教育大国スウェーデンで生まれた楽しく学ぶ人類史『こどもサピエンス史』の著者に会いに行く~久山葉子
翻訳者の久山葉子さん(スウェーデン在住)が、『こどもサピエンス史』の著者、ベングト=エリック・エングホルム氏の別荘を訪ね、できあがったばかりの日本語版を届けました。そのときの様子を久山さんに伝えていただきます。著者が翻訳者に語った、この本で伝えたかったことは……?
※ヘッダー写真提供:Mon B&B Haverö(Twitter @BHavero)
生まれ育った湖畔に建つ赤い小屋
美しい夏の週末に『こどもサピエンス史』の著者であるベングト=エリック・エングホルム氏の別荘を訪ねた。
広大な西ノルランド地方の森に現れる大きな湖、その湖畔にある赤い小屋がエングホルムさんの別荘だ。輝く水面、そして対岸の森の景色を臨む庭のテーブルに案内していただいて、お話を伺った。別荘といっても、もとはエングホルム氏の実家。おとなになってからは首都ストックホルムに住んでいるものの、こよなく愛する実家とこの景色に包まれたくて、今でも年に何度も別荘に長期滞在している。
このエリアがかつて林業で栄えた当時は、森から材木を切り出して川に流し、沿岸部にある大きな街まで運んでいた。エングホルム氏の祖父や親戚は、川を利用した木材流通の中継センターだったこの湖で現場監督として働いていた。
木材の流送が盛んだった頃の湖畔の風景画
写真提供:久山葉子(以下すべて)
トラック輸送が主流になり、1969年にこの湖での材木流送事業は終わりを告げた。使われなくなった湖岸の小屋をそのときにエングホルム氏の父親が買い取り、家族で住むように。それ以来、ここがエングホルム氏の故郷だ。
エングホルム氏、湖畔の庭のテーブルで
こどもたちに楽しく学べる作品を
エングホルム氏はこれまでに数多くのノンフィクション絵本を執筆している。『鼻水』『しらみ』『血』『歯』『骸骨』『コウモリ』など、身近なのにちょっと気味悪くて、実はよく知らない存在をテーマに、ユーモラスなイラストを楽しみながら意外な事実を知ることができる作品群だ。
エングホルム氏のこれまでの著作の数々
とはいっても、エングホルム氏は鼻水やしらみの専門家というわけではない。日常において自分が不思議に思ったこと、もっと知りたいと思ったことをつきつめてしまう性格で、いつの間にか本を書けるくらい詳しくなってしまうという。「何歳になっても好奇心が大切」をモットーに、日々次の作品のテーマを探している。今はカラスについての絵本を執筆中だというエングホルム氏。わたしの13歳の娘が「英語ではカラスの群を“Murder(殺人) of crows”って言うんだよ」と口を挟むと、すぐにポケットから小さなノートを取り出して、メモを取っていた姿が印象的だった。
こどもたちが笑いながら夢中になって読める語り口には定評がある。エングホルム氏は作家活動と並行して、積極的に〝作家の学校訪問〟を引き受けている。小学校のクラスを訪ね、著書を通じて読書の楽しさや、好奇心をもつこと、ときにはクリエイティブ・ライティングのヒントも与える。1年に何十回も学校訪問を重ね、こどもたちから直接質問をもらい、一緒に話し合うという。こどもたちと直接触れ合うことで、どういうネタでこどもたちが笑うのか、どういう説明の仕方をすれば熱心に話を聴いてもらえるのかもわかるようになった。そんなエングホルム氏の作品はユーモアたっぷり、そして直接語りかけてくるような口調で、普段本を読み慣れていないこどもたちも夢中になること間違いなしだ。
エングホルム氏と久山さん
『こどもサピエンス史』で伝えたかったこと
今回NHK出版から邦訳が刊行された『こどもサピエンス史』は内容の面白さと深さ、そしてスウェーデンを代表する絵本画家ヨンナ・ビョルンシェーナのユーモラスで可愛らしいイラストとあって、スウェーデンでは異例の売り上げを誇っている。世界じゅうのおとなが読んだユヴァル・ノア・ハラリ氏の『サピエンス全史』からインスピレーションを得て、エングホルム氏がこどもたちにも知ってほしいポイントを楽しく語り聞かせてくれる。その中でも印象的なのは、普段からスウェーデンで大切にされている価値観、〝人は全員、同じ価値がある〟〝自然を大切にする〟といった点が強調されていることだ。これはスウェーデンのこどもたちが学校でしっかり教わる価値観でもあり、この本を通じて日本や他の国のこどもたちにもぜひ知ってほしい考え方だ。
エングホルム氏は本書を楽しく学べる本としてだけではなく、これまでの人類の歴史を提示した上で、子どもたち自身に考えてもらいたい「問題提起」をあえて盛りこんだという。テクノロジーはこれだけ発達したのに、戦争やいさかいがなくなることはない現代社会。環境破壊も続いている。ホモ・サピエンス(賢い人、の意)としてどう生きていきたいのか、それをこどもたちに問う本でもある。
エングホルム氏が頻繁に学校訪問する先は、首都郊外の移民・難民の多いエリアの小学校も含まれている。生徒の多くが外国のバックグラウンドをもつこどもたち。多様性を大切にし、皆で共存する社会をつくるのは現在進行形の努力であり挑戦だ。学校では〝人は全員、同じ価値がある〟と教える一方で、ヨーロッパ諸国の例に洩れずスウェーデンでも右寄りの政党が議席を伸ばしてきたという現実がある。
そんな現実を鑑みて、エングホルム氏はこう言う。「アフリカからヨーロッパやアジアに出ていったのはたったの40人程度だったという学者もいる。ぼくたちはみんな親戚なのかもしれないよ?」
『こどもサピエンス史』を読んで育ったこどもたちがおとなになる頃には、争いや人種差別のない時代が訪れることを願ってやまない。その気持ちは著者であるエングホルム氏も、翻訳者であるわたしも同じだ。
著者プロフィール
ベングト=エリック・エングホルム
1959年生まれ。作家。おもに子ども向けの科学書を執筆。『コウモリ』、『鼻水』、『血』、『歯』、『シラミ』(いずれも未邦訳)など。スウェーデンの「子どもが選んだ本大賞」も受賞している。イラストレーターのヨンナ・ビョルンシェーナとの共同執筆は本書で3冊めとなる。
訳者プロフィール
久山葉子(くやま・ようこ)
翻訳家。エッセイスト。理想の子育て環境を求めて、2010年に家族でスウェーデンに移住。現在(2021年)小学6年生になった娘を通じてスウェーデンの保育園や小学校の教育を体験。2011年から高校で第二外国語としての日本語を教え、スウェーデンの教育現場の現状を様々なメディアで紹介している。ストックホルム大学で高校教員免許を取得中。おもな翻訳書にアンデシュ・ハンセン『スマホ脳』(新潮新書)、トーベ・ヤンソン『メッセージ』(フィルムアート社)、レイフ・GW・ペーション『許されざる者』(創元推理文庫)、著書に『スウェーデンの保育園に待機児童はいない』(東京創元社)などがある。