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『昭和ブギウギ 笠置シヅ子と服部良一のリズム音曲』輪島裕介さん×『落語に花咲く仏教』釈 徹宗さん対談―”大阪音曲巡礼”【前編】

近世以来、庶民の娯楽や祈りのバックボーンを支えてきた大阪の音曲。「地」に根づいた音楽・笑い・語りの歴史と可能性について、『昭和ブギウギ 笠置シヅ子と服部良一のリズム音曲』を上梓した輪島裕介さんと、上方の芸能にも詳しい宗教学者の釈徹宗さんが縦横無尽に語りました。前編・後編の2回に分けて公開します。まず前編では、そもそもおふたりが「音曲」なるもののイメージを共有するところから始まって、東西の発声の違いから、芸能の宗教性まで、朝ドラ「ブギウギ」にも絡めてお話しくださいました。


■「音楽」か「音曲」か

 『昭和ブギウギ 笠置シヅ子と服部良一のリズム音曲』(以下『昭和ブギウギ』)興味ぶかく拝読しました。大阪の人間にとっては服部良一さんや笠置シヅ子さんは親しみを覚える存在ですから。
いっぽうで、サブタイトルにある「リズム音曲」ということばは初めて聞いたので面白いなと思いました。ご本には、輪島さんの造語と書いてありましたが、いったいどんなところからこのことばを発想されたのですか?
輪島 最初から「リズム音曲」というものを定義しようと思って書き始めたのではなく、服部と笠置について書いてほしいと依頼を受けて構想を練るうちに、ふたりの仕事と、同時進行的に興味を向けていた「近代音曲史」という構想との連続性に確信が持てて、リズム音曲という言葉に行き着いたというのが実態に近いです。
  なるほど。予期せず行き着いたという感じですか。
輪島 そうですね。「音曲」というものが自分の中にもともとはっきりとあったと言えるかどうかはわかりません。子どもの頃からお笑いや演芸は大好きでしたし、高校時代にはコミックバンドの真似事をやったこともあります。でも、それといわゆる「音楽」というものがつながっているとは、あまりきちんと考えることはありませんでした。
  われわれが子どものときは、音曲漫才とかもまだテレビでもやっていましたからね。いまでこそおしゃべりの「漫才」しか残っていませんけれど。
 あ、でも「リズムネタ」っていうんですか? ああいうのはちょっと音曲漫才っぽいですかね。
輪島 新喜劇の中には、松浦真也という素晴らしい…
 ギターを弾く人ですね。
輪島 そうですそうです。
 あの方はギターはうまいのですか。僕にはちょっとわからないけれど。
輪島 めちゃくちゃうまいです。ギターしか、うまくない気もしますけれどね(笑)。でも、彼はすごいですよ。
 そうですか。とにかく僕は、音楽の知識がとんでもなくないので…。
 でも、この本を読んで、昔、歌謡ショーの司会者とかがよく「歌は世につれ、世は歌につれ…」と口上を述べていたのを思い出しました。本当にそうだなと。社会とか政治、そして人々の暮らしなどが、庶民のあいだで流行っている音楽とものすごく連動してるんですよね。子どもの頃の記憶に残っている範囲でも、そう思います。
 たとえば、この本の中でも書かれていますが、関東大震災が起こって、関東にいたバンドマンたちがみんな大阪にやって来ることによって大阪の音楽が変わったと。そしてまた東京が復興してくると、今度は大阪からミュージシャンが東京を目指し始めたみたいな。
 宗教にもちょっと似たところがあります。関東大震災というのは、本当にいろいろな面で社会の変化に大きな影響を及ぼしました。立正佼成会などは関東大震災の影響でできたような教団ですし。何か大きな社会変動によって人々の暮らしが変わるのはもちろんのこと、信仰の形が変わったり、音楽に求めるものが変わったりする。そのあたりが克明に描写されているので、読んでいて楽しみつつも、深く感じるところがありました。
輪島 ありがとうございます。釈先生は、先ほど音楽に対する苦手意識みたいなものがおありになるとおっしゃいましたが、具体的にはどういうことでしょうか。
 苦手といいますか、あまり身の回りになかったといいますか。たとえば、お兄ちゃんがいたりお姉ちゃんがいたりしたら、ビートルズをよく聴いていて自分も自然に親しむということはあると思うんですけど、僕はそういうのがなかったんです。
 あ、でも、ずっと一緒に住んでいたおばさんはグループサウンズが好きだったので、それはちょっと聴きましたね。
輪島 では、ラジオやテレビで音楽を聴く程度でしたか?
 そうですね。僕は、どっちかというと音楽よりは芸能のほうが好きでした。朝、ABCのラジオで「おはよう浪曲」を聴いて目覚めるという、メチャメチャ渋い小学生で(笑)。

■浪曲が衰退した理由は……

輪島 でも、お寺の中ではいろいろな声や鳴り物がありますよね。それに、浪曲なんてものすごく「音楽」なわけで。「音楽的」みたいな話ではなくてれっきとした近代日本の代表的な大衆音楽です。あえて言うとすれば、20世紀の前半までは、浪曲の時代と言えるんじゃないでしょうか。
 そうですね。かつては、芸能人の長者番付の10人のうち7人ぐらいまで浪曲師という時代があって、日本に浪曲専門の小屋が何百とあったらしいのです。
 あれほど急激に頂点を極めて、あれほど短期間で凋落した芸は、ほかにないのではないでしょうかね。なぜだと思いますか。僕はちょっと興味があるのです。
輪島 浪曲が急激に凋落したというのは、釈先生の肌感覚としてもありましたか? たぶん、二代目広沢寅造が1964年に亡くなってからですよね。
 そうですね、僕はリアルタイムでは寅造は聴いていませんね。浪曲はもう、ラジオや、たまにテレビで観るぐらいでした。浪曲師がスターだった時代は終わっていました。
輪島 ラジオからテレビの時代になって、実演が急激に飽きられたということは、よく説明されますね。
 それはありますね。ほかにも理由はいくつか考えられると思うのですが、ひとつには豊かになったこと。浪曲って、本当に粗末なよしず張りのような小屋で始まった芸なので、苦しい生活をシャウトするみたいなところがあるんです。みんなそこに共感していたのですが、社会が豊かになったらあまりウケない芸ではないかという説があります。
 2つ目は、興行師がオールスター公演をやりすぎたという説があります。お客さんをたくさん入れようと思って、どんどん箱を大きくしてスターばかり出すものだから、若手が育たない。前座から始まって、だんだん中堅が出て来て、最後に大御所の登場でバッと場が盛り上がってこそ、若い人が育つのに。
 もう1つ、僕が思うのは、ちょっと「自分のところ」の意識が強いのです。以前、浪曲師さんに「この演目をやってもらえませんか」と言ったら、「それは、うちの家はできませんね」と言われました。このネタはあそこの家のネタだからできない、とおっしゃるのです。落語は全然そんなこと言わないでしょう? 落語は全くのコピーライツフリーというか、誰も著作権を主張しない。みんなが使える共有財産になっていて、これが落語の強さだと思うんです。そういう態度のほうが、やっぱり持続可能性が高いんじゃないでしょうか。
輪島 芸術音楽、いわゆる西洋音楽の中で、作品と作者というのが個々の演奏よりも意味のあるものになるというのは、わりと新しいことなのです。
 そうでしょうね。著作権をあまり強くしすぎると、規模拡大を妨げるようなところがありますし。もちろん、個人の権利は認めなければいけないのですが、ちょっと二律背反的なところはありませんか。そのあたり、音楽研究家としてどう思われますか?
輪島 そうなのです。音楽産業の中にいたら絶対に言えないと思うのですが、僕は研究者なのでかなり過激な立場を取れるのです。音楽著作権という考え方自体が、本当は特定の誰かに帰属できないものを無理やり帰属させて、それを複製することによってお金を得るための利害調整のシステムともいえるので、「人権です」とかいう言い方をされると、「それは違うぞ」と思うのです。
 音楽は、みんなで共有するものではないですか。絵とか彫刻は、創った人が特定できるかもしれません。一応、モノとしてあるわけですから。それでも、発注した人のほうが大事だった時代がずっとあるわけですが……。
 でも、音楽は、モノとしては存在しませんよね。そのつど演奏されるものが全てです。あるいは、新しいものがどんどん創られていくほうがよいわけです。バッハは教会の礼拝のために、毎週、曲を創っていた。それは、いわば「使い捨て」なわけです。常に神様に新しいものをお供えするという発想で楽譜のほうが個々の実演よりも偉いのだという感じになっていくのは、わりと不自然なことだと個人的には思っています。
 もちろん、演者だけでなくそれを支える人たちの貢献も認められるような仕組みは必要だし、その限りで曲や歌詞や台本を書いた人の権利は重要だとは思います。でも、個々の実演とは別に創った人や創られたモノとしての作品が存在し、なんならそちらのほうが音楽の「本質」に近い、といった考え方とは違うところを拾うために、実演を基盤にする「音曲」という言い方を大切に考えています。
 そうなのですね。その辺も見据えた上での音曲なんですね。
輪島 はい。さっき釈先生がおっしゃった、落語の作品が共有財産であることが、落語が発展して、いまもすごく面白いというのに関係していると思います。

■笠置シヅ子が少女時代に親しんだのは?

輪島 せっかくなので、そろそろ朝ドラの「ブギウギ」にも絡めて話していきましょうか。
 ええ、ぜひ。
輪島 みなさん、朝ドラご覧になっていますか?
 あ、前のほうだけうなずいている(笑)
輪島 まだ放送が始まってから2週間ですが、基本的にはとても楽しんでいます。が、僕が観ると、作劇上の演出のためにちょっと不自然になっているかなと思うところがあって。笠置シヅ子をモデルとした主人公の鈴子を育てたのは、銭湯を営む夫婦。少女時代の鈴子がお風呂屋さんのお客の前で歌っていましたね。
 それ自体はメチャクチャ重要なところです。お風呂屋さんでみんなが喉を競う、芸を競うというのは、史実どおりなのですが、問題は彼女が歌っていた曲。「恋はやさし 野辺の花よ」という歌を歌っているのですが、あれは、オペレッタを元ネタにして浅草オペラで演じられて知られるようになった曲です。それが当時の大阪の庶民の娘さんの耳にどれだけ入っていたのだろうかと思うのです。むしろ、少女時代のシヅ子は、浪花節とか音頭とか、そういったものを歌っていたに違いないと、僕は思うのです。
 絶対に、笠置シヅ子さんはそういうものが大好きだったと、僕も思います。義太夫節も落語も。
輪島 そうですね、春団治が大好きだったそうですから。
 そうなのですね。二代目か三代目かな、もしかして初代かも。
輪島 『昭和ブギウギ』にもちょっと書いたのですが、笠置シヅ子は節劇にも出ていたんです。節劇というのは、浪花節を、歌舞伎で言う長唄のように使うお芝居のことです。シヅ子は少女時代、節劇の子役として、旅回りの一座の助っ人として出演したことがあります。旅芝居というのは、当時普通にあった形態です。旅することと、全国を巡礼する、遍歴するというのは、ある種の宗教的なものとの関わりがありますね。
 「恋はやさし」のいかにも西洋的な美しい旋律を、現代のわれわれは何となく「ああ、いい曲だな」と感じたとしても、大正時代にそう感じる感受性がすでにあったのかなというと、いや、そんなことはないのではないかなという気がするのです。そこはぜひ、「紺屋高尾こうやたかお」か何かをやってほしかった。でも、それだと多分、話がうまく繋がらないんでしょうね。そのあとスズ子は宝塚(ドラマでは「花咲歌劇団」)を受けるわけですから。
 当時の少女が、果たして浅草オペラを心地よく感じたかどうかということを考えるとおもしろいですね。どちらかというと、浪花節みたいなうなり声、クリアな一音ではなくて、ガサガサした音、境界がぼやけたようなあの音を心地よいと感じていたのではないでしょうか。

■ところ変われば歌も変わる

 前近代の発声方法は、みんな浪花節みたいなものだったわけです。近代になって西洋音楽が入ってきて、聞き慣れるにつれいまの声楽的な発声方法が美しいと感じるようになりますが、もともと前近代の発声方法を聞き慣れている人は、むしろ少しうなるような音こそ心地よいと思っていたのではないでしょうか。
輪島 楽器の音もそうですね、三味線のさわりとか。きれいな音、純粋な音という観念自体、相当西洋的、キリスト教的なものに由来しています。
 ピアノをピンピンピンと鳴らして、「はい、声でこの音を出して」といったら、けっこうみんなその音を出せるのですが、三味線で「はい、この音を出して」というとなかなか出せない。多分、三味線の音は幅があるからだと思うのです。パンとピンポイントで音を出すのが難しい。
輪島 三味線は倍音がすごく豊かですからね。音程の感覚が厳密ではないということでしょう。
 その倍音です。前近代の日本の音楽のベースは、声明しょうみょうの理論でできています。声明とは仏教音楽なんですが、十二律という音律、五声という音階、そして三曲という曲調などでできていて、読経もこれで行います。
 たとえばヨーロッパだと、キリスト教の教会は、聖歌がきれいに反響するような石造りのドーム型になっています。西洋の発声法は、そうした環境で発達したそうです。一方、日本の住環境は、漆喰の壁に板張りの床、畳にふすまといった反響するものが弱い構造になっています。ですから、自然と体を振動させて倍音が出るような発声方法がだんだん発達していく。そういう、建物と声の関係もあるのではないでしょうか。
輪島 当然、あるでしょうね。本当にいろいろな要因があると思うので、一対一で短絡的に結びつけることはできませんが、体感としてはありますよね。西洋式のホールだと、日本の伝統的な楽器や発声の多くはノイズに近いものになって、美しい、心地よい音として響かせるのが難しい。
 日本ではありませんが、たとえばモンゴルのホーミーも草原で声を届かせるものですし、アフリカの太鼓言葉もそういうものです。仲間にメッセージを伝えるとか、ある社会に代々受け継がれるような物語を記録する手段でもあるわけです。
 できるだけ遠くに届かせるために、楽器や発声法に、環境や風土、気候も関係しているのでしょうか。
輪島 そうでしょうね。それだけでは説明できないけれど、そこを考慮しないのは、あり得ないと思います。

■芸能のコアには宗教性がある

 モンゴルとチベットの一部だけで行われているお経の読み方があるんですよ。「倍音声明ばいおんしょうみょう」というのです。ホーミーみたいに倍音を出しながらお経を読んでいるうちに、読んでいる本人が瞑想状態になるのです。これは、どういうわけか、インドにも中国にも日本にもないんですよ。そこだけで発達して、それ以上は広がっていないのです。不思議です。
輪島 読んでいる人がトランス状態になるんですか?
 そうなのです。読経がそのまま瞑想法になっているという修行方法です。
輪島 憑依といえば、僕は大阪の音曲についての本を書きましたけれども、音楽観、というかもっといえば僕の人生観は、ブラジルのバイーアという町のカーニバルを中心とした文化の影響をものすごく受けているんです。そこでは、カンドンブレーという西アフリカ系の憑依儀礼が、ものすごく重要な、現地のポピュラー文化のインスピレーションのもとになっています。
 本当は、そういうものを一番最初に研究したかったのですが、いろいろと紆余曲折がありまして。ちょっと自分の足元を見ようと思って日本のことを研究している間に、ハマっていったんです。大阪で職を得たら、ブラジル音楽関係の尊敬する大阪在住の友人に、「大阪はバイーアだ」と言われて、そうに違いないと感じました。
 バイーアでは、カトリックとアフリカ系の宗教と文化が混交した、いわゆるシンクレティズム( syncretism) が独特の形を取っていて。毎日違う教会に行っても1年もつという、「トレゼンタス・イ・セセンタ・イ・シンコ・イグレージャース」(365 Igrejas)。すなわち「365教会」という歌があるくらいです。
 で、それぞれ大きな教会ではそこに関する聖人のお祝いがある。そこでは世俗的な音楽も含めて、必ずバンドが出るのです。ずっと、そういうものは日本にはないだろうと思っていたのですが、お寺が果たしている役割と寄席の芸との結びつきといったことを、これから本気で考えていくことができそうな気がしています。僕はいろいろな事情で宗教と距離をとっていたところがあって、仏教的な文化については全く知識がないので、釈先生とお近づきになれたのを機会に、これから勉強させていただきたいと思っています。
 そうですか。何でも聞いてください。
 海外のカーニバルにしても、日本のお祭にしても、重層的な構造になっていて、その一番コアの部分には宗教性があると思うのです。その回りを宗教性から派生したカーニバル的なというか、娯楽的なものが取り巻いているわけです。
 そして、娯楽的なものはコアの宗教性に関わっている人たちが担っています。教会のメンバーや神社の氏子さんなどです。その外側を、あまり宗教性に関係なく、観客として純粋に楽しみに来ている人たちが取り巻いている。もっと外側は、通りすがりの旅行者かもしれないし、ただ騒ぎに来ているだけの人かもしれない。そういう何層かに、きっとなっているのです。
 しかし、真ん中のコアが駄目になると、多分、もたない。宗教性が機能しているからこそ持続可能性が高まるのです。パッと見ただけでは、ほとんど娯楽にしか見えないものも、コアの宗教性がある程度担保されているからこそ持続しているのだと思います。コアの宗教性が何もないイベントは、あまり長くもたない。御堂筋パレードとか、あまり続きませんでしたよね。僕の記憶が不確かなので、合っているかどうかわかりませんし、いろんな事情があったのでしょうが。
 たとえば、お能はものすごく自身の宗教性に自覚的な芸能です。だからこそ、世界最古の現役舞台芸能になりえたのです。自分の宗教性を手放さないからこそ、続いてきたのだと思います。だって、大きな声では言えませんが、お能って観ていてもたいしておもしろくないでしょう? 現代人がおもしろくないだけではなくて、中世の人も、「退屈だ、退屈だ」と言っているくらいおもしろくないのです。でも、続く。それは、宗教性を手放さないからだと思うのです。
輪島 おもしろくなったら、残らないんですかね? おもしろくなったら、宗教から離れていくのかな。
 分断はするかもしれないですが、山が高いほど、裾野は広がるというようなところがあります。すごく強い宗教性は、ものすごく世俗的なものを生み出すのです。
輪島 それもすごくわかります。

■聖地と悪所は隣り合わせ

 世界中どこでもそうですが、強い聖地ほど、周辺はメチャクチャ観光地化して、メチャクチャ世俗的なムードで宗教性は皆無といった感じになりやすい。聖地の宗教性が強ければ強いほど、周辺の世俗がひどくなるのは、ある種のバランスのような気がします。
輪島 おもしろいですね。コアに宗教性があって、その周辺に何層にもなっていくのか。それとも、タマネギみたいに、むいていって何かあるかと思ったら……
 何もないというパターンもあると思います。
輪島 不信心者の私は、ついそういう可能性を考えてしまいます。
谷九というか、生玉さん、生國魂神社いくくにたまじんじゃのそばの長屋で生まれ育った服部良一はどうだったんだろう。
 服部さんは生玉小学校出身だそうですね。近くの千日前は、大阪屈指の悪所です。悪所はだいたい繁華街にあって、芸能の場になるのです。そこに人が住まないからです。
 千日前はかつて刑場と隣接していて大きな墓地がありました。ちょっと低地になっていて、もうちょっと南に下がると四天王寺があって、荒陵(あらはか)と呼ばれる地域でした。四天王寺の山号って、荒陵山なんですよ。その後繁華街になって、身近に芸能があるところに生まれ育ったのですね、服部良一さんは。
輪島 いまでも生玉さんの回りにはお寺がすごくいっぱいあるけれど、ラブホテルもいっぱいあって。
 あれは何なのでしょうかね、本当に。入口が隣同士のところもあって、びっくりしますよ。お寺に入ろうと思って、間違えてラブホテルに入る人がいると思うのです。お寺さんの中に墓地もたくさんあるし、生と死のカオスみたいな感じがすごくおもしろいですね。
輪島 その辺りも、本当にバイーアなのです。植民地時代に建てられた古い教会があって、それを中心に広場ができて、前の坂道を下りていくと、奴隷市場や処刑場といった植民地主義の暴力的な遺産があります。そういうところを拠点に、反人種主義運動とカーニバルでの演奏を同時にやる団体があります。僕は修士論文でそれを書きました。
 おもしろいですね。そうだったのですね。
輪島 いまでもバイ―アは大好きなのですが、自分がどういう立場でそれを書くのかということを本気で考えだすと、なかなか難しいとところもあります。さっき言った教会のすぐ裏手が、いわゆる売春のエリアになっています。浅草寺もそうですが。
 浅草寺の裏は吉原ですもんね。宗教ツーリズムは、そういうものがセットになりがちですね。
輪島 お伊勢参りなんかも、そういう側面を多分に持っていたのではないかという気もしますね。
 世俗的なものには、聖なるものに取り込まれずに、日常に戻る装置としての役割があります。
 さっきトランスの話をしましたが、たとえば、古代のシャーマニズムでは、木と木をコンコンコンと合わせたり、太鼓でトントントンと単調なリズムをえんえんと刻みます。それを聞いていると、人間はトランス状態に入って、精神が変になってきます。変性意識といいますか、ふだんは抑えてこまれていた別の人格が立ち上がって、憑依などができるのですが、そこからまた戻ってこなければいけない。聖なるところに行きっぱなしになってしまわないように世俗の装置みたいなものが必要なのです。そこに芸能も深く関わっていると思います。だから、法要のあとに芸能を奉納するというのには、意味があるんですね。


後編に続きます

※この対談は『昭和ブギウギ 笠置シヅ子と服部良一のリズム音曲』(NHK出版新書)の刊行を祈念して、2023年10月15日にジュンク堂書店大阪本店で行われたトークイベントのもようを再構成したものです。

【プロフィール】
輪島裕介(わじま・ゆうすけ)
大阪大学大学院人文学研究科音楽学研究室教授。1974年石川県生まれ。専門はポピュラー音楽研究、近現代音曲史、アフロ・ブラジル音楽研究、非西洋地域における音楽の近代化・西洋化に関する批判的研究。著書に『踊る昭和歌謡 リズムからみる大衆音楽史』(NHK出版新書)など。『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』(光文社新書)で第33回サントリー学芸賞、国際ポピュラー音楽学会賞を受賞。音楽史観の90度転回を目指し、危険思想を愉快に語る音楽学者。

釈撤宗(しゃく・てっしゅう)
相愛大学学長。浄土真宗本願寺派如来寺住職、宗教学者、NPO法人リライフ代表。1961年大阪府生まれ。専門は宗教思想。著書に『天才 富永仲基 独創の町人学者』(新潮新書)、『歎異抄 救いのことば』(文春新書)、『お経で読む仏教』(NHK出版 学びのきほん)など。『落語に花咲く仏教 宗教と芸能は共振する』(朝日選書)で第5回河合隼雄学芸賞を受賞。認知症の人たちが暮らすグループホーム「むつみ庵」や、さまざまな学びと交流の場「練心庵」を主宰するなど、実践を重んじ自由に仏法を語るメンターとして注目を集める僧侶。

【関連書籍】
『落語に花咲く仏教 宗教と芸能は共振する』
(朝日選書)
「寿限無」などおなじみの古典落語に込められた意味から説き起こし、浪曲や音曲漫才など大衆芸能への愛と、深く多様な比較宗教学的視点が絶妙にクロスオーバーする快作。『昭和ブギウギ』で書かれた芸能にも言及があり合わせて読むとさらに日本のアートへの理解が深まります。第5回河合隼雄学芸賞受賞作。

『昭和ブギウギ 笠置シヅ子と服部良一のリズム音曲』(NHK出版新書)
音楽史を塗り変えたコンビがどれだけすごいのか!
ポピュラー音楽史研究の第一人者が、直筆の楽譜草稿ほか、親族が保管する貴重資料も渉猟し、笠置・服部コンビが近代芸能史に遺した業績を書き尽くしました。レコード・セールス中心の音楽批評通念に異議を申し立てる意欲作。

★11月17日(金)20時~
輪島裕介さんのオンラインイベントが開催されます。
『昭和ブギウギ』ホンマによういわん話@三省堂書店「めくる塾」

「読者参加型ラジオ」がコンセプト。本には書ききれなかった裏話や服部良一が遺した楽譜の草稿を見ながら作曲の過程を推理するなど「ブギウギ」ファンのみなさんと楽しく「ブギウギ」の世界を深掘りします!
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