二郎系ラーメン店はなぜ増え続けるのか? 身近な例から楽しく経営学のエッセンスが学べる一冊
二郎系ラーメンやフグ釣り漁船から、寺社のサイドビジネス、転売ヤー、そしてネットワークビジネスまで――。会議室の外で生まれる「野生のビジネス」を経営理論で読み解くことで、楽しく経営学のエッセンスが学べる新書、高橋勅徳さんの『アナーキー経営学』で発売になりました。
今回はその発売を記念し、本書の「はじめに」を特別公開します。
ヘッダーイラスト:ヤギワタル
アナーキー経営学をはじめます
「養殖された経営理論」と「野生の経営感覚」
書店に行ってみると、ビジネス書は売り場の一角を占めるほどの人気ジャンルになっています。書棚に並ぶ書籍の著者を眺めてみると、同業(経営学)の先生方が名前を連ねていたりします。その内容も、経営者や管理職の方々への経営指南から、若いビジネスパーソンや学生に向けて充実した働き方を問う自己啓発書的なものまで多岐にわたっています。
大学講師の職を得て経営学者と名乗れる立場になり、それなりに評価される学術論文や研究書を発表し、一般向けの連載記事や書籍を書かせていただく機会を得られるようになった3年ほど前から、私はビジネス書の棚の前で少し考え込む時間が増え始めました。
「経営学者は、経営者やビジネスパーソンのためだけに本を書くだけでいいのだろうか?」
ビジネス書は企業とそこで働く人々をターゲットにした書籍ジャンルです。そうなると、経営学という学問は、平たく言ってしまえば経営者やビジネスパーソンが上手くやっていく(成功する)ために、何をすればよいのかを研究する学問である、と捉えられても仕方ありません。そういえば、私が大学受験に際して経営学科を選んだ際、「高橋は社長を目指すのか」と高校の担任の先生に言われたことを思い出します。
私自身、経営学者として企業と経営者を対象とした研究を20年以上続けてきたわけで、経営学=会社や働く人を対象とした研究領域、とみなされても問題は無いように思えます。
とはいえ、実は経営という概念は、「会社のため」、「経営者のため」、「ビジネスパーソンのため」だけに存在するものではありません。
経営という概念の起源は、マックス・ウェーバーの宗教社会学の中で提唱されたBetrieb に求められます(※1) 。英語でmanagement、日本語で経営と翻訳されたBetrieb は、「一定種類の持続的行為」として定義され、「経営という概念は目的継続性という標徴にあてはまる限り、政治上の事業や教会上の事業、協会上の事業、等々」にあてはまる行為であるとウェーバーは指摘します(※2)。そして、持続的に目的行為を行うような管理スタッフを備えた団体は経営体として定義され、宗教団体から教育機関、行政組織、政党から企業までBetrieb =経営という行為によって存続している、とされています。
このウェーバーの定義に基づくと、経営という行為は、この社会で生きるすべての人間が実践している普遍的なものなのです。経営体という言葉がいつの間にか営利企業に置き換わり、いかに上手く儲けるかということにテーマを絞っていくことで、経営学は社会の中で「必要な学問」として正統性を獲得し、世界中の大学で学部や学科が設立されるほど、大きく発展することができたのかもしれません。
しかしながら、本来の経営という概念が対象とする範囲はもっと広いものです。むしろ企業に限定して営利を求める行為を追求し、組織・戦略・管理・イノベーションという独自の視座から分析していこうとする現代の経営学は、さしあたって「養殖された経営理論」といってよいかもしれません。
しかし、経営という概念が本来見据えようとした対象が、「一定種類の持続的行為」であるならば、その目的は「儲けること」や「イノベーションを起こす」ことに限りません。むしろ、ビジネスという手垢が付いた対象の「外」には、日常生活の中で「生き残るため」に経営体を組織し、運営していく「野生の経営感覚」があるのではないでしょうか。
そして、そのような野生の経営感覚をもう一度取り込んでいくことで、経営学という学問が「企業」、「経営者」、「ビジネスパーソン」のための学問から解放され、社会で生きるすべての人々にとって必要な学問として、新たな生命を獲得できるのではないだろうかと考えるようになったわけです。
アナーキーにやってみよう
経営学という学問が、Betrieb という本来の意味に立ち戻り、野生の経営感覚を取り戻し、新たな進化を手にしていくためにはどうすればよいのか?
そのためには、養殖された経営理論が対象としてこなかった、それこそ、経営者という自己認識すらない人たちのストリートワイズ的な行為に目を向け、改めて経営学の理論からどのように読み解いていけるのかに、挑戦する必要があると考えました。
私自身、経営学の一ジャンルである企業家研究の研究者として、流行りのITベンチャーやバイオベンチャーを調査対象とする同世代の経営学者たちを横目に、中華街のレストラン経営者(※3)や沖縄県のダイビングショップ経営者(※4)を調査対象とした論文や書籍を発表してきました。それは、そういう人たちを企業家として捉え直すことで、地域活性化やソーシャル・イノベーションという、雇用やGDP(国内総生産)といった経済的指標以外の社会的価値からイノベーションを捉え直していこう、という狙いがありました。
しかし、今になって思い返すとこれらの活動も、在日二世華僑の人たちやダイビングショップのオーナーの「野生の経営感覚」を、「地域活性化」や「ソーシャル・イノベーション」という、養殖された経営理論の型枠に当てはめて、同業の経営学者やビジネスパーソンに受け入れられやすいように分析しただけだったのかもしれません。
私がこれまで企業家や社会企業家として注目してきた人々は、彼らの所属する経営体=家族や仲間たちが「生き残るため」に起業し、小さなお店や会社を経営してきたのであって、地域活性化やソーシャル・イノベーションは行きがけの駄賃のように「後から付いてきたもの」でしかない場合がほとんどです。むしろ、日常に生きる人たちが常に意識していることは、大企業だったり地元行政や政府の都合に振り回されず、いかに自分たちが快適に生活できる生存空間を維持できるのか、ということにあるのではないでしょうか?
それこそ自分を中心に家族と大事な友達くらいまでの人々と、誰にも介入されず快適に生活できる「空間」を維持するために、私達は「経営」しているのではないだろうか。その空間の中では、「株主」や「投資家」、「ステークホルダー」云々など仰々しい概念は存在せず、ただ「生き残る」ことを目指して、ある意味でピュアに「経営=持続的な目的行為」を展開しているのではないか。
そのようなことを考えている中で、ふと脳裏に浮かんだのが「アナーキー経営学」というフレーズでした。
アナキズム(Anarchism)というと、魅力的でありつつも、かなり厄介な概念です。この概念は「無政府主義」と邦訳され、左翼系の社会運動と連動する形で理論化が進められたことや、この言葉そのものがもつイメージから、軽々しく扱ってはならない危険な概念であると思います。私は経営学者ですので、本書でアナキズムの学説史を紐解いて、改めて現代的意義を再構築するような仕事をするつもりはないのですが(※5)、経営学に野生の経営感覚を取り戻すためには、アナーキーという力強い言葉の力を借りる必要があるのではないかと考えたわけです。
アナキズムとはもともと、「支配者がいない」ことを意味する古代ギリシア語のanarkhia を語源としています。あらゆる組織と権力からの統制と抑圧を拒否し、否定するその考え方の裏には、一人ひとりが社会との関係を見直し、どう生きるかを問い直す考え方が存在していたはずです。だとすれば、アナーキーという言葉と経営学をつなげることは、それほど間違いではないと思いませんか?
失われた30年の迷走と、それにトドメを刺すように生じたコロナ禍の経験を経て、企業も政府も地域社会も、どうにも私達の生活を「守ってくれる」ようには思えなくなってきました。そういう社会と向き合い、せめて自分と家族、大切な友人や仲間くらいまではなんとか「生きていける」状態を作らねば、という感覚を多くの人たちが持ち始めていると思います。そのような感覚を、改めて経営学として注目し読み解くことができれば、この学問は「会社のためのもの」から、「みんなのためのもの」へと解放されるのではないかと思い至ったわけです。
学者らしく、小難しい話からスタートしていますが、「まさか、日常生活でよく見るあの光景が、経営学者にはこのように見えるのか!」という、新鮮な驚きを楽しんでいただければと思います。そのような読者一人ひとりの驚きの感覚が、現代を生きる一人ひとりの野生の経営感覚を取り戻すとともに、経営学という学問が新たな生命を獲得していくキッカケになることを期待しています。
2023年10月末日 深夜の新宿の喫茶店にて
※1 大塚久雄 (1965)「《Betrieb》と経済的合理主義」、大塚久雄編『マックス・ヴェーバー研究』 東京大学出版会、303─332頁。
※2 マックス・ウェーバーの管理・組織と資本主義との関連にかんする論考については、佐藤俊樹(2023)『社会学の新地平:ウェーバーからルーマンへ』(岩波新書)において非常に詳細な検討が行われている。
※3 高橋勅徳 (2008)「埋め込まれた企業家の企業家精神:神戸元町界隈における華僑コミュニティを事例として」『日本ベンチャー学会誌Venture Review』12、23─32頁。
※4 高橋勅徳 (2010)「地域産業の展開と野生生物資源管理組織の構築への取り組み:座間味村のダイビング事業者による 「害獣」 の発見とエコツーリズムの導入」『村落社会研究』46、115─148頁。
※5 Kinna, R.(2019)The government of no one: The theory and practice of anarchism .Penguin UK(米山裕子訳『アナキズムの歴史:支配に抗する思想と運動』河出書房新社、2020年)。
続きは『アナーキー経営学』をお読みください。
高橋 勅徳(たかはし・みさのり)
1974年生まれ。東京都立大学大学院経営学研究科准教授。専攻は企業家研究、ソーシャル・イノベーション論。神戸大学大学院経営学研究科博士課程後期課程修了。博士(経営学)。沖縄大学法経学部専任講師、滋賀大学経済学部准教授、首都大学東京大学院社会科学研究科准教授を経て現職。著書に『ソーシャル・イノベーションを理論化する』(共著、文眞堂)、『婚活戦略』(中央経済社)、『婚活との付き合いかた』(共著、中央経済社)など。