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昆虫と地球上のすべての生きものたちのために、私たちができること――生物学者グールソンはあきらめない

8月末に発売され、各新聞紙上で、養老孟司さん(脳科学者)、鷲谷いづみさん(生態学者)、福岡伸一さん(生物学者)はじめ、多くの方々にご高評いただいた注目の書、『サイレント・アース 昆虫たちの「沈黙の春」』。昆虫をこよなく愛する生物学者である著者デイヴ・グールソン博士のロング・インタビュー、いよいよ最終回です。
最初から読む方はこちらです。
ヘッダー画像:昆虫のホテル-ドイツ(ⒸMickis-Fotowelt /Shutterstock)
取材:早川健治


――若い人たちへの自然教育の大切さ

早川 子どもたちの間では、今あなたがおっしゃったような畏敬の念が広く共有されていると思います。例えば、日本ではセミの鳴き声が夏の到来を告げるものですし、夏休みになると子どもたちはカブトムシを捕まえに行くものです。それに、お祭りの夜に川辺を歩くとき、もしそこにホタルが飛んでいたならば、それはとても幸運なことですし、十代の若者が初めてのデートでホタルに囲まれると、とてもロマンチックなものです。子どもたちには、虫たちに対していわば先天的な尊重の念があるのかもしれません。
 これに関連して、本書の第5部には衝撃的な箇所がありました。子どもたちに比べ、若い学生たちがいかに急速に虫たちへの興味を失うかを示す事例証拠をあなたが紹介する箇所です。例えば、イギリスでは大学入学時にすでに大多数が生態系に関する知識を失っています。また、生態学専攻の学生がアオガラやミソサザイを正しく特定できるかどうか試してみたところ、ほぼ全員ができなかったという例も紹介されていますね。実践的な観点からも、選挙政治や市民農園や自然再生(リワイルド)などあらゆる場面において、私たちの身のまわりの自然環境に関する知識は必要不可欠だと思います。こうした問題について私たちがより自覚的になり、教養を身につけていくための方法などについてお話しいただけますか。

グールソン たしかに、子どもたちには自然界のありとあらゆる場面に魅了される傾向が先天的に備わっているようです。すべての子どもたちが一様にそうであるとは限りませんが、大多数についてこれが言えるでしょう。それでも、ほぼ全員がいずれこうした段階を「卒業」し、大人になってしまいます。自分は昆虫少年時代を卒業できずにここまできたとE・O・ウィルソンが言ったこともありましたし、私や身辺の人たちにも同じことが言えますが、残念ながらほとんどの人たちはそうした時代を卒業してゆきます。
 思うに、問題の根本には馴染みの無さが、すなわち自然界に関する知識と教育の欠如があります。人類の大半が都市に住んでいるという現実とも関係があるでしょう。世界的に見ると、都市に住む人たちは多数派です。イギリスのような国では都市人口は80%にものぼりますし、日本も似たような状況ではないかと思います。そのため、多くの人たちは一度も昆虫に出会うことなく大人になっていくわけです。馴染みのないものには恐怖を感じてしまうのでしょうね。
 昆虫だけでなく広く自然界に関する基礎知識は、例えば自然界の仕組みや植物の成長、ハチを介しての受粉や作物の栽培方法などを含め、私たちが大人になる過程で身につけるべきものです。しかし、大人たちの多くは自分で種を蒔いた経験がなく、植物を育てたり、あるいはハチが花から花へ飛び回る様子をじっと観察したりしたこともないという有様です。このような大人たちは、自然界に関してほぼまったく何も知らないのです。都市でマーケティングや銀行業に従事するだけならば、そのような知識は不要だろうと言う人もいるかもしれません。とはいえ、結局のところ人間は自然界やその知識に依存しています。もし自然界をしっかりと維持したいと思うならば、まずはもう少し知識をつける必要があるでしょう。そうした知識がなければ、自然界への共感も生まれないですからね。
 では、具体的にどうすれば良いかと言いますと、これは難しい問題です。知識の低下という潮流に逆らって泳ぐ必要があるからです。例えば、小学校から始めて、学校教育で自然史がもっと本格的に取り上げられたらとても良いと思います。思うに、生徒たちは学校で多くの無駄なことを教わるもので、そのほとんどが後の人生であまり役に立たないわけですが、他方では食料の作られ方や土壌の重要性のような、基本的なことはほとんど教わりません。土壌について知っている子どもはほとんどいませんよね。それでも、土壌にはかなりの面白さがありますし、重要性も高いです。そういうわけで、まずは小学校から始め、中学校やそれ以降へつなげていけたら良いのではないでしょうか。
 とはいえ、ここにはニワトリと卵の問題があります。そもそも教員の側に自然史の知識がほとんどないからです。今の状態では、小学校で自然史を教えることなどできません。そこで、本書では教員向けの研修コースを提案しました。田舎の実地研修センターへ1週間ほど滞在し、昆虫や自然界について学ぶという案です。そうすれば、自分の担当クラスを森林や原っぱに連れて行って、数々の心躍る現象を生徒に自信をもって紹介できるようになるでしょう。現状では、教員の方々の大半はそのような提案を受けても萎縮してしまうだけでしょう。生物種の名前すらままならず、子どもたちに教えられるようなこともまだほとんど何もないわけですから。しかし、この状況は改善できます。特に難しいことではありません。子どもたちは少なくとも週1回、できれば1日1回は外に出て、自然とふれあうべきです。それだけでも大きなプラスになるでしょう。とはいえ、課題は山積みになっています。残念ながら、今のところ望ましい方向への進展があるようにはみえません。

――大人の事情を見直してみる

早川 ところで、これは今思い浮かんだことなのですが、私たちが昆虫や土壌への興味を失う時期は、ちょうど虫や土と日常的にふれあうのをやめてしまう時期と重なっているようにも思えます。個人的な話で恐縮ですが、私が小学生だった頃、先生が生徒たちに虫捕りを奨励するのをはっきりとやめた時期がありました。貴重な種や見捨てられた種を含め、地元の地域の生態系とのつながりを私たちが失ったのも、おそらくあの頃からだったと思います。そこからはひたすら下り坂であり、5年か10年も経つと自然界とのつながりはすっかり消えてなくなってしまいます。大人になってから、虫捕りや探検などをして、昔の感覚を取り戻す方法はあるでしょうか。

グールソン 実際に昔の感覚を取り戻した人を私も何人か知っています。初めて会ったときには、昆虫や自然界について特に興味があったわけでもなく、後に何かのきっかけで好奇心をかきたてられ、そこからのめりこむようになった人たちです。そういった例は実際にあります。一般の人々を説得しようとするときにも、そもそも昆虫の話に耳を傾けてもらうことすら難しいですが(笑)、私はこう言うようにしています。「5分か10分で良いので、外に出て、花畑でも原っぱでも森林でも、天然の植物が生えているところへ行き、地面に座り、あるいはしゃがみ、もし地面に座りたくないならば椅子を持って行き、じっとまわりを見てください。すごい生き物たちであふれているこの心躍る環境を、ゆっくりと観察してください」。園芸に熱心であるにも関わらず、自分が育てている花へやってくる虫たちを立ち止まってじっくりと見たことがないという人も多いですが、これは驚くべきことです。また、受粉はすべて1種類のハチが担当していると考える人たちもいます。そもそも受粉について何も知らない人もいます。花々を数秒間みつめさえすれば十分わかるはずですが、そこには実に多様な虫たちがおり、形も大きさも色も飛び方も千差万別です。それを数分みつめるうちに、興味をかきたてられて夢中になる人もいます。
 コロナ対策のロックダウンで、数ヶ月もの間、特に何もやることがなく自宅と庭に閉じこもった結果、かなり多くの人たちが自然界に関心を向けるようになったと私は思っています。見たものを写真に撮ってSNSに投稿している人たちもたくさんいました。「これ何?」「庭ですごい生き物をみつけた」という感じです。ふと立ち止まって自分のまわりをみつめなおしたおかげで、ずっと前から庭にいた生き物たちにようやく出会えたわけです。なかなか面白いでしょう。
 そういえば、最近『My Garden of a Thousand Bees』という映画を観ました。イギリスの野生動物の映像で、1時間くらいの短い作品です。作者は自然史写真家の方でして、ロックダウンの最中にブリストルの自宅の庭で撮影したようです。始めは庭のハチホテルに住む単独行動のハチをフィルムにおさめていましたが、毎日それを続けるうちに、ハチにも個性があることに気がついたそうです。つまり、積極果敢なハチもいれば、おとなしいハチもいて、個々に行動が異なっており、いわば人格をもつ存在として作者の目に映るようになってきたわけです。この映画からはそのプロセスがとてもはっきりと伝わってきます。映画を観る中でだんだんとハチたちへの共感が芽生えてきます。ハチの一生にも多くのハードルがあり、食べ物をみつけると喜びますし、例えばクモに襲われたときには恐怖を感じるものです。ハチの脳の仕組みは人間の脳とはまったく異なりますが、それでもハチにはハチの生き様があり、生きる権利があり、たくさんのすばらしい活動をしているのだということが、じっくりとハチを観察するうちに段々とわかってきます。
話が脱線してしまいました。もとの質問は……何でしたっけ?(笑)

早川 大人たちの話です。

グールソン そうでしたね。大人たちの関心をどうやって虫たちに向けるかという……。なかなか厄介な問題ですね! 自分にはそのような時間はないと、多くの人たちは思うでしょう。この人たちは別に悪者であるわけではなく、単に生物多様性の喪失が気候変動と同じように文明社会を滅ぼしかねないという点を理解できていないだけです。日々の仕事に精一杯で、週末には子どもの面倒をみるのでしょうし、住宅ローンや光熱費が上がってきているので出費にも悩まされているのでしょう。来月まで家計がもつかどうか心配している人もいるでしょう。そのため、大きな環境問題を立ち止まって考える暇はありません。この大きな問題は実は重要であり、これを解決しない限り私たちの子どもたちは私たち自身よりも劣悪な環境で生きることになるのだという点を、こうした人たちに向けてどうにか説得していく必要があります。それなりの人数が問題に興味を示さない限り、政治家も動かないでしょう。票につながらないからです。

早川 「忙しすぎて関心がもてない」と人々が思ってしまうようになるまでの経緯が、本書では包括的にまとめられていますね。そこには習俗規範や物理的な条件などからなる入り組んだ原因がありますが、中でも公共の芝生における殺虫剤の過剰使用は、昆虫の個体数にも影響を与えていますし、大きな要因だと言えそうです。芝生を見て「清潔だ」「整っている」と感じる人もいるかもしれませんが、実態はまったく違いますよね。そもそも「清潔」「整う」という言葉の意味が歪められているという主張も本書にはあります。

グールソン ものごとを整えすぎる傾向は、不思議なものですが、なんとかしなければと思っています。おっしゃるように、街頭に除草剤が散布されることはしょっちゅうあります。道路にほんの少し入ったひびからも雑草が生えてこないようにするためです。子ども向けの遊具にこの化学物質がまかれるところを見たことだってあります。先ほども述べたように、これは発がん性があるかもしれない物質です。遊具にまくなんて、正気の沙汰とは思えない! それでもなお、私たちは必要があるわけでもないのに、ただ整った景観のためだけに散布を実行しているのです。
 同じように、農家もまた何かを雑草や農業廃棄物と見なすとすぐさまそれを一掃するものです。ブルドーザー式に処理をし、除草剤をかけて、「整った」景観を維持するわけです。庭をもっている人たちは、1週間か2週間に一度、芝刈りをするものです。なぜだかわかりませんが、この人たちはまるでウィンブルドンのテニスコートのように、芝生に縦横の規則正しい模様をつけたがります。まったくもって理解不能です。整然として人間による支配が行き届いている景観を、私たちはなぜか好むものです。奇妙な美学ですよね。残念ながら、それは自然界にとってかなりの害悪となっています。

――問題の深刻さを伝える「物語」

早川 本書では乱雑さの擁護が合理的に展開されています。とても力強い議論です。
 ところで、ここで一つ批判的な質問があります。本書の第4部は、他の部とはかなり異なる文体で書かれています。先ほど『懐疑の商人』を参照されましたが、第4部では専門家の見解と明らかに異なるように見える主張が話の前提にされています。例えば、国連は2050年までに世界の都市人口が(減少ではなく)増加すると予測していますが、本書第4部では人々が群れを成して都市を離れていくシナリオが語られています。このような方法は、反対主義者たちにとって好都合な言質を与えてしまうのではないでしょうか。つまり、「ほらみろ、これもまた事実を踏まえずに危機を煽るだけの終末論的な本だ」と反対主義者が言えるようになってしまう可能性はないでしょうか。第4部での細かい欠陥は本書全体を見れば取るに足らないものではありますが、ここに焦点が当たってしまうと、優れた研究に基づく他の部分が無視されてしまう気もします。それでもあえて第4部を本書に含めようと考えた理由は何ですか。また、反対主義者が本書を先ほどのような論法で却下しようとしたときには、どのように対抗するべきでしょうか。

グールソン 難しい問題です。あなたがおっしゃることもよくわかります。私の出版エージェントも、原稿を初めて読んだときに、まさに今あなたが挙げたような理由を挙げて、第4部を本書から削るように薦めてきました。
 第4部では、もし現在の様々な環境危機を放置した場合にどのような未来が待ち受けているのかを具体的に想い描こうとしました。当然ながら、そのような試みには多くの推測が伴います。端的に言って、これは科学ではありません。出版社とも話し合いましたが、最終的には本書に入れたままにしようと決めました。
 削らないという判断をした理由ですが、問題の多様な側面をひとつにまとめるのは重要であると思ったからです。気候変動や海中の珊瑚礁の白化や昆虫の個体数の減少など、個々の現象については広く周知が進んでいると思いますが、一連の現象を総合的に見たときに、それが文明社会や子どもたちの未来にとってどういう影響を及ぼすのかという点は、かなり稀にしか検討されてこなかったと思います。早急により良い方向へ舵を切らなかった場合に私たちに起こることを、私は総合的に考えてみようとしたわけです。
 言うまでもなく、第4部は私個人の未来予想にすぎません。そこで言いたかったことは、つまるところ次のとおりです。もう何世紀もの間、私たちは「次の世代は自分の世代よりも良い生活ができるはず」という考えに慣れてきました。良い気分になれる考えですよね。ところが、この考えは昨今ではかなり疑わしいものになってきています。それは実に数百年ぶりの出来事です。もし気候変動について科学者たちが言っていることが正しければ、それだけですでに次世代の生活は今よりも苦しくなります。
 この点は広く周知されるべきです。事態は本当に深刻です。少数の科学者たちがお気に入りの昆虫の喪失を嘆いているというレベルの話ではありません。ところが、イギリスにはいまだに気候変動を「夏が今よりも少し暑くなるだけ」という風に考えている人がいます。もっと日光浴ができると思っているわけです(笑)。これはその程度でおさまる話ではなく、まさに文明社会の未来に関わる話です。
 「文明社会そのものが終わるかもしれない」などと言うと、狂人の発言のように聞こえてしまうリスクもあります。しかし、そうした可能性は現に存在するのです。本書でも説明したとおり、過去の文明社会はことごとく滅びています。そして、どの文明社会も、自分たちは利口であり、よってこの先もずっと存続していくのだと信じていました。例えば、ローマ帝国を見てください。輝かしい偉業を成し遂げた文明社会ですが、しまいには崩壊しました。私たちの文明社会もまた、近い将来かなり険しい道に突入するところだと思いますし、そう思うだけの根拠は十分にあります。
 第4部を本書に入れておくことにした理由は以上です。とはいえ、説得のための戦略という観点からは、必ずしも堅実な選択ではなかったかもしれません。本書を批判したい人たちにとっては、たしかに好都合な口実が手に入るわけですからね。いずれにしても、第4部で提示したシナリオにどれくらいの現実味があり、他に考慮すべき要素はあるのかどうかといった問題については、まだまだ議論の余地があると思います。
 都市からの人口流出について言うと、そこでは都市への食料供給が途絶える危険性を参照していました。土壌や送粉者がなくなってきていますし、気候も人間にとって悪いものに変わってきています。極端な天候は作物の不作へとつながります。現に、不作は今すでに起こっていますよね。もちろん、今の傾向がそのまま続くならば、都市化は進むでしょうし、世界各地で巨大都市に住む人たちも増えていくでしょう。国連の予測は、単にそうした傾向が続くことを前提にして作られています。しかし、もし食料供給に支障が出てきた場合は、この傾向にも変化が生じるでしょう。都市は地方から運ばれてくる大量の食料に依存しているからです。都市住民全員を満たせるだけの食料がもし運ばれてこなくなった場合、こうした都市はもろくも崩れ去ってしまうでしょう。この単純な論点を、私は該当の節で言おうとしていただけです。
 いずれにしても、情報をつなぎ合わせて具体的な未来像を想い描くという作業は、なかなか面白いものでした。

――日本人と昆虫

早川 なるほど。ちなみに都市化に関しては、IPCCもまた都市化の減速ではなく加速を前提として報告書を書いています。これもまた、第4部を読んで違和感をもった理由の一つです。とはいえ、第4部が好きになれない読者は、そこだけ飛ばして本書を読み進めても良いと思います。反対に、第4部を読んで「そうか、そういうことか!」と視界が開ける読者も当然いるでしょう。そのため、以上は私の単なる感想にすぎない部分もあります。
 インタビューも終わりに近づいてきました。本書では日本から宍道湖の研究とハサミムシの研究が取り上げられていますね。これは「訳者あとがき」で訳者の方もハイライトしている研究です。そこで、日本の昆虫に関するあなたの考えや体験について、お聞かせいただけますか。また、日本の読者に向けて何かメッセージがあれば、ぜひお願い致します。

グールソン まず始めに断っておきたいですが、私は日本に数えるほどしか行ったことがありません。そのため、日本の人たちが虫たちとどう接しているのかも、あまりよく知りません。とはいえ、不思議なことに、イギリスと日本の間にはいくつか興味深い共通点があるという印象を私は持っています(間違っているかもしれませんが)。例えば、イギリスにも日本にも、世界の他の地域に比べて実に面白い昆虫がたくさんいます。あなたも先ほどおっしゃったように、子どもたちはセミについて良く知っていますし、夏には虫捕りに出て行きます。それに、日本では他のどの国よりもたくさんの人たちが虫をペットとして飼っています。いわば自然な好奇心がそこにはあります。私の主な研究分野であるマルハナバチの世界では、他の多くの国に比べて、日本には卓越したマルハナバチ研究チームが存在します。そのため、他の場所に比べても、日本の人たちは昆虫愛好家への道をすでにかなり進んでいると言って良いでしょう。とてもすばらしいことです。とはいえ、そこまで頻繁に日本を訪れたことはないので、私としてもこれ以上は何とも言えません。

うっかり者のテディベアのような見かけによらす賢い昆虫であるマルハナバチは、
グールソン博士の主たる研究対象だ(ⒸDaniel Pahmeier /Shutterstock)

早川 日本の在来種で、過去に観察したことがあり、あるいは現在あなたが注目している昆虫はありますか。

グールソン 過去に私は外来種(侵入種)について研究をしたことがあります。そのとき、ヨーロッパのマルハナバチが日本を飛び回っているということが判明しました。トマトの受粉のために持ち込まれたハチたちが、温室から脱出してしまったようなのです。その影響を解明するための興味深い研究も現在進行形で行われています。日本全国に、今ではヨーロッパのセイヨウオオマルハナバチが飛び回っています。セイヨウオオマルハナバチのオスは日本の在来種の女王バチと交尾をするのですが、そうすると健全な幼虫が生まれてこないので、日本の在来種に悪い影響が出ています。お世辞にも理想的とは言えない状況です。
 日本の昆虫に関する心温まる話というわけではなくて、恐縮です……。日本で実地研究をする機会には恵まれなかったので、身近な例は残念ながら挙げられません。

早川 例えばホタルは、日本では夏を象徴する昆虫です。そういった視点から、本書の光害に関する章は日本の読者には特に心に響くものだと思いました。

グールソン なるほど。イギリスには、残念ながらホタルはいません。ホタルは本当にすばらしい生き物ですよね。海外でホタルに出くわすと、夜が魔法にかかったような、言葉にならない感動を覚えるものです。日本にホタルがいることを羨ましく思います。

――昆虫食はいかが?

編集部 最後にもうひとつ、昆虫食について質問です。第1部で、あなたは昆虫食の重要性と価値について説明をされています。昆虫食は世界中で伸びていると思いますが、他方では昆虫について考える上で、それが食べられるかどうかは本質的な問題ではないとも思います。そうした文脈で、昆虫食に関するお考えをお聞かせください。また、個人的にもし昆虫食に対して賛同しきれない部分があれば教えてください。

グールソン 当然ながら、ここには葛藤があります。一方で、私は一般の人々に向けて、昆虫を愛するように呼びかけています。しかし、他方では昆虫食を紹介してもいます。
 野生の昆虫と食用に育てられた昆虫の間には、区別をつけることもできるでしょう。人間には食べられないものをたんぱく質と脂質に変換する効率に関しても、ウシやニワトリに比べて昆虫の方が優っていると言えますし、水や土地などの使用量も相対的に少なく済みます。これは論理的な主張として、ひとつ考えられるでしょう。そのため、昆虫を大量に育てるという選択肢は、人間のためのたんぱく質や栄養の源として、将来的にありえると思います。
 他方で、昆虫への思い入れや動物たちの幸福という視点からは、なお矛盾が残る考えだと言えそうです。私だって、数百万匹もの昆虫が人間に消費されるためだけに狭い空間で大量に育てられてほしいとは思いません。本書にもたしか書いたと思いますが、昆虫を含めあらゆる種類の肉の消費量を減らしていく方向が最も妥当でしょう。とはいえ、昆虫を食生活の一部に組み込むのも悪くないかもしれません。すでに世界各地で昆虫食は広く採用されています。世界の人口の約80%が虫を食べているわけですからね。それを止めるべき理由は、今のところ特に見当たりません。

編集部 ずいぶんと意地悪な質問をしてしまい、申し訳ありません。

グールソン いえ、とても良い質問だと思います。

編集部 改めて、今日はありがとうございました。

グールソン こちらこそ、お話しできて嬉しかったです。

(終わり)

早川健治プロフィール
翻訳家。英訳書に多和田葉子著『Opium for Ovid』(Stereoeditions)、邦訳書にノーム・チョムスキー&ロバート・ポーリン共著『気候危機とグローバル・グリーンニューディール』(那須里山舎)、ヤニス・バルファキス著『世界牛魔人―グローバル・ミノタウロス』(那須里山舎)などがある。
ウェブサイト:https://kenjihayakawa.com/

『サイレント・アース 昆虫たちの「沈黙の春」』
著者プロフィール
デイヴ・グールソン Dave Goulson

生物学者。1965年生まれ。英サセックス大学生物学教授。王立昆虫学会フェロー。とくにマルハナバチをはじめとする昆虫の生態研究と保護を専門とし、論文を300本以上発表している。激減するマルハナバチを保護するための基金を設立。一般向けの著書を複数出版している。

訳者プロフィール
藤原多伽夫 ふじわら・たかお

翻訳家。1971年生まれ。静岡大学理学部卒業。おもな訳書にブライアン・ヘア、 ヴァネッサウッズ 『ヒトは〈家畜化〉して進化した』、パトリック・E・マクガヴァン『酒の起源』(ともに白揚社)、スコット・リチャード・ショー『昆虫は最強の生物である』、チャールズ・コケル『生命進化の物理法則』(ともに河出書房新社)、ジェイムズ・D・スタイン『探偵フレディの数学事件ファイル』(化学同人)ほか。

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