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敗戦直後の「地獄」は、物資の隠匿に狂奔したエリートの不正によってもたらされた〔前編〕 貴志謙介『戦後ゼロ年 東京ブラックホール』より

 五輪イヤーの「闇」を描くノンフィクション『1964 東京ブラックホール』の刊行を記念して、著者・貴志謙介氏の前著『戦後ゼロ年 東京ブラックホール』の中でも、大きな話題を集めた第三章「隠匿に狂奔するエリート」を公開します。
 1946年、敗戦の翌年、東京湾で大量の財宝が発見されました。金、銀、プラチナ――、当時の金額で20億ドルに上るとされた財宝は、はたしてどこから来て、どこへ消えたのでしょうか?
 占領期日本研究の第一人者、マサチューセッツ工科大学のジョン・ダワー名誉教授(日本近代史)、アリゾナ大学のマイケル・シャラー教授(アメリカ外交史)への取材や、機密解除されたCIA文書をもとに、焼野原の東京で行われた「国民に対する悪質な犯罪」(ジョン・ダワー)の実相に迫ります。

※本文中の筆者もしくは編集部による注は( )で示し、引用箇所の注は[ ]で示しています。また、漢字は原則として旧字体は新字体に、歴史的仮名遣いは現代仮名遣いに改め、句読点・読み仮名を適宜補いました。

第三章 隠匿に狂奔するエリート

東京湾の底から見つかった大量の金塊

 1946年4月19日。東京湾から大量の金塊が発見され、人々を驚かせた。このニュースは、在京の特派員の関心を引き、海外でも大きく報じられた。巨大なブラックホールが国民の財産を吞み込んでいたのである。
 米軍兵士向けの「星条旗新聞(STARS & STRIPES)」(1946年4月20日付)、「朝日新聞」(1946年4月20日付)、映像ニュースでは、フランスの映画会社「ゴーモン・パテ(Gaumont Pathé)」、イギリスの「ブリティッシュ・パテ(British Pathé)」、「日本ニュース」。競ってこのニュースをセンセーショナルに報じた。
 いずれも、発見の場所について、「東京湾」としている。海軍の施設があった現在の江東区・越中島の一角である。発見のきっかけは、謝礼金を当て込んだ日本人による占領軍への密告だったという。
「ゴーモン・パテ」のニュース映像を入手することができた。フランス語の、わめくような調子のナレーションが耳に響く。
「東京湾で宝探し! 米軍の潜水士が金・銀・プラチナの延べ棒を捜索、発見した。日本人が海のなかに隠匿する目的で投げ込んだものだ。連合軍上陸の直前のことである。隠匿された財宝の価値は20億ドルにも上るとされている。まだ発見されていない財宝もあるが、引き上げ作業は順調に進んでいる」
 現場で撮影に当たった「日本ニュース」の記者は、以下のようにコメントした。
「アメリカ海軍の潜水夫が東京湾の海底に潜っています。4月19日のこと。驚いたことには、正真正銘の金塊が続々出てきました。[略]投げ込んだ主は血迷った日本の軍隊だと言われています」
 占領軍の調査によって莫大な財宝は、日本軍の隠匿物資であったことが判明した。元はと言えば、本土決戦のために軍がかき集めた国民の財産にほかならない。
 占領軍のダイバーによる初日の捜索は午後2時45分に切り上げられ、この日の‟成果”は、米軍の第七騎兵連隊によってトラックに積み込まれ、日本銀行の地下室に運ばれたという。「星条旗新聞」は、今後の作業予定について、「潜水によって金、銀、プラチナの延べ棒を捜索する作業はこのあとも続けられる見込み。ダムで水をせき止め、排水を実施する方法も試される」と書いている。
 だが、そうした作業に関しての、続報は出ていない。その後、最終的にどのくらいの‟宝物”が回収されたのかも不明である。おそらく騒ぎが大きくなるのを嫌った占領軍の判断で伏せられたのであろう。そして、その後、このお宝は日本銀行の地下室から姿を消した。
 なぜ消えたのか。だれが、どこへ運んだのか。お宝はどういう運命をたどったのか。一切は霧に包まれている。占領軍が接収したのか。日本政府の資金になったのか。それとも何者かが横領したのか。
 いわゆる伝説の「M資金」の一部となったとも言われるが、証拠はない。あらゆる手掛かりが、ブラックホールのなかへ消えた。そもそも、こうした莫大な財宝がどこから来たのか、そしてなぜ、大量に隠匿されたのか。玉音放送の前日、8月14日にさかのぼって考えてみたい。

隠匿はいかにして行われたのか

 ひそかに、しかし半ば公然と横領された物資の総額は数十億ドル。現在の価値で数兆円に上る。なぜこれだけの野放図な‟山分け”が可能だったのか。事の発端は、鈴木貫太郎首相(敗戦時)の出した通達だった。この文書は日本がポツダム宣言を受託した8月14日に出され、国民には公表されなかった。
「軍其の他に保有する軍需用保有物資資材の緊急処分の件
 陸海軍は速(すみや)かに国民生活安定の為(た)めに寄与し、民心を把握し、以(もっ)て積極的に軍民離間(ぐんみんりかん)の間隙を防止する為め、軍保有資材及物資等に付(つき)、隠密裡に緊急処分方措置す。尚(な)お陸海軍以外の政府所管物資等に付ても右に準ず」
(昭和20年8月14日閣議決定。大蔵省財政史室編『昭和財政史 第17巻』、東洋経済新報社)
 何やらもっともらしい文章だが、要するに、米軍上陸前に、軍需物資の放出を命じるもの。平たく言えば、「米軍が上陸した途端、軍需物資は差し押さえられるだろうから、その前に処理してしまおう」ということに尽きる。
 ただし、お裾分けに与(あずか)るのは、軍人、御用商人、官僚など、地位と特権に恵まれたエリートや戦争指導者だけであって、本来の持ち主である国民へ返却することなど、初めから、彼らの脳裏にはない。この決定を受け、陸海軍は全国の部隊の司令官に対し、速やかに物資の放出を進める機密指令を発した。
 この機密指令とは、15日に発せられた「陸機三六三号」のことである。それによれば、こうした軍需物資は、地方政府、民間工場、民間人に分配するとされ、「払い下げ代金は全額支払いを要せず」と記されていた。
 すなわち、軍の息のかかった組織、軍需工場(多くは軍人が役職を兼ねていた)、民間人(軍用商人)ら、軍と密接に癒着して莫大な利益を得ていた連中に、分け前を渡せ、ということである。もちろん、その利権を軍人も共有している。当然、この指令の結果として、軍人と軍用商人が途方もない利益を得ることになる。
 要するに、これは、国民の財産を横領することを国家が黙認するという、驚くべき指令なのである。

わずか2週間で、全資産の70パーセントが消えた

 事実、米軍が東京に進駐する8月28日までのわずか2週間の間に、膨大な軍需物資の大半がきれいさっぱり倉庫から消えてしまった。占領後、アメリカ戦略爆撃調査団が、600人におよぶ旧軍人や政府関係者を尋問した報告書によれば、帝国陸海軍が保有していた全資産のおよそ70%が、この戦後最初の略奪によってどこかへ持ち去られたという(United States Bombing Survey, The Effects of Strategic Bombing on Japan’s War Economy)。
 ちなみにアメリカ戦略爆撃調査団は、大統領の指令に基づいて組織されたアメリカ陸海軍の合同機関。その活動目的は、「米軍の行った戦略爆撃の効果や影響について調査し、将来の軍事力整備に役立てること」であった。
「真珠湾を攻撃した理由、日本が降伏を決定するにいたった経緯、広島・長崎への原爆投下の効果」を重点的にリサーチするとともに、日本軍の資産についても基礎的なデータを収集。1946年7月に報告書をまとめた。浩瀚(こうかん)な報告書には、1931年から45年にかけての日本の食糧備蓄についての一覧表があり、1945年段階でも、米、砂糖などの備蓄が十分にあったことがわかる。
 驚くべきことに、敗戦直後の日本には、「経済を優に2年間支えるだけの物資があり、食糧も大量に備蓄されていた」のである。もし、この食糧が公平に分配されていれば、数えきれないほどの餓死者の生命が救われていたことは間違いない。食べ物を求めて亡者のように焼け跡をさまよっていた多くの人々の苦しみは、いったい何だったのか。
 報告書はさらに、「横領された大量の隠匿物資がヤミ市に流れ込み、経済の回復を著しく阻害した」と述べ、こう指摘している。
「国民の財産をヤミ市で売りさばいて莫大な利益を得た犯人は、特権を享受する政治家や軍需資本家である。彼らはその行為によって、公人の品位を汚し、モラルの退廃を招いた」(同前)

元は、国民の財産である

 敗戦のどさくさにまぎれて、軍や政府の関係者が横領した軍需物資。そのなかには、たとえば愛国婦人会(戦死者の遺族や傷痍軍人の救護を主たる目的とする婦人団体)が戦争協力を呼びかけて寄付を募った、膨大な量のダイヤモンドや、個人の財産である宝石類もふくまれていた。
 といっても、それだけでは、8月14日以降、政府の内部でひそかに行われていた略奪の凄まじさは想像できまい。具体的な証言を紹介しよう。占領軍のオフィサー(職員)として、軍需物資の横領事件の調査に当たったセオドア・コーエンの回想である。GHQの労働課長、のち経済科学局経済顧問を歴任したコーエンは、政府部内のエリートが演じた醜態を書きとめていた。
「一九四五年八月、戦争が突然終わったとき、軍需物資を貯蔵してあった造兵廠[ぞうへいしょう。武器工場]の裏口が開けられ、沢山の物資が運び出された。一九四五年八月十四日はポツダム宣言を日本が受託した日であったが、日本政府は軍需物資の放出によって、これらが米軍の手に渡らないようにする、との閣議決定を下した。[略]
 この決定はもちろん、ポツダム宣言第十三項の
無条件降伏”の基本的な概念に違反するものであった。したがって米軍が到着する以前に放出作戦を完了させ、その後もその結果を保持できるようにするためには、スピードと秘密保持が絶対に必要だった」(セオドア・コーエン『日本占領革命』下巻、TBSブリタニカ)
 コーエンが指摘する「スピードと秘密保持」作戦は、むろん軍・政治家・官僚の連係プレーによって、巧妙に進められた。国民が敗戦の報せに茫然(ぼうぜん)と立ち尽くし、虚脱状態におちいっている間に、軍人やエリートは、利権の確保のためにフル稼働していたのである。
 著名な占領史の専門家であり、敗戦国日本の庶民の姿を見つめた名著『敗北を抱きしめて』を著し、ピュリツァー賞に輝いた碩学(せきがく)ジョン・ダワーも、このエリートによる空前の横領事件を重く受け止めている。
 彼は、わたしたちが戦後ゼロ年をめぐるリサーチを始めたころから企画への協力を惜しまず、映像フッテージについても有益な示唆を与えてくれた。
 ダワーは、『敗北を抱きしめて』のなかでアメリカ戦略爆撃調査団の報告をはじめとする膨大な機密資料を読み解き、こう述べている。
「影響力をもつ人々の非常に多数が、天皇の放送が行われた後の二週間の混沌の間に軍の倉庫から勝手に物資を持ち出し、軍事予算や日本銀行から急いで代金を支払ってもらえるよう軍需業者や旧友のために手を打ったり書類を破棄することに、目が覚めている時間のほとんどをあてていた」(ジョン・ダワー『増補版 敗北を抱きしめて』上巻、岩波書店)
 日本上陸を間近に控えたフィリピン・マニラの米軍は、こうした不穏な動きに気がついた。8月20日、日本の降伏使節に「一般命令第一号」を手渡した。「日本軍の全資産は手をつけず保管せよ」という命令である。
 日本軍の隠匿物資にくわしいドイツのジャーナリスト、エグモント・R・コッホによれば、フィリピンにも、日本軍が略奪した膨大な財産が隠されており、米軍の諜報機関もそのことに気づいていたという。それゆえ、日本上陸にあたって、日本軍が本土に大量に隠匿しているであろう武器弾薬、軍需物資、財宝にも、強い関心を持っていた。
 しかし、鈴木内閣を引き継いだ東久邇宮稔彦王内閣は、占領軍の命令を無視した。
 SCAP文書(占領軍の機密文書)にも記録がある。ちなみに、「SCAP」とは、連合国軍最高司令官(Supreme Commander for the Allied Powers)のことで、つまりはマッカーサーのことを指す。その下に属する組織の英語での表記は、「General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers (GHQ / SCAP)」 で、通常、日本では単にGHQと呼びならわされている。
「東久邇内閣は、軍需物資が不法に横領されるのを防止する努力をまったく放棄していた。国民から徴収した財産を、だれともわからない国家中枢のメンバーが、自分たちのものにしてしまった。国民に対する補償は一切顧みられなかった」(Supplementary Report on the Progress of the Special Committee for Investigation of Concealed and Hoarded Goods in the House of Representatives)
 8月28日、マッカーサーが厚木に到着する2日前、日本政府は、軍需物資の放出を命ずる秘密指令をあっさり撤回したが、その時点で、物資の大半はすでに雲散霧消しており、また、そうした資産を取り戻す考えもなかった。史上空前の略奪という‟敗者の宴”はすでにお開きになってしまっていたのである。

軍人による横領は戦時中からエスカレートしていた

 かつての軍国主義者が、戦後も特権を温存させている――。
 軍や警察、役人による、露骨なヤミ物資の横流しを目の当たりにし、記録した日本人も多い。大佛次郎もそのひとり。日本の近代化の夜明けを描いた大河小説『天皇の世紀』で知られる、優れた作家であり歴史家である。大佛は敗戦直後の鎌倉で、軍人たちが火事場泥棒のように物資の横領に狂奔していた醜態を見聞し、日記に書き残している。
「八月二十六日 日曜 軍人という者に如何(いか)に低劣な者が多かったか後代まで記憶しておくべきことであろう。
 八月二十七日 やはり将校たちがさかんに物を持ち出して自宅へ運び込むいやしさが話題となる」
(大佛次郎『大佛次郎 敗戦日記』、草思社)
 もう一度確認しておく。軍や高級官僚、御用商人による軍需物資の横領は、鈴木内閣がひそかに物資の放出を許した14日から始まった。そして、マッカーサーが日本に上陸する直前まで、およそ2週間という短期間に、大半の物資は持ち去られてしまった。8月27日の大佛の日記は、その事実と符合している。なりふりかまわぬ横領の狂乱は、しばしば目撃されていた。大佛はあきれ果て、この事態をひとことで要約している。
 すなわち、これは「泥棒の世界である」(同前。8月26日)。
 皇室を尊ぶ保守派の大ジャーナリスト・徳富蘇峰も、物資の横領に血眼になっている軍人たちの実態を日記に記している。蘇峰によれば、そもそも軍の汚職は、敗戦後に始まったものではなく、戦時中からエスカレートしていた。1945年10月9日の日記にはこうある。
「不幸にして我国の武臣は[略]金銭とか、その他の物欲を、貪(むさぼ)り愛する事が、最も甚(はなは)だしくある。[略]およそ我が陸海軍の将官級の人で、恩給を貰(もら)って、その上に民間事業会社の顧問とか、重役とか、あらゆる金儲けに関係していない者は、ないとはいわぬが、むしろ少ない[略]彼等は普通の商売人以上に、よく稼いでいる」(徳富蘇峰『徳富蘇峰 終戦後日記』、講談社)
 軍人は、戦争末期から敗戦後にかけ、いわゆる物資の横領や横流しで、大金を稼いだ。陸海軍では、こうした不祥事を片端から罰すべきであるのに、その威光が傷つけられるのを恐れて、逆に罪人をかばった。こうした軍の体質こそ、もっとも救いがたいと蘇峰は指摘する。具体例のひとつが記されている。
「軍需省の役人共が、帝国ホテル付近の、有名なる支那料理屋で、[米軍の]直撃弾を喰らって若干人爆死した[略][国から]相当の手当を受けたであろうが、安(いずく)んぞしらん、彼等は時節柄不相応の御馳走を食べつつ、御用商人と[金儲けの]相談最中であった」(同前)
 国民に「ぜいたくは敵だ!」と号令を発して耐乏生活を強いる指導者が、自分たちだけは贅沢を愉(たの)しみ、しかも軍需を当てにした商談に耽(ふけ)っていたというのである。このような例は、それこそ数えきれないほどあったと蘇峰は言う。
「上の好む所下これより甚だしきはなしで、陸海軍に関係ある下級者[上に立つ高級将校がこういう体たらくであるから、下級将校もひどいもので]の贅沢、横暴、我儘(わがまま)、貪欲等は、戦時中全く眼に余るものがあった」(同前)

退職金ほしさに御用商人にばらまいた

 軍需物資だけでなく、軍事予算の残りも、軍の御用商人にばらまかれていた。マッカーサーが上陸する直前、日本銀行は、平和産業への転換という名目で、軍閥に食い込んでいた業者に「臨時軍事費」と称して莫大な放漫融資を行った。
 敗戦の年、8月の時点では、7か月分の軍事予算が残っているはずであったが、実際は、その7割がすでに使われていた。残り3割に相当する260億6000万円も、損失補償金などの名目で軍の契約業者に電光石火のごとく支払われてしまったのである。
 軍需業者は、何も生産していないのにもかかわらず、法外な金を受け取ったということになる。たとえば契約の3割しか納入していなくとも、残り7割の代金を手に入れた。
 終戦時の日銀発行高が303億円に過ぎなかったにもかかわらず、260億円を超える巨額のカネが特権階級の懐に流れ込んだのである。経済が混乱するのも当然であろう。ポツダム宣言によって、もはや軍事生産を停止し、武装解除を待つ軍需関連産業になぜ大金が渡されたのか。その一因は、高級軍人の多くが、徳富蘇峰の日記にも記されているように、軍需商人と癒着し、軍と契約している企業の役員を務めていたことにある。
 軍の契約を盾にして、そこへ国のカネを振り込めば、自分たちの‟退職金”が確保できることになる。権力中枢で地位と特権を享受し、癒着していた連中は、占領軍が到着する前に利権を確保しようとして必死で画策していたのである。
 それにしても、敗戦国民を助けるために、こうした莫大な物資を役立てようとする指導者はいなかったのだろうか。ジョン・ダワーの結論はこうだ。
「日本史上最大の危機のただ中にあって、一般民衆の福利のために献身しようという誠実で先見性ある軍人、政治家、官僚はほとんどいなかった。旧エリートたちからは、賢人も英雄も立派な政治家も、ただの一人も出現しなかったのである」(『増補版 敗北を抱きしめて』上巻)
 国家が崩壊するときに、権力と利権をむさぼっていた連中がどのようにふるまうのか。
「お国のため」という、万能の号令を発して国民を死地に駆り立てていた国家中枢のエリートの多くが、いざ窮地に追い込まれると、国民のことなどきれいさっぱり忘れて、保身と利権の確保に走ったのである。

「もっとも恥ずべき略奪」とは?

 米軍が上陸する直前、8月28日、政府は物資の放出を促した14日の閣議決定(ポツダム宣言違反)をあわてて取り消す閣議決定を行ったが、わずかな間隙を利用した姑息な策略であったと言うほかない。しかも、念の入ったことに、こうした不正行為のすべての証拠を隠滅する指令を、軍はすでに16日に発していたというのである。コーエンの記録では、こう書かれている。
「八月十六日に出された別の指令は各部隊に、契約関係および経理関係の書類を除くすべての軍関係の文書を焼却するように指示していた。八月十七日と十八日には日本中の軍関係施設で大きな煙が舞い上がっていた。
 終戦直後、東京でも大きな煙が市ヶ谷の陸軍省や霞ヶ関の海軍省、三宅坂の陸軍参謀本部ビルで上がっていた[略]。経理関係の文書や契約書類は燃やすなという指令にかかわらず、それらもまた焼却されていった」
(『日本占領革命』下巻)
 軍のあとを追うように、玉音放送の直後から、霞が関では、外務省・内務省・大蔵省から公文書の焼却が始まり、もうもうと煙が立ち込めた。敗戦直後ばかりでなく、戦時中をふくめて、軍や政府の不正行為を細部にわたって検証することはむずかしい。その理由は、彼らの行為を記録した膨大な公文書が焼却され、永遠に失われてしまっているからだ。
 国務省やCIAに保管されている機密文書に明るく占領期の日米関係の舞台裏にくわしいアリゾナ大学のマイケル・シャラーが、わたしたちの取材に応えた。ちなみに、戦後ゼロ年から始まる日米関係の深層を解き明かした大著『「日米関係」とは何だったのか』は、日本でも翻訳されている。シャラーは、そうした情報の隠滅を、軍需物資の横領に匹敵する、あるいは「もっとも恥ずべき行い」であったと厳しく批判した。
「政府の倉庫からの略奪だけではありません。もうひとつ、破壊的な略奪が行われました。それは、政府機関の機密文書の略奪です。戦時中のプランニング、戦時中の政策、戦争犯罪の可能性を示す文書が破壊されるという、致命的な『文書の略奪』があったのです」
「そして、アメリカ人が上陸したときに発見したことは、日本を戦争に駆り立てた組織を知り、だれを戦犯として追放すべきかを調べるために使われるはずだった膨大な記録がほとんど破壊されていたことでした。つまり、倉庫からの略奪とアーカイブからの略奪が手を携えて実行されたのです」

 奪われたのは、食糧や軍需物資だけではなかった。戦争をめぐる真実も略奪されたのである。
 2007年にアメリカで機密解除された「アメリカ国立公文書館・ナチス・日本帝国戦争犯罪記録」(Nazi War Crimes and Japanese Imperial Government Records)には、CIA機密文書を中心にナチス・ドイツの戦犯に関する記録が800万頁、大日本帝国の戦犯および戦犯容疑者に関する記録が10万頁収められている。日本国内に残る一次資料は圧倒的に少ない。
 機密文書の収集と分析に当たったプロジェクトチームのひとり、歴史家のエドワード・ドレアも、CIA文書公開と同時に公表された「日本の戦争犯罪記録研究 CIA機密文書序説」(Researching Japanese War Crimes Records : Introductory Essays)において、「占領軍の日本上陸までの2週間に、日本の軍部・官僚が組織的にあらゆる機密文書の7割以上を焼却してしまった」と記している。
 国民を戦争に駆り立てた軍人やエリートは、敗戦直後のどさくさのなかで、物資と情報を自分たちに都合の良いやりかたで操作した。敗戦後の社会を生きのび、特権を維持する手段を、わずか2週間のうちに確保していたのである。

後編(7月7日公開予定)へ続く

プロフィール
貴志謙介(きし・けんすけ)

1957年生まれ。1981年、京都大学文学部卒業後、NHK入局。ディレクターとしてドキュメンタリーを中心に多くの番組を手がけ、2017年に退職。主な番組に、NHK特集『山口組』、ハイビジョン特集『笑う沖縄・百年の物語』、NHKスペシャル『アインシュタインロマン』『新・映像の世紀』など。著書に『戦後ゼロ年 東京ブラックホール』、共著に『NHKスペシャル 新・映像の世紀 大全』(どちらもNHK出版)など。

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