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これが、セックスの欲望?――「ことぱの観察 #11〔ときめき〕」向坂くじら

詩人として、国語専門塾の代表として、数々の活動で注目をあびる向坂くじらさん。この連載では、自身の考える言葉の定義を「ことぱ」と名付け、さまざまな「ことぱ」を観察していきます。


ときめき

 「ドキドキしたりしないの?」と聞かれるたびに疑問に思うのは、ある相手のことを好きなのかどうかを判別しようとするときに、どうして身体のリアクションをあてにするほかないのか、ということだ。好きになるという現象は心のなかで起きることであるはずなのに、それが身体にまで波及していなければ好きということにしてもらえない、その理不尽。前回ではドキドキしたことがないと言ったけれど、正しくは全くないわけではない。最近など三十を手前に特に増えている。階段を駆け上がって電車に乗ったり、待ち合わせの時間を間違えていることに気づいたり、ときには眠りから醒めただけでドキドキしてしょうがないことがある。しかしこういうことを言うと、かえってわたしが真に、つまりは愛によって、ドキドキしたことがないことの証左のように受け取られてしまう。くやしい。まあ、それはわたしのほうにもいくらか悪気があって言っているとしても、たとえばすばらしい一節と出会ったり、人前で緊張したりしたときのドキドキさえ度外に置かれるのだという。
 ようは、単に心臓の鼓動が大きく聞こえるだけでは勘定に入らない、あくまで恋愛上の諸々の手つづきのなかで起きるリアクションを指す「ドキドキ」というものがあるらしい。「キュンとする」なんていうのも類似するものだろうか。さしあたってこの、恋愛に付随するものだけを取り出して呼ぶ「ドキドキ」「キュン」といった身体的なリアクションを、「ときめき」として区別しておこう。
 その上で、くやしいのでいっそムキになって言いたい。ときめきはなんらかの予兆であり、その段階ではまだ達成していない段階のものとして語られる。ではときめきの延長線上にはなにがあるのか。ときめくとき、わたしたちはなにの達成を予期しているのか。考えてみれば自明である。セックスに決まっている。
 ときめきがセックスの予兆を指すのなら、身体的なリアクションを伴わないといけないことも、セックス可能な相手とのふれあいの中で起きたものしかカウントされないことも、十分に納得がいく。そして、ここで自分の立場を明らかにしておくと、わたしはセックスの欲望というものが自分にあるのかどうか、よくわからない。そもそもそれがなんなのかもあまりわかっていない。わからないあまりに、マッチングアプリに登録したこともある。マッチした相手に「性欲とはなんなのか」と端からたずねてまわり、向こうがちょっとでもアプローチをかけたそうなそぶりを見せると激怒してブロックした。ろくでもないやつばかりだったがときどきいいやつもいて、「こんなアプリやめたほうがいいですよ」みたいなことを言ってくる、しかしそれはそれで気に障ってすぐブロックし、二日でアカウントごと消した。性欲についてはなにもわからないままだった。
 だから、ときめきがセックスの予感であるのなら、わたしがときめきに欠けていることにも納得がいく。そして、愛とセックスがそこまで関係ないのと同様に、だれかを好きになることとときめきも、やっぱりそこまで関係ないのではなかろうか。

ときめき:
セックス可能な相手とのふれあいに、セックスを予感し、欲望すること。それに伴う身体的なリアクション。

 これまで、自分のいわば「ときめかなさ」については、そんなふうになんとなく納得してきた。ところが最近になってようすが変わってきた。おそれながら、結婚をし、夫といっしょに暮らすようになってから、にわかにときめきらしいものが生活に訪れるようになったのだ。
 ふだんのふれあいはこれまでと変わらないけれど、しかし結婚したことによって、意識のない夫とふれあうことが増えた。ときめきはそういうときにやってくる。隣で眠っている夫が急にわたしに身体を寄せ、なにかむにゃむにゃ言うと、たしかに胸がどきっとする。そしてわたしは思う。いまわたしの中に起きているのが、セックスの予感だろうか。自分でも意味のわからないタイミングだが、そうかもしれない。欲望の方向はものすごく人それぞれだというし、それに女性の肉体は歳をとったほうがなんとか、というし。ときめきの芽生え、これはむろん遅い恋の芽生えではなく(夫の名誉のためにくりかえし言っておくと、恋とときめきとは関係なく、そして恋ならばもとよりあるのだ)、セックスの芽生えではなかろうか。
 めでたい。と思っていたのだったが、だんだんそれでは説明がつかなくなってきた。夫が「ちょっと来て」と切り出すと、やっぱりドキドキする。 「ちょっと来て」のあとに続くのは、だいたい電気の消し忘れか、服の出しっぱなしかを指摘する言葉のことが多い。しかし五回に一回くらいは、週末の予定であったり、大きなチョコレートを買ってきてくれたのであったり、なにか楽しい話のこともある。どちらにせよ結果がわかると、鼓動はやわらぐ。それから反対に、自分が頼みごとを言い出そうとかまえているとき、この上なくときめいている。言いづらいことであればあるほどわたしはためらい、ときめく時間は長くなる。するとそのあいだ、夫の一挙手一投足が気にかかり、ちょっと近くに寄られればキュンとし、目つきや言葉尻を気ぜわしく追いかけて、いよいよあの縁遠いと感じてきたはずの少女漫画にそっくりな様相を呈しはじめたところで、ようやく切り出す。
 「あの、あのさ、今日、うっかり棚を壊してしまって、直るか見てもらいたいんですけども…………」
 これが、ときめき? ひいては、これが、セックスの欲望?
 ため息をつきながらかがんで棚を直している夫の丸い背中を見ていると、やっぱりよくわからなくなってくる。わたしというのは本当によく家のものを壊す。それを多少文句を言うくらいで直してくれるのは、ありがたい、といえばありがたいのだが、しかし「ありがたい」とセックスはかなり遠そうではないか。たのもしい、ならもう少し近いか。いやもっと、もっと根本のところで、なにかが致命的にずれている気がする。
 寝ている夫の話に戻ると、彼はわたしの方に寄ってくるほかにも、かなりじたばた動き回る。こちらへ来ても、かと思うと間もなくふたたび向こうを向く。あるときには、おもむろに布団の上に座った。起き出したのかと思って声をかけても黙っている。ついわたしも起きあがり、正面から顔を覗くと、座りながらも完全に眠っているのだった。そしてわたしのほうは、やっぱりドキドキしていた。夫が不意に近づいてきたときより、不意に座ったときのほうが、はるかにドキドキしているのだった。これがセックスの予感なら、もしくはみんなのいうように恋なら、ばかばかしすぎる。それならこれはなんだろう。ときめかないわたしがようやくつかみかけたこの片鱗は、高鳴る胸の音は、なにが引き起こすリアクションなのだろう。

 恋のわからなさにヒントをくれたのは、キャンパスに立った銀杏の木だった。もうひとつ、わたしを猛烈に惹きつけた木の思い出がある。
 人生で二度会社をくびになっている。くびになっておもしろいのは、急に予定ががらっと空くことだ。ひまなのは好きだから、くびになるのが向いている。二回目は冬だった。買いものがてらにあたりを散歩していると、急にいいにおいがした。若い果物のような、石けんの新しい泡のような、ハリのある花のにおい。辿っていくと、通りを挟んだ向かいの塀から、黄色い花をつけた枝が飛び出していた。蝋梅(ろうばい)の花だった。花びらは分厚く見えるのに透き通っていて、きらきらと向こうの陽が見えた。わたしはしばらくそこで花をながめ、においを吸いこんで過ごした。
 そしてそれから数日、そこに花を見に通うようになった。家の主に気づかれていたかはわからないけれど、不気味な通行人だと思われていたかもしれない。そこまで長居はできないから、ひと目見て、胸いっぱいににおいをかぎ、さりげなく立ち去る。そのくりかえしだった。蝋梅の咲く家まで、わたしの家から歩いて五分くらいかかる。そのあいだ、息があがるほどの鼓動を感じていた。はじめは日ごとに咲いていった花の数が、しだいに減りはじめたのがわかっていた。冬が終わるのを待たず、花の季節が先に終わろうとしていた。そしてわたしは、そのことにときめいてしかたなかった。
 銀杏の木は、こんなふうにわたしをときめかせなかった。季節ごとに葉が増えたり、紅葉した次には地面を埋めるほど黄色く散ったり、躍るような変化はあったけれど、しかしわたしはそのどれにも安心していた。そう、ときめいているとき、心のなかにはいつも不安があった。これから起こることが未確定であるという不安、予想を超えたことが目の前で起こった不安。蝋梅にいつまでも咲いていてほしかった。銀杏の木がいつでもそこにあったように、一年中、わたしがにおいたいと思ったときには、いつでもあってもらいたかった。けれど当然、花というのは生きもので、そういうわけにはいかない。花が咲くことも、散ることも、わたしにコントロールできる範囲を完全に離れている。はじめからうすうすそれがわかっていて、つい毎日通いたくなったのだった。
 そして、夫もまた生きものであり、わたしにはコントロールができない。けれどやっぱりときどき、夫がわたしの思う通りに動いてくれないだろうか、と思うことがある。できるならずっとやさしく、いいにおいでそばにいてもらいたいし、電気をつけっぱなしにしても、棚を壊しても怒らないでもらいたい。ときどきチョコレートやセックスや手紙をもらいたい。だけど、そういうわけにはいかないのだ。そう思うと、結婚してにわかにときめくようになったことにも納得がいく。暮らしを共にするようになると、ふたりが異なることの喜びと一緒に、不便も増える。それで、ばらばらに住んでいたころには思わなかった、相手に自分の思う通りになってほしい、という欲望が、ふつふつとわたしに湧きはじめたらしい。もはや愛ともセックスとも関係ない、ひょっとしたらそれよりさらに原始的な、わたしの欲望の芽生え、ときめきの芽生え。眠っていて意識のない夫、というのは、わたしどころか夫のコントロールすら離れている。それが、わたしを不安にさせる最たるものなのだった。

ときめき:
相手が自分の思い通りになってほしいと思っているのに、それが達成されるかが不確実なときに起きる不安。それに伴う身体的なリアクション。

 これなら、身体的なリアクションが伴うことにも、それから好きな相手にはことさらときめくことにも、説明がつく。ときめきの底にあるのは不安であり、不安が身体をむしばむのはよくあること。そして、好きな相手にはなおさら自分の思う通りになってほしくなるのも、よくあることだ。他者がコントロールできないことをわかっているから、わたしたちはときめくのだ。
 だから、ときめくかどうかを考えることは、不安かどうかを判別するだけで、好きかどうかを正確には判別しない。わたしがあまりときめかずに来たとしても、そのわたしがいま夫のへんな寝相にときめくとしても、それはさしたる問題ではない。
 くびになってから一年が経った。大寒が過ぎたから、もうすぐ蝋梅が咲くはずだ。ふたたびあの黄色くすきとおる花に、そして肺のなかを洗いながすようなにおいに会うことを思うと、たまらなくなる。もし行ってみて木が切られていたり、家ごとなくなっていたりしたら、と思うと、もう、ときめいてしかたない。
 ということで、「ときめくかどうか」という問題は恋とも愛とも、セックスとさえ関係ないものとして、この先に進みたい。


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プロフィール
向坂くじら(さきさか・くじら)

詩人、国語教室ことぱ舎代表。Gt.クマガイユウヤとのユニット「Anti-Trench」で朗読を担当。著書『夫婦間における愛の適温』(百万年書房)、詩集『とても小さな理解のための』(しろねこ社)。一九九四年生まれ、埼玉県在住。

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