲惨をこめて」
第9講 美しい世界と、その崩壊――カポーティー「クリスマスの思い出」
第10講 救いなき人生と、噴出する愛――オコナー「善人はなかなかいない」
第11講 言葉をもたなかった者たちの文学――カーヴァー「足もとに流れる深い川」
第12講 ヴェトナム戦争というトラウマ――オブライエン「レイニー河で」
第13講 愛の可能性の断片――リー「優しさ」
プロフィール
都甲幸治(とこう・こうじ)
1969年、福岡県生まれ。翻訳家・アメリカ文学研究者、早稲田大学文学学術院教授。東京大学大学院総合文化研究科表象文化論専攻修士課程修了。翻訳家を経て、同大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻(北米)博士課程修了。主著に『21世紀の世界文学30冊を読む』(新潮社)、『狂喜の読み屋』(共和国)、『「街小説」読みくらべ』(立東舎)、『世界文学の21世紀』(Pヴァイン)、訳書にチャールズ・ブコウスキー『勝手に生きろ!』(河出文庫)、ジュノ・ディアス『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』(新潮社)、共著に『ノーベル文学賞のすべて』(立東舎)、『引き裂かれた世界の文学案内――境界から響く声たち』(大修館書店)など。
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