ウィトゲンシュタインがまるで目の前で語り出したかのよう――【寄稿:池田 喬】古田徹也・著『はじめてのウィトゲンシュタイン』について
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ウィトゲンシュタインがまるで目の前で語り出したかのよう――【寄稿:池田 喬】古田徹也・著『はじめてのウィトゲンシュタイン』について

 大型連休に、話題の人文書を読むのもお勧めです。学術系の入門書として『はじめてのウィトゲンシュタイン』が異例の売れ行きを見せています。著者・古田徹也さんをよく知る池田喬さんに、寄稿していただきました。池田さんは気鋭のハイデガー研究者として知られ、現在、ハイデガーの主著『存在と時間』の革新的な入門書を執筆中です。古田徹也さんが「本当に感激した」という池田さんの評文を掲載します。

 ウィトゲンシュタインは、20世紀以降の現代哲学の最重要哲学者の一人だと言われているし、「語りえないことについては、沈黙しなければならない」といったフレーズや「言語ゲーム」のような概念はかなり広い範囲に知られている。こうしたフレーズや概念からしてそうだが、ウィトゲンシュタインは実に気になる存在だ。
 けれども、実際にその哲学に触れてみると、難しく近付きがたい。そう感じる人が大半だろう。古田徹也さんによる『はじめてのウィトゲンシュタイン』の出版はそんな人たちへの朗報だ。ウィトゲンシュタインの言っていることがすっと入ってくる、あんなに遠かったウィトゲンシュタインが近づいてくる。そんな一冊だ。

異色の入門書

 ウィトゲンシュタイン入門書としての本書は、永井均『ウィトゲンシュタイン入門』(ちくま新書、1995年)、飯田隆『ウィトゲンシュタイン』(講談社、1997年)、鬼界彰夫『ウィトゲンシュタインはこう考えた』(講談社現代新書、2003年)などに続く一冊ということになる。本書とこれらの入門書とに共通するのは、前期、後期(さらに中期と後期に分けられることもある)、最晩年と大別されるウィトゲンシュタインの哲学の全体像を描いていることだ。
 私は、哲学研究者ではあるが、専門はハイデガーを中心とする現象学であり、ウィトゲンシュタインについては、これを読んでいる大半の読者と同じように、とても気になるけどその著書を読んでもよくわからない、という立場なので、こうした入門書には何度も手を出してきた。だからこそはっきりわかることだが、本書はこれまでの入門書とかなり違う。
 その違いは後で述べるとして、まず単純な事実を確認しよう。ウィトゲンシュタイン哲学全体への入門書として、本書はかなり久しぶりのものである。永井氏の本からは四半世紀が経っている。それまでにウィトゲンシュタイン研究の現場には様々な変化があった。新資料も刊行された。ウィトゲンシュタイン像も変わってきた。
 例えば、分析哲学の理論的枠組でウィトゲンシュタインを見るのが当然だと思っている人はきっと多いだろう。しかし、私や古田さんのように2000年代以降に大学院で研究を始めた者にとってはむしろ、ウィトゲンシュタインを通じて「ポスト分析哲学」の未来を展望するタイプの論者に勢いがあるという印象が強かったりする。そうした時代の変化が本書には反映されている。

ウィトゲンシュタイン本人がそこで語っているかのような感触

 本書からは一つのメッセージが伝わってくる。安易な一般化や凝り固まった思考は危険だ、いつだって別の相貌をもって世界は現れうるのだ、と。このメッセージの前半部は誰にでも言える。しかし、後半部について本当にそうだと思える仕方で言うことは難しい。本書はこの難しいことをやり遂げている。
 このメッセージは、「偏食」としての『論理哲学論考』(前期ウィトゲンシュタイン)を批判して新しい見方を提示する『哲学探究』(後期ウィトゲンシュタイン)という、ウィトゲンシュタインの全体像の提示と連動している。その意味で、ウィトゲンシュタイン入門書に期待される「前期ウィトゲンシュタインから後期ウィトゲンシュタインへ」の移行の説明だとして済ませることもできるのだが、読後感はそれとは違う。
 別の相貌で世界はいつでも現れうるということを本書が描く仕方に、とても勇気付けられるのだ。本書の最後の方で引用されるウィトゲンシュタインの言葉で言えば、思想の最後のピースとしての「勇気」(302頁)をもらえる。ひょっとするとこれが本書の最大の魅力かもしれない。本書の担当編集者である倉園氏によれば、「古田さんの文章はあったかい」。帯文によれば「彼〔ウィトゲンシュタイン〕は世界を「驚くべきもの」に変貌させる」。本書を読んでいるとこの二つが重なってくる。世界はかくも面白いのか、人生(「単なる」と言いたくなる日常、生活、暮らし)とはかくもすごいものか。人生が恋しくなり、世界が愛おしくなる。ウィトゲンシュタインを語る古田さんが世界を変貌させ、読者を勇気付ける。
 古田さんの口を借りてウィトゲンシュタインがそこで語っているかのような感触の背後には、本書の言葉の喚起力がある。この点で、既存のウィトゲンシュタイン入門書との違いは一番はっきりするかもしれない。本書の構成自体はオーソドックスで、序章から第三章まで、前期、後期、最晩年の思考を話題として各章ができている。これは定石通りなのだが、それぞれの章のタイトルが「嵐の中の道標」「沈黙への軌跡」「世界を見渡す方法」「鼓舞する哲学」だ! たいていの場合には、「論理的原子論」「言語ゲーム」「生活形式」とかウィトゲンシュタインの代表的概念や関連する理論の名前で、章や節ができるのが普通であることを思えば、かなりの冒険をしていることがわかるだろう。
 しかし、嵐も沈黙も鼓舞も、既定の「ウィトゲンシュタイン用語」ではないかもしれないが、きちんとウィトゲンシュタインの言葉に沿って取り上げられている。たしかにウィトゲンシュタインの入門書なのだが、単なる解説書ではなく、世界の面白さに読者を目覚めさせ勇気付ける著作という面が強いのは、こういう言葉のすくい上げ方、ウィトゲンシュタインの言葉に新たに息を吹き込む技術にも依ると思う。
 それから、本書はウィトゲンシュタインの言葉を説明なく使って読者を放置するところがない。どれも適切な「具体例を示す」こと――このやり方自体が『哲学探究』(以下、『探究』)におけるウィトゲンシュタインの哲学のやり方として第二章で話題になるのだが――でパラフレーズされている。懇切丁寧な解説だと評価して済ますことも可能だが、重要なのは、古田さんの達意な日本語の言葉で言い直されているということだと思う。外国語で書かれた思想を、日本語の普通の用法を例にとってしっくりくるまで嚙み砕く、というのは広い意味で翻訳的な思考である。その意味では、ウィトゲンシュタインの『ラスト・ライティングス』などの訳業の経験と、「しっくりくる言葉を選び取る責任」を論じる古田さんの前著『言葉の魂の哲学』で語られる倫理が、本書で融合しているようにも思える。――ところで、H. G. ガダマーは、ハイデガーがアリストテレスについて語るとアリストテレスが目の前で話しているようだ、という趣旨のことを語ったことがある。ハイデガーはアリストテレスを凝り固まった専門的解釈から解放し、アリストテレスが自ら語るかのように再生したというわけだ。私としては、ここで、ガダマーの言葉のハイデガーを古田、アリストテレスをウィトゲンシュタインに置き換えて、古田さんの手にかかるとまるでウィトゲンシュタインがまるで目の前で語り出したかのようだ、と言いたくなる。

新しいウィトゲンシュタイン“像”

 ところで、ウィトゲンシュタインがそのままそこに立ち現れているかのような気になるのは、本書が「分析哲学」というフレーミングでウィトゲンシュタインを眺めることをやめていることと関係しているだろう。本書には、『論理哲学論考』(以下、『論考』)で言えば、「要素命題」「真理関数」のようにフレーゲやラッセルの思想や記号論理学の基礎を前提知識として要求するものが出てこない。あるいは、『探究』で言えば、「私的言語」批判など、分析哲学の常識においてウィトゲンシュタインの主張だとされるものが前景に出てこない。このことは大きい。というのも、たいていの入門書では、これらの「テクニカル」な話題の登場でウィトゲンシュタインは一般読者からは遠い存在になっていくか、あるいは「天才の難解な哲学」として神格化する余地を与えてしまうからだ。
 天才として神格化されていない本書のウィトゲンシュタインには独特の人間味がある。一つの像にとらわれて安易な一般化に向かう傾向をもつのは、この哲学者が攻撃したい対象(形而上学者や科学主義者)だけではない。むしろ、何よりも、後期ウィトゲンシュタインから見た前期ウィトゲンシュタインであり、この傾向に屈しそうになる自分自身なのだ。そんな自分を変えようとするウィトゲンシュタイン。本書の最後には、「自分自身を変える」ことにウィトゲンシュタイン哲学を駆動するものが見てとれる。他方で、最後に出てくるこの話は、第一章で描かれた、奇行、自殺への誘惑、救いとしての哲学といった話題と結びつき、本書は全体として、一つのウィトゲンシュタイン像を浮き彫りにしてもいる。どうにも哲学しなくては生きていけないが、哲学を終わらせたいという誘惑にもかられる、しかし終わらせてはいけない……。本書のウィトゲンシュタインはこのように揺れ動く一人の人間である。
 さて、本書が以上のような特徴を備えた入門書になった理由の一つには、第三章の晩年の思想の充実が大きいと思う。例えば第四節のアスペクトの話では、古田さんが訳業を手がけた『ラスト・ライティングス』からの次の引用が鍵を握っている。

私が変化しない二つの顔をじっと眺めているとする。突然、両者の類似性が閃(ひらめ)く。こうした経験を、アスペクトの閃きと私は呼ぶ。(274頁)

 この「アスペクトの閃き」は、帯文にある「世界を「驚くべきもの」に変貌させる」を典型的に象徴する議論として強い印象を残すものだ。晩年の比較的最近公刊されたウィトゲンシュタインの資料を活用することが、一つのウィトゲンシュタイン“像”を浮かび上がらせるのに一役買っている。さらに、晩年の哲学的境位を論じた部分は、単に前期・後期に付加された情報にとどまるのではなく、むしろ、ここから、「世界の一切を驚くべきものとして見る」(295頁)という『論考』以来の理想が生き続けているという一つの筋が照らし出される。『言葉の魂の哲学』でもアスペクト盲の話が全体の中で枢要な役割を果たしていたが、ここでも、アスペクトの閃きを光源として一つのウィトゲンシュタイン像が結ばれるように見える。

 さて、帯文にあるように、「前期」と「後期」で何が一変したのか、という問いが本書の中心にあり、これまた帯文にあるように、「『像』をキーワード」にしてウィトゲンシュタインの全体像を描く、というのが基本的な方向性である。その意味では、とりあえず、「像(Bild)」をキーワードに前期と後期の移行を理解するのを目指すのが最もストレートな道だ。以下、像を中心として、本書の中で注目したい箇所をあげてみよう。

「第一章 沈黙への軌跡――前期」の読み方

 まず、第一章では、語りえないものは示されるのみだという思想に沿って『論考』が再構成される。語りえない、示されるのみだ、というのは有名な考えであり、便利で使いたくなる文句でもあるが、それが本当にどういう考えなのかを理解することは難しい。第一章では、第一・二節で『論考』という書物の成り立ちや特徴を概説したあと、第三節から第七節までが「語りえないものたち」と題され、論理、存在、独我論・実在論、決定論・自由意志論、価値・幸福・死という、語りえないものが示される仕方を描き出している。語りえないものが示されるその仕方を五つのトピックごとに実演し、読者は体感的に理解できるようになっている。その後、第八節では、語りえないもの(神秘)は沈黙において示され保存されるのであり、語りたくなるところをグッとこらえて「沈黙しなければならない」という倫理的態度の表明へと向かっていく。
 前期から後期への移行のキーワードにもなる「像」が導入される第三節が本書の難関かもしれない。ここを突破できれば第一章の残りはすっと読めるはずだ。この節では、「命題という現実の像(模型)をこしらえることで無数の事態を語りうる」という話で、像の概念が導入される。注目したいのは、命題(ないし像)を「こしらえる」という表現だ。実に古田さんらしい言葉のチョイスだが、『論考』の像を捉えるための鍵でもある。どうしても、像と言われると、現物(世界)の忠実なコピーという画像のイメージがついて回るのだが、ウィトゲンシュタインの言わんとすることを理解するにはこの描像は断ち切らなくてはならない。像とは現実の「模型」であり「こしらえる」ものだ、とこう言われると、命題を作るということがいかに制作的・創造的な偉業かが伝わってくる。

「第二章 世界を見渡す方法――後期」の読み方

 第二章では『論考』から『探究』への移行のポイントが明らかにされる。この移行については、「模型とイメージ」という像の意味の違いを中心に、「無意味と意味不明」「具体例と一般的主張」などの対立軸に注目して読むと良いだろう。
 私の目を引いたのは、いわゆる「生活形式(Lebensform)」の捉え方である。個人的に、この訳語には以前から違和感をもっていたからだろう。「生活形式」というと、実質と形式の対に関連する哲学の理論語のように聞こえかねないが、Lebensformというドイツ語は何の変哲もない日常語で、私の感覚では「生活スタイル」という日本語が近い。古田さんの説明はこの長年の違和感を払拭してくれた。第二章第六節では、「生活形式――長い時間をかけてかたちづくられてきた生活のあり方、生活の一定の流れ」(185頁)とある。生活の一定のあり方は生活スタイルに近いと思うのだが、それだけではなく、「生活の一定の流れ」とある。「形式」というと、一定の枠組みのようないかにも流れのないものをイメージしたりしがちだが、そういうものではない、ということのようだ。
 本書ではこの「流れ」が随所に登場する。例えば、第三章の「感情と感覚」の区別の話では、「人生模様のなかで変容しつつ繰り返される特有の流れないし型として感情というものを捉える見方」(249頁)が出てくる。「人生模様」という(演歌ばりの)語が出てくるのにも思わずニヤついてしまうのだが、ここでも「流れないし型」と言い換えられている。ある文化の「生活スタイル」も「型」なのだが、「流れ」という表現をかぶせる時のニュアンスをつかむのが難しい。そこで古田さんに直接聞いてみた。すると、「『いつもの流れでお願いします』と言う時の『流れ』ですよ」ということだった。この時、生活形式と訳されてきたものの謎が氷解した気がした。

「第三章 鼓舞する哲学」の読み方

 第三章では、晩年にウィトゲンシュタインがノートに書き残したり講義で語ったりした内容をもとに作られた(比較的新しい)資料を用いて、後期の主題の断片として第二節から第四節にかけて「心」「知識」「アスペクトの閃き」というトピックが取り上げられる。第五節で、先にも触れた「自分が変わる」「勇気」など、ウィトゲンシュタイン(の人生)にとっての哲学の意味を見た後、最終節でウィトゲンシュタインの最期に立ち会って本書は終わる。
 第二節「心」と第三節「知識」はどちらも哲学のオーソドックスな話題に対するウィトゲンシュタインのアプローチを扱うものであり、彼の議論の仕方は独特でも、話題自体は哲学ファンには比較的馴染みがあるのではと思う。哲学研究者ではあるがウィトゲンシュタインの専門家ではないという私の立ち位置からしても、「心」での議論は現象学で直接知覚説と呼ばれているものとシンクロする部分があるとか、「存在」の議論はハイデガーが「哲学のスキャンダル」と呼んだ話にちょっと似ているなとか、色々考えているととても楽しい。本書を拾い読みするという場合には、この第三章第二節と第三節はちょうどいいかもしれない。
 しかし、第三章のハイライトは先にも述べた第三節「アスペクトの閃き」であり、この節に古田=ウィトゲンシュタインの中核があると私は思う。次の文が本書のウィトゲンシュタイン像として私には最もクリアに浮き上がる部分だ。その箇所を引用して、この小文は終わりにしよう。

生き生きとした現実を、スタティックで空虚な理念に嵌め込んで殺してしまわないように、彼は常に新たな「アスペクトの閃き」を求め続けた。その意味では、世界の一切を驚くべきものとして見るという『論考』の理想(本書83頁)は、彼のなかで最後まで生き続けたとも言えるだろう。しかも、前期のように世界の一切に対して実質的に無関心であるのではなく、個別の具体的な現実のありように関心を向けつつ驚き続ける道を、後期の彼は追い求めたのである。(295―296頁)

プロフィール
池田 喬(いけだ・たかし) 

明治大学文学部准教授。1977年、東京都生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。「知覚」「行為」「自己」などの観点から、現象学を中心とした現代哲学・倫理学を研究する。 著書に『ハイデガー 存在と行為』(創文社、2011年)、共訳書にギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』(勁草書房、2011年)など。

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