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SFはなぜ「滅亡的事態」を描くのか?――混濁した不透明な世界で生きるために

 未知のウイルス・パンデミックを描いた『復活の日』、日本の国土が海没する『日本沈没』等の小説がいまふたたび注目されているSF作家、小松左京。まるで「予言の書」のように受容される先見的な作品は、どのような問題意識に基づいて書かれたのでしょうか。
 7月10日刊行のNHK出版新書『いまこそ「小松左京」を読み直す』では、評論家の宮崎哲弥さんが『地には平和を』『果しなき流れの果に』『日本沈没』『ゴルディアスの結び目』『虚無回廊』等の代表作を読み解き、「戦後最大の知識人」小松左京の思索に迫っていきます。本書執筆の動機について書かれたあとがきを、発売に先行して公開します。

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世界と出会い直すために――あとがきにかえて

 気鋭の哲学研究者、近内悠太氏の著書『世界は贈与でできている』(News Picks パブリッシング)のなかに、SFとは「逸脱的思考」を具象化してみせる文学形式である、という意味のことが書かれている。
 ここでいわれる「逸脱的思考」とは何か。近内氏の論脈に従えば、「言語ゲーム」の裡(うち)において、私達は何かを意図したり、何かを行ったりしている、という認識が前提となる。
 野球を例に取ってみよう。「ストライク」とか、「ボール」とか、「アウト」といったルールを表示する術語は、実は野球を実際にプレイしてはじめて、それらの機能が定まる。つまりプレイという行為がまずあって、「規則」や「意味」は事後的に見出される……。この説明は、彼の専門であるウィトゲンシュタインの後半生の思考に倣うものだ。[編集部註:太字は底本において傍点が付されている語句です。以下すべて同様]
 近内氏やウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」論の眼目は、この世界の成り立ちも、実のところ野球の場合と変わらないとする点だ。
「痛い」という言明すら同断である。「痛い!」という発話は、一般に「この私」の身心に起こっているある事態を記述し、表出する行為だと考えられている。しかしそれは錯覚だ、とウィトゲンシュタイン=近内はいう。その発話は純粋に内的な(私秘的な)事態の単なる報告ではなく、何らかの「対処を求める」行為なのだ。
 もし誰かが「痛いっ!」と呻(うめ)けば、それを自明の事として周囲の人々は何かを履行する。例えば、「大丈夫ですか?」などと心配顔をしてみせる、医者を探す、救急車を呼ぶ、鎮痛剤を渡す、同情する、無視する……といった行為を遂げる。「痛い」という言明は、何かを意味するのではなく、他者に行動を起こさせるために機能する。まさに「痛みの概念は、それがわれわれの生活において果す固有の機能によって特徴付けられる」のだ(『断片』第532節『ウィトゲンシュタイン全集9』所収、大修館書店)。
 われわれの生はこうした「言語ゲーム」の裡にあり、換言すれば「むしろ僕らはこの言語ゲームの中に閉じ込められている」(「第5章 僕らは言語ゲームを生きている」、前掲書)。
 そして近内氏のいう「逸脱的思考」とは、この「言語ゲーム」を織り成す、世人が自明と承認している「世界像」の要石をズラしてみることだ。例えば「地球の自転」という自明事が忽如として失われてしまったらどうなるか?
 そこで近内氏は小松左京の短編『夜が明けたら』のプロットを紹介する。「地球の自転」が停止したら、われわれの日常がいかに変容するかを描述した物語だ。

 多くの人にとって「地球の自転」は、教科書でそう習ったものでしかありません。でも絶対に正しい。
 これを正しいものとして採用していることが僕らの言語ゲームの基礎をなしています。というより、それを鵜呑みにすることによって僕らの生活、すなわちさまざまな言語ゲームが成立しているのです。(「第7章 世界と出会い直すための『逸脱的思考』」、前掲書)

「地球の自転」を自明の事とする「世界像」が崩れたとき、その影響は「言語ゲーム」の他の箇所にも及ぶ。「言語ゲーム」はホーリスティックに相関するものではないが、類縁性が広範囲にわたっているため、一つの「世界像」の綻びの影響は甚大なものとなる。 

 では、「夜が明けたら」は何を問いかけているのでしょうか。なぜ地球の自転を止めたのでしょう?
 僕らがこの世界と出会い直すためです。
 世界の論理の歯車がたった一つ狂うことで、この世界全体が悪夢へと簡単に変わってしまうことを教えるためです。(同前)

 これは、小松の『拝啓イワン・エフレーモフ様』に書き付けられていた、SFが好んで滅亡的事態を描く理由と基本的に同じである。本書第3章で引用したが、再度確認しておこう。

〈破局〉を設定することによって、はじめて人間が、人類が、そのモラルが、社会機構や文明や歴史が、いわばこの世界が〝総体〟として問題にされるのです。世界がその全貌をわれわれの前に現わすのは、それが総体的に否定される時であり、〈破局(カタストロフ)〉の仮定は、単純でしかも力強い否定の様式の一つにちがいありません。(『拝啓イワン・エフレーモフ様』)

「この世界が〝総体〟として問題にされる」とは、即ち「この世界と出会い直す」ことに相違ない。SFの想像力とは「逸脱的思考」を作品として結晶させるものであり、取りも直さずそれは、世界と出会い直すための文学なのである。
 本文では詳しく触れなかったが、小松SFには、日常においてはその存在について疑うよすがもないような事物がなくなってしまう、というプロットが少なからずみられる。

 小松は世界像の破壊というSFを通して、僕らの生存を下支えしていた「透明だったもの」(=世界像)を可視化させます。
 致死性ウイルスの蔓延によるパンデミックを描いた『復活の日』や、題名通り日本人が国土を失う『日本沈没』をはじめ、『こちらニッポン…』『首都消失』、短編では「アメリカの壁」「物体O」。
 いずれも「遮断/停止/喪失」がそのSF的設定として用いられています。(「第8章 アンサング・ヒーローが支える日常」、前掲書)

「遮断/停止/喪失」の義を少し広く取るならば、最初期の小編『紙か髪か』をはじめ、『新趣向』『日本売ります』『お召し』『日本漂流』『第二日本国誕生』『本邦東西朝縁起覚書』『返還』『静寂の通路』『歩み去る』などもこのカテゴリーに入れられるだろう。
 なかんずく『新趣向』は、ある意味で「言語ゲーム」的状況そのものをメタフォリカルに表現することで、その全体を異化していると解釈することもできる。SFという自由度の高い表現手段は、「世界像」の一つを破壊するのみならず、「言語ゲーム」そのものを可視化し、異化してしまうことすらできるのだ。
 いずれにしてもそれらの物語においては、あまりに自明であるため意識に上(のぼ)せらるることもなかった「透明」な「世界像」が打ち砕かれ、混濁した不透明な世界が現出する。
 そう想像することこそが世界と「出会い直す」契機となる。小松左京が実然的とされる世界のあり方に対して、イマジナリーな世界像や本質的に異なる現実の可能性を対置してみせるのは、そのような「出会い直し」の機会に出会わせるため、なのである。
 小松にとって意想外で、そして少しばかり不幸だったのは、「言語ゲーム」を異化してみせるために仕込んだ、あり得そうであり得ない破局なのに、その設定に近い事態が実際に出来(しゅったい)してしまったことだろう。その都度、彼の小説が「予言の書」として思い出され、話題になり、多くの読者を獲得するところとなった。
 例えば、地震や噴火、津波による大きな災害が起こる度に『日本沈没』が参看され、アメリカに孤立主義(アイソレーショニズム)を標榜する政権が登場するや『アメリカの壁』が読み直され、新型ウイルスを病原体とする感染症が流行すれば『復活の日』が改めて話題になる、といった次第である。
 そうした接し方が間違っているというのではない。さらに物語の表層の奥にある小松左京の思想を読み取って欲しい。件(くだん)の若き哲学者のように。そんな思いを込めて本書を執筆した。これは小松左京氏へのささやかな恩返しである。

――宮崎 哲弥

※2020年7月9日に当記事に関連する記事をさらに公開予定です。

プロフィール
宮崎哲弥(みやざき・てつや)

1962年、福岡県生まれ。評論家。相愛大学客員教授。慶應義塾大学文学部社会学科卒業。専門は仏教思想・政治哲学。サブカルチャーにも詳しい。『仏教論争――「縁起」から本質を問う』(ちくま新書)、『ごまかさない仏教――仏・法・僧から問い直す』(新潮選書、佐々木閑氏との共著)、『宮崎哲弥 仏教教理問答』(サンガ文庫)など著書多数。

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