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フリマアプリ世界へ:「挫折」を糧に夢に挑む起業家たち――試し読み『新プロジェクトX 挑戦者たち』(14)

情熱と勇気をまっすぐに届ける群像ドキュメンタリー番組、NHK「新プロジェクトX 挑戦者たち」。放送後に出版された書籍版は、思わず胸が熱くなる、読みごたえ十分のノンフィクションです。本記事では、書籍版より各エピソードの冒頭を特別公開します。ここに登場するのは、ひょっとすると通勤電車であなたの隣に座っているかもしれない、無名のヒーロー&ヒロインたちの物語――。

日本発! 革命アプリ 世界へ――巨大フリーマーケット誕生


1 3人の「つまずいた」若者たち

あらゆるものが売り買いされる場所・メルカリ

 今、日本で生まれたあるサービスが世界に進出している。ラテン語で「いち」を意味するメルカリ。スマートフォン一つあれば、誰でも自分の持ち物を売りに出したり、買ったりすることができる、個人間取引のためのオンライン上のマーケットプレイスだ。2024(令和6)年現在、年間で売り買いされる総額は1兆円以上。国内での月間利用者数は2283万人(2024年3月期)。サービス開始から11年で、日本人の5人に1人が利用している計算になるほどの、巨大プラットフォームに成長した。
 メルカリでは、洋服や日用品などありとあらゆるものが売買されている。ユーザーのリアルな価値判断が反映された「メルカリ市場」が形成され、売り買いの概念を変える革命的なサービスとなった。おがくず、タマネギの皮、トイレットペーパーの芯に至るまで、これまで捨てられていたものが価値のあるものとして市場を巡り、新たな価値交換の場が生まれ、資源の有効活用にもつながっている。
 また、会社としてのメルカリは、日本におけるスタートアップ企業の成功例として、多くの起業家に目標とされる存在だ。「ベンチャー不毛の地」とまで言われていた日本で、企業価値が10億ドルを超える「ユニコーン企業」に成長し、2018(平成30)年に東京証券取引所マザーズ市場に上場すると、上場時の時価総額は7000億円を超えた。
 メルカリを創業した3人は、最初からすべてに成功してきたわけではない。3人とも、メルカリ創業以前に一度は起業でつまずいた経験を持っている。しかし彼らは、思うように行かなかった経験から学び、失敗を恐れず挑戦し、グローバルに使われるサービスをつくりたいという同じ夢を抱いて走り続けた。
 これは、仲間とともに本気で夢に挑むと決意した、若者たちの物語である。

起業ブームのさなかで

 2000(平成12)年2月、東京・六本木のディスコ「ヴェルファーレ」のフロアは、異様な熱気に包まれていた。
 イベントに集まっていたのはIT関係者、インターネット起業家、投資家らおよそ2000人。その頃、アメリカで起こったインターネットバブルの波は、日本でもネットを活用した起業ブームを巻き起こし、楽天、サイバーエージェント、DeNAといった若手起業家によるITベンチャーが続々と誕生していた。その盛り上がりを象徴する出来事が、この巨大イベントだった。
 スイス・アルプスで開かれていたダボス会議(世界経済フォーラム)からチャーター機で帰国し、会場に駆けつけたソフトバンクのそんまさよし社長は「今まさに歴史の転換点だ。毎日過ごす生活の仕方が革命的に変わるんだ」と新時代の到来を熱く宣言した。
 「インターネットビジネス界、ものすごくアツいです。お金もものすごく集まってきています。こんなチャンスって今後巡ってこない」
 大学在学中に起業していた、当時27歳のほりたかふみのそんな言葉が、起業を目指す若者たちの胸に火を付けた。

インターネット・オタク 山田進太郎

 2000人の参加者の中に、一人のシャイな大学生がいた。やましんろう。のちにメルカリを創業し、日本有数のメガベンチャーを率いることになる起業家だ。
 「起業家」と聞いて多くの人がイメージするのは、べんが立ち、人前で華々しくプレゼンテーションできるような人物だろう。しかし山田は、人前に出るのは苦手で、自他ともに認める「インターネット・オタク」。愛知県で生まれ、中学からは政治家や官僚、研究者を輩出する中高一貫の進学校に進んだが、学校では目立たない地味な存在だった。建築家や小説家になることを夢見ていたが、なれるとは自分でも思えなかった。
 「勉強はそれなりにできると思っていたんですけど、中学に入ったら成績は下から何番目という感じで、世の中にはこんなに頭がいい人がいるんだなって。井の中のかわずでした」
 優秀な同級生に囲まれて、山田は次第に自分が「凡人」だという感覚を持つようになる。クラスメイトのように大企業で出世したり、医者になったりするほど優秀ではない。「凡人」である自分は、どうやって社会の中でほかの人との違いを出し、どんなポジションで生きていけばいいのか。これからの生き方に思いを巡らせていた山田が、自分なりの答えを見つけたのは、高校3年生の夏のことだった。
 「大企業に入って出世を目指すより、自分でビジネスをつくる方が向いているんじゃないか。大きな山に登るより、自分で小さな山を築くのがいいんじゃないか」
 山田の人生に起業という選択肢が生まれたのは、この時だった。
 1996(平成8)年、山田は大学教育学部に進学した。ちょうどこの時期、ウィンドウズ95が爆発的にヒットし、一般家庭にもパソコンとインターネットが急速に普及した。山田も、NASAやホワイトハウスのホームページを見て、自分が世界と繫がっていることを実感した。やがて自らホームページをつくり始め、国境を越えて何かを発信できるインターネットのとりこになっていった。大学では、インターネットで学内の情報を発信するサークル「早稲田リンクス」に入り、そこでホームページ制作にのめり込んだ。
 「ホームページを作ったら人が見に来てくれて、コメントをくれる。自分が作ったものが初めて評価されて、楽しかったんですよね。インターネットって面白い、これは自分だからこそできることだ。一生の仕事にしよう。そう思いました」

「早稲田のビル・ゲイツ」

 地味。群れない。存在感がない。一人で黙々と作業をしている。山田とは同級生でサークルの仲間であり、後年メルカリに参画することになるじまさとしにとって、出会った頃の山田はそういう存在だったという。
 「インターネット・オタクというか、ギーク(マニア)っぽい印象。言い方は良くないですけど、パッとしなかった(笑)。みんなでワイワイしてる時に、はしっこの方に一人でいて、あんまり存在感もないというか。僕はどちらかと言うと派手なタイプだったので、正直、交わることはなさそうな人だなと……(笑)」
 ただ、その後、ニーチェやサッカー、J -POPが好きだという好奇心の広さや、人を集めてイベントをする社交性の高さなど、山田の意外な一面を知り、その印象はがらりと変わった。2年生の秋に山田がサークルのまとめ役である幹事長になると、そのリーダーシップにも驚かされた。
 「進太郞(山田)は、人をきつける特殊能力というか、人を信じさせる力を持っているんです。成功したいというより、『こんなことをやりたい』とピュアに思っている感じがして、それを応援したくなる」
 山田が幹事長になった後、牧歌的で「ユルい」雰囲気だった早稲田リンクスは、システマチックに役割分担された組織に変わり、サイトのアクセス数や広告収益も明らかに伸びた。山田はいつしか、サークル外の学生に「早稲田のビル・ゲイツ」と呼ばれ、学内でも名の知られる存在になっていった。
 「彼自身が、何でもできるすごい人というわけではなく、むしろできることとできないことがはっきりしてるんですよね。みんながそれをわかった上で、彼が弱い部分は俺らがフォローするし、進太郞もその部分はこちらに全面的に任せてくれる。彼のやりたい大きな方向性があって、それにみんなが共感して、各自がプロフェッショナルに持ち場で役割をまっとうするというスタイルは、多分今のメルカリも同じですね。今思えばですけど、当時、擬似的に会社を運営するような感覚はあったと思います」(矢嶋)

友の渡米に触発されて起業

 そんな山田と寝食をともにし、同じようにコンピューターに没頭する同級生がいた。かわしままさ。二人が仲間とともに製作したデジタルマガジン「A╱D」は、演劇・音楽・美術など大学の文化系サークルが制作した数百点の作品を収録・紹介し、話題になった。
 川島は、サブカルチャーから哲学まで興味の幅が広く、好奇心旺盛。そのバイタリティに、山田は圧倒された。何より山田を驚かせたのは、川島が突然大学を辞め、アメリカに旅立ったことだった。
 「アメリカに行くと聞いた時は、『あ、そういう手があるんだ!』みたいな感じでした。マサ(川島)は行動力がちょっと自分とは違う方向に飛び抜けているので、想像していなかった可能性を提示してくれるんです」(山田)
 「先のことは何も考えずに、ホテルすら予約しないでアメリカに飛び込んだんです。周りの人は無謀だと感じたと思うんですけど、進太郞(山田)はすごく前向きに応援してくれましたね。『すごいなあ』って。『行っちゃうの?』みたいな感じでしたけどね(笑)」(川島)
 堅実で慎重なタイプの山田にとって、川島のとっぴょうもない行動は、自らの頭に全くなかった新しい世界への目を開かせてくれるものだった。そして、山田に「グローバルな活躍」という選択肢が生まれたのは、川島の渡米がきっかけだった。
 山田は、大学を卒業した翌年、23歳にして、ひとりで起業する道を選んだ。2001(平成13)年、有限会社「ウノウ」を設立。インターネット上で写真を共有する「フォトぞう」、映画のコミュニティサイト「映画生活」などのサービスを開発し、提供を始めた。山田が目指したのは、たくさんの人に使ってもらえるサービスを作ること。その延長に、世界で使われるサービスをえていた。しかし、どのサービスも、ある程度はユーザーが増えて軌道に乗るが、爆発的に使われるサービスになるまでには至らない。
 期待するほどの成果が上げられず、山田があんちゅうさくの日々を過ごしていた2008(平成20)年、アメリカからマーク・ザッカーバーグ率いるフェイスブックが日本に上陸した。フェイスブックは2004(平成16)年のサービス公開から、わずか4年で7000万人のユーザーを獲得し、米国第2位のSNSに急成長していた。世界はたった一つのアイデアで変わることがまた証明された。
 この時、ザッカーバーグは24歳。一方、山田の20代は、めぼしい成果のないまま過ぎていった。

ジンガへの会社売却と失意の退社

 しかし2009(平成21)年、ついに山田は、会心のヒット作を世に放つ。携帯電話で位置情報を利用して自分だけの街をつくるゲーム「まちつく!」だ。ユーザー数は500万人を超え、待望の成功を納めた。すると間もなく、海外からあるオファーが届いた。相手は、アメリカのソーシャルゲーム大手「ジンガ」。ウノウのゲームと山田のアイデアを会社ごと買収したいと持ちかけてきたのだ。
 ウノウが作っていたゲームは日本国内の携帯電話に向けたものだったため、山田自身、グローバル展開には時間がかかると予想していた。しかし、3億人ものユーザーを抱えていたジンガのリソースを使えば、これからは自分が作ったゲームをより早く海外に送り出すことができる。「世界に通用するインターネットサービスを作る夢がかなう」。そう考えた山田は、この買収を受け入れた。
 しかし、ウノウがジンガの子会社になって間もなく、アメリカ本社から思わぬ知らせが届く。山田が進めていたゲーム開発の中止が伝えられたのだ。
 「会社を売却した時点で『ゲームを作って、これをグローバルに』ともう決めていた。すごく可能性があるのになんで潰しちゃうんだ、残念だなという思いでした」(山田)
 こんな決断はあり得ない。当時の山田の日記には、そんな言葉が残されている。ウノウの売却で数十億円を手にしたのと引き換えに、山田の夢は打ち砕かれた。この場所で夢が叶えられないなら、また一から自分の手でやってやろう。2012(平成24 )年、山田は退社を決断。ともにサービスやゲームを開発してきた仲間も失った。
 事業で成功して企業価値を高め、海外企業に買収される。ウノウがたどった道は、ベンチャー企業として見事なイグジット(出口戦略)だったという見方もできる。ただ、山田自身は、あの時のウノウの売却を成功だとは考えていない。
 「失敗だった、とは思います。元々の目標は、自分で会社をやって、世界で使われるようなインターネットサービスを作ることだった。当初の目的が果たせなかったという意味では、失敗でした。ただ、売却の過程でシリコンバレーの開発手法やM&A(合併・買収)の方法、先進的な取り組みを間近で見ることができた。次の挑戦につながる経験ができたとは思っています」
 一方、山田が起業してきょくせつを重ねた10年の間も、大学の同級生・川島はアメリカの地で闘い続けていた。
 「やっぱりコンピューターで仕事をしていてアメリカに行かないっていうのは、ピザ職人がイタリアに行ったことがない、みたいなことなんじゃないかなと思って。まあ若者ならではの根拠のない自信というか、自分だったら行けばなんとかなるんじゃないかっていう気持ちでしたね」(川島)
 自分の力を本場で試したいと、川島はデザイナーとしてグーグルに入社。特定の日にトップページに表示される特別な「ホリデーロゴ」のデザインを日本人として初めて手掛けるなど、躍動していた。一方、日本でもがく山田とも、たびたび連絡をとり合っていた。

恵まれたお前は何もしないのか

 会社を離れ、夢を失った山田は、旅に出ることにした。半年をかけて五大陸を巡る一人旅。南米のボリビアを訪れ、幻想的な絶景が見られると人気のウユニえん周辺を巡っていた時のことだった。
 ツアーガイドが運転する車に、自分たち観光客のほかに、もう一人同乗者がいた。10歳にも満たない男の子だった。その男の子は、道中けんめいに荷物運びを手伝い、山田たちの食事のセッティングをしてくれた。
 「あれ?」と、山田は思った。日本では学校に行く年齢の子どもが、こうやってお金を稼いでいる。旅の途中、同じような光景は幾度も目にしていた。駅でチャイや新聞を売る子ども。観光客を案内してチップをもらおうとする子ども。地球上のあちこちで、小さな子どもが大人に交ざって必死に働いていた。
 たまたま日本で生まれただけなのに、自分は何不自由なく教育を受け、やりたいことをやり、世界一周旅行をする金銭的な余裕もある。「恵まれたお前は何もしないのか」。そう問われた気がした。
 世界中で人々のいとなみを肌で感じ、世界観を新たにして、山田は日本に戻った。帰国して目に飛び込んできたのは、わずか半年の間に爆発的に進んだスマートフォンの普及だった。これほどすさまじい速さで日本中の人々が使い始めた道具は、いずれ世界中のあらゆる人が手にすることになる。そう予測した山田の頭に、あるアイデアが浮かんだ。
 山田は、訪れた国々でよく市場に行き、その様子を写真に収めていた。何が売られているんだろう。いくらで売られているんだろう。どの国でも、市場は見ていて飽きることがなかった。どこでも売られているものと、そこでしか売られていないものを見つけるのも面白かった。市場には、価値と価値の交換、必要とする人にものを売って稼ぐというシンプルな経済活動があった。
 「個人間で売買することって、すごく根源的な人間の活動ですよね。その場をネット上で提供すればみんなが使ってくれるサービスを作れるんじゃないか、と思いました。ボリビアのあの子が大きくなった時、どんなサービスなら使ってくれるかな、という感覚で考えると、すごくポテンシャルを感じたのが個人間売買だった」
 どこの国でも見かけた「市場」。あの雑多な空気をそのままに、自由にモノを出品し、売り買いできる場を、スマホ上で再現できないか。そうすれば、そこで行われる小さな売買を通じて、世界中の人が繫がりを持つことができるかもしれない。それが、山田が世界を旅して見つけ出したアイデアだった。

再起を懸けて集まった3人

 スマホの中に自由な市場を──。そのアイデアの実現に向けて一歩踏み出した山田に、賛同してくれた仲間がいた。彼らもまた、山田と同じように、過去に起業を経験していた。
 一人はいしづかりょう。人との関係や仲間を大切にする、情に厚い男。家族とともに中学時代に渡米し、大学時代、寮で同室だった仲間とシリコンバレーでアプリ開発会社を起業した。その会社が日本進出を目指していた時、日本に知り合いが少なかった石塚の人脈作りを手伝ったのが、山田だった。
 「わざわざいろいろな人を招いて食事会を開いて、そこで僕を紹介してくれた。進太郞さん(山田)は、そんなことをやる必要は全然なかったはずなんだけど、やってくれたんです。損得を考えずに、誰でも分けへだてなく親切に接してくれる。そういう人柄の良さを感じましたし、思っていたより気さくな人でウマが合いました」
 石塚は事業に失敗し会社を売却したが、もう一度挑むなら山田と組みたいと思った。
 「スタートアップは信頼できる仲間とじゃないと成功しない。スタートアップってつらいこともあるけど、自分だけで抱え込まずに、頼りになる仲間と問題を共有するからこそ、前に進むことができるんです。それに、ウマの合う仲間と一緒にやる方が、楽しいじゃないですか」
 そしてもう一人の賛同者が、とみしまひろしだ。アップル創業者の伝説的なスピーチを聞き、そのスピーチをプリントアウトして持ち歩くほど心を揺さぶられた。
 「スティーブ・ジョブズがスタンフォード大学の卒業式で言った『ステイ・ハングリー、ステイ・フーリッシュ(ハングリーで愚かであれ)』。あれにすごく感化されちゃって、自分で起業しようと思いました」
 富島が始めたのは、動画の検索サービス事業だった。当時はインターネット上に数多くの動画サイトがあり、見たい動画を探すには、サイトを一つずつ検索していく必要があった。その不便さを解消するため、さまざまな動画サイトを横断して検索できるサービスを開発し、世界を目指した。しかし、動画サイトでユーチューブが一人勝ちする状況になると、検索エンジン自体の将来性が失われ、思い描いていたほど収益が上がらずに撤退することになった。
 富島にとって山田は、ITベンチャーの先輩であり、憧れの存在だった。再び起業を考えていた時に山田と会い、不要になったものを売り買いすることで人と人が繫がり、世の中のためになるというアイデアに惹かれて、参加を決めた。
 「どうせやるなら、舞台は世界」。それが、再起をけた3人の合い言葉になった。

2 メルカリの誕生

雑居ビルで始まったアプリ開発

 2013(平成25)年2月、山田、石塚、富島の3人は新たな会社を創業した。オフィスを構えたのは、六本木の雑居ビル。スタートアップがいくつか入ったシェアオフィスの一角で、「市場」をスマホ上で再現するフリーマーケットアプリの開発が始まった。
 山田が手にしたウノウの売却益を元手にエンジニアをつのると、ほかに本業がある者やインターンの学生などが手を挙げた。目標は、3ヶ月でのアプリ完成。1分1秒でも早い完成を目指し、目の回る忙しさとなった。
 アプリの完成を急いだのには、理由がある。インターネットサービスで顕著に見られる「ウィナー・テイクス・オール(勝者総取り)」。先行する社がマーケットを支配して不動の地位を築き、他社は参入してもシェアを伸ばせなくなる、まさに勝者総取りのレースがフリマアプリでも始まろうとしていたのだ。
 「フリマアプリのユーザーは売り買いするのが目的ですから、当然、商品がたくさんある場所、もしくは、売りたい商品を買ってくれそうな人がたくさんいる場所に集まろうとしますよね。誰もいないフリマに、人は来ない」(石塚)
 しかし、後に「メルカリ」と名づけられるアプリの開発が始まった時、すでにファッションやコスメを中心に扱うフリマアプリ「フリル」が、若い女性を中心にユーザーを集めつつあった。「フリルが圧倒的な勝者になる前に、メルカリが市場をらなければ」。それが3人の共通認識だった。
 開発担当の富島は、終電の時間ギリギリまでオフィスで作業し、自宅の最寄り駅に着いてからもファミリーレストランでさらに仕事をする日々を続けた。人手が足りず、雇ったエンジニアだけでなく、山田や石塚も自らコードを書いて開発に加わっていた。

泥臭いプロモーション

 その頃、毎日朝一番に出社して、デスクを拭き、ごみを捨て、スタッフ用の水やお茶を用意する一人の社員がいた。かりなお 。日本発でグローバルに成功する会社を探していたが、IT業界は未経験。プログラミングもできなかった。
 それでも「何でもやる。どんなボールでも拾うからやらせてほしい」と山田に頭を下げて入社した。ひたむきに世界を目指す山田の姿に、強く心を惹かれたからだ。
 「世界で勝てる会社を作ろう、というトップとしての気概を感じました。面接で初めて進太郞さん(山田)と会ったのは私が26歳の時で、その頃にはもう『世界を変えたいんだ』なんて口にするのはカッコ悪い、みたいにしゃに構えてしまっている自分がいたんです。でもあの時進太郎さんと会って、私も人の目なんか気にせずにチャレンジしたいと強く思いました」
 アプリの完成が近付く中、苅田はオフィスを離れ、東京都内で開かれていたフリーマーケットにかたぱしから足を運んだ。アプリをリリースした後、商品を出品してくれる人を募るためだ。
 「ここに出しているものを、ぜひ私たちのアプリに出品してください」
 店を出している人ひとりひとりに声を掛けたが、ほとんどの人がフリマアプリの存在を知らず、返ってきたのは「よくわからない」「怖い」という反応ばかり。
 それでも苅田は「誰でも簡単にものを売買できるプラットフォームです」「ネットオークションとは違って、自分で値段を決められます」と説明して回り、足を使って泥臭く地道に新しいアプリをプロモーションしていった。

リリース初日から「壊滅的にヤバい」

 当初の目標より2ヶ月ほど遅れて、2013(平成25)年7月2日、フリマアプリ「メルカリ」はサービスを開始した。しかし、初日のデータを見て、石塚と富島は絶句した。
 「マジか」
 「ヤバい」
 初日に取引された額は、わずか2万円。アプリのダウンロード数は、たったの400だった。
 「いやもう全然ダウンロードされなかった。焦りました。いくらなんでももうちょっといくかなと思ってたんですけど、これ、本当に大丈夫かなと」(石塚)
 「壊滅的にヤバい。ダウンロード数はもちろん、もっとヤバかったのはダウンロードした人たちが全然使っていなかった。つまり、マーケットプレイスとして全然機能していなかったんです」(富島)


続きは『新プロジェクトX 挑戦者たち 3』でお楽しみください。
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