戦前・戦中の政治家24人の肉声から戦時体制の実態に迫る
初の普通選挙、太平洋戦争、そして終戦——時の首相は、壇上から何を訴えたのか。11月11日に発売した『戦時下の政治家は国民に何を語ったか』では、昭和史研究の泰斗・保阪正康さんが、NHKに残された当時の政治家24人の貴重な肉声から戦時体制の実態に迫ります。1928年に初の普通選挙に臨んだ田中義一から、1945年の終戦時に内閣を率いた鈴木貫太郎まで、当時の政治家たちは何を考え、どのように国民の戦争意欲を高めたのか。本書の一部を抜粋して公開します。
画像出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」(https://www.ndl.go.jp/portrait/)
はじめに
二十一世紀に入って、日本の政治状況は具体的な姿がなかなか見えてこない。政治家はこの国の進む道をいかなる方向に向けていくのか、あるいは人類史をどのような流れの中に位置づけるのか、そのビジョンなどが不透明なように思う。
私は、この世紀は新しい哲学や思想、あるいは生活規範が必要になっていると感じている。例えば、ロシアによるウクライナへの軍事侵略は、確かに二十世紀に見られた帝国主義的な政治行為であった。その意味では、一九三一年(昭和六年)に日本が起こした満洲事変のようなものであり、一九三九年(昭和十四年)のドイツによるポーランド進駐と似ている。
しかし、そのプロセス、結果については全く異なるかに見えてくる。わかりやすく言おう。侵略した国が圧倒的な軍事力で優位に立ち、その政治的意思を押しつけていく。短期間に満洲国を作ったり、ポーランドを歴史から消してしまうという結果を作り上げる。今回のロシアによるウクライナ進駐は、短期間にウクライナがロシアの傀儡国家になると予想もされた。ところがどうだろう。ウクライナの抵抗は国際世論、さらには国際的な軍事支援を得ながら、ロシアの政治目的を阻んでいる。軍事的には抵抗どころか、むしろ状況によっては優位に立つこともあると言われている。戦争観が変化したのである。二十一世紀の戦争は形を変えつつあると言ってもよいように思えるのだ。
むろん私たちは、戦争に対して忌避の、あるいは阻止という感情や生活感覚を持っているわけだが、しかし、それだけで事は済むのかという姿勢も必要だ。私たちは、こういう戦争の変化を踏まえた上での「平和論」や「戦争論」を組み立てなければならないのである。これまでの哲学、思想の見直しが迫られている。
もう一例挙げるが、「核抑止力下の平和」が、ロシアのプーチン大統領の発言(「ロシアが核を使うこともありうる」)によって、実は綱渡りの平和論だということが暴露された。核大国の本音は、自国の防衛と称する危機には核を躊躇いなく使うと宣言しているのである。
核を持たざる国に対してのこの恫喝は、一方で「やはり核を持たなければダメだ」という核保有論を後押しし、もう一方で「核大国の暴挙を防ぐ新たな平和論の確立が必要だ」と訴える力を強くもする。
むろん私たちの国は後者である。前者に基づく発言もちらほら見え隠れしたのだが、被爆国の責務は人類が二度と核を使わないという覚悟を哲学化、思想化することである。私たちは新しい平和論、戦争論を生みだし、国際世論に提示する必要がある。いや、その責務を背負っていると考えるべきではないだろうか。
それは決して難しいことではない。私たちの国の歴史を振り返ると、全く対外戦争を行わなかった江戸時代の二百七十年間があった。しかし国を開いた後の近代史では、五十年ほどの間にほぼ十年おきに戦争を続け、そして壊滅の状態にまで追い込まれた。この振幅の激しさは何を意味するのだろう。戦争と平和の根源にはいったい何があるのか。日本社会は、歴史の実践的な学習を体験している極めて珍しい国なのである。
本書は、そうした歴史から教訓や知恵を学ぶ参考書と思って、手に取っていただければありがたい。本書の根幹をなすのは「戦時下における政治家の演説」で、実際の音源からそれを抽出し、軍事と対抗あるいは抵抗、場合によっては同調した政治家の本音を取り上げて、その解説を試みている。政治家と一口に言っても、その政治姿勢はさまざまであり、政治思想もまた複雑に分かれていく。
しかし共通しているのは、ただ一点で、「政治をもって国民の生活を守り、向上させる点にある」はずであった。いや、それが政治家の基本的な姿勢であろう。
本書を読んでもらうとわかるのだが、戦時下にあって、戦争政策に同調する政治家の演説にはひとつの特徴がある。軍事を軸にして発想を行う政治家は、権力政治を簡単に認めていることである。いわば国民生活よりも国家主体の発想を進めている。それゆえに国家が軍事的に繁栄すれば、国民も幸せになるとの理解である。
しかし、国民の幸せとは、国家が戦争などを選択せずに、国民自身に安心と安全、そして心理的な安定を与えることこそが重要であろう。そのことを訴える政治家もごく少数だが見ることができる。彼らの演説内容からそれを読みとっていただきたい。
むろん本書は、音源を解説、つまり「音」を「目」による形で書にしている以上、ある種の限界もある。音源がなければ解説の方法はない。それゆえに音源として残っていない演説については、取り上げようがない。それが本書の前提でもある。したがって本書を入り口に、政治家の演説を各種の資料で確認してもらいたい、とも思う。戦時下の政治家の演説には、政治家の本質が鮮明に現れていると言ってよい。ぜひ本書での各指摘を参考に政治の本質を考え、現在の政治を見つめる視点を確立してほしい。
第一章 初の普通選挙に臨む
田中義一 初の普通選挙法に向けて
立憲政友会の総裁・田中義一が首相の座についたのは、昭和二年(一九二七)四月二十日であった。憲政会(立憲民政党の前身)の若槻礼次郎内閣が、折りからの金融恐慌に全く手が出ないと内閣を投げ出したのを受けて、野党の総裁として首相を引き受けた。
もともと田中は長州出身の軍人で、陸軍内部では山県有朋、桂太郎、寺内正毅のラインを引く長州閥の後継者であった。それが軍を離れて政治家に転じたのは、資金調達能力に秀でていたためだ。加えて原敬内閣の陸軍大臣を経験して、政友会との人脈も広がったためで、政友会総裁の高橋是清などから後任に推されたのだ。
その田中義一内閣のもとで初めて普通選挙法(普選)に基づく総選挙が行われた。昭和三年(一九二八)二月二十日である。この普選は大正末期の護憲三派による加藤高明内閣のもとでの成果でもあったが、それは国民の政治参加に懸念を持つ右派勢力の治安維持法の成立とセットになる形での選挙であった。以下の演説は普選実施の意義について語る田中の演説である。田中は政友会の政策を理解してほしいと具体的な政策をあげて訴えている。
この総選挙は、普通選挙法に基づく初めての選挙であった。有権者は二十五歳以上の男子で、納税額などの制限は一切なかった。女性には選挙権は与えられていなかった。有権者総数は千二百四十一万人とされ、日本の総人口の約二〇パーセントとされた。
この演説は、内容は短いとはいえ、そのころの社会の空気を表してもいた。「我々」の政党(立憲政友会)と対立する野党(立憲民政党)との間にある内政、外交政策などの違い、あるいは民政党が内閣を投げ出した後の始末を、「我々」が負わされたのであり、その失政を超える政策を「我々」は進めていくと、正面からその意思を明確にしている。
実際に解散時には、政府与党の政友会が議会内では多数派ではなく、民政党内閣の若槻礼次郎内閣が政策の行き詰まりの状況に追いやられ、やむなく総辞職した後に誕生した内閣であった。
当時の首班指名は、天皇の大権であるが、実際には元老の推挙により大命が降下される。このころは二大政党の対立期にもあたり、与党の失政に代わって野党が政権の座につくというのは慣例になっていた。議会政治のルールが守られていたのである。
それだけに与野党間の政策論争は激しい一面を持っていた。田中首相が、この演説で指摘している「反対党は現に自ら内政上、ならびに外交上の大失態を演じ、その収拾の策尽きて倒れたることを忘れ」との批判は、具体的には金融恐慌に対する片岡直温蔵相の失言(破綻した銀行名の公表)、さらには日本銀行から台湾銀行への特別融資案が枢密院で否決、相次ぐ主要銀行の預金者への支払い停止、などで、若槻内閣は万策尽きた形での総辞職だったのである。
田中義一内閣は、蔵相に高橋是清を据えてひとまず支払猶予令(モラトリアム)などの手を打ち、収拾に成功している。田中首相はその自信を前提に民政党を批判していることがこの演説からは窺える。さらにこの演説では外交政策に対する批判はまだ声が大きいとは言えないが、民政党の協調外交に対して、中国への武断外交を匂わせている点も注目される。
ちょうどこの年から、中華民国への軍事介入(具体的には山東出兵など)も積極的に進めていくことになる。そういう具体策はないにせよ、民政党の外交政策に反対という図式を鮮明にしていく第一歩という見方ができる演説でもある。その意味で田中演説は、昭和の方向性を示していると言ってもよいであろう。
なお初めての普通選挙の結果は、政友会が二百十七人、民政党は二百十六人であった。無産政党は八人の当選者を出した。しかしこの選挙の後、共産党員や党への同調者など千六百人が全国で検挙されている。共産系の勢力の拡大を恐れての治安維持法による弾圧(三・一五事件)などの動きが、同時に表面化してくるのであった。
続きは『戦時下の政治家は国民に何を語ったか』をお読みください。
【本書に登場する政治家たち(掲載順)】
田中義一 浜口雄幸 尾崎行雄 安部磯雄 大山郁夫 若槻礼次郎 犬養毅 永井柳太郎 井上準之助 高橋是清 斎藤実 松岡洋右 岡田啓介 広田弘毅 林銑十郎 近衛文麿 平沼騏一郎 阿部信行 斎藤隆夫 東條英機 中野正剛 米内光政 小磯国昭 鈴木貫太郎
保阪正康(ほさか・まさやす)
1939年、北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部卒。「昭和史を語り継ぐ会」主宰。著書に『昭和陸軍の研究』『昭和の怪物 七つの謎』『昭和史のかたち』『戦争という魔性 歴史が暗転するとき』、共著に『太平洋戦争への道 1931─1941』『日本人の宿題』など。