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そして、思う。持ち回りなのかもしれない。――「愛がありふれている #1」向坂くじら

いま、文芸の世界で最も注目を集める詩人・向坂くじらさん。「本がひらく」連載で好評を得た、言葉の定義をめぐるエッセイ「ことぱの観察」の次なる連載テーマは「愛」。稀有なもの、手に入りにくいものだと思われがちな「愛」はどのようにありふれているのでしょうか。向坂さんの観察眼でさまざまに活写するエッセイです。


 班長になった。町内会のことだ。町内はエリアごとに組に分かれていて、その組はさらに班に分かれている。それぞれ数字がついており、一組一班、一組二班、というふうに呼ぶ。うちの班には一帯の八軒が含まれている。各班に一軒班長が定められる。そして一昨年、うちがその班長だった。
 班長の仕事は主に、組と班員とのあいだの連絡窓口となることで、はじめにしたのは組長の連絡先が書かれた付箋を冷蔵庫に貼ることだった。それを見て、しばらく感慨にふけった。班長! あの、班長になってしまった。

 基本的に、わたしは「地元愛」的なものにびびっている。公立小学校でいじめられ、逃げるように低偏差値の私立中学へ進学した身には「地元」という響きがすでにちょっと怖いのだが、それだけではない。自分の所属している共同体を愛してやまない人というのが怖いのだ。その外がわにいる人や、もしくは内がわにいるからこそ共同体を毀損していると見なされた人に向けられるあの攻撃性の根源が、まさにその愛にあると思うからだ。そして、自分自身がある共同体と接するとき、いずれかならずそのどちらかに類すると思えてならないからである。
 どうも集団と折り合いのつかないことが多い。学校に通えば友だちができず、しまいには登校拒否になり、就職活動ではことごとく失敗し、やっと会社に勤めたと思ったらくびになった。どこへ行っても、共同体に対する愛を求められているようなのがいやだった。校則にしても社訓の唱和にしても、構成員たるこちらの愛を試す幼稚な恋人のような重さがあって、いつも鼻じらんだ。ひょっとするとその大元には、子どものころに父の転勤で引っ越しをし、自分の住むところだと思える町がないまま大人になったこともあるかもしれない。他人のなかで生きている以上、いくつかの共同体に片足をつっこんでいる自覚はあっても、せいぜい片足のまま、あとはなんとなく宙に浮かんできた。地元への愛というところで言えば、いよいよなにもないに等しい。
 歩いているとときどき、表札の隣に「班長」と書かれた札を掲示している家を見かけることがある。正直に打ち明けると、これまではそのたびに若干、引いていた。言い忘れていたけれど、「班」以前に「長」からして苦手である。誰かが人の上に立とうとする時の前のめりなエネルギーには、人を威圧し、一歩後ずさらせるものがある。そんなことを言っているから就職に失敗するのだ。まして「地元」で「オサ」を買って出るなんて、そんな人はもう、自分とはまるきり別世界の人間だと思っていた。
 しかし、班長になった。なぜ、と思うが単純なことで、単に班長は一年ごとの持ち回りなのだった。この町に住むようになって四年目に、ついに隣のうちから回ってきたのだ。おそらく、これまで見かけるたび引いてきたあの「班長」の札たちも、みんなそうだったに違いない。そう思うと自分の偏見ぶりが申し訳なくなってくる。就活生がグループディスカッションで声をはり上げてリーダーになろうとするように、われ先にと手を挙げて班長になったものは、ひょっとしたらひとりもいなかったのだ。
 班を構成する八軒のなかでは、わたしと夫が一番若い。だから、ということなのかは分からないけれど、みんなやさしくしてくれる。町内会費の集金にたずねていっても、市民体育祭の出欠を取りにいっても、約束もない平日の昼間だというのに快く応対し、ときに労りの言葉をくれたりする。玄関口へたずねていったわたしを、誰もみな上り框の高い位置から、あわれむような穏やかさで覗きこむ。わたしはそこへ平々に頭を下げ、自治や福祉のためのいくらかのお金を集める。そして実感していた。「長」のあのいやな響きとは裏腹に、班長というのはだれより弱いものなのだった。

 父の転勤で引っ越し、「地元」を失うまでは、名古屋に住んでいた。十一歳までのわたしは、鐘塔の建つカトリック教会に通う子どもだった。毎週のミサはそうおもしろくもなかったが、そのあとにはいつも、同じ年の頃の女の子たちと転がりまわって遊んだ。そのあとにはよく、何家族も連れ立って食事をした。幸せについて考える瞬間が一秒もないほどの幸せな時間だった。それだけの思い出があってなお、名古屋をわが町と思うことがないのは、そのころが二度と戻らないとわかっているからだ。名古屋を離れ、年を取ったあとも、時折いじましくその時間のことを思い出す。転校で突然失われたこともあって、眩しいような、くやしいような気持ちになる。
 大学に上がったころ、一度だけそれを教会の友だちへこぼした。わたしを含め、ほとんど誰も教会に通うことはなくなったが、いまでも親交は続いている。わたしが、もう一度、もう一度だけ子どもに戻って、あの日曜の午後をやりたいよ、というと、友だちは答えた。今度はわたしたちの子どもが友だちになって、ミサのあと教会で遊んで、みんなでご飯を食べるんだよ。そのときのわたしには、それが自分のなかに未練がましく残った子どもっぽさが受け入れられなかったように思えて、うまく返事ができなかった。もし本当にそうなったとしても、わたしは自分の子どもをうらやましく、眩しく思うだけではないだろうか、と思った。
 想像するとぞっとした。わたしがそんなふうに思ってしまうとしたら、きっとこのことだけではない。わたしの人生には、ところどころに喪失や、痛みや、後悔がちらばっている。子どもが成長とともにその上を歩くたび、わたしはふたたび痛むだろうか。そして、子どもの喜びがわたしの喜びではないことに、なにか暗い気持ちを持つのだろうか。一度そう考えてしまうと、子どもを持つというのが、おそろしいことに思えてしかたなかった。「わたしたちの子ども」について話した友だちは、すでに子ども時代への未練を持たない大人になってしまったのかもしれない。そしてわたしは、わたしばかりが、いつまでもそうなれないのかもしれない。
 ここ数年、名古屋の女たちには、次々と子どもが産まれている。グループラインやインスタグラムでそれを知る。グループラインは最近になって、むしろよく動くようになった。送られてくるのは風船や花の映った誕生記念の写真だけではない。急に子どもの顔を襲ったじんましんの写真や、急に離乳食を食べなくなったときの対処法、手足口病の症例、そんなことばかりが流れてくる。子どもを持たないわたしに言えることは少なく、心の中で応援しながら見守っている。わたしと同じ年の頃の、まだ新しい母親たち。みんな、子どもの身に起きたことがなにか重大なことなのではないかと心を砕き、お互いを安心させようと言葉をかけあう。母の強さというより、むしろその弱さが、端から見ているにすぎないわたしの胸をうつ。
 そして、思う。持ち回りなのかもしれない。子ども時代をきちんと終わらせ、親になる支度がすっかりすんだものだけが親になる、というわけではないのかもしれない。もちろんみずから望んで親になることもあるだろうが、それにしても親になる瞬間というのは、準備の如何に関わらず、天災のように訪れるものなのかもしれない。ある日突然掲示用の札を渡されて、はい、今年一年班長をやってくださいね、と言われるみたいに、自分の愛する順番が突然回ってくることがあるのだ。
 わたしがいまのところは子どもを持たず、なにをしているかと言えば、国語の学習塾を開いている。まだ学年が下の子どもや、遠くから通っている子どもは、車で教室まで連れてこられる。子どもを出迎え、送迎の車を見送るとき、彼ら彼女らが教室に来てくれるわずかな時間、わたしにその順番を回してもらったような気になる。もちろんたった二時間、たった数年教えることと、親として産み育てることの重みとは比べるべくもないとしても、しかしだからこそその瞬間、きゅっとくちびるが引き締まる。先日、夫がはじめて知らない人たちと連れ立ってゴルフに出かけた。誘ってくれたという夫の上司もまた、車で夫を迎えに来た。挨拶に出ると、「一日旦那さんをお借りしますね、すみません」という。
 「怒ってる?」
 なんと言うかしばし迷って、答えた。
 「いいえ。生きて帰してもらえたら」
 夫を乗せた車が遠くなっていくのを見ながら、やっぱりバトンを回すような気持ちでいる。怒ってはいなかったが、祈ってはいた。事故に遭わせないでくださいね。その人いじめないで、ひどい思い痛い思いさせないでくださいね。どっか遠いところ連れてかないでくださいね。生きて帰してくださいね。そして、たまたま誰かと居合わせるとき、その人がそのように祈られながら送り出されてきたことを考える。持ち回り。

 班長の一年が終わると、わたしもまた回覧板と連絡事項の書かれたノート、組長の連絡先を持って、隣のうちへ班長の役割を引き渡すことになった。お隣のおじさんは班のなかでも格段にやさしく、この一年困ったときには知恵を貸してくれ、まちがえていることがあれば教えてくれた。
 「最近、ごめんね。暖房つけっぱなしで、室外機がそっちに向いちゃってるから、うるさいでしょ」とおじさんは言った。まだ冷える春先だった。
 「いや、いや、全然、気にならないですよ」
 「うち、猫がいるでしょ。それがもうおばあさんでさ、階段上がれなくなっちゃって。で、おれもひとりだからさ。結局猫といっしょに、ずっと一階の部屋にいないといけないんだよ」
 それからは立場が入れ替わって、おじさんが玄関先に来てくれて、わたしがお金を預けた。それではじめてわかった。班長としてうなだれながら玄関を回るわたしに向けられていた、あの他人らしからぬやさしさは、いずれ自分にも回ってくる仕事を請け負っているものに対するものだったのだ。地元を愛することをもっぱらしないわたしでも、回ってきたものには応えたくなる。そしてそのように渡され、請け負われる愛というものもあるのかもしれない。
 だからわたしも、お隣のおじさんが来てくれるたび、お疲れさまです、と言いたくなった。そして、猫さんは、とたずねることにしていた。何度目かで、こちらがたずねるより前に、亡くなったことを話してくれた。耳をすませても、室外機は静かだ。けれどそのときにはもう寒さも去っていて、猫がいないからなのか、あたたかいからなのか、分からない。


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プロフィール
向坂くじら(さきさか・くじら)

1994年、愛知県名古屋市生まれ。2016年、Gt.クマガイユウヤとのポエトリーリーディング×エレキギターユニツト「Anti-Trench」を結成、ライブを中心に活動をおこなう。主な著書に詩集『とても小さな理解のための』、エッセイ『夫婦間における愛の適温』『犬ではないと言われた犬』(百万年書房)、『ことぱの観察』(NHK出版)など。2024年、初小説『いなくなくならなくならないで』(河出書房新社)が第171 回芥川龍之介賞候補となる。執筆活動に加え、小学生から高校生までを対象とした私塾「国語教室ことぱ舎」の運営をおこなう。

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