「論文を書く力」は、一生もののスキルです!――対談:山内志朗×戸田山和久(後編)
論文対談もいよいよ佳境に入ります。論文のテーマ設定、社会の出ても役に立つ卒論執筆の効用……大学新入生のみなさんから、社会人、年輩の方まで、幅広い層に必ず役に立つ「知の羅針盤」。熱いメッセージに、ぜひ耳を傾けてみてください。
*対談の前編はこちらです。
文章指南のコツ
山内 『論文の教室』には、学生さんの反応とかを見ながら書いたところはありますか。
戸田山 僕の場合、原稿を見てもらって「どう?」というのは、ちょっと怖くて(笑)。でも、内容には学生さんたちの過去のさまざまな言動を取り入れています。たとえば、巻末におまけとして入れた「禁句集」。一時期、学生さんから提出してもらった文章を添削するというサービスをやっていました。そうすると学生さんの書く文章のクセというのがだんだんわかってきた。そこで、「こうした表現を避けるだけで文章がうまく見える」という禁句集を作ったんですね。
山内 赤ペン先生をやっていたわけですか。
戸田山 メールでやっていたんですね。数年やって、もうとんでもなく時間がかかるからやめちゃったんですけど。
山内 私も文章指導の一環として、学生さんの文章に赤を入れて返していたことがありました。ダメなところを指摘するのは簡単ですが、その代案というか、じゃあ、こう書けばいいんだよというのを考えると時間がかかるんですよね。だから、「ここはダメだよ」とか「こんなふうに直すといいんじゃないかな」とか、口頭で指導するようにはなったけれど、赤ペン先生は1、2年でやめちゃいました。
戸田山 私の場合、言い換え例を載せるより、それを最初から使うなと言ったほうが話が早いということで「禁句集」にしました。論文の文章では他にも、体言止めを使うとみっともないとか、望ましくないことがいくつもあります。それを避けるためには、体言止めにすると気持ちが悪いから、自然と整った文章にしてしまう、そういうふうに自然と手が動くようになるといい。それこそ、山内さんの言うハビトゥスですね。
私の考えでは、ハビトゥスを身につけさせるというのは、ようするに子どものときの躾みたいなものです。たとえば子どもが口の中にご飯を入れたまましゃべったら、親は「めっ!」と言う。そうすると、そのうちにそれをしなくなる。躾ってみんな「めっ!」ですよね。禁句集というのはそういう発想なんですね。これをやったら「めっ!」だよと言ってあげたほうが、ハビトゥスとしての文体は身につきやすいのかなと思ったんですね。
山内 文章指南をはじめ、論文を書くうえでやってはいけないことについては、二人とも指摘するポイントがかなり重なっています。私の場合、予備校でも小論文を教えていましたが、いろんなところで論文指導をやっていると、学生さんたちが間違いやすいポイントに経験的に気づくようになりました。それはいけないよというので、「めっ!」と言うわけです。そうすることで、論文としての最低ラインというか、やってはいけないことが経験的に身についてくる。その点は、戸田山さんと同じ思いです。
論文のテーマをいかに設定するか
山内 論文のテーマをどのあたりの水準に設定するのか。戸田山さんも書いているけれど、たとえば「ヘーゲル哲学研究」とか、とんでもなく大きなテーマを設定してしまうと、「主要著作を読むだけで一生もんだぜ」ということになる。若いときに論文を書くとつい、「大きいことはいいことだ」と、カッコをつけたくなることもあるでしょう。答えようがない問いをテーマに据える学生さんがとても多い。
たとえば、スポーツ倫理学でドーピングの問題をテーマにしたいという学生さんがいました。では、ドーピングを素材にして何をどう論じるのかと聞くと、「ちょっと関心があるので調べてみたい」という。これでは問題意識が定まっていないので、執筆の段取りも決まらないでしょう。別の学生さんだと、親が子どもに暴力をふるうドメスティックバイオレンスをなんとかやめさせるようなことを卒論で考えてみたいという。これまたとんでもなく大きいテーマで、答えようがないんですね。
つまりは段取りがつけられるような、論文を実際に書き進められるような具体性を与えるために、テーマのダウンサイジングが必要だと思うんですね。そのあたりついてはどう思われますか。
戸田山 これはけっこう難しくて。これって答えを出せそうにない問いだなってわかるためには、ある程度知識がないといけない。あるいは、答えのある問いだとしても、自分が書く論文の中で出せるのか、あらかじめ判断するのはきわめて難しいわけです。だから、実際にやってもらうしかない。
教員は経験知で、これは答えが出ない問いだとわかっていますが、そのことをあからさまに指摘してしまうと、相手のやる気が削がれるんですよ。そこで、「それは大事な問いだね」と肯定したうえで、とりあえずは関連文献を調べてみようとか、まずは新書を一冊読んでみようとかアドバイスをすると、「ちょっとこの問い、大きすぎましたね」って学生さんにも気づいてもらえます。
山内 戸田山さんの本では、「問いのフィールド」という方法が紹介されていますね。関心をもったテーマについて、自分で調べたうえでさまざまな問いを設定して、フィールドを作ってみる。なかなか答えが出ないような問いを省き、取捨選択することで、アウトラインの形に持っていく。なかなか良い方法だと思いました。これは、具体的な論文指導の経験をふまえた方法なんですか。
戸田山 そうですね。基本的には学生さんとやりとりする中で気づいたことです。最初は答えを出すための探索ではなくて、問いそのものの空間を探索しないといけない。これは研究の場合もそうですよね。大きな問いがまずあって、それを小さく分けてみる。さらに、関連しあう問いを一つにまとめたり、まだ誰も手をつけていない問いはあるかしらと考えたり。
そういう構造を発見していく段階がまずあって、そのあとで、今度は答えを見つけるための探索になりますね。あと、最初に出した問いにいつまでもこだわらなくていいということも大事です。作業を進めるうちに知りたいことが変わることもありますし。
山内 そうそう。論文を書いていると、新しい発見があります。「あ、そうか。最初は気づいてなかったけど、こういう大事な点が隠れていたんだ」という。単に最初にあった問題に対する答えを出して終わりではなくて、問題意識がさらに育っていって、最初見えていなかったものが見えてくる。その結果、論文としては少し緩やかになるかもしれないけれど、本人は大きく成長することができます。新入生のみなさんは、大学入試の問題を解くのとはまったく違う作業をやっていることに気づくでしょう。
悩ましいのは「参考文献表」
山内 戸田山さんの本も私の本も、注のつけ方とか参考文献表の書き方についてはかなり詳しく紹介しています。この点については、私も論文を書くときにすごく悩んだので、ここでまとめておくと便利かなと思ったんですね。
戸田山 実際にめんどうな「しきたり」がたくさんありますよね。修士論文とか博士論文を書く段になっても、参考文献の挙げ方がバラバラだったりする人はけっこう多い。
山内 参考文献の挙げ方は必ずしも一つの方式で整えなくてもいいし、言語学だったら言語学のやり方があるから、それぞれの分野の流儀に従えばいい。ただ、はじめて論文を書く学生さんの場合は、どの流儀に従ったらいいんでしょうかという感じで。「図書館に行ってみたらいろんな書き方がありました。どうしましょうか」と迷うので、迷わなくてもいいような指示を出してあげたいと思いましたね。
戸田山 分野によって一番違うのが、参考文献の挙げ方ですよ。分野によっていろいろなやり方があるということを先生がたがきちんと理解していているならいいんだけれど、そうではなく、自分の業界のやり方が唯一正しいと思っている人がいると困っちゃうんだよね(笑)。
山内 「私の師匠はそんなことは教えなかった」とか言われると、ほんとうに困ります。あなたの師匠は教えなかったかもしれないけれど、世間では一般的ですという例はたくさんあるわけですから。
戸田山 『論文の教室』では、参考文献の挙げ方については、その先生の真似をしなさいと書いておきました。先生が「こだわりの人」っぽいと思ったら、その先生の書いた論文の形式を真似すれば、批判されないよって。書き方が違うじゃないかと言われたら、「先生の論文を真似したんですけど」って返せばいいじゃないかと(笑)。
山内 昨今は教養課程で、テクニカルライティングの時間を設けるところも出てきました。学生さんにもライティングのマナーを身につけた人が増えてきて、こちらは少し楽になった(笑)。われわれの頃は参考文献の書き方なんて習ったこともなくて、ほんとうに我流でやっていた感じでしたね。その中でも先生のやり方を真似して身につけた人の場合、それをあたかも金科玉条のように思ってしまうパターンが、年輩の人を中心に残っている感じがしますね。
指導する側の心構え
戸田山 それで思い出したんだけれど、山内さんの本では、論文を書く側の心構えだけではなくて、論文を指導する側はこんな心構えをもって、こんな方法で指導しないといけないということが最後に書いてある。これはこの本の大きな特徴で、そんなのなかった(笑)。私の本も含めて、「論文を書けるようになった人」がそのノウハウを「まだ書けない人」に注入するという、上から目線の書き方本が多いなかで、これはすごく貴重です。硬派なことなんですよ。
山内 いろんなところで学術論文の審査をやっていますが、そういう場ではすごく厳しく審査することが多い。これじゃ論文になってないよという感じで、「書き直したほうがいい」と指示することになります。投稿者のほうはそれを真に受けて、指示された通りに直す。その結果、良い論文になることもありますが、むしろ論点が盛り沢山になってバラけてしまい、前よりも悪くなってしまうこともある。すごく良心的な審査だったとしても、書く側のためになっていないわけです。あるいは、自分が若いころにあまりたいした論文を書いていなかったことを忘れたのか、上から目線でダメ出しする人もいる。これはいかがなものか、という気がします。
戸田山 山内さんの本も私の本も、学術論文の書き方を指南するものではないので、少しテーマがずれるかもしれませんが、指導する側の心構えに関することなので、もうちょっと話しておきましょう。
大学院のレベルになると、査読という審査を経たうえでその分野の専門雑誌に論文を載せることになります。査読って、その分野の論文の質を保証するためにやっているわけですが、本末転倒になることもある。プレステージが高い雑誌にするために、あるいは質の高い学会であるために査読を厳しくしようとなると、かえって誰も投稿しなくなって、論文が載らなくなるじゃないですか(笑)。質を保証するための制度によって、逆にその分野の生産性が落ちてしまいます。査読を通すのが研究の目的になってしまい、自分の言いたいことを曲げてまで、査読者のコメントに応えなければいけなくなったりとか。そうすると何のためにやっているんだか、よくわからなくなってしまう。
山内 ちょっと足りないところがあるならば、こうすると良くなるとアドバイスして、伸ばしてあげる、育ててあげるというのが査読者の役割でしょう。もちろん、100本来たなかで20本しか採用できないのであれば、あるところで線を引かなければいけないでしょうが、良いものと悪いものを選別することより、「こうするとOKになるよ」と言って伸ばしてやるほうがいいような気がしますね。
戸田山 もうちょっと査読システムの意味を考えてもらったほうがいいと思いますね。
卒論執筆の経験は、社会に出てから役に立つ
山内 この対談は、大学新入生のみなさんを念頭に置いていますが、将来への心構えとして、大学で学んだことの集大成として執筆する卒論について話しておきましょう。
前項で、論文を書くことは知的成長につながると言いましたが、卒論についてもまさに同様です。卒論を書くと、自分が本当は何を学びたかったのか、最初ははっきりしていなかったものがどんどん明瞭になっていく。ある意味で「自分探し」にもなります。結果としてあまり完成度の高くない論文に仕上がったとしても、自分を発見できれば、本人にとって楽しいし、ためにもなる。それは戸田山さんの言い方を借りれば、「アウトラインを育てていく」ということかと思います。
戸田山 卒論って、たいていの学生さんにとっては一生に1回書くものです。でも、そこで身についた探索の方法とか、問いを明確化することとか、概念をきちんと定義して特徴づけることは、社会人としての生活でも役に立ったと言ってくれる人が、全員ではないけれど、時々います。そういうとき、やってよかったなと思いますね。
卒論を書いてもらうことにはきちんとした意義があります。研究者にならない人に卒論を書いてもらわなくてもいいんじゃない? という意見もありますが、私は違うと思う。山内さんも書いている通り、卒業論文は学術論文ではないので、オリジナリティなど必要ありません。結論はありきたりのものでもいいし、誰かがすでに言っていることでもいい。そこまでの材料を自分で調べて、それをまとめて、構造を作っていくということが卒論の大切なところなんです。そのスキルは他のことに転用できるわけですから。
山内 その通りです。社会人になって仕事を仕上げる場合でも、何かの問題を解決する場合でも、解決への方向を見定めて、そのための準備をしなければいけない。時間が限られているなかで段取りをつけて、うまく行動しなければならない。その過程では、単に最初にあった問題に向き合うだけではなくて、自分自身のキャリアアップというか、新たな能力を身につけつつ解決することができれば一番いいでしょう。卒業論文というのは、そういうことの練習というか、人生のいろいろな場面のシミュレーションになるようなところもあります。卒論を課すのは文学部が多いけれど、他の学部でやっても意味があることだと思いますね。失敗しながら、練習しながら、オン・ザ・ジョブ・トレーニングをしていくようなものですから。
卒論執筆は、共同作業のシミュレーションにもなる
戸田山 卒論で身につくのは文章作成能力だけではなく、プロジェクトをやる能力ということですね。プロジェクトベースト・ラーニングみたいな。プロジェクトとするならば、必ずしも一人で一つ書かなくてもいいのかもしれません。チームで一つの論文をまとめるような、そういう試みも考えられますね。
卒論ではありませんが、そういうことを試みたことがあります。今はだいたいどの大学でも1年生のときに基礎セミナーをやりますが、私が担当したとき、共同作業をやってもらいました。チームを作ってもらって、チームで一つ研究をして、皆で議論をしたうえで、報告書を共同で制作してもらう。ただし、その過程を通じて自分にとってどのような発見があったかということを、一人ひとり書いて提出してもらいました。共同作業でやると、何もしない学生さんが必ずいるので(笑)、タダ乗りを防ぐわけです。
山内 共同作業をするときには、役割を分担して、全体の問題の構図というか、問題の配置を明らかにしないといけないですね。配置ができあがって、構造を共有できれば、その中で個々の役割分担がはっきりして、自分がこの作業をやると、あの人の別の作業にこのようにつながっていくというような、明確な意識をもてるようになります。論文を書くことは、共同作業をする場合に、仕事をどのように分担すればいいかということの一つのシミュレーションにもなるような気がします。
戸田山 だから似てるんでしょうね、新製品の開発と。ドゥルーズをテーマに論文を書きたいというのと同じです。最初は漠然としたトピックから始めて、では、それについて現状のどこに問題があるのかを発見して……と、ようするに会社や組織に属してからやることと似ているんですよね、論文って。
山内 論文のいいところは、それが形として残るところです。卒論について言うと、何万字もの文章を書く機会というのは、普通の人にはなかなかありません。卒論が一生で書いた一番長い文章になるということもあるでしょう。でも、その経験は後に残りますし、実は普通の日常生活や仕事の場面でも応用がきくような構造になっているわけですから。
メッセージ①──知識の選り好みはNG
戸田山 この対談は4月の頭に公開されます。新入生の人とか、新社会人になった人、あるいは年配の人でも新しく何かを始めてみようと思っている人たちに向けたエールで締めくくりましょう。
山内 哲学をやっていると、古代ギリシアとか、インドとか、アラビアとかの、2000年前の人のテキストを読むことがあります。ギリシア語やアラビア語、ラテン語をマスターするにはすごく手間がかかるし、とても大変なことです。実際、われわれはその前に、スマホやパソコンの使い方とか、いろんな銀行の決済のシステムとかを覚えなければいけないから、なかなかそこまで手が回らないかもしれません。ただ、古い思想でも現代の人間と同じ悩みを取り上げていたり考えたりしている場合もあります。古いからといって、読む必要はないと思うのはなんとももったいない。
とくに知識というものは、やはり古今共通のものなので、2000年、2500年前にギリシアで語られたことが、今でも「ああ、そうだ」と腑に落ちる場合がある。ギリシア語で言う「エピステーメー」、いったん作り上げられた知識というのは、すごく使い回しがききます。まさにギリシアの知識をアラビアの人が学んで、それをヨーロッパの人が受け継いで、それを現代のわれわれがまた少しバージョンアップして論文で使うという感じで、脈々とした流れがある。つまり、知識とは伝統的にそのままの形で残すべきということではなくて、基本OSとして、案外使い途があるわけです。
新しく大学生になった人や社会人になった人に言いたいのは、現代の最先端の新しい知識ももちろん意味はあるし、覚えなければいけないんだけれど、知識の選り好みをしないで、いろんなものに挑戦してもらいたいということですね。たとえば、ペルシャの古い詩人の書いたものを読むと、最初は見当がつかないかもしれないけれど、自分たちと同じ問題を語っていると気づくときが来るかもしれません。そういう回り道をすることは重要だし、知の営みに参加することは自分を広げることにもつながります。
これは戸田山さんが『教養の書』(筑摩書房)にも書いていることですが、世の中は面白いことだらけです。だから、自分には関係ないと切り捨てるのではなくて、ちょっと味見してみるといい。恐れることなく、まったく関心のないようなことにも心を向けて、楽しんでみる。楽しみを見つけられる能力というのが、私の言い方で言えば、ハビトゥスなのかなと思っております。
年輩の方たちにも一言。私は毎年、通信教育で論文指導をやっています。60歳の方とか70歳の方とか、一番年齢が高いと75歳の方を指導したことがあります。パキスタンで30年間暮らして、日本に戻ってきて、ハンナ・アーレントをテーマに論文を書きたいという人もいらっしゃいました。年輩のみなさんと接するのは、私にもたいへん刺激になります。知の営みに参加するのは、若い人の特権というわけでは決してありません。年輩の方たちにこそ、古今東西、世界中からさまざまな楽しみを見つけてもらいたいと思います。
メッセージ②──なぜ論文を書くのか、その意義を考えよう
戸田山 最後に私からも一言。世界中の大学で、あるいは国によっては高校から、論文を書けるようになろうという教育がなされています。このことの意味というか意義を考えてみましょう。
それは決して研究者となってサバイバルしていくための基礎づくりではないと思うんです。そう思う理由は二つあって、大学を出た人がみんな研究者になるわけではない、というか、圧倒的多数は研究者にならないからです。それからもう一つ、学問の世界で論文という形式がいつまで続くのかわからないからです。だっていま、すでに人が一生かかっても読み切れないほどの論文が量産されていて、人の代わりに論文を読んでくれるAIを作ろうかなんてところまで来てしまった。そうすると、学術情報の流通のさせかたとして、論文というメディアのありかたは本当に適切なのか、ということになり、もしかしたら将来はなくなってしまうかもしれない。そんなものをすべての学生に教育するのは、学術論文の書きかたに限定するならば、意味のないことでしょう。
世界中で学生さんに論文の指導がなされていることには違う目的があります。問いを探索したうえで重要な問いを明確に立てる。それに対する自分の、今のところ最善の答えを出す。ただ単に答えを出すだけではなくて、きちんと証拠によってサポートされたものを、他の人にも理解可能なかたちでまとめる。他の人はそれを読んで批判をして、議論をしたうえで、さらに良い答えに至る。以上のための最適の手段だからこそ、学生のみならずみんなが論文の書きかたを身につける必要があるわけです。研究者ではない人にとっても論文が書けることはすごく大事なことですし、世の中を良くしていくうえで、広い意味での論文はたいへん役に立つ。歴史をさかのぼれば、世界をより良くするうえで論文がどれだけ役に立ってきたか、理解できるでしょう。
だから、論文の意義について正確に理解していただくことが、実は一番難しい。書きかたなんて簡単(笑)。だって、世界中のものすごくたくさんの数の研究者が、日夜書いているわけですから。神から与えられた特異な才能が必要なんてことはまったくなくて、ベートーヴェンのピアノソナタを弾くよりも1000倍は簡単です。ぜひ身につけてください。それは一生ものですよ、ということを言いたいですね。
*2022年3月16日収録 構成:編集部
プロフィール
山内志朗(やまうち・しろう)
1957年、山形県生まれ。東京大学大学院博士課程単位取得退学。専攻は哲学。新潟大学人文学部教授を経て、慶應義塾大学文学部教授。著書に『天使の記号学』『存在の一義性を求めて』(以上、岩波書店)、『ライプニッツ──なぜ私は世界にひとりしかいないのか』(NHK出版)、『普遍論争』(平凡社ライブラリー)、『新版 ぎりぎり合格への論文マニュアル』(平凡社新書)など。
戸田山和久(とだやま・かずひさ)
1958年、東京都生まれ。東京学大学院人文科学研究科単位取得退学。専攻は科学哲学。現在、名古屋大学大学院情報学研究科教授。著書に『科学哲学の冒険』『最新版 論文の教室』(以上、NHKブックス)、『恐怖の哲学』(NHK出版新書)、『思考の教室』(NHK出版)、『論理学をつくる』(名古屋大学出版会)、『哲学入門』(ちくま新書)、『教養の書』(筑摩書房)など。
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