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激動の時代、近代哲学の冒険者たちは何と格闘したのか?

哲学研究の第一人者が集結し、西洋哲学史の大きな見取り図を示すシリーズの第二弾『哲学史入門Ⅱ デカルトからカント、ヘーゲルまで』が刊行されました。著者に上野修さん、戸田剛文さん、御子柴善之さん、大河内泰樹さん、山本貴光さん、吉川浩満さんをむかえ、デカルトからカント、ヘーゲルを中心としたドイツ観念論までの近代哲学を扱います。
刊行を記念し、斎藤哲也さんによる「はじめに」の全文と上野修さんが指南役を務めた第一章「転換点としての一七世紀 デカルト、ホッブズ、スピノザ、ライプニッツの哲学」を抜粋して公開します。


はじめに 斎藤哲也

 『哲学史入門』第二巻へようこそ!

 古代ギリシア哲学からルネサンス哲学までを扱った第一巻に続き、本巻では一七世紀から一九世紀までの西洋近代哲学史に入門します。指南役に迎えるのは、上野修さん、戸田剛文さん、御子柴善之さん、大河内泰樹さんの四人。この四方に、それぞれ一七世紀の哲学、イギリス経験論、カント哲学、ドイツ観念論について、インタビュー形式で語っていただくという本です。

 念のために申し添えますと、第二巻だからといって、第一巻を読んでいないと理解できないということはありません。また、どの巻にも言えることですが、各章の内容は独立しているので、興味のある哲学者やトピックが扱われている章から読むことができます。

 デカルト、スピノザ、ロック、ヒューム、カント、ヘーゲルといったビッグネームが次々に登場する近代哲学は、高校倫理の教科書でもかなりの紙数を割いて取り上げられているし、入門書も数多く刊行されています。

 ただ、メジャーゆえの宿命と申しましょうか、定型的な図式に嵌められやすいのも近代哲学史です。デカルト、スピノザ、ライプニッツを代表とする大陸合理論と、ロック、バークリ、ヒュームと連なるイギリス経験論とが対立し、それをカントが統合する。そのカントが遺した課題をドイツ観念論が引き受け、ヘーゲルに至って近代哲学は完成する―――。

 なんともわかりやすい整理ですが、こうした図式的な説明は、後世につくられた一つの見方にすぎません。

 第一巻の「はじめに」でも申し上げたように、哲学史の語り方は一つではありません。哲学者やトピックの選び方、つなげ方次第で、無数の哲学史を語ることが可能です。

 その点で、本巻は他の二つの巻にも増して、既存の哲学史を問い直すことに力点が置かれています。予告編として、ちょっとだけ触りを紹介しましょう。

 たとえば上野さんは、一七世紀の哲学者であるデカルト、ホッブズ、スピノザ、ライプニッツという四人を「絶対」へのこだわりという共通性から読み解いていきます。戸田さんは、その後に続くイギリス経験論の哲学者たちの「知識観の変化」に着目します。この二つの章では、「大陸合理論vs.イギリス経験論」という教科書的な図式とは異なる哲学史の見方を楽しんでください。

 反教科書的な哲学史語りという点では、後半も共通しています。御子柴さんは「大陸合理論とイギリス経験論の統合としてのカント哲学」という見方は時代遅れだと指摘し、理性主義者かつ形式主義者カントの凄みを熱量たっぷりに語ってくれます。大河内さんは「ドイツ観念論」というラベルの難点を示すとともに、正・反・合という「ヘーゲル弁証法」の通俗的な理解を一刀両断しています。

 巻末には、哲学を愛好する盟友であり、「哲学の劇場」コンビとして知られる山本貴光さん、吉川浩満さんを招いた哲学史トークを収載しています。どうすれば哲学史を身近に感じられるのか。哲学をどうやって学んでいけばいいか。さらには哲学の役割から哲学史の拡張まで、哲学史と仲良くつきあうコツやヒントが満載です。

 本巻も前巻と同様、登場いただく研究者の語り口や息づかいが聞こえてくるような、臨場感あふれる構成を心がけました。手前味噌になりますが、「こんな哲学史講義が大学で聞けたら、絶対面白いはず!」という内容になったと思います。

 各章の冒頭には、インタビューを読むうえで最低限知っておいたほうがいい基礎知識と、インタビューの読みどころを添えたイントロダクションを設けました。こちらで肩慣らしをして、インタビュー本編にお進みください。すでにある程度、哲学史に親しんでいる読者は、イントロダクションを飛ばしていきなり本編を読んでもかまいません。

 また章末には、指南役が推薦する三冊のブックガイドを掲載しています。ピンと来たものがあったら、本書の次に手にとってみてください。
             
 冒頭に記したとおり、興味ある章から読んでもらってかまいませんが、そのうえで、あらためて一巻から三巻までを通しで読んでもらうと、西洋哲学史のダイナミックなうねりや流れが伝わってくるはずです。願わくば、シリーズ三冊を完走していただければ幸いです。前置きはこのくらいにして、そろそろ近代哲学史の門をくぐりましょう!

転換点としての一七世紀  上野 修

「大陸合理論」は後付けの整理でしかない

斎藤 デカルトやスピノザ、ライプニッツが登場する一七世紀の哲学というと、大陸合理論という括りで説明するのが定番になっています。こういう区分をどのように考えればいいでしょうか。

上野 そもそも哲学史なんて歴史の浅い分野ですよね。せいぜいドイツのカント以降の学問でしょう? それ以前、一七世紀のデカルトやスピノザは哲学史の勉強なんてしてませんよね。

 はっきり言って、そんなものはなかったんですよ。カントまでは、誰も哲学史なんてやってなかった。だから「大陸合理論とイギリス経験論」みたいな対比も、後世になって、カント的な問題意識で整理したものでしかありません。

 この枠組みは、カント的な問題意識からすればたしかにありうる。デカルトやスピノザ、ライプニッツのように、経験には与えられていないものまで理性でわかったつもりになるのはおかしいんじゃないかと、カントは思ったわけです。だからといって経験だけに張り付いてものを考えようとしても、じゃあ数学はどう説明できるのかという話になりますよね。やったことのない計算の答えも、確信をもって出すことができるわけですから。

 それでカントは両方に足を掛けて、さらに乗り越えるかたちで『純粋理性批判』を書いているわけですよね。カントの問題意識はそういうふうに言えるし、後から振り返ればそういう整理は有効かもしれません。でも当の哲学者たちは、そんなことは意識せずに哲学をやっていた。ここが大事な点です。

斎藤 すると、「大陸合理論」や「イギリス経験論」は一つの見方にすぎないわけですね。

上野 ええ。一七世紀は私の研究している時代ですが、当時はイギリスの哲学とか大陸の哲学なんていう意識はないんです。ロンドン、パリ、アムステルダムを行ったり来たりし、さかんに文通もしている。当時の知識人の共通語はラテン語です。どこ行ったってそれでコミュニケーションできる。ホッブズはフランスに亡命していましたし、ライプニッツもロンドンに行ったりパリに行ったりしてました。オランダにいるスピノザも、ロンドンの王立アカデミーの事務総長と文通してましたし。反対にジョン・ロック(1632-1704)はオランダに亡命してきている。当時の知の世界は、僕らが思っているよりもずっと開かれていたわけです。

 だから哲学史の年表をたどればデカルトやスピノザの哲学がわかるというわけじゃありません。デカルトがほんとうに考えていた問題を理解しようと思ったら、後から作った整理や図式を使うんじゃなくて、結局テキストのなかに自分で入っていくしかないんですよ。哲学の現場はそこにあるんですから。

 そんなのは面倒だと思うかもしれないけど、テキストを読むのがほんとうに一番の近道なんです。いまや古典扱いされるデカルト、スピノザ、ライプニッツといった哲学者は、テキストのなかでは現役です。テキストに入れば、彼らはわれわれと同時代人なんです。そうでなかったらテキストを読む必要はありません。

一七世紀の哲学者は「絶対」を本気で考えた

斎藤 上野さんが書かれている『哲学者たちのワンダーランド』を読むと、いまのお話はよくわかります。この本で上野さんは、一七世紀の哲学者であるデカルト、スピノザ、ホッブズ、ライプニッツのテキストのなかにまさに入り込んで、大陸合理論という括りには到底おさまらないような議論を展開しています。本のなかでも触れられていますが、まずこの四人に象徴される一七世紀の哲学の特徴からお話しいただけますか。

上野 いま挙げられた四人の特徴は何かというと、「絶対」ということなんです。

斎藤 「絶対」?

上野 もう、他がない。「これだけ」というね。一七世紀は、そういう「絶対」を本気で考えた時代だと思うんです。順番に見ていきましょう。

 デカルトの場合、キーワードは「確実性」です。「絶対確実なものはあるのか」ということが、デカルトにとっては大問題でした。確実性と聞くと、80%とか90%という、確かさの度合いのように感じてしまうけれど、絶対確実とはそういうものじゃない。そうであって、それ以外では絶対ありえないもの、われわれはそういうものを認識できるのかという問いに、デカルトはずっと取り憑かれていたわけです。

 そこで出てくるのが、有名な「方法的懐疑」です。あらゆることを疑っていって最後に「我思う、ゆえに我あり」と言いますよね。あのときにデカルトが発見したものはいったい何だったのか。私の考えでは、それはよく言われる主観性とか精神とかじゃなくて、「現実性」だったんだと思うんです。

 方法的懐疑では、「いま見ている世界は実は夢じゃないか」と疑います。「でも夢のなかだって数学の2+3は5だ」、「いや、欺く神がいて、私がそう思うように仕向けているだけかもしれない」というように、疑いが極端になっていく。もちろんデカルトは極端とわかって、あえてやっているんです。そうして最後に、「しかし、こんなふうに疑って思惟している私は疑えない」ということになる。

 でも、『省察せいさつ(1641)という本を読むとわかりますが、最後に残った「私」がいったい何なのかは、まだわからないって言ってるんですよ。原文は「いまや必然的に存在するところの私がいったいいかなるものであるか、私はまだ十分には理解していない」(『省察』第二省察、上野修訳)となっています。

 この時点では、それを精神とも実体とも言ってない。要するにデカルトは、何だかわからないような「私」をまず見つけてしまうんです。それは、どんなに有能な欺き手であっても「何ものでもないようにすることはできないもの」、つまり「ない」と絶対に言えないものです。方法的懐疑で見たとおり、他のものは「ない」と言える可能性がある。でも「私」だけは無理なんですね。

デカルトが発見した「私」

上野 私は、ここでデカルトが発見した「私」は「現実性」そのものだと考えています。

斎藤 上野さんの言う「現実性」って、私たちが日常的によく使う「リアリティ」とか「現実感」とは違うものですよね。

上野 ええ。「現実って何?」と聞かれたら、ふつうは目の前を指さして「これ」と言うしかないじゃないですか。何であるかと言えなくても「これ」だって。ところが方法的懐疑は、「これ」が私の思っている世界でないのかもしれないという可能性を開いてしまう。それはぜんぶ夢にすぎないかもしれないし、2+3が5にならない世界かもしれない。そうすると、自分のいる世界がわからなくなるわけです。でも、最後に発見する「私」の現実性はどうやっても残る。この「私」の存在だけは、現実でないことが絶対に不可能な何かですから。すると、そこがどこであろうと「私」のいるところ、そこが現実だ、ということになる。デカルトが発見した「私」というのは、現実を固定する絶対点のようなもので、その意味で絶対確実な現実性のことなんです。

斎藤 でも「我思う、ゆえに我あり」と言っているから、「私」は「思う我」のことだと、ふつうは教わると思うんですが。

上野 それ、実は順序が逆なんですよ。「我思う」は「我あり」の前に来てはいないんですね。

斎藤 なんと!

上野 この引用を読めばわかると思います。

私はある、私は存在する。これは確かである。だが、どれだけの間か。もちろん私が考えている間である。なぜなら、もし私が考えることをすっかりやめてしまうならば、おそらくその瞬間に私は、存在することをまったくやめてしまうことになるであろうから。

『省察』第二省察、上野修訳

 ここにあるように、「考える(思う)我」は「この現実としか言えない私とは何なのか」という問いがまずあって、その後に答えとしてやって来るんです。

神の存在証明の背景

斎藤 何だかわからない「私」の発見が最初にありきなんですね。では次の問いです。『方法序説』や『省察』を読むと、「我思う、ゆえに我あり」の後、神の存在証明に入っていくじゃないですか。ここで「?」となります。

上野 これも一七世紀の特徴ですが、神が、しっかりと「いる」んですよ。一八、一九世紀と時代が下るにつれてだんだんどうでもよくなっていくんですけどね。でも一七世紀は「マジ、神いるから」という感じがあるわけです(笑)。というより、神を持ってこないと哲学ができないようになっているんですね。

 ただ、一七世紀の「神」はもはや宗教的な意味で「いる」のではなくて、「絶対」という意味で「存在する」んですね。「これしかない」という絶対性って結局何なのかと問うと、「神」しかないんです。神は唯一絶対の存在で、すべてのものはそこに依存しているんだと。

 デカルトはそういう神の存在を証明しようとするわけです。それにはちゃんと意味があります。方法的懐疑だけだと、「考える私がある」ことは絶対確実だとしても、他のことに絶対の確実性は望めないんです。

斎藤 「2+3=5」も絶対確実とは言えないわけですね。

上野 そうです。たまたまこの現実では「2+3=5」になっているけれど、それは自分の考えでどうこうできるものじゃなくて、与えられたものです。つまり、この現実を支えているのは「私」じゃないんですね。じゃあ何が「2+3=5」という数学的真理を与えているのか、何が現実を支えているのかと問うたら、それは神しかいない。逆に言えば、そういう絶対的な神がいなかったら、自分の思考の底、世界の底が抜けてしまうわけですね。

 実際、一七世紀という時代は世界の底が抜けようとしていた時代です。科学革命が起こって、地球中心の閉じた宇宙が成り立たなくなり、無限宇宙になる。宗教戦争が勃発して、神がいるかどうかも怪しくなっていく。そうやって絶対が何も見えなくなったところで、それでも絶対性を見いだそうとするプロジェクトに、この時代の哲学者たちは取り組んでいたと思うんですよ。デカルトはその最初の大きな一歩を踏み出したんです。

※この続きは『哲学史入門Ⅱ デカルトからカント、ヘーゲルまで』でお楽しみください。


斎藤哲也(さいとう・てつや)
1971年生まれ。人文ライター。東京大学文学部哲学科卒業。人文思想系を中心に、知の橋渡しとなる書籍の編集・構成を数多く手がける。著書に『試験に出る哲学』シリーズ(NHK出版新書)、『読解 評論文キーワード 改訂版』(筑摩書房)など。

上野 修(うえの・おさむ)
1951年、京都府生まれ。大阪大学名誉教授。大阪大学大学院文学研究科哲学・哲学史博士課程単位取得退学。専門は西洋近世哲学、哲学史。

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