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新しい人生の、スタート――料理と食を通して日常を考察するエッセイ「とりあえずお湯わかせ」柚木麻子

『ランチのアッコちゃん』『BUTTER』『マジカルグランマ』など、数々のヒット作でおなじみの小説家、柚木麻子さん。今月は久しぶりの夜遊びと、家庭のカレーの変遷から、柚木さんの新しい一歩についてお送りします。
※当記事は連載の第27回です。最初から読む方はこちらです。


#27 夏の夜の空気

 産後はじめて、つまり六年ぶりくらいに夜遊びにでかけた。
 いやいや、十九時以降、食事や飲み会、観劇には子どもを夫に任せ、割とよく出かけている方だが、今にして思えば、それらの性質は割と仕事寄りだった気がする。出版関係者との打ち合わせを兼ねたものだったり、観たら確実に何かに書くタイプの舞台だったり。いずれももちろん楽しかった。しかし、今回は正真正銘の夜遊びである! 
 楽しみたいので、子どもを風呂に入れて、食事を用意してから出発した。特に目的もなく、友達同士で新宿に集まり、ワインやシャンパンをしこたま飲んだ。二丁目でしゃべりまくっているうちに、電車がなくなるかも、とふと気がついて、みんなに別れを告げ、散り散りとなった。楽しかったなー、と思いながら、地下道を小走りに、ターミナル駅を目指すうちに、辺りにまったく人がおらず、自分の足音だけがやけに大きく響くことに気づく。もしや、と思い、スマホで確認すると、もう電車がないと気づいて愕然とする。
 終電ってこんなにはやいんだ。
 この感覚はあまりにも懐かしい。大事な何かが蘇るような予感を崩さないように、私は来た道を、大きなゼリーを抱えているような気持ちで、慎重に引き返した。ああ、そうだ、大学生の頃、終電を逃して以来だ。あの頃はどういうわけか、JRというものは明け方まで走っているもんだとばかり考えていた。再び地上に出たら、六月の湿度でもったりした夜気がおしよせてきて、周囲には、これから自分たちでもどっちに転ぶかわからず、それが楽しくて仕方なさそうなカップルが何組もいて、次の店を探していた。それを見ていたら、二十代の頃の記憶が一度に蘇った。金曜日の夜、会社で残業していて、ふと思いついて徒歩で自宅まで帰ろうとして、明け方近くになって帰り着いたこと、頼れる友達が飲み過ぎて吐いてしまい介抱していた時、なんだか自分がすごくしっかりした人間に思えて、急に大人になった気がしたこと。ずっと忘れていた、話すこともない、夏に近い夜の思い出ばかりである。
 タクシーを捕まえてのりこみながら、この解放感はいったいいつぶりだろう、としばし、呆然としてしまった。この連載で産後のワンオペがつらい、コロナ禍の家事や仕事がつらいと、何度も書いてきて、それは私の中で呪怨になっていた。だが、たった今この瞬間、全部が過去になって、窓の外の景色のように後ろに流れていくのがわかった。
 この六年間ついてまわっていた緊張が、今は消えている。今日の飲み会がただしゃべって楽しむだけだったというのも大きい。でも、理由は他にある気がする――。
 帰宅したら、とうに家族は寝静まっていて、起こさないように、靴を脱いで、手を洗い、出かける前につくっておいたカレーの鍋がかなり減っているのを確認した。ジャワカレー中辛を箱の裏のレシピに忠実につくっただけの簡単なものであるが、今、家族にはこれが一番ウケる。どうせ食べてくれないので副菜も用意しないし、お米だけ大量に炊いて出かけたのが、七時間前。
 この時、しみじみとこの六年を細部まで振り返った。この連載がウェブに移った第一回の時、私は子どもになんとか栄養をとらせようと、カレー粉を炒め、野菜や肉を入れてミキサーにかけて、大層おおがかりなカレーをつくっていた。子どもの目に映るもの、口にはいるもの、なにもかもに意味なり意義をもたせようとして、始終緊張していた。あの頃抱えていた心配は全部はずれたともいえるし、全部あたったともいえるが、あきらめで楽になったし、このあきらめは希望にかわりつつもある。今、子どもは私抜きで、夫も好きかつ、私がつくるのが楽なジャワカレー中辛をなんなく食べてくれるようになった。そのことがとても嬉しかった。あとは人参と玉ねぎを残さないでくれればいうことはないが、とにかく今夜をもってしてなんだか新しい人生が始まるような気持ちでいるのである。

次回の更新予定は7月20日(木)です。

題字・イラスト:朝野ペコ

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古今東西の名著を読み解く、NHKの人気番組「100分de名著」に柚木さんが出演します。テーマは林芙美子の『放浪記』。舞台化により広まったイメージとはまったく異なる魅力が詰まった、激動の昭和初期を生き抜く女性の姿に、新たな光を当てて読み直します。放送は7月3日(月)より全4回、Eテレ毎週月曜夜10時25分から放送、テキストは6月23日発売予定です。

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プロフィール
柚木麻子(ゆずき・あさこ)

1981年、東京都生まれ。2008年「フォーゲットミー、ノットブルー」でオール讀物新人賞を受賞し、2010年に同作を含む『終点のあの子』でデビュー。 2015年『ナイルパーチの女子会』で山本周五郎賞を受賞。『ランチのアッコちゃん』『伊藤くんA to E』『BUTTER』『らんたん』など著書多数。最新書き下ろし長編『オール・ノット』(講談社)が好評発売中。

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