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感動と共感の波がいまなお広がり続け、胸を打つ――国境や文化の壁を越えて讃えられた医師・中村哲さんの遺した言葉と人としての在り方とは

 昨年12月、アフガニスタンで銃撃を受けて亡くなった中村哲さん。医師として訪れたアフガニスタンで深刻な旱魃に苦しむ現地の人々の暮らしを目の当たりにした中村さんは、「水があれば多くの病気と帰還難民問題を解決できる」と思い至って1600本もの井戸を掘り、25kmにもおよぶ用水路を拓くなどの灌漑活動を続けてきた。長年の活動が認められ、アフガニスタンの国家勲章や名誉市民権が授与されて功績が讃えられた一方、現地の人々からは「カカ・ムラド(ナカムラのおじさん)」と呼ばれて親しまれていた。
 先日、2月29日(土)に放送された「世界一受けたい授業」(日本テレビ系列)でも特集されて反響を呼んだように、中村さんが遺した数々の言葉や人としての在り方は、古今東西を問わずこれからの社会を生きていく現代人にとってとても重要な意味を持ち、いまなお私たちの心をとらえて離しません。中村さんが見てきた世界はどのようなものだったのか? 何を思って、どのようにあろうとしていたのか? 当記事は中村さんにとって唯一の自伝である『天、共に在り アフガニスタン三十年の闘い』より、その一部を抜粋してご紹介するものです。

報復戦争の結末

 人はあらぬ事態に遭遇して、大きな決断を迫られることがある。2011年7月に始まった外国軍撤退=治安権限委譲の過程で、アフガンはひとつの転機を迎えつつある。十数万の兵力で泥沼化した戦は、歯切れの悪い幕を閉じようとしている。転換期の混乱の真っただ中、薄氷を踏む思いで、現地事業は進められている。だが、同年7月17日に起きた事件は、さすがに心胆を寒からしめた。
 その朝は、ダラエヌール渓谷下流の村から来る職員や作業員がほとんどいなかった。村民数千名、婦女子や老人が近隣の村々やジャララバードに退避し、村の成人男子だけが固唾をのんで派手な戦況を見守っていたのだ。黒煙が村の中心から立ち上り、米軍がものものしく同村を包囲していた。道路が閉鎖されて近づけなかった。
 夕刻までに連絡がとれ始め、次々と報が入ってきた。約30キロメートル離れた米軍基地から発射されたロケット弾が村の学校を粉砕し、多くの武装勢力メンバーが死亡、村民の一部も巻き込まれたらしい。米兵は多数、ヘリコプターも出動していた。みな家族の安否を確めながら、作業は継続されていたものの、怪情報が入り乱れ、現場は異様な興奮に包まれていた。その夜は、先のことを考え、眠れなかった。暗闇は不安を膨張させる。軽率な判断と衝動を戒めながら、まんじりともせず夜明けを待った。
 現地事業が瀬戸際に立っていると思われた。村民たちの蜂起が起きれば、PMS(平和医療団・日本)の全面撤退に発展する事態も予想されたからである。一種の終末を覚悟した。見苦しい最期は遂げたくないものだ。蜂起を黙認してみすみす犠牲を出すのか、後始末はどうするか、日本側への説明、職員たちの処遇、そして何よりもやりかけた事業はどうなるか、次々と暗い想像が湧き出した。
 翌18日、少しずつ正確な報が届き始めた。破壊されたのは学校だけで、死亡者は27名、門衛1名以外は全て武装グループのメンバーであった。過ぎる2008年、ワーカーの伊藤を誘拐したグループである。首謀者の死体も確認された。この一団は、地域に威を張る軍閥と深い関係にあり、外国の道路会社が護衛として組織したのが始まりだった。その後、軍閥の手足となり、脅迫や暗殺を繰り返す集団と化し、厄介な存在になっていた。反政府勢力も、彼らとは直接事を構えず、混乱していた節がある(地域によっては、資金源が他ならぬ外国軍の場合もあった)。
 一味は、7月16日、日没を待ち、PMSの用水路が貫くシェイワ郡で、郡長・警察の詰所を襲撃、ガンベリ沙漠下流にまで展開して勢力を誇示した。事件を起こした直後、ダラエヌール渓谷のブディアライ村に集結、村民に食事を要求し、学校に宿泊した。その時点で、村民たちは老人や婦女子を退避させ始めていた。米軍の攻撃は、寝こみを襲って翌17日の午前3時に始まった。通報したのは村民である。
 剣で立つ者は剣で倒される。これによって軍閥の勢力が削がれ、地域に安堵感が広がった。だが元をただせば、このような物騒な勢力をカネと武器で育てたのが外国軍だ。この10年をつぶさに見てきた人々は、壊滅された一団に、同情と敵意ないまぜの、複雑な思いを抱いた。
 死者の中に、懇意にしていた少年がいた。空爆が開始された当時10歳で、バザールでパンク修理店の手伝いをしていた。聡明で気立ての良い働き者だったが、長じてからは肉親の仇討ちと、持ち前の正義感から、外国兵襲撃を盛んに行っていた。少年に対する地元の同情は深く、多くの人々が葬儀の列に加わった。これがアフガン空爆10年後の、やり切れぬ結末であった。知れば知るほど無情、もはや「アフガン情勢」を語るどんな論評も虚ろであった。「欧米軍対タリバン」という図式は消え、銘々がカネや復讐や政治的意図で暴力集団に参加したり、逆に反発したりして、戦っているだけであった。まっとうな感性を持つ者なら、こんな混乱に嫌気がさし、政治に期待しなくなっていた。ほとんどの農民たちの願いは、ただ三度の食事と、故郷の平和だけであった。
 ──かくて僅か一日の迷いを清算し、本来の仕事に戻る時であった。暗い事件が夢だったかのように、PMSの灌漑事業は、営々と続けられていた。摂氏50度を超える炎天下の沙漠で、濁流の渦巻く大河川で、自然の猛威に立ち向かう400名の姿がある。生活は苦しく、砂嵐、渇水、洪水に悩まされても、何かしら希望をもって働けるのだ。それが何なのか適切な言葉を持たないが、自分たちの仕事が肉親や故郷を支えているという確信、はつらつとした心意気がある。
 人は食べるためだけに生きているのではない。現在手掛けようとしているカシコートやベスード郡の取水口が全て完成すると、ジャララバード北部穀倉地帯が復活し、おびただしい農民の生活を守ることになる。彼らはそのことを知っていて、励みにしている。

写真=ペシャワール会・PMS

※ペシャワール会について
中村医師とPMS(平和医療団・日本)の現地活動を支援する目的で結成されたのがペシャワール会です。福岡市に事務局を置いて会報の発行など、広報・募金活動を行っています。お問い合わせは、下記の事務局宛にお願いします。年会費は、学生会員一口千円以上、一般会員一口三千円以上、維持会員一口一万円以上。
《事務局》
〒810-0003 福岡県福岡市中央区春吉1-16-8 ベガ天神南601号
電話:092-731-2372/FAX:092-731-2373
入会手続きは年会費を郵便振替でお送りください。
口座名義=ペシャワール会
郵便振替番号=01790-7-6559
ペシャワール会HPはこちら

プロフィール

中村 哲(なかむら・てつ)
1946年生まれ、福岡県出身。医師・PMS(平和医療団・日本)総院長。九州大学医学部卒業。日本国内の診療所勤務を経て、84年にパキスタンのペシャワールに赴任。以来、ハンセン病を中心とした貧困層の診療に携わる。86年よりアフガニスタン難民のための医療チームを結成し、山岳無医地帯に3つの診療所を開設し、98年には基地病院PMSを設立。2000年からは診療活動と同時に、大旱魃に見舞われたアフガニスタン国内の水源確保のために井戸掘削とカレーズ(地下水路)の復旧を行う。03年より09年にかけて全長25kmにおよぶ灌漑用水路を建設。マグサイサイ賞「平和と国際理解部門」、福岡アジア文化大賞など受賞多数。著書に『ペシャワールにて』『医は国境を越えて』『医者 井戸を掘る』『医者、用水路を拓く』(以上、石風社)など。