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哲学者、日本語の謎に挑む 日本語と論理

飯田 隆(慶應義塾大学名誉教授)

しばしば日本語は論理的な言語ではないと言われるが、果たして本当か。長きにわたり、言語と論理にかかわる問題と向き合ってきた哲学者が、「徹底的」に考えてみた。
*本記事は、NHK出版新書、飯田隆『日本語と論理 哲学者、その謎に挑む』より一部を抜粋したものです。

「三人のこども」は、何人のこどもを指すのか

 次のような文があるとする。

 (1) 三人のこどもが笑った。

 この文が正しく実際の事態を報告しているとみなされるときとは、どんなときだろうか。どんな条件が満たされていれば、事態は、この文が報告している通りだとされるだろうか。
 まず思いつくのは、「三人」、「こども」、「笑った」という三つの条件を満足するものがあれば、(1) は成り立ち、その逆に、(1) が成り立つときには、この三つの条件を満足するものがあるということだろう。
 たしかに(1) が成り立つとき、三つの条件は満たされている。しかし、三つの条件が満たされていれば、(1) が成り立つ、別の言い方では、真であると言えるだろうか。さっちゃん、みっちゃん、まあちゃんという三人のこどもが笑ったとしよう。そうすると、「三人」、「こども」、「笑った」という三つの条件を満たすものがあることはたしかである。「もの」と呼ぶのは適切ではないとしても、さっちゃんとみっちゃんとまあちゃんの三人が、これである。
 いま、さっちゃん、みっちゃん、まあちゃんに加えて、しーちゃんもまた笑ったとしよう。この状況でも、「三人」、「こども」、「笑った」の三つの条件を満たすものが存在する。もちろん、さっちゃん、みっちゃん、まあちゃんの三人がそうであるだけでなく、さっちゃん、みっちゃん、しーちゃんの三人でも、あるいは、みっちゃん、まあちゃん、しーちゃんの三人でもよい。
 つまり、三つの条件を満たすものがあるということが、(1) が真であることの条件であるならば、それは、

 (2) 三人以上のこどもが笑った。

 という文が真となるための条件と、まったく同じということになってしまう。
 しかし、(1) が言うことは、(2) が言うことと同じではなく、

 (3) ちょうど三人のこどもが笑った。

 が言うことと同じではないだろうか。
 (1) では「三人のこども」と言われているだけであって、(2) のように「三人以上の」と言われているわけでもなければ、(3) のように「ちょうど三人の」と言われているわけでもない。よって、(1) の「三人の」の解釈として、(2) が正しいのか、それとも正しいのは(3) の方なのかという問いが出てくる。たぶん多くのひとは、(1) の「三人の」は「三人以上の」という意味ではなく、「ちょうど三人の」という意味だと考えるだろう。ところが、不思議に思われるだろうが、少し前まで、この問題を扱った言語学者や言語哲学者のあいだでの支配的な見解は、(1) に現れる「三人の」は、「ちょうど三人の」ではなく、「三人以上の」と同じ意味をもつというものであった。そうした見解の背後にある議論は、「三人」のような日本語の数量名詞ではなく、もっぱら「three」のような英語の数詞を含む文についてのものだが、提出された議論や見解のほとんどすべてが、日本語に関しても成り立つ。たぶん、他の多くの言語についても同じような議論が可能だろう。
 「三人のこども」が、本来、三人以上のこどもを意味すると考えられた理由は、実際、そうした例があるということにある。たとえば、次のやり取り

 A: 三人のこどもに来てほしい。
 B: 三人のこどもなら隣の部屋にいる。

 で、隣の部屋にいるこどもが三人以上だっとしても、B の発言はまちがいとはされない。よって、B の発言中の「三人のこども」は、三人以上のこどもを意味するのでなくてはならない。
 同様の例として、

 (4) 三人のこどもがいる人は、控除が受けられる。

 が挙げられる。(4) の「三人のこども」は、ちょうど三人のこどもという意味だろうか。三人よりも多くのこどもがいる人は、控除を受けられないということが、(4) から出てくるだろうか。たぶん、そう考えないひとは多いだろう。よって、(4) の「三人のこども」は、三人以上のこどもを意味する。
 だが、こうした例とちがって、(1) のような簡単な文についても、「三人のこども」が、三人以上のこどもを指すと言うのはおかしくないだろうか。(1)を言うひとも、それを聞くひとも、そこでの「三人のこども」は、三人以上のこどもではなく、ちょうど三人のこどもの意味だと考えるのではないだろうか。
 この当然の疑問に対しては、次のように答えられた。たしかに、(1) の発言によって、ちょうど三人のこどもが笑ったことを伝えることができる。だが、このことは、「三人のこども」という表現の意味によって説明されるのではない。文字通りの意味で理解するならば、(1) が言うことは、少なくとも三人、つまり、三人以上のこどもが笑ったということである。だが、言葉のやり取りの際に守られる一般的な規則によって、(1) を聞いたひとは、それによって、ちょうど三人のこどもが笑ったことが正しいと知るのである。
 もう少し詳しく言えば、こうなる。言葉のやり取りにおいて、ひとは、特別の理由がない限り、自分のもっている情報を過不足なく伝えようとするということが、話し手と聞き手のあいだで了解されている。(1) の発言を聞くひとは、そこで次のように考える。 「笑ったこどもが三人よりも多いということを相手が知っているならば、(1) としか言わないのは、自分のもっている情報をわざわざ隠していることになる。しかし、相手がそうしたことをする理由は、この場合考えられない。したがって、三人より多くのこどもが笑ったとは言っていないのだから、笑ったこどもは三人ちょうどだろう。」

「三人のこども」はやはり、ちょうど三人のこどもを指すのではないか

 (1) で「三人のこども」が、ちょうど三人のこどもを意味するようにみえるのは、言葉の純粋な意味によって言えることではなく、言葉によるコミュニケーションの際に守られる一般的な考慮のせいだという、こうした見解は、長いこと、標準的見解であった。だが、この見解は、最近十年あまりのあいだに、さまざまな批判にさらされてきた。
 いちばん問題なのは、「三人」が、「少なくとも三人」でも「ちょうど三人」でもなく、「多くとも三人」を意味する場合があることである。典型的な例は、

 (5) 三個のケーキを食べてよい。

 のような文である。親に、(5) と言われて、「三個のケーキ」は「三個以上のケーキ」を意味するのだから、ケーキを四個食べてもよいと、こどもが考えて、そうしたら、当然叱られるだろう。ここで「三個のケーキ」は、多くとも三個のケーキという意味であることを否定するひとはいないだろう。
 「三人のこども」は、ちょうど三人のこどもを意味するという人は、(5) の「三個」が「多くとも三個」を意味することを、言葉の字義通りの意味ではなく、言葉が実際に使われる際の考慮によって説明する。つまり、(5) が許すことは、文字通りの意味では、ちょうど三個のケーキを食べるということである。しかし、ある要求――三個のケーキを食べるという要求――が許可されるならば、その要求よりも少ない要求――三個よりも少ないケーキを食べるという要求――は当然許可される。よって、(5) に現れている「三個」は、字義通りには「ちょうど三個」だとしても、(5) が言うことは、三個以下のケーキを食べてよいと理解するのである。
 他方、三人のどもがいる人は控除が受けられるという(4) で、「三人」は字義通りには「ちょうど三人」を意味するが、「三人以上」の意味だと理解されることについては、次のような説明が可能だとされる。――字義通りに(4) が意味することは、ちょうど三人のこどもがいる人は控除が受けられるということである。われわれのような社会では、こどもが多い人ほど、こどもが少ない人よりも、国からの援助が必要だと考えられている。よって、(4) の発言を聞くひとは、ちょうど三人のこどもが控除が受けられるのならば、控除の必要がそれよりも高い人、つまり、三人よりも多いこどもをもつ人も当然、控除を受けられるという具合に推論する。よって、(4) は、「三人以上のこどもをもつ人は、控除が受けられる」と言っていると理解される。
 この議論は、われわれの社会のあり方についての、ある前提に基づいている。もしも、われわれの社会とちがって、こどもが多ければ働き手も多いから、こどもが少ない人よりも、こどもの多い人の方が、国からの援助の必要度は低いというような社会では、(4) は、反対に、こどもが三人以下の人は控除が受けられるということを意味するものと理解されるだろう。
 いまの例は、「三人」が字義通りには、ちょうど三人を意味していても、「三人以上」の読みが出てくることを説明できた例であるが、そうは行かない例もある。
 ひとつは、先に挙げた、机を運ぶのに三人のこどもが必要だと言われたのに対して、三人のこどもなら隣の部屋にいると答える例である。隣の部屋にこどもが何人いようが、三人以上いるならば、この答えは正しい。よって、ここで「三人」は「三人以上」を意味している。この例についての満足の行く説明は、簡単には見つからない。
 同様に説明のむずかしい場合は、(5) と対になる次の例である。

 (6) 三個のケーキを食べなければならない。

 ここで「三個のケーキ」は、三個以上のケーキを意味するものと理解されるだろう。ケーキを五個食べたひとは、(6) で言われていることに反することをしたわけではない。もしも「三個のケーキ」が、ちょうど三個のケーキを意味するのならば、なぜこうしたことが可能なのだろうか。この説明は不可能ではないかもしれないが、「ちょうど三個」、「三個以上」、「三個以下」と三通りに解釈される事例のすべてを、統一的な仕方で説明することができれば、その方がよいことはたしかである。

数と様相

 「三人のこども」の「三人」が三人を意味することは当然だと思われたのに、それが、三人以上を意味したり、逆に、三人以下を意味したりするというのは、いかにも不思議である。しかも、こうした現象は、日本語に限られたことではない。同じ現象は、多くの言語で共通に現れる。実際、この現象は、英語に関して議論されたのであって、先にも触れたように、ここで紹介している議論は、英語の例についての議論を私が日本語にアレンジしたものにすぎない。日本語においてもこうした現象があることを、英語での議論とは独立にだれか気付いていたひとがいるのかもしれないが、私は知らない。
 このように広範に見られる現象であるにもかかわらず、そこに規則性があることが気付かれたのは、案外最近のことである。どのような規則性であるかを見るのにいちばんよいのは、(5) と(6) を並べて見ることである。

 (5) 三個のケーキを食べてよい。
 (6) 三個のケーキを食べなければならない。

 二つで共通している「三個のケーキを食べる」が、(5) では「……してよい」という文脈の中におかれているのに対して、(6) ではそれは「……しなければならない」という文脈の中におかれている。「……であってよい」と「……でなくてはならない」は、論理学で「義務様相」と呼ばれるオペレータ――一つの文から別の文を作るはたらきをする表現――である。
 ここで、様相について少し解説しておく必要がある。論理学で言う様相とは、可能性・偶然性・必然性といった種類の概念のことである。現在の哲学および論理学で、様相は、「可能世界」というものによって説明されることが多い。
 世界は、現実にそうある仕方とは、さまざまに違った仕方でありうる。そうした現実とは違ったあり方をしている世界全体を、可能世界と考える。世界がありうる仕方は無限に多くあるから、無限に多くの可能世界がある。現実世界もまた可能世界のうちのひとつであるとする。
 可能世界という概念を使えば、何かが必然であるとは、それがどの可能世界でも成り立つことであり、何かが可能であるとは、それがどれかの可能世界で成り立つことであると説明できる。また、何かが偶然であるとは、それがどれかの可能世界で成り立つが、どの可能世界でも成り立つわけではないことである。
 物理的に必然だとか可能だと言ったり、現実的に必然だとか可能だと言ったりするように、必然性や可能性には、種類がある。こうしたさまざまな種類の必然性・可能性を考えるには、可能世界の範囲を制限してやればよい。
 物理的必然・可能の場合には、可能世界の範囲を、現実の物理法則が成り立つ可能世界だけに限定して、そうした限定された可能世界のすべてで成り立つことを物理的必然、そうした可能世界のどれかで成り立つことを物理的可能だとしてやればよい。
 「……でなくてはならない」とか「……であってよい」という義務様相も、可能世界の範囲を制限することによって説明できる。可能世界の中で、そうあるべきこと――そうでなくてはならないこと――がすべて実現しているような世界だけを取り出して、考察の範囲をそうした可能世界に制限するのである。
 そうあるべきことがすべて実現されているなどということは、現実世界ではありえない――現実は、あってはならないことに満ちている――から、現実世界はこうした範囲からは除外される。現実世界が排除されるにもかかわらず、可能世界の範囲を、このように「義務論的に完全な世界」に限定することは、役に立たないわけではない。そうでなければならないこととは、義務論的に完全な世界のすべてで成り立つことであり、そうあってもよいこととは、義務論的に完全な世界のどれかで成り立つことであると説明することができるようになるからである。
 「……でなくてはならない」は、ある範囲のすべての可能世界で成り立つという意味で、ある限定のもとでの必然性であり、「……であってよい」は、同様の限定のもとでの可能性であるとみなすことができる。(5) と(6) を見ると、こうした可能性を表現する文脈で「三個」は「三個以下」、必然性の文脈で「三個以上」という意味になっている。このことに注意したうえで、次の例を見てほしい。

 (7) 車を運転するには十八歳である必要がある。
 (8) 一日二千キロカロリー摂っても太らないでいられる。

 (7) での「十八歳」は、十八歳以上と理解されるが、これは「……である必要がある」という、法律が遵守されているような可能世界のすべてで成り立つという意味で必然性タイプの様相的文脈のなかに現れている。他方、(8) の「二千キロカロリー」は、二千キロカロリー以下と理解されるだろうが、これは、「……であることは栄養学的に可能だ」という可能性タイプの様相的文脈に現れている。「歳」も「キロカロリー」も、必然性型の文脈では「以上」という読みになり、可能性型の文脈では「以下」の読みになるということは、このことが、さまざまな種類の量化で成り立つことを示している。こうした一般化が、さらに、次のような量化にまで及ぼせることは、次の例からわかる。

 (9) 牛乳を半分飲まなければならない。
 (10) 牛乳を半分飲んでもよい。

 結局「三人のこども」は何人のこどもを指すのか
 ここまでの話をまとめると、こうなるだろう。すなわち、「三個のケーキを食べた」のような単純な文では、「三個」は、ちょうど三個を意味する。それに対して、こうした単純な文が、「……でなくてはならない」とか「……である必要がある」といった必然性タイプの文脈に埋め込まれるならば、「三個」は三個以上を意味し、「……であってよい」とか「……でありうる」といった可能性タイプの文脈に埋め込まれるならば、「三個」は三個以下を意味する。
 しかし、先に出てきた

 (4) 三人のこどもがいる人は、控除が受けられる。

 はどうなるのかと聞かれるだろう。この文は、「控除が受けられる」と言うのだから、可能性タイプの文脈を作っているのではないか。それなのに、ここに現れる「三人のこども」が、三人以上のこどもを意味するのはなぜなのだろうか。
 この問いに対しては、(4) は実は多義的で二通りの解釈があると答えることができる。二つの解釈は、次のように述べることができる。

 (4a) 三人のこどもがいることが、控除を受けるのに必要だ。
 (4b) 三人のこどもがいても、控除が受けられる。

 われわれの社会のように、こどもが多いほど、国からの補助が必要とされる社会では、(4) を(4a) のように解釈するだろうし、われわれの社会とはちがって、働き手としてのこどもが少ない方が、国からの補助が必要だと考える社会では、(4b) のように解釈するだろう。(4a) は、控除を受けるために必要な条件を述べているのに対して、(4b) は、控除を受けることが可能な条件――より正確には、控除を受けることを不可能としない条件――について述べている。
 前者は必然性タイプの文脈であり、後者は可能性タイプの文脈である。前者で「三人のこども」は三人以上のこどもを意味し、後者では三人以下のこどもを意味する。これは、まさに、上で述べた通りである。
 あとまだ、「三人のこども」や「三個のケーキ」が、必然性タイプの文脈では「三人以上」や「三個以上」と理解され、可能性タイプの文脈では「三人以下」や「三個以下」と理解される、そのメカニズムがどうなっているのかを説明することが残っている。

 (5) 三個のケーキを食べてよい。
 (6) 三個のケーキを食べなければならない。

 で説明することにしよう。この二つの文には、

 (11) 三個のケーキを食べる。

 という文が、様相的文脈に埋め込まれている。(5) は、可能性タイプ、(6) は必然性タイプの文脈である。埋め込まれた文(11) が正しいための条件は、ちょうど三個のケーキを、たとえば、私が食べるということであるが、これは、「ケーキである」と「私が食べる」という二つの条件を満足する複数のものがあり、そのうちで最大のものは「三個」であるという条件を満足する――三個から成る――ことだと言い換えられる。これはさらに、私が食べるケーキの個数の最大のものは三であると言い換えることができる。
 (11) が必然性タイプの文脈に埋め込まれた(6) の方から考えよう。(6) は二通りの仕方で解釈できる。ひとつは、ここで考慮の対象となる可能世界――義務論的に完全な世界――の各々において、私が食べるケーキの個数の最大のものは三である、つまり、どの可能世界でも、私はちょうど三個のケーキを食べるというものである。もうひとつは、義務論的に完全な可能世界のどれでも私が食べるケーキの数のうちで最大のものは三であるという解釈である。
 このままではわかりにくいにちがいない。記号を使って説明できれば、まだましなのだが、そのための準備もたいへんなので、こうした無理がところどころ出てしまう。できるだけがんばってわかりやすくしてみよう。
 第一の解釈では、私が食べるケーキの個数は、どの可能世界でも三である。それに対して、第二の解釈では、私が食べるケーキの個数は、可能世界によって違っていてよい。ある世界で、それは五個、別の世界では十七個、また別の世界では三個であるかもしれない。私がどの可能世界でもケーキを食べているならば、可能世界のどれにおいても私が食べるケーキの数は、一以上である。もしも私がどの可能世界でも二個のケーキを食べているならば、この数は二以上になる。つまり、可能世界のどれでも私が食べるケーキの数が三であるならば、私はどの世界でも最低三個のケーキを食べていることになる。
 よって、可能世界のすべてを通じて私がある数のケーキを食べるとして、その数のうちで最大のものが三であるということは、私がケーキを五個なり十七個なり食べる可能世界はあっても、そして、ちょうど三個食べる可能世界はあっても、私が二個しかケーキを食べないような可能世界はないことを意味する。ここで考えている可能世界は、義務論的に完全な可能世界であるから、義務がすべて実現されているならば、私はケーキを三個以上は食べているということである。
 同様の説明は、可能性タイプの文脈をもつ(5) にも適用できる。(5) も理論上は二つの解釈が可能である。ひとつは、ちょうど三個のケーキを私が食べる、義務論的に完全な世界が存在するという解釈である。この解釈は、そうした可能世界があるというだけであって、他の世界については、何の制約も与えない。とりわけ、私が食べるケーキの個数に対して何の制約も与えない。私がケーキをまったく食べない世界があっても、逆に百個食べる世界があってもよい。したがって、この解釈が取られることはないだろう。採用されるのは、もうひとつの解釈の方である。これによれば、「ケーキである」と「私が食べる」という二つの条件を満足するものとして、どれかの可能世界でみつかる複数のものの個数の最大のものは三であるという解釈である。この解釈によれば、可能世界のなかには、私がケーキを食べる世界もあれば、食べない世界もあるだろう、しかし、どれかの世界で私がケーキを食べるならば、その個数は三以下でなければならない、なぜならば、そうしたケーキは最大で三個だということを、(5) は述べているからである。

プロフィール

飯田 隆(いいだ・たかし)
1948年北海道生まれ。主に言語と論理にかかわる問題を扱ってきた哲学者。東京大学大学院人文科学研究科博士課程退学。熊本大学、千葉大学、慶應義塾大学、日本大学で教え、科学基礎論学会理事長と日本哲学会会長を務めた。慶應義塾大学名誉教授。著書に『言語哲学大全』Ⅰ-Ⅳ(勁草書房)、『ウィトゲンシュタイン』(講談社)、『規則と意味のパラドックス』『新哲学対話』(筑摩書房)、編著に『ウィトゲンシュタイン以後』(東京大学出版会)、『ウィトゲンシュタイン読本』(法政大学出版局)、『哲学の歴史11――論理・数学・言語』(中央公論新社)など多数。

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