サボる哲学 リターンズ! 第5回 孫といっしょに塩をとる――非戦としての採集アナキズム
我々はなぜ心身を消耗させながら、やりたくない仕事、クソどうでもいい仕事をし、生きるためのカネを稼ぐのか? 当たり前だと思わされてきた労働の未来から、どうすれば身体をズラせるか? 気鋭のアナキスト文人・栗原康さんの『サボる哲学』(NHK出版新書)がWEB連載としてカムバック。万国の大人たちよ、駄々をこねろ!
こんにちは。ご無沙汰しております。あまりに暑かったので夏季休業とおもっていたら、もうすっかり冬ですね。冷えてまいりましたが、みなさまいかがおすごしでしょうか? わたしはといいますと、ひさしぶりの長渕剛。三時間越えのライブを生きのび、終電ギリギリになったので、せっかくだからとそのまま朝まで地獄のカラオケ。生死のはざまをくぐりぬけ、ぶじに現世にもどってまいりました。ということで、元気いっぱい。全力でおもったことを書かせていただきたいとおもいます。
さて、この原稿が掲載されるころには終わっているかもしれないが、目下、たのしみにしているのが、一一月一五日に山形県鶴岡市のアートフォーラムで上映される映画『採集する人々』[※1]。上映後には、あの山伏アナキストとしてしられる成瀬正憲さんとのトークを予定している[※2]。この日、わたしは夕方まで山形市内の大学で授業なのだが、成瀬さんが車でわたしを拉致しにきてくれるらしい。
じつは去年のおなじころ、成瀬さんの車で鶴岡にむかっていたところ、とつぜんわたしが乗っていた助手席側のタイヤがパンパーンとふっとんで、ズッデーン、ギャア!!! 九死に一生を得たのだが、それ以来の成瀬カーである。それをしっているからか、いっしょにいこうと大学の同僚を誘っているのだが、なかなかうんといわない。一人などは音信不通だ。ドライブしようよ。友よ。
しかし、たのしみなのはドライブだけではない。上映会だ。事前に視聴させてもらったのだが、これがおもしろい。野草の採集をするパレスチナのひとたちを描いたドキュメンタリーなのだが、反権力バリバリ。せっかくなので、まずは映画の内容をかるくご紹介するところからはじめてみましょう。
パレスチナ人は、そこら辺の草でも食ってはいけない?
唐突だけど、みなさん。ザアタルとアックーブという野草をご存じだろうか。日本の食卓にならぶことはめったにないけれど、中東料理が好きだというひとは、口にしたことがあるかもしれない。とくにザアタルはそれなしに食事はありえないというくらい、アラブのひとたちが好んでいるハーブである。
乾燥させたザアタルをすりつぶし、塩こしょうやゴマなどとまぜあわせて、オリーブオイルに浸したパンにふりかければ、もう無敵。最初からオリーブオイルとぐちゃぐちゃにまぜたザアタルをペースト状にして、それをピタパンに塗りたくり、焼いたものを朝食にしたりもする。せっかくなので、ネット通販でレバノン産のやつを買ってみたのだが、酸味があっておいしかったよ。ただし、ちょっと臭いが強すぎて、数日間、部屋中がザアタル臭まみれになった。なにを食ってもザアタルだ。ご注意あれ。
もうひとつのアックーブは、栄養価のたかい野草としてしられていて、これを食べれば病気しらず。日本でいうと、フキノトウやタラの芽などの山菜にちかいみたいだ。これを野菜炒めにして食べるのだが、どうもいいぐあいに、にがみとえぐみがあってうまいらしい。パレスチナ人が夢中になってむさぼりくらう。
そして、その最大の産地といわれているのが、ガリラヤやゴラン高原、そしてエルサレム。現在、イスラエルに占領されている地域だ。もともと、そこで暮らしてきたパレスチナ人は必要なときに必要なだけ野草をとって、食卓にならべることができた。しかし一九七七年、イスラエルは暴挙にでる。自然保護法の名のもとに、ザアタル、アックーブの採集を禁止したのだ。もし捕まれば、きびしい取り調べのうえ、裁判にかけられて罰金。払えなければ、監獄にいれられる。
どうして、そんなことをするのか。イスラエルは絶滅寸前の野草をまもるためというが、ウソっぱち。ほんとはカネだ。さっきもいったように、ザアタルは中東料理に欠かせない。そして、この地域はザアタルの聖地みたいなものだ。聖地巡礼といわんばかりに、アラブ人たちがジャンジャン買いつけにやってくる。そんな代物をパレスチナ人に勝手にとらせるわけにはいかない。アックーブだっておなじことだ。パレスチナ人がそんなに好んで食べるなら商売になる。
ということで、野生のザアタル、アックーブの採集を禁じたうえで、イスラエルの農家たちが広大な土地をつかって、集団農場で栽培しはじめる。食べたければ、みんなうちの商品を買わなければいけない。ぼろもうけだ。パレスチナ人はそこら辺の草でも食ってはいけない。なにが「自然保護」だよ。
だが、パレスチナのひとたちも黙っちゃいない。法で禁じられようとなにをされようと関係ない。だって、もともと採って食べていたんだもの。イスラエルの自然保護官の目を逃れて、バシバシと野草を刈りとっていく。追っ手を逃れるために、あらかじめ保護官の車のタイヤをナイフでプシュッとやってパンクさせる。盗んで、隠れて、死ぬ気で逃げろ。ホサナ、ホサナ。
しかし、そんなことをして捕まらないのか。これがまためっちゃ捕まるんだ。採集するひとびとが続々と逮捕されていく。でも捕まってもつかまっても、採集はやめない、やめられない。テコテコと野草を採りにいく。映画には、すでに一〇回以上、捕まっているおばちゃんがでてくるのだが、これがまたかっこいい。「二度とこんなことをしちゃいけない」と、しゃらくさいことをいってくる保護官にいうのだ。「きっと孫が大きくなったころにも、俺はいっしょに野草をとって食べているだろうよ」。
泥棒アナキズムとしてのガンディー
ざっと映画の内容はこんなかんじなのだが、あらためておもったのは、植民地主義というのは「囲い込み」だということだ。開放耕地でも山林でも、それまでみんなで使用していた共有地を、ある日、とつぜんだれかが柵をたてて囲い込む。今日から俺のと宣言して、私有化してしまう。
あとは武装したチンピラ集団にみまわりをさせて、勝手に耕作しているやつをみつけたらシバきあげる。山から薪でももちさろうとしたら、とっ捕まえてひきずりまわす。そんでもっていうのだ。カネをだせ。俺の土地で農業をやりたければ、小作料。薪がほしけりゃ、買えばいいんだよ。おかしい。あからさまな収奪だ。だけど、政府はそれを神聖なる所有権として保障する。侵害したものは、泥棒として処罰される。一七世紀のイギリスだったら、さいあく首を吊るされる。死刑なのだ[※3]。
きっと植民地化というのは、一国まるごと囲い込みするようなものなのだとおもう。他人の土地をうばいとって、わがものにしてしまう。とつぜん柵をたてて、ここからここまではイスラエルのものだと公言する。それまでだれのものでもなく、みんなで使っていたものであっても、いまやイスラエルの所有物だ。ひとさまの土地を勝手に使うことはゆるされない。カネをだせ。逆らうものがいれば、リンチ、殺戮、投獄。物理的な暴力をふるっていいなりにしていく。われわれの社会秩序を乱すあの泥棒どもに、正義の鉄槌をくわえてやれ、と。いったい、だれが泥棒なのか。
このはなしをしていて、ふとおもいだしたのがマハトマ・ガンディーだ。ガンディーといえば、非暴力主義。なのだが、それはなにもしないことではない。非暴力とは「暴ニ非ザル」。わたしは「暴力」をポジティブな意味で使うことが多いけれど、かれのいう暴力とは、物理的強制力をもちいて他人を支配することだ。そんな支配を解除するために力をふるう。非暴力の力だよ。
そんでもって、他人に支配してもらわなければ生きていけない? そうおもわされてきた自分をぶち壊す。自分のことは自分でやる、自分たちでやる、やれるんだ。それを自らの行動をつうじて、直に示してみせる。それが直接行動だ。アナキストの向井孝さんは、これをさっきの非暴力とあわせて、「非暴力直接行動」とよんでいる[※4]。
もうちょっと具体的にいうよ。有名な「塩の行進」だ。ときは一九三〇年。イギリス植民地統治下のインドだ。このころ、イギリスの植民地当局は塩の専売をおこなっていた。それまで、インドのひとたちは海にいけば、必要なときに必要なだけ、塩をつくることができた。カネなんてかかるもんじゃない。だけどほんらい、万物は万人のものであり、海はみんなのものなのだ。だけど、イギリスはインド人の塩の精製を法で禁止する。この国の土地はわれわれのものだ。塩がほしければ、われわれから購入しなければならない。勝手にとったら罰しますよと。
しかし、そこは気温のたかいインドである。生きていくのに、塩は必須。これを奪われてしまっては、イギリスに塩をわけてもらわなければ、生きていけないとおもわされる。ふざけんじゃねえ。ということで、ガンディー決起。友だちと数人で、街から三八〇キロくらい歩いて、海にいく。そんで塩をとって、もちかえるのだ。それに呼応して、インド中のひとたちが続々と塩をとりにいく。警官にボコボコにされ、投獄されてもまたとりにいく。弾圧された、またとりにいく。弾圧された、またとりにいく。塩の行進はやめられない。だって、そこに塩があるのだもの。
もう、あからさまな収奪には従えない。もはやガンディーだけじゃない。われもわれもとその暴力を解除していく。ほかのだれでもない、自分たちの塩は自分たちでつくる。非暴力直接行動なのだ。この力がとぐろをまいて、やがて何人もとめられない勢いになっていく。インド独立へ、レッツゴーだ。
しかし、ちゃんといっておきたい。これって、パレスチナの採集するひとびとといっしょだよね。いまでこそ聖人君子みたいなあつかいをうけているけれど、当時のイギリスからしたら、ガンディーは泥棒なのだ。仲間をひきつれて、みずからの手で塩泥棒。そんでもって、てめえらやっちまいなと煽っているのだ。しかも、それをあえて大々的にやってのけることで、イギリスとわれわれのどっちが泥棒なのか、その境界線にゆさぶりをかけた。盗っちゃダメ? わかっちゃいるけど、やめられない。孫といっしょに塩をとる。その孫も、その孫もだ。泥棒アナキズムとしてのガンディー。
根拠なき生をそのまま生きる
もうちょっと掘りさげてみようか。イスラエルにしても、イギリスにしても、囲い込みをした領主や地主にしても、ほんらい、やっていることになんの根拠もないんだよね。それなのに、これが正しい法秩序だといわれていると、なんだかもっともらしい根拠があるかのようにおもえてしまう。どうしてか?
そのあたりを考えるのに、さいきん、参考になるとおもっているのが哲学者、カトリーヌ・マラブーの『泥棒!』だ[※5] 。泥棒つながりでございます。といっても、本書のいう「泥棒」はいま使ってきた意味とはすこしちがう。世に名だたる哲学者たちはアナキズムの思想をパクっているということだ。
しかも、よさそうなところだけチョロっとつかっておいて、アナキストにたいしては「ならず者」といってディスったり、支配のない世界なんて馬鹿じゃねえのとこき下ろしたりしているのだという。でもそれって泥棒ですよね、といっているのだ。
正直、わたしは思想なんてだれかひとりの所有物でもないし、パクリ上等じゃんとおもってしまうのだが、マラブーが強調しているのはそこじゃない。とりあげられている哲学者たちは、はなからアナキズムは実現不可能だと決めつけている。だから、だいじなことを見逃しているというのだ。
基本にもどってみましょう。そもそも、アナキズムとは「アナーキー」と「イズム」がくっついてできたことばだ。イズムは「~主義」。じゃあ、アナーキーはというと、哲学用語としても有名な「アルケー」に、否定の接頭語である「アン」をつけてできたことば、「アン・アルケー」からきている。いってみれば、アナーキーとは「アルケーがない」という意味なのだ。
そしたらアルケーってなんだ。それは支配や統治、その起源や根拠のことを意味している。なので、アナーキーを直訳すれば、無支配や無統治、無起源、無根拠ということになる。そこにイズムをつければ、アナキズムだ。さいきんだと、アナキズムを「無支配主義」と訳すことがおおいんじゃないかとおもう。
アルケー = 支配、統治、その起源、根拠
アナーキー = アルケーがない(無支配、無統治、無起源、無根拠)
このはなしを前提としたうえで、マラブーはいう。世の統治者というものは、ひとを罰したりするときに、法秩序にもとづいて命令をくだしているけれど、その法なるものに根拠はあるのだろうか。いやいや、ないですよと。ほんとうのところ、いくら起源をさかのぼっても、ひとがひとを支配する根拠なんてどこにもない。
ひとつ、国境でもおもいうかべるとわかりやすいだろうか[※6]。たとえば、いまわたしたちが「日本」といっている地図上の領土に根拠なんてない。だってそんなの、明治以降、国がどこまでまわりを征服したのかというだけのことなのだから。だけど、そこにもっともらしい根拠がなければ、だれも自分が「日本人」だとはおもえない。そしたら税をおさめるのも、法に従うのもあたりまえではなくなってしまう。
だからこそ、明治政府は躍起になって起源をさかのぼり、古来より「日本」はああでこうでと皇国史観をつくりあげた。だけど、それだけじゃうまくはいかない。いくらあたまで信じこませようとおもっても、そもそも根拠のないはなしなのだ。そこに実感をもたせるには、もっと無根拠で圧倒的なパワーが必要になる。戦争だ。
そもそも「日本」なるものに根拠なんてなくてもいい。いま戦わなければ、みんな殺されるぞと危機を煽り、とにかく敵とみなしたものたちを殺戮していく。戦争であれば、他人の命を奪っても罪に問われない。なぜそんなことをしていいのか。それは「日本」をまもるためだ、と。気づけば、根拠なき根拠がうまれている。きっと身内が戦死でもすれば、さらに説得力をもつだろう。同胞が血を流し、尊い犠牲を払ったからこそ、われわれの国土はまもられているのだと。
もしかしたら、いまイスラエルがガザにたいしてやっていることもそういうことなのかもしれない。正直、なんであんなに大量殺戮しているのか理由がわからない。あれで経済的利益があるということもないだろう。だけど、その理由がないことが理由なのだ。考えてみれば、「イスラエル」の領土にはわかりやすいくらい根拠がない。だれがどうみても、あからさまな侵略でうちたてられている。
もしかしたら日本の皇国史観みたいに、古代イスラエルの起源にさかのぼれるのかもしれないが、さすがにそれだけじゃ説得力に欠ける。だからこその戦争だ。理由なしに殺す。根拠なしにひとの命を奪うのだ。いくらでも殺害していい身体をつくりだす。なぜそんなことがゆるされるのか。ここは「イスラエル」であり、われらの民をまもるためだ、と。無根拠の根拠をつくりだす。
はなしをもどそうか。あらゆる根拠は無根拠を必要としている。アナーキーな権力こそがアルケーをうみだしている。でね、マラブーがいうには、これまでの哲学者たちもこの点については気づいているのだ。権力者が法の名のもとに悪いことをしていたら、そもそも法に根拠なんてない、だったら従わないぞといったりもする。だけど、みえているのが根拠のための無根拠だけなんだよね。
ほんとうはこういってもいいはずなのだ。無根拠そのものを生きる。アルケーを媒介とせず、直にアナーキーな生をかたちづくる。支配なき共同の生をつくりあげる。しかし、そういった発想がはじめから除外されている。一言でいえば、アナキズムが視野にはいっていないのだ、それも意図的といえるくらいに。
だから、とマラブーはいう。哲学者たちはものすごく深そうなことをいっているのに、いざ政治的な意見になるとパッとしない。アナーキーはダメ。それにふれると、なんでもありのとんでもない権力がうまれてしまう。だから現にある法秩序をまもって、よりよいものにしていきましょうと。ふつうかよ。
しかしこのままでいいのか。マラブーは問いかける。そもそも法秩序をまもれといって、いまの権力者を抑えようとおもっても、ちょっと無理になってきているんじゃないのか。だって、コロナ禍以降、権力者たちはバシバシと非常事態宣言をだすようになっている。いまは未曽有の危機だといえば、人権や法を無視してでもあたらしい秩序をつくれちゃうのだ。例外状態が常態化している。
いや、もはや非常事態宣言すらだすまでもないのかもしれない。アメリカのトランプ大統領やいまの自民党政権なら、平気でアナーキーな権力をふるうだろう。おもえば、殺された安倍晋三元首相も有事を煽り、憲法を無視して安保法制を成立させていた。こういった連中に法をまもれというだけでは通じない。それだけだと、かれらはあたらしい法秩序を築いたうえでこういうだろう。じゃあ、この法に従ってくださいねと。
どうしたらいいか。そろそろアルケーときっぱり手を切るときがきたようだ。根拠のための無根拠など無根拠ではない。そんなの過剰な根拠でしかない。たとえアナーキーな力が既存の秩序をぶち破ったとしても、その力があたらしい権力をうちたててしまうのであれば、それはもうアナーキーではない。だって、そうなってしまったら他人を支配する力でしかないのだから。
ならば、権力を構成するのではなく、たえず権力を脱構成していくこと。支配のないひとのつながりを紡ぎあげること。アナーキーだけでいい。マラブーはそれを「統治されざるもの」になることだといっている。宣言しよう。戦争をするというのなら、そんな国家はいらない。根拠なき生をそのまま生きる。
そして私も自然なのだ
よし、最後にもういちど、映画『採集する人々』にもどりましょう。イスラエルのなんでもありの権力にさらされているパレスチナのひとびと。だけど、そこにいるのは、ただ無力のままうちひしがれているひとびとではない。そもそもその法秩序に根拠がないのなら、従う必要がないじゃないか。続々とイスラエルの法を破り、野草を刈りとっていく。つぎからつぎへと、統治されざるものになっていく。
さっきもいったけど、イスラエルからしたら泥棒なんだよ。だけど、ものをとるからといって、それは野草を私有化しようとしているのではない。イスラエルの農家のように、それをカネになる資源としてあつかっているのではない。わがものとして所有しているのではないのだ。採集をして捕まったおばちゃんのセリフがわすれられない。「なぜこんなことをするのか」と問いかける自然保護官にむかって、こんなことをいっている。「野草は自然だからだ。そして私も自然なのだ」。
どういうことか? 採集するひとびとは資源や商品ではなく、「自然」に関わっているのだ。自然はだれのものでもありえない。あえていえば、万人のものだ。しかも採ってもとってもなくならない。もちろん野草を根っこからひっこぬいてしまったら、なくなってしまう。だけど、あくまで刈りとりなのだ。翌年もまた翌年も生えてくる。むしろ刈りとれば刈りとるほど、その切り口からぐんぐん元気よく伸びてくる。
だれかの所有物ではなく、しかも自然の恵みでいくらでも生えてくる。そんなの、各人の必要におうじてただ採ればいい。カネもお返しもいらない。ただもらう、ただ食べる。所有なしに使用せよ。そういう原理を「コミュニズム」というのだが、採集とはまさにコミュニズムを生きることだといってもいいとおもう[※7]。
そして、この自然の特徴は「人為」と二項対立でとらえられる「自然」ではないということだ。だって、めっちゃひとの手がくわわっているからね。むしろぜんぶひっこぬいたり、根元から掘りおこしたりしないように土地をケアしなくてはいけない。人間が関わって、ぐんぐんと生長していく野草の勢いを促進していく。そのうちに、わたしもその勢いの一部になっている。いくら禁じられても、なんど罰せられても、採りにいってしまう。だって、野草が伸びたがっているんだもの。採らなくっちゃ。自然でしょ。
まとめよう。なんでもありの権力をふるう支配者たち。そこから逃れ、統治されざるものになるにはどうしたらいいか。「採集する人々」がおしえてくれた。自然だ。所有せずに使用することだ。いまここでコミュニズムの生を実践することだ。自然に関わり、そこにうまれた勢いをそのまま生きることだ。
そういえば、アナキストの幸徳秋水は、革命とは「水到つて渠なる」ものだといっていた[※8]。雨がふれば、水が流れてくぼみをつくる。必ずそうなるのだ。自ずから然り。その勢いを何人もとめることはできない。それはもじどおり、ひとが自然と関わったときに生じるものなのかもしれないし、ひととひととの出会いから、突如としてうまれいずるものなのかもしれない。そういう制御できなくなった勢いにどんどん他人をまきこんでいく。自分もそこにまきこまれてゆく。いくぜ、コンスピラシー。非戦としての採集アナキズム。そして俺も自然なのだ。
[※1]二〇二二年公開。パレスチナ出身の映画監督、ジュマーナ・マンナーアの作品だ。詳しくしりたいかたは、以下のサイトをどうぞ。Foragers ー 採集する人々
[※2]成瀬正憲「山伏とアナキズム」(『思想としてのアナキズム』森元斎編、以文社、二〇二四年)をどうぞ。
[※3]この点については、拙著『サボる哲学』(NHK出版新書、二〇二一年)にも書いたので、よろしければどうぞ!
[※4]このガンディーのくだりについては、向井孝『暴力論ノート』(「黒」発行所、二〇〇二年)を参考にしました。
[※5]カトリーヌ・マラブー『泥棒!:アナキズムと哲学』(伊藤潤一郎、吉松覚、横田祐美子訳、青土社、二〇二四年)。このまえ来日したときに対談をさせていただきました。その様子が「脱構築研究会」のYouTubeでも視聴できますので、興味のあるかたは以下のサイトへどうぞ。カトリーヌ・マラブー×栗原康「アナキズムと哲学」Catherine Malabou × Yasushi Kurihara « Anarchism and Philosophy »
[※6]このあたりについては、北川眞也『アンチ・ジオポリティクス』(青土社、2024年)を参考にしました。超いい本だよ。
[※7]このコミュニズムの定義については、クロポトキン『麺麭の略取』(幸徳秋水訳、岩波文庫、一九六〇年)を参考にしました。
[※8]幸徳秋水については、拙著『幸徳秋水伝 無政府主義者宣言』(夜光社、二〇二四年)をどうぞ。
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栗原康(くりはら・やすし)
1979年埼玉県生まれ。政治哲学者。専門はアナキズム研究。著書に『サボる哲学――労働の未来から逃散せよ』(NHK出版新書)『大杉栄伝――永遠のアナキズム』(角川ソフィア文庫)『はたらかないで、たらふく食べたい――「生の負債」からの解放宣言』(ちくま文庫)『村に火をつけ、白痴になれ――伊藤野枝伝』『アナキズム――一丸となってバラバラに生きろ』(岩波書店)『死してなお踊れ――一遍上人伝』(河出文庫)などがある。趣味はビール、ドラマ鑑賞、詩吟、河内音頭、長渕剛。
題字・イラスト 福田玲子