神を裁く者、その名は…… ”あなたのキリスト教観が180度変わる”類書皆無の宗教論!
ストラスブール大学神学部出身の神学者加藤隆さんが、自身の研究の集大成として世に放つ新書『キリスト教の本質 「不在の神」はいかにして生まれたか』が発売となりました。
全世界で22億5000万人もの信者を有する一大宗教であるキリスト教。しかし、その実態について、日本人のほとんどが理解していないと著者は言います。
そんなキリスト教の本質に迫る本書——今回はその発売を記念し、内容の一部を特別公開します。
キリスト教諸宗派全体の理解は不可能である
「キリスト教」を理解する上では、大きく言って二種類のアプローチがある。
一つは二千年近くの間に「キリスト教」が展開した姿を観察・理解して、それらを総和すればキリスト教が分かる、とするアプローチである。こうしたアプローチは、「キリスト教」とされている現象のすべてを等し並みに考慮し検討しようとしていて、「キリスト教」という対象に対する姿勢として誠実かもしれない。
しかし、実際には、必要な作業をきちんと実行することが不可能である。「キリスト教」はきわめて大規模な動きとなっていて、この上なく複雑な姿を示してきている。単純素朴な構えで「キリスト教」の全体を理解しようとするなら、「キリスト教」なるもののそれらの事象の全てを、観察・理解しなければならない。そのような作業は、対象が量的に膨大であるために実行不可能である。
キリスト教諸宗派のすべてを全面的に理解することはできない。しかし、このことは、調査・勉強を少し進めてみるだけで、すぐに理解できる。また、次のような問題もある。「キリスト教」には、大中小のさまざまな分派が生じてきている。それらの分派は、互いに立場が異なっているから分裂している。そして、分派間のさまざまな対立は、場合によっては厳しいものになり、対立する相手を皆殺しにしなければ済まないような「キリスト教」内部の戦争になったりもした。
こうした熾烈な対立が生じているのに、それらをまとめて「キリスト教」と言ってしまえるのかと疑問に思われるほどである。「キリスト教」がなぜこのように内部で分裂するのか、それなのに、それらをまとめて「キリスト教」となぜ言えるのかについても、本書で考察する。
この機会に重大な誤りになっている点を、注意点として指摘する。
「キリスト教」はさまざまな分派に分かれている。それらの分派のどれかの立場を信奉している者、多くの場合「キリスト教徒」「信者」が、自分が信奉している分派で教えられている「キリスト教」が「キリスト教全体」の姿だと主張するような誤りである。どの分派も自分たちの立場こそが「真のキリスト教」「正しいキリスト教」だと教えているから、このような事態が生じることになる。独りよがり、独善、になっている。
しかし、他の分派からは、そのような「キリスト教」は異端であり無神論であり、誤りであって、別の「キリスト教」こそが、その分派では、「真のキリスト教」「正しいキリスト教」とされている。「目糞鼻糞を嗤う」という日本語の表現にぴったりとあてはまる場面が繰り出されている。自分は完璧だ、正しい、と「信じ込んで」、他のすべてを否定的に決めつけて軽蔑する態度である。狭隘な理解に閉じこもっている者たちは、キリスト教を分かっていると主張する。どう理解すべきか、どうすべきか、どう考えるべきか、が分かっていると主張する。さまざまな分派が存在していて、自分たちが理解しているのは、そのうちの一つでしかないということは明らかなはずなのに、その狭隘な理解が、「キリスト教の全体」の理解だと主張してはばからない。
日本には、仏教が、日本的な仏教の範囲内でも、さまざまな分派になっているという状況がある。しかし、それぞれの分派に属する者たちで、自分たちの「仏教理解」が「仏教全体の理解」だと主張する者はいない。「わたしらのとこ(自分たちの宗派)では、こうです。でも、あちらはん(別の宗派)では、ちごてます」、といった具合である。日本の知識人で、「仏教が分かっている」と言い切る者はいない。
しかし、「キリスト教」ということになると、自分たちの狭隘な「キリスト教理解」が「キリスト教全体の理解」と主張されている。そのような独りよがりの「キリスト教理解」を振りかざす者たちは、日本語では「キリスト者として云々」と誇らしげに言うことが多いようである。しかし「キリスト教」の全体の姿、さまざまな対立を含んだ複雑な姿を見渡せば、すべてを理解できないことは明らかであり、「私はキリスト教が分からない」となるはずである。「自分のキリスト教」を「キリスト教」そのもの、と主張するのは、やめるべきである。
キリスト教の成立前後に着目する
二千年近くの間の「キリスト教」の事象に注目するアプローチは、実行不可能である。しかしもう一つのアプローチならば、(幸いにして)「キリスト教」をうまく把握できる。
「キリスト教」は、紀元後一世紀前半のイエスの活動がきっかけになって生じた。イエスの活動はユダヤ教内部での改革運動と言うべきものだったが、そこから展開した流れが一世紀の末あたりに従来のユダヤ教から分裂して、ユダヤ教とは別の流れになり、「キリスト教」といわれる独立した流れになった。
「キリスト教」成立前後のこうした様子には、のちに展開する「キリスト教」の本質的要素がすでに備わっている。成立前後の「キリスト教」も複雑だが、二千年近くにわたる「キリスト教」の展開全体に比べれば、規模ははるかに小さい。慎重に検討するならば、全体像を把握することができる。
そこで、成立前後の「キリスト教」の様子を検討することにする。まずは最初のきっかけになったイエスの様子に注目することになる。
イエスの意義は、どのようなものなのか。
イエスは、今は「中東」の「パレスチナ」と呼ばれる地域にいたユダヤ人である。イエスは普通のユダヤ人青年の一人だった。ところが社会的に目立った活動をするようになり、まもなく処刑されてしまう。「十字架刑」だったようである。処刑されるまでの社会活動の期間はかなり短く、一年間ほど、長くても二~三年だった。
イエスは「キリスト教の創始者」ということになっている。それで完全に間違い、ではないのだが、コトは単純ではない。イエスは何もないところから突如として「キリスト教」なるものを創出した、「キリスト教」と言われることになる運動を開始した、のではない。イエスの活動には前提がある。ユダヤ教である。「イエスの活動はユダヤ教内部での改革運動と言うべきものだった」と述べた。
イエスはユダヤ人であり、ユダヤ教徒である。ユダヤ教は民族宗教なので、ユダヤ人ならユダヤ教徒である、ユダヤ教徒はユダヤ人である。
そのユダヤ教の改革運動を、イエスは行おうとした。つまり、イエスがいた当時のユダヤ教には、問題があった。そしてその問題について何とかできると思うからこそ、イエスは目立った活動を行った。問題があるだけでは、何らかの活動を行うことにはならない。
問題があって、その問題をなんとかできると思うのであれば、目立った活動をすることになる。ではユダヤ教のその問題とは何か。
簡単に言えば、「神の沈黙」「神が動かないこと」である。しかし、ユダヤ教のこの問題の意味を十分に理解するには、ユダヤ教が如何なるもので、イエスの当時までどのように展開してきたのかを知らねばならない。
「キリスト教は何か」を知るために、「ユダヤ教は何か」を知らねばならないことになった。これでは課題が横滑りしただけで、しかも課題が一つ増えたことになっている。しかし「ユダヤ教を知る」ことは、「キリスト教を知る」ことに比べて、かなり取り組みやすい。
ユダヤ教は、中規模の集団であるユダヤ人たちの一つの民族宗教集団の立場である。地球規模で二千年近く展開し、無限と思えるほどに内部が多様になったキリスト教に比べれば、はるかにまとまりがある流れになっている。
ヘッダー画像:ヴァランタン・ド・ブーローニュ『書簡を書く聖パウロ』(1618~20年頃、ヒューストン美術館蔵)
続きは『キリスト教の本質 「不在の神」はいかにして生まれたか』でお楽しみください。
加藤 隆(かとう・たかし)
千葉大学名誉教授。1957年生まれ。ストラスブール大学プロテスタント神学部博士課程修了。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻博士課程修了。神学博士。専門は、聖書学、神学、比較文明論。著書に『新約聖書はなぜギリシア語で書かれたか』『一神教の誕生』『歴史の中の「新約聖書」』『旧約聖書の誕生』『「新約聖書」の誕生』『別冊NHK100分de名著 集中講義 旧約聖書』など。