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哲学は17世紀が面白い! 刺激的な「近世合理哲学」入門

17世紀、科学の勃興と共に哲学は「注釈」であることをやめ、それぞれ単独で展開される「プロジェクト」となった――。そんな時代の代表的な4人の哲学者、デカルト・スピノザ・ホッブズ・ライプニッツの思想を親しみやすい語り口で明らかにした『哲学者たちのワンダーランド[改版] デカルト・スピノザ・ホッブズ・ライプニッツ』が復刊されました。著者は当社刊『哲学史入門II』でも17世紀哲学について解説いただいた上野修さんです。
上野さんの明快な語り口は本書でも存分に生かされ、「近世合理哲学」のまたとない入門書となっています。本稿では復刊を記念し、本書の「序章」を公開いたします。


世界の底が抜けたとき

 バーナード・ウィリアムズの『デカルト』という本を読んでいたら、ストンと心に落ちて来ることが書いてあった。哲学史は思想史ではない、というのである。思想史(history of ideas)は水平的な歴史の流れの中で思想を浮き上がらせる。たとえばデカルトを研究するときでも、思想史は後世の視点を持ち込んではならない。先立つ伝統、同時代の文脈の中で、あるテキストが何を意味していたか、あるいは何を意味しえたか。これが思想史の関心事だからである。哲学史(history of philosophy)はどうかというと、哲学史はむしろ、そのテキストで何が問題となっているのかということに関心がある。問題を明らかにするには、われわれ自身がデカルトの思考に分け入り、現代のわれわれの言葉でそれを哲学的に再構成するしかない。要するに、〈思想史〉は歴史のジャンルに属するが、〈哲学史〉はその研究対象と同じジャンル、哲学に属する。で、私のこの本は思想史でなく哲学史なのだ、とウィリアムズは断っている(*1)。
 本書も、基本的に同じ方針でやっていきたいと思う。十七世紀の哲学史、なのだけれど、学説史や論争史というふうにはしたくない。むしろ、彼らの問題がわれわれの哲学的な問題になりうるかぎりで、当時の哲学者たちのテキストを読み直す。そういうふうに進めたい。ただし現代の勝手な思い込みでテキストを汚染しないように気をつけながら、である。
 古くさい過去の書物のほこりをはらうようなことをして何のよいことがある、と思われるかもしれない。しかし、哲学的思考というものは見いだされるたびに、まっさらで新しい。ときには見たこともないものだってある。(そうでないものは放っておけばよい。)こういう発見が哲学史の楽しみであり、今より少し賢くなる道でもある。
 それにしてもなぜ近世、十七世紀なのか。まずはそのあたりから始めたい。

なぜ十七世紀か

 申し訳ないが、十七世紀は私のお気に入りなのである。とりわけ、デカルト、スピノザ、ホッブズ、ライプニッツ。これだけスケールの大きい哲学者がどっと輩出する時代というのはそうざらにはない。あの時代、哲学は今よりずいぶん無頼であったような気がする。今あげたビッグネームのうち、だれひとり大学教授はいない。デカルトはオランダ中を引っ越しし回り、スピノザはユダヤ教団から破門されて天涯孤独。ホッブズは亡命先パリから本国の革命の行く末をうかがい、ライプニッツはヨーロッパのあちこちを飛び回って席が暖まることもない。彼らはみな多かれ少なかれガリレオの近代科学にコミットし、神学部からにらまれ、知的世界でさながら一匹狼のように生きた。こういう荒々しいというか、野方図というか、そういうところに彼らの哲学の魅力がある。「私は成年に達して自分の先生たちの手から解放されるや否や、書物の学問をまったく捨てた(*2)」。デカルト『方法序説』のこの言葉は、読むたびにはっとさせられる。頼むものはもはや何もない。すべては自分の新たなプロジェクトにかかっている。そういう気概は彼らに共通している。
 そのためか、彼らの哲学はいきなり始めるというところがあって、この時代のひとつの特徴となっている。有名なデカルトの『省察』は、一生に一度、信じていたことのすべてを根こそぎくつがえしてみよう、と始まる。スピノザの『エチカ』は何の断りもなくいきなり定義と公理で始め、ほんの数ページで「神」の存在に到達してしまう。ホッブズはホッブズで、国家論の前にまずは物体論だと言ってなぜか「計算すなわち論理」から始めるし、ライプニッツは、これもいきなり誰も聞いたことのない「モナド」の話を始める。何を言い出すのだこの人は、というところが、みなまことに面白い。
 こういう唐突さは、彼らの哲学のプロジェクト的性格から来るのだと私は思う。それ以前、哲学は久しく注釈をこととしていた。アリストテレス注解、プラトン注解、そしてそれら注解の注解というふうに。中世もルネサンスも基本的にそうである。ところが十七世紀、哲学は突然注釈であることをやめ、それぞれ単独で開始されるプロジェクトとなる。デカルト・プロジェクト、ホッブズ・プロジェクト、みたいに。こんな途方もないことになるのは、彼らの哲学にある種の「無限」が入り込んでいるからだと私は思う。とばりが外れて落ち、プロジェクトとともに無限が現われる。これから見てゆくように、後にも先にも、こんなに無限が、思考のいたるところで深淵のように口を開いていた時代はない。それが「理性の世紀」、十七世紀である。

世界の底が抜ける

 あらためて紹介しておこう。ホッブズ(Thomas Hobbes, 1588-1679)はイギリスの哲学者。九十一歳まで生きた。デカルト(René Descartes, 1596-1650)はフランスの哲学者。ホッブズと論争している。スピノザ(Baruch de Spinoza, 1632-1677)はオランダの哲学者でユダヤ人。そして一番若いライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz, 1646-1716)はドイツの人。彼は晩年のスピノザにわざわざ会いに行っている。本書ではおもにこの四人に登場してもらう。ライプニッツだけは十八世紀にかかっているが、その意味はあとで触れることにする。
 十七世紀は、いわば世界の底が抜けてしまった時代だ。よく言われるように、科学の勃興とともに世界は地球中心に閉じた宇宙から、どこにも中心のない無限宇宙になる(*3)。地理的にも大航海とともに西洋の外部が露呈してくる。政治的にはチャールズ一世の処刑に象徴される革命の時代だ。いろんな意味で、それまで自明だった足元の支えがふっと消え、底が抜ける。そんな世紀である。そしてこの時代、哲学も底が抜け、ある種の「無限」が口を開く。
 たとえばデカルトのテキストには至る所に無限が顔をのぞかせる。宇宙の無限、神の無限。そして人間が決断する意志の無限。とりわけ神の意志の無限はそら恐ろしい。デカルトの考えでは、2足す3が5になる、今の瞬間に次の瞬間が続く、といったことには何の必然性もない。ただ神が意志してそのようにしているからそうなっているというのである。もちろん、神はもし欲するならそうでないようにすることもできた。いや、今この瞬間にも、できないわけではない。デカルトは本気でこんなことを考える(*4)。すべては制約なき神の意志にかかっており、2足す3が5でないこともそれ自体としては不可能ではない。しかしもしそうなら、世界は計り知れない神の意志に支えられてかろうじてこんなふうになっているだけで、いつ底が抜けてもおかしくないではないか。いや、実はもう底は抜けていて、私が気づいていないだけかもしれない。底が抜けてもなお、これだけは動かすことが不可能だと言えるようなものがはたしてこの世に一つでもあるだろうか。デカルトの確実性の探求は、こんなふうに底なしの無限に飛び込むところから始まる。
 スピノザも同じぐらい過激である。スピノザの無限は外がないということを特徴としている。彼が定義し証明する『エチカ』の神は、それ自身で存在する外なき無限である。どこまで行っても外がないので、存在するすべてはその中になければならない。だからわれわれの現実がこれしかないのは当然で、神が現実そのものなのである。こんなふうに、スピノザでは世界自身が底なしの無限者になってしまう。およそ起こりうることはすべて神の必然から起こり、必然は神の無限の力能そのものである。そうスピノザは考えていた(*5)。
 ホッブズの場合は国家論に無限が現われる。『リヴァイアサン』は共通の権力が存在しない自然状態を考える。するとそこでは不正を判定する第三者が存在しないので、各人は自分のためならどんなことでもしてよい権利がある。これがホッブズの言う「自然権」、無制約の自由である。ホッブズのプロジェクトは、われわれはこの法外な無限をどう処理しえているのか、という問いをめぐっている。何をしても不正でないということは、何をされても不正呼ばわりできないということだ。無限の権利は互いに両立しない。そのままだと「万人の万人に対する戦争」は必至である。これを回避する道はただ一つ、自然権を放棄しそっくり主権者に譲り渡すという契約を相互に結ぶ、あるいは結んだことにする。これしかないとホッブズは言う。ホッブズの解決は、契約による無限の転位に存する。今度は国家が無制約の自然権を持つことになり、国家はそれ自身のためなら何をしてもよい権利がある。ホッブズの政治世界はこんなふうに至高の権力のところで底が抜ける。彼が国家を最強の怪物レヴィアタン(リヴァイアサン)にたとえ「可死の神」と呼んでいるのは酔狂ではない(*6)。

世界の修復

 しかし……こんなふうにあちこちで底が抜けてしまっていいのだろうか。彼らの無限は正直言って、どれもかなり不気味で不可解である。パスカルも宇宙の無限におののくが、その比ではない。いったいこんな世界で、われわれはまだやすらう場所があるだろうか。実際この時代、哲学はしばしば世間から危険視された。彼らがあからさまに体制や宗教を否定したというわけではない。事実、デカルトは乳母の宗教のカトリックを捨てず、ホッブズもスピノザも(それぞれ不思議な仕方でではあるが)聖書の預言者の権威を擁護していた。本当の問題は、彼らとともに出現した無限の脅威にある。
 少し遅れてやって来たライプニッツにはこのことがわかっていた。それで憂慮したのだと私は思う。ライプニッツの壮大なプロジェクトは、法外な無限を処理可能な論理空間の中に回収して手なずけること、そうやって底が抜けた世界を修復することに存する。微分法、結合法、無限をそれぞれの視点から映し出す内部としてのモナドとその位階、無数の可能世界、神の最善世界選択、予定調和。彼の天才的なアイデアはすべてこのプロジェクトヘの寄与として見ればよくわかる。彼がどうしてデカルトを、ホッブズを、そしてとりわけスピノザをあんなに批判し非難するのかも(*7)。もちろん、彼らの無限の封印にライプニッツが成功したかどうかは自明ではない。それは本書で見届けよう。しかしいずれにせよ、まるで彼が成功したかのように「近世」は終わり、われわれの近代が始まる。十八世紀に足をかけたライプニッツが微妙な位置にいるのはそのためである。

様相の観点から

 以上が本書に登場する哲学者たちのエントリーである。十七世紀哲学史をこんなふうに考えると、「デカルトの心身二元論」とか「スピノザの神即自然の一元論」、「ホッブズの機械論的唯物論」、「ライプニッツのモナド論」というふうに学説で比較するよりも、無限と様相の観点から特徴づけるほうが事柄が見えやすい。「様相」(modality)とは、可能と不可能、偶然と必然、この四つ組のことである(*8)。たとえばデカルトの無限は懐疑が露呈させる〈不可能の不在〉に関わり、彼の確実性はそうでないことが絶対に不可能なものの発見と関わっている。「コギト」もそういう観点から考えてみる必要があるかもしれない。スピノザの無限が〈別様の可能性のなさ〉、すなわちわれわれのいる世界の絶対的な必然に関わっていること、これも間違いない。ホッブズの主権の無限は自然権放棄の取り返しのつかなさに関わっている。権力はいつから主権になっていたのか。どうして服従の義務は取り消せなくなるのか。ホッブズの中心にはいつもこの〈取り消し不可能〉というある種の様相が横たわっている。最後に、様相はライプニッツでは形而上学の中心に据えられる。ライプニッツの無限は一言で言えば〈可能の総体〉である。論理的には無限に多くの可能世界が考えられ、現実はその中から選ばれた一つにすぎない。
 デカルトの不可能、スピノザの必然、ホッブズの取り消し不可能、そしてライプニッツの可能。どれもみな「現実」というものの形而上学的身分に深く関わっていることが今から予想される。ただの事実が現実なのではない。実際、事実を明らかにする、とは言っても、現実を明らかにするとは言わないし、反対に、厳しい現実、とは言っても、厳しい事実とは言わない。「事実」はあるかないかだけが問題だが、「現実」はそんな悠長なことは言っていられないリアルな何かである。われわれが一度たりともその外に出たことのないこの現実、だれも逃れることのできないこの現実、それはいったい何なのか。こうした問いから、もう一度彼らの哲学を読み直してみること。そして彼らの開いたちょっと怖い無限を脇から覗き込んでみること。これが私の考える十七世紀の哲学的な楽しみかたである。
 ……ということで、さっそく始めよう。まずはデカルトから。


*1 Bernard Williams, Descartes, the Project of Pure Enquiry, Pelican Books, 1978, Reprinted in Penguin Books 1990, Preface.
*2 デカルト『方法序説』第一部A. T., VI, p. 9.(頁付けはアダン・タンヌリ版)
*3 アレクサンドル・コイレ『閉じた世界から無限宇宙へ』(横山雅彦訳、みすず書房、一九七三年)。科学史家コイレの古典的な十七世紀研究。書名が象徴的である。
*4 本書第四章
*5 本書第七章
*6 本書第十三章、第十五章、第十六章
*7 たとえば、ライプニッツ『弁神論』第三二、六七、一七二、一七三、一八六節など。
*8 不可能(ありえない)は可能(ありうる)の否定、偶然(そうでないこともありうる)は必然(そうでないことはありえない)の否定という関係にある。また必然は不可能で言い換えられ(そうでないことの不可能が必然)、偶然は可能で言い換えられる(そうでないことの可能が偶然)。ただの事実でも、様相が入ってくるといきなり形而上学的なことがらになってくる。あなたがこの文をいま読んでいるのは偶然なのか必然なのか。読んでいないことも可能だったのか、それとも不可能だったから読んでいるのか。


続きは『哲学者たちのワンダーランド [改版]  デカルト・スピノザ・ホッブズ・ライプニッツ』をお読みください。

上野修(うえの・おさむ)
大阪大学名誉教授。1951年、京都府生まれ。国際基督教大学教養学部卒業、大阪大学大学院文学研究科哲学・哲学史博士課程単位取得退学。山口大学教授、大阪大学教授などを歴任。専門は西洋近世哲学、哲学史。
著書に『スピノザの世界:神あるいは自然』(講談社現代新書)、『スピノザ:「無神論者」は宗教を肯定できるか』(NHK出版)、『デカルト、ホッブズ、スピノザ:哲学する十七世紀』(講談社学術文庫。学樹書院刊『精神の眼は論証そのもの』の文庫化)、『スピノザ『神学政治論』を読む』(ちくま学芸文庫)、『スピノザ考:人間ならざる思考へ』(青土社)、『哲学史入門II:デカルトからカント、ヘーゲルまで』(共著、NHK出版新書)など。訳書にスピノザ全集3『エチカ』、同全集4『政治論』、同全集5『神、そして人間とその幸福についての短論文』(岩波書店)など。

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