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「山ヲ歩キ、湯ニ到ル――#02大台ヶ原山と入之波温泉」大内征

登山と温泉はセットである――。
低山里山に歴史文化や神話民話を追い求め、日本各地を旅する低山トラベラー・大内征が綴る、山のこと、湯のこと、旅のこと。
第二回は、とある夏の奈良の山旅。室生から吉野を経て十津川へと縦断する旅路の途中、日本有数の降雨量を誇る大台ヶ原山を訪れたときのこと。そこで立ち寄ったのは、入之波温泉でした。
※連載第1回から読む方はこちら。

 ある年のこと。
 梅雨が明けたばかりだというのに、山道具の収納ラックから雨具の類を出してきてはザックにパッキングしている。理由は単純である。これから向かう旅先は、紀伊半島の中でも屋久島と並んで日本有数の降雨量を誇る大台ヶ原山なのだ。水が豊富で秘された滝にも恵まれている。ただでさえ山深い地域だから急な雨には備えておきたいし、滝があれば水しぶきをたっぷりと浴びるだろう。

 防水素材のレインウェアの上下のほかに、撥水効果のある軽めのシェルは夏場でも欠かせない。多少の雨ならこれで十分で、肌寒いときにさらっと羽織るだけでも「ああ、持ってきてよかった!」と、決まって思うアイテムだ。

 携帯する折り畳み傘はさまざまなメーカーのあらゆるタイプのものを試してみたけれど、モンベルのトレッキングアンブレラに落ち着いた。コンパクトな折り畳み傘には6本骨のものが多く、強度に不安がある。しかしこの傘はカーボンを材質にした8本の骨格で、丈夫なうえにすごーく軽い。リフレックインクがプリントされた反射モデルということも利点で、山の林道や地方の夜道などでこちらの存在を車に知らせるのに都合がよかったりする。

 あとは、防水の手袋、防水の資料ケース、それと500mlサイズのナルゲンボトルを3つ。それぞれ、行動食を入れたもの、飲料用、そしてメモ帳・油性ペン・細引きロープなどを入れたものも持つ。まああれだ、仮に遭難でもしたら「SOS」を書いて沢に流したり木に括ってぶらさげたりして目印にするつもりでいる。とはいえ、実際にそういう使い方をしたことは、幸いにまだ一度もない。

分水嶺・大台ヶ原山を歩く

大台ケ原と入之波温泉

 つい先日までザアザア降りしきっていた東京の雨は、旅の出がけにはうそのようにカラッと晴れていた。近畿とともに関東の梅雨も明けたのだ。その晴れやかでカラッとした心持ちのまま、大台ヶ原に入った。

 原生林が弾けんばかりの緑のパワーを持て余しているかのようで、目鼻を通じて木々が体内に迫ってくる。かつて「紀国(きのくに)」と呼ばれたこの一帯が、もともと「木の国」だったことを思う。ついさきほどまで雨が降っていたのだろうか、蒸した重めの空気がじっとりとまとわりついてきた。さすがは多雨地帯である。

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【写真】大台ヶ原山の最高地点「日出ヶ岳」のピークにポツンと立つ展望デッキ。360度の一大展望は見事

 大台ヶ原山は、三重県と奈良県の境を縦断する山脈の南端にあたる大きな台地で、その北端に高見山がある。それぞれの山から文字をひとつずつとって「台高山脈」なわけだ。

 最高地点は1695mの日出ヶ岳で、なだらかなピークの上に大きく頑丈な展望デッキがちょこんと佇む姿が印象的。そのデッキに立ってみると、上空に霧のような雲の流れが速く、時おり太陽の正円の輪郭がほの見えている。晴れた夜なら天の川の撮影で知られた場所なんだよと、先客が教えてくれた。「今夜は難しそうですかね?」というぼくの質問に、「昼と夜はまた違うっからねぇ」と今夜の予報が下り坂だということを付け加える。首から下げていたぼくの一眼レフカメラに目をやりながら、ちょっと気の毒そうな表情を浮かべていた。

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【写真】遠く正面には、視界一杯に広がる大峰山脈の峰々。あの山稜に熊野まで続く大峯奥駈道が

 とはいえ、いまの眺めは抜群で、西に長大な大峰山脈が、峰々の起伏を誇らしげに空に描いていた。そのまま稜線を辿った南方が熊野で、あれこそは大峯奥駈道、紀伊山地の世界遺産を構成する古の信仰の道。紀伊半島の重厚な山並みに圧倒される思いがする。

 東に、熊野灘の海原と海岸線が目に入った。海は、そう遠くない。そういえば、そのさらに東の彼方――静岡の御前崎の周辺や、伊豆半島の石廊崎、房総半島の南端――には熊野神社がたくさんあったことを思い出す。想像するに、このあたりから黒潮(日本海流)にのって信仰は伝わったのだろうと、思いを馳せる。

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【写真】朝陽が照らす東大台の遊歩道。一年を通した強烈な風雨を想像させる、異世界のような立ち枯れた木々の光景

 翌日、まだ夜が明けぬうちに宿を出ると、闇夜にたくさんの星々が輝いていた。天の川までは確認できなかったけれど、下り坂の予報を覆してくれた星空に、思わず手を合わせて「ありがとうございます」と独り言ちる。

 ヘッデンで足下を照らしながらピークを目指し、ふたたび日出ヶ岳の展望デッキに立つ。やや白んできた空の明るさを頼りに熊野灘の海岸線を確認すると、やがてその向こうに太陽が昇った。陽を待つ間、実はなかなかの風と寒さとで身体は冷えていたけれど、さすが太陽の力は偉大で、その光を浴びるだけで温まる。

 その太陽の温かさに触発されてか、ふと冷えた身体に温泉が恋しくなった。頭の中に充満する湯気のような欲望を追い払いながら、まずは身体を動かさなきゃと歩き始めるのだが、次第に汗ばみ、こんどは汗を流したいと温泉を欲する。気分はもう、寒くても温泉、暑くても温泉、ということだろうか。未明から行動したおかげで、お昼過ぎには今日のお目当ての入之波温泉に浸かれそうだ。

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【写真】東大台の象徴ともいえる巨岩・大蛇嵓(だいじゃぐら)の雄姿

 ところで、吉野熊野国立公園の一角にある大台ヶ原山は、作家・深田久弥の日本百名山に数えられる。それだけに、山上の遊歩道の整備は大変によく、特に「東大台」と呼ばれるエリアの登山コースは登山初心者でも楽しめるようになっている。トイレはビジターセンターのみだから、行動開始前に済ませておきたい。

 しかし、個人的には、事前申請しなければ立ち入ることのできない「西大台」と、三重県側の一大渓谷「大杉谷」から登るルートにこそ、ここ大台ヶ原山の真骨頂はあるように思う。

入之波温泉と釜めしと

 年間5000mmに迫るほどの降雨量になることもある大台ヶ原だけに、たっぷりと大地に保水した水は四方の地域に配られる。西には吉野川が紀伊水道に注ぎ、東には宮川が伊勢湾に注ぐ、いわば分水嶺だ。麓に暮らす人々の営みに実りをもたらす清水を生み出す山は、だからだろうか、そこに身を置くだけで、なんだか希望に満ちた場の力を感じるのだ。

 奈良には分水嶺が多く、そうした土地には「水分神(みくまりのかみ)」が祀られているケースが多い。たとえばこの近辺なら、先述した大峯奥駈道の吉野側の入口付近にある青根ヶ峰と吉野水分神社の関係だろうか。青根ヶ峰を源にする沢のひとつは東へと流れ、大台ヶ原山から流れ出た吉野川に合流する。なんかこう書いているだけでも、彼の地の縁起の良さを感じずにはいられなくなってくる。

 その吉野川の源流域のすぐ北に、入之波温泉がある。しおのは、と読む。大迫ダムが堰き止める大きな貯水池は急峻な谷に沿って水を蓄えていて、これを見下ろすところに湯元・山鳩湯が建っている。ここは炭酸水素塩泉(炭酸重曹泉)の淡黄褐色に変化する温泉で知られ、湯温ほどほどで長湯がよい。しかし今日は、夏だけど身体が冷えもし、下りてくると汗もかきで、いささか身体がその適応に忙しく疲れていたのだろう、一気に全身がほぐされそのまま湯に溶け出してしまうかのようだった。

 内湯は木造り、露天は巨木をくりぬいたような湯舟になっている。そこに湯の成分が凝り固まって付着しており、それがこの温泉の実力を示しているのだろう。折よく陽射しが入りこみ、キラキラと湯の華を刺激している。これがまた成分の濃さを示すような輝きを放ち、そういうことに気づかせてくれた間のよい陽射しに、ぼくは湯の中で感謝をした。お湯よし、古びた感じもよし、評判通りの素晴らしい温泉である。

 余談だが、ちょっとした“秘訣”がある。
 ここの名物の釜めしをいただく場合は、玄関を上がったらすぐに頼んでおこう。で、先に温泉を楽しむ。調理に時間がかかるためだが、温泉を堪能し、食堂に来ると、ちょうどいいタイミングで出してくれる。湯上りに汗をかきかき、熱々の釜めしをハフハフ頬張る美味さたるや。せっかくいい温泉で汗を流した直後なのだから、湯上りにまた汗をかくのもなあ、と思うのなら、あがってからオーダーすればよい。たしか小一時間ほど待つ。そのときは、ビールでも飲みながら、湯上りのひと休みといこう。

文と写真:大内 征
イラスト:吉村時子

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プロフィール
大内征(おおうち・せい)

低山トラベラー、山旅文筆家。土地の歴史や物語を辿って各地の低山里山を歩き、自然の営み・人の営みに触れながら日本のローカルの面白さを探究。「登山は知的な大冒険!」を合言葉に、ピークハントだけではない山を旅する喜びと、山歩き街歩きの魅力について、文筆と写真と小話とで伝えている。
NHKラジオ深夜便「旅の達人~低い山を目指せ!」にレギュラー出演中。著書に『低山トラベル』、『とっておき!低山トラベル』(ともに二見書房)、『低山手帖』(日東書院本社)、共著に『地元を再発見する!手書き地図のつくり方』(学芸出版社)などがある。NPO法人日本トレッキング協会理事。1972年生まれ、宮城県出身。

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