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【怪談】壁に残された血文字――葬儀業者の身に降りかかった背筋の凍る怪異

怪奇体験から垣間見える、現代社会の実像と歪ひずみ――。
 
2020年からNHKで不定期に放送され、SNSで話題の「業界怪談 中の人だけ知っている」。番組の再現ドラマをもとに体験者ひとりひとりに徹底追加取材し、より恐ろしく、より不可思議に、全16篇からなる怪談として新たに描き出すことで各業界のリアルに迫った書籍『業界怪談 中の人だけ知っている』が本日発売です。
 “事故物件住みます芸人”松原タニシさんが「自分一人の人生では体験できぬ怪異、まさに「私の知らない世界」」と評した本書から、葬儀業界での怖気の走るような怪談をご紹介いたします。


コンセキノコスナ

尾崎正則おざきまさのりさん(仮名・葬儀会社経営)

 夏になりかけの、暑い日の午後だった。
 仕事の電話が来た。妹が亡くなっていたので、自宅に来てほしいという依頼だ。自死だ、ということはうすうす察せられた。おそらく、死後幾日かが経過しているのだろうということも。
 今日の仕事を終え、帰り支度をしていたところだったが、ほかに出向ける人間もいない。僕は白衣を羽織り、化粧道具を持って、スタッフの運転する車に乗り込んだ。訪問医療の医師に見えるようちょっとした変装をするのは、葬儀屋としてのマナーだ。近所に余計な詮索をされて、悼むべき死の現場を踏み荒らすようなことがあってはならない。
 車を降りたとき、かすかなにおいが鼻をついた。焼けた木材のような、かと思えばちょっと蒸れた湿気のあるような、独特のにおい。
 腐敗臭だ。
 僕はそれに導かれるように、現場のあるアパートに向かった。スマホなんて便利なもののない時代だ。地図を片手に指定された住所を自力で探すのが常だったけれど、ときどき確認しなくても、腐敗臭が濃厚に立ち込めている気配で、あそこだ、とわかることがある。気温の高い時期なら、なおさら。
 そしてだいたい、そういう現場にはいるのだ。見慣れた銀色のライトバンと、身軽にどこへでも行けそうなカブ。警察の鑑識車両と、地域のおまわりさん。
 何度も現場をともにしたことのある彼らは一服中で、僕を見ると、よ、と片手をあげた。僕は会釈した。
「いま、ちょうど実況見分が終わったとこだからさ、あとはよろしく頼みますわ」
 僕が到着してようやく帰れる、というように彼らは煙草の火を消した。
 不便だけど、おおらかな時代でもあった。屋外のどこででも煙草を吸えたし、本来ならば現場に足を踏み入れるはずのない葬儀屋が、こうして後を頼まれる。おおらかというよりはいいかげん、か。
 本来ならば、葬儀屋の出番は検死された後、警察の安置所にご遺体が置かれた後だ。けれど僕らの住んでいる地域では、全国的に見ても変死体の数が多く、検死を担当する医師が決まるまでへたすると数日かかる、という状況だった。警察もそのすべてを預かってはいられない。かわりに、ご遺体を保護するのもまた、当時の葬儀屋の仕事だった。
 もう、三十年以上も前の話だ。
 その日はたまたま近くにいた医師が現場に寄って、すでに検死も終えたらしい。珍しいことだったけれど、僕は葬儀屋としての仕事、つまりはご遺体に化粧をほどこし、装束に着替えさせることだけに集中すればよかった。
『妹を、安らかな顔にしてやってください』
 電話口でそう話していた依頼者である兄は、いまもご遺体に寄り添っているのだろうか。
 僕はアパートの二階にある部屋に向かった。その物件は女性専用らしく、オートロックの玄関を抜けた先の中庭はきれいに整えられていて、全体的に清潔感が漂っていた。男所帯とはまた違う、生活のにおい。その中に、近づけば近づくほど息苦しくなるような腐臭がまざりあう。
 ここまで近づくと、たぶん嗅ぎ取っているのは僕だけではない。近隣の住人は、生ゴミを溜めているとでも思ったことだろう。でももしこれが冬で、誰かが異臭に気づくのが遅れていたら、ご遺体はもっと長くひとりぼっちで、部屋に横たわっていることとなったに違いない。
 そんなことを思いながら、僕は指定された部屋のドアを開けた。「おじゃまします」と声をかけて靴を脱ぎ、静かにドアを閉める。廊下というには細くて短いキッチンのそなえつけられた通路を通って、リビングに向かう。よくある1Kの間取りだ。通路との境目にドアがないかわりに、しゃらしゃらと鳴りそうなピンク色のすだれがかかっていた。
 それを何気なくくぐろうとしたとき、ぐしゃり、とも、べちょり、とも、つかない不快な感覚が、靴下越しに左足の裏に張りついた。
「……ひ」
 思わず、声が漏れた。
 古びた十円玉のような色をした、水よりも粘度のある液体。見慣れた、濃い赤。
 息を吞んだ。
 部屋の中は文字通り血が飛び散っていた。床にも、壁にも、そしてベッドで横たわっている、髪の長い女性の身体にも。
 異様としか言いようがなかった。
 床中に飛び散った血は誰も避けようがなかったのだろう。鑑識の人たちが踏んだ足跡がくっきりと残されていて、ひきちぎられたような髪の毛がそこらじゅうに散らばり、毛玉のようになっていた。ご遺体を見れば、右手の人差し指が真っ赤に染まり、そして長さが、ほかの指に比べて少し欠けている。
 自分で食いちぎったのだ、ということはすぐにわかった。
 その指で、壁に文字を書いたのだということも。

『タカシシネ』
 
 大きく、乱暴に、ありったけの憤怒を込めるような、血文字。
 エアコンが稼働しっぱなしだったのは幸いだった。かすかな機械音とともに冷風が舞う中で、はえうじがうごめいていた。もし蒸された室内だったら、その数に耐えきれなかったはずだ。
 僕は窓を開けて換気をし、専用の薬を撒まいて、部屋を消臭した。靴下を履き替え、故人に近づくための道筋をつくるために、床の血をふきとった。でもどうしたって、その部屋にしみついた腐臭は、消えることはない。
 ベランダではぱたぱたと音をたてて、白いワンピースがはためいていた。
「……なんで死んじゃったのかな」
 そうつぶやいたのは、ひとりで静かな空間に取り残されるのが怖いから。そして、どんな姿であっても、最後まで生きた故人に人として向きあうためだ。
「まずは、身体をきれいにしましょうね」
 そう言って僕は、全身の血をぬぐうためのお湯をくもうと、ユニットバスに向かった。おそらくそこで手首を切ったのだろう。血にまみれた小さな洗面所に置かれた、ピンク色と水色の二本の歯ブラシが妙に浮いて見えた。そして、蛇口をひねろうとしたそのとき、
 バン! バン!
 と激しい音がして、心臓が飛び跳ねた。あわてて通路に飛びだすと、勢いよく閉まる玄関ドアが目に入る。なんだ、風か――納得しかけて、止まった。ドアは最初に閉めたはずなのに?
 いや、たぶんしっかりハマってなかったのだろう。そう自分に言い聞かせて、バケツに張ったお湯をご遺体のそばに運んだ。
「ちょっと失礼しますよ」
 声をかけながらタオルで血を拭き取り、新しい洋服に着せ替えていく。ちぎられた指には包帯を巻いて、お顔に目をやった。
 悲痛な亡くなり方をしたご遺体は、必ずと言えるほど口が開いている。目を閉じるのはそれほど難しいことではない。しかし、口を無理に動かせばご遺体を損傷してしまいかねない。生前の微笑ほほえみ、とまではいかなくとも、いかに口元を穏やかに施すかというのは、僕らにとって大事な仕事だ。
 彼女の口元は、激しく歪んでいた。
 物理的な痛み以上に、死の間際まで、憎しみがほとばしっていたのかもしれない。
「タカシ」という名前の、おそらくは水色の歯ブラシを使っていた男への。
 何があったかわからないけど、せめてあなたの尊厳をとりもどせるように、精いっぱいつとめさせていただきます。そんな気持ちで僕はご遺体に触れていた。
 そこに、彼女を軽んじる気持ちは一切なかったと断言できる。この仕事をはじめてまだ三年目、成人したてのひよっこではあったけれど、どんな亡くなり方をしたとしても、僕らが向きあっているのはその人が最期まで生きた証しなのだ、という敬意だけは常に忘れないようにしていたから。
 ――でも。
 関係ないのだ、そんなことは。
 彼女の無念と、怒りの前では。
 そのとき、鋭く突き刺すような視線と気配を、天井のほうから向けられていることに、僕は気づいてしまった。その瞬間、脳裏に見知らぬ誰かの声が響いてくる。
「……ハヤクカエレ……ハヤクカエレ」
 気のせいだと思い込もうとして、化粧を続けた。しかし、彼女のお顔の向きを変えたとき、
「ヤメロ!」
 はっきりと聞こえた。脳内にではなく、耳元に。
「チカヅクナ」
「ノコスナ」
「スベテノコンセキノコスナ」
「カカワルナ」
「カエレ! カエレ! ヤメロ! デテイケ!」
 ふるえあがった僕は最後の仕上げを済ませるやいなや、早々に現場を立ち去った。逃げるようにそのまま自宅へ帰って時計を見るとすでに日付は変わっていて、家族みんなが寝ついた家は奇妙なほどに静かだった。
 僕は、袋に入れておいた血の付いた靴下だけでなく、作業の際に身に着けていたものはすべて脱ぎ去り、専用の処理ボックスに捨てた。
 コンセキノコスナ――痕跡残すな。
 そう言われたことが頭から離れなかった。化粧道具など作業に使ったものもすべて捨てた。彼女に関わったすべてのものをこの世から消してしまわなければならい。そう思わずにいられなかったのだ。
 それでも、あの部屋にしみついた腐敗臭は僕にまとわりついて、消えてくれなかった。原因はわかっている。靴下に彼女の長い髪の毛が巻きついていたのだ。あの部屋の痕跡を自宅に持ち込んでしまった気がして、ぞっとした。処理ボックスには、会社から持ち帰ったお清めの塩を入念に振った。風呂に入ってすべてを洗い流し、線香を焚いてベッドに入ると、ようやく少しだけ全身の緊張が解けた。習慣である寝る前の読書をする余裕もないままうとうとしかかった頃、強烈なにおいに襲われた。
 消し去ったはずの、あの部屋のにおいだ。
 さらに僕は異常なほど汗をかいて、パジャマをぬらしていた。着替えなければと身体を起こそうとして、気づく。
 動けない。
 指先の一本すら微動だにできず、息もうまく吸うことができない。
 これは夢だ。あるいは、身体の緊張がもたらす一時的な硬直だ。そのように理性的に判断しようとするのに、頭の片隅で警報が鳴り響き、ますます汗が流れだす。さらに――
 ううううううう。
 唸るような声が聞こえたかと思うと、般若はんにゃのような形相をした女性が足元から這って出てきて、僕の足首を強くつかんでくる。
 動くことも、叫ぶこともできず、ただ女性を凝視することしかできない。
うううううううう。
 うううううううう。
 うめき声の隙間に、彼女の呪詛じゅそのような言葉が漏れ出てくる。
 コンセキノコスナ……コンセキノコスナ!
 彼女が僕をベッドの下に引きずり込もうとした瞬間、奇妙なことに金縛りが解けた。僕はベッドのわきのパイプをとっさにつかむと、彼女に抵抗した。
 ずり、ずりずり、ずり。
 尋常ではない彼女の力に、少しずつ僕の身体はベッドの足元のほうへ下がっていく。だが、連れていかれるのはきっとベッドの下なんかじゃない。
 この世ではないどこかだ。
 そう悟った僕は、とっさに「残さないから!」と叫んだ。
「あなたの痕跡は残さない。お兄さんとも相談する。そうだ、お骨は海に撒くっていうのはどうだろう。海はきれいだし、あなたを苦しめる男もいない。安らかに、清らかに、眠ることができる。だからお願いだ、未練を残さずあちらの世界へ旅立ってくれ!」
 実際は声なんて出ていなくて、ただ念じていただけかもしれない。そもそも、そんなふうに理路整然と冷静に伝えられていたとも思えない。
 それでも、何か通じるものがあったのだろう……と、信じたい。
 足を握る手をゆるめた、ような気がした次の瞬間、身体がふっと軽くなった。彼女の姿が消えたことを確認すると、僕はそのまま気絶するように眠りに落ちた。
 
 翌朝、目が覚めると、ベッドの足元側にあるアーチ状のパイプの間に足が深く挟まれていた。自力で抜けだすのが困難なほど深く押し込められている姿を見た弟が、「何やってんの?」と呆れたように助けてくれた。
「よくあんなところに入り込めたね? 寝相が悪いってレベルじゃなくない?」
 そもそも日頃の僕は、まるで死んでるんじゃないかと母親が不安になるほど静かに眠る人間だということは、弟もよく知っている。
「……変な夢を、見たんだ」
 曖昧な笑みを浮かべて答えることしか僕にはできなかった。
 けれど着替えようとして、目に留まった。両足首に、かすかな痛みとともに紫色のあざがくっきりと残されていた。それこそ、パイプよりももっと太い、たとえるならば女性の手の大きさくらいの痣が、ぐるりと円を描くように。
 ああ、と思った。
 やはり彼女は、ここにいたのだ。
 
 出社すると、彼女のお兄さんから改めて、葬儀を依頼する電話があった。僕は夢のことは話さず、それとなくお兄さんに散骨の提案をした。
「そのほうがあの子も、ゆっくり眠れるかもしれませんね」
 彼にも思うところがあったのかもしれない。そう言って、了承してくれた。
 
 いまでもときどき、彼女のことを思い出す。どれだけ誠実に仕事をしたつもりでいても、思いもよらぬ形で故人の意志をないがしろにし、怒りを買うことはあるのだと、そのたびに胸に刻み込む。
 だから、意味がないということではない。
 どんなに心を尽くしても足りないからこそ、あきらめずに、寄り添い続けなければならないのだ。この人はどんな化粧をほどこしてもらいたいだろう。どんな表情を、最後に会いに来てくれた人たちに見せたいだろう。考えながら、目の前で眠る人に問いかける。
どうすれば、あなたの尊厳を最大限守れますか、と。
 そういうとき、現れてくれたら楽なのにな、と思うこともある。
 幽霊でもいいから僕の目の前に現れて、一緒に相談できたらいちばんいいのに。そのほうが、夢に出てきて脅されるよりは、ずっといい。
 
 追記。
 あれからしばらくして、とある不審死の現場に立ち会った。妻子のいる男が、マンションから飛び降りたという、よくあるといえばよくある話だ。
 その男の名前は、「タカシ」といった。
 彼女と関係があったのかどうかは、僕は知らない。

(了)

目次

【怪談小説】 文・橘 もも
 建設業界 「地下からの声」/「おきつねさん」
 清掃業界 「終わらなかったワックスがけ」/「忘れもの」
 美容師業界 「それ私のせいかも……」/「髪の毛には、宿る」
 葬儀業界 「聞こえるはずのない音」/「コンセキノコスナ」
 タクシー業界 「幽霊からの配車依頼」/「過去からの叫び」
 登山業界 「彼岸に現れた男」/「白い足袋の女」
 リフォーム業界 「両親の愛した家」/「そこに、誰かいます」
 フードデリバリー業界 「五階に棲むお婆さん」/「夜桜の下で」

【業界関係者座談会】
 建設業界編、清掃業界編、美容師業界編、葬儀業界編、タクシー業界編、登山業界編、リフォーム業界編、フードデリバリー業界編

はじめに 「彼岸風呂 まえがきに代えて」
おわりに 「〝昭和〟の終わりとアプリ社会」

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