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わたしたちは愛についてなにも言えていない。――「ことぱの観察 #09〔恋(前編)〕」向坂くじら

詩人として、国語専門塾の代表として、数々の活動で注目をあびる向坂くじらさん。この連載では、自身の考える言葉の定義を「ことぱ」と名付け、さまざまな「ことぱ」を観察していきます。


恋(前編)

 しかしまあ、愛がなにかを言おうとすると、なにか言う前からもう胃もたれしてくる。どうも気が乗らない。もちろん、簡単には手出しできない強敵だから、ということもあるけれど、もっと明確で、しょうもない理由がある。
 ここまでいろいろな言葉を取りだしては定義をしてきた。定義をするのはおもしろい。どんな言葉であっても考えているうち、単に言葉の上の問題を考えるということを超えて、現実に起こっていることごとを素手でさぐっているような感覚がある。実際のところ現実はすぐにわたしの言葉をこぼれ、定義をしそこなうばかりであったとしても、その手ごたえはいいものだ。けれども、この「定義」遊びのなかで唯一やりつくされていて、そして語るに値しないものがある。
 それが、「愛と恋との違い」である。

 愛のことを言おうとするとき、つい恋に言及したくなるのはどうしてなのだろう。言及するだけならまだしも、そのふたつを明確に呼び分けたくなるのは。ポップソングや学生のおしゃべりやSNSに流れつく格言で、だれでも一度はふれたことがあるだろう。漢字の形にかけた「恋は下心、愛は真心」なんかはまだひらめきのおもしろさがあるとしても、「恋はひとりでもできるけれど、愛はふたりでないとできない」「恋は自分と同じ部分を好きだと思うけれど、愛は自分と違う部分を好きだと思う」みたいなところへくるといよいよ不気味さが増す。「恋は自分の幸せを願うけれど、愛は相手の幸せを願う」なんて、ほとんど言いがかりである。
 そして、言いがかりをつけられるのはいつも恋のほうだ。巷にあふれる恋と愛の定義は、かならず「けれど」で接続される。違いを語る以上しかたのないこと、とも思えるけれど、しかしなにかそれを超えた頑なさがないだろうか。わたしには、「恋と愛の違い」を語る言葉のほとんどが、「恋と愛の違い」そのものとは関係のないことを語ろうとしているように思える。「恋と愛の違い」を言うときに彼らのしているのは、実際のところ、愛のキャンペーンにすぎない。愛をいいもののように見せるというただそのことのために、たまたま近くにあった恋が引きあいに出される。恋がどれほど浅はかで、自分本位で、未熟なものであろうと、愛というもののよしあしとはまったく関係がないはずなのだが、しかしふたつ並べて一方をほめ、一方をけなすことで、まるで愛についてなにか言えたかのような言い切りの体をなしてしまう。恋がなにであるか、そして愛がなにであるか、という問題は、はなから彼らの興味を外れているのだ。
 それがよくわかるのは、しばしば言われる「互いに見つめあうのが恋、同じ方向を見つめるのが愛」というもので、これには原典がある。おそらく、サン=テグジュペリ『人間の土地』に出てくる有名な一文が元になっていると思われる。しかし、わざわざ言うのもばかばかしいけれど、­サン=テグジュペリが恋と愛の違いを説いたわけではない。原文はこうだ。

手の届かないところにある共通の目的によって同胞と結ばれたとき、僕らは初めて胸いっぱいに呼吸することができる。経験によれば、愛するとは互いに見つめあうことではない。一緒に同じ方向を見つめることだ。         

(渋谷豊訳、光文社古典新訳文庫)

 『人間の土地』はパイロットでもあったサン=テグジュペリの自伝的エッセーで、長距離飛行の失敗による砂漠での遭難や、新聞社の特派員として取材したスペイン内戦、そして人間や現実の本質的なありように対する洞察が書かれている。この箇所がおさめられているのは、とくに戦争についての記述の多い「人間たち」という章だ。あとにはこう続く。

同じザイルに結ばれて、ともに頂上を目指すのでなければ、仲間とは言えない。向き合うのは頂上に着いてからでいい。そうでなければ、どうして快適な生活を保障されたこの時代に、砂漠で最後の食べ物を分かち合うことにあんなに満ち足りた喜びを感じるだろう。

(同前)

 飛行機が墜落し、渇きに苦しみながらリビア砂漠を歩いているとき、奇跡的に一つのオレンジが見つかる。サン=テグジュペリはそれを、ともに遭難していた仲間のプレヴォと半分ずつ分けあう。
 またマドリッドの前線の夜、出撃の支度をする伍長が微笑みを浮かべていることに驚きながらも、「僕には死地に赴く君の気持ちが理解できた。(中略)ここでは自分自身を完成に導いていると感じ、普遍的なものに合流することができたのだ。のけ者だった君が愛に迎え入れられたのだ」(同前)と述べる。そのあとに、愛についての先の一節が語られるのだ。
 言うまでもなく、ここでの「愛」は「同胞」について書かれたもので、恋とはまるで関係がない。少なくとも、恋とは関係のない愛までをはるかに広く含んでいる。それにもかかわらず、この一文だけが格言として伝言されていくうち、「愛」という単語がもとの文章からひとり歩きして、恋愛を語ったものとして解釈されるようになってしまったのだろう。あとは例によって「愛」ではないものとしての「恋」が持ち出され、「互いに見つめあうのが恋、同じ方向を見つめるのが愛」へと合体してしまうのも想像に難くない。捏造である。
 それほどまでにわたしたちは、恋と対比した愛の話をしたいものだろうか。そして、そんな不正までしてもまだ、わたしたちは愛についてなにも言えていない。

 教育についてのオンライン勉強会で、何人かのディスカッションに参加したことがある。テーマはずばり、「教育とはなにか」。お題が出た段階で、わたしも頭の中であれこれ考える。定義遊びだ。直感的には、教育をするためにはまず、少なくともふたりが必要である。ひとりで本を読んで勉強することを「教育」と呼ぶことは少ない。呼べることがあったとして、そこには読み方を教えたものとのふたり、もしくは本の著者とのふたりの関係が背景にあると言えそうだ。ではどのようなふたりであれば、「教育」が成り立つと言えるだろうか。年齢差や上下関係は必要だろうか、持っている知識や技術の差はどうだろうか、必ずしもそう言い切れない場合があるとしたら……。
 こんなふうに考えるのはおもしろかった。ところがいざ蓋をあけると、「教育とは、楽しむものである」とか、「教育とは、学びあいである」とか、「むしろ教育者の方が生徒から教わるものである」とか、出てくるのはそういう答えばかりだった。みんな自信にあふれていて、お互いに同意しあっている。わたしはと言えば、さっきまで話してみたいことにあふれていたはずが、にわかに内気になってしまった。だいたいグループディスカッションというものは、わたしをほぼ百発百中で内気にさせるのだった。彼らの話している内容に同意できるかどうか、というより、そのかなり前の段階で置いていかれていると思った。「はー」とか「まあ、まあ」とか言ってやり過ごし、オンライン通話アプリを閉じたらようやく、部屋にしずかさが戻ってきた。そのしずかさの中で結論づけたことには、こうだ。「教育とはなにか」を問われた時点で、暗に「(あなたの良いと思う)教育とはなにか」を問われていたのであって、本来それを答えなくてはいけなかったのに、わたしだけがばか正直に「教育とはなにか」のところで足踏みしている。
 自分のこういう不器用さには嫌気がさす。けれども同時にある部分では強気で、こうも思う。「教育とはなにか」と聞かれたら、やっぱりまずは「教育とはなにか」を語るべきではないか。それを語りのこしているうちは、「良いと思う教育について」は、語りだすことさえできないのではないか。
 「仕事」を「志事」と書く人がいる。だれかにやらされるだけの仕事から、自ら「志して」やる仕事を区別することが目的らしい。「恋は下心、愛は真心」に似た、「シ」の音にかけたトンチだ。「恋と愛の違い」ふうに「けれど」を接続に用いて言えば、「仕事はだれかにやらされるけれど、志事は自ら進んでやる」ということになるだろうか。キャンペーン。ただ愛とは違って、仕事をよいものとして語るためには、「仕事」という言葉がすでに持ってしまっている暗い面、あまり好ましくない面を取りのぞく必要がある。そのためには、外からイメージのよい字を持ってきて、無理やりにでもくっつけるしかなかったのだろう。
 「顔晴る(頑張る)」「人財(人材)」にしてもそうだが、このようなキャンペーン的語彙を、わたしはあまり信用しない。けっきょく、仕事の悪い面、頑張ることの悪い面、人を「人材」として働かせることの悪い面を語りのこしているうちは、仕事を、頑張ることを、働かせることを、語りだすことさえできないはずだ。そして、こうまで意図的にそれらを区別しようとする言説は結局、働かせる側、頑張らせる側に都合のいいものにならざるをえない。だいたい、言葉の持っている集合的なイメージは漢字を変えたくらいで簡単に消えてなくなるものではなく、キャンペーンとしてもそこまで有効とは思わない。むしろ不正の雰囲気を感じ取る人のほうが多いことだろう。
 念のために書き添えておくと、あの勉強会に参加した人たちに、そこまで意地の悪い意図があったとは思わない。けれどもやはり「教育とはなにか」という問いに「良い教育とはなにか」を答えることは結果的に、「そもそも教育とは良いものだろうか?」という次の問いを拒む。語りはじめるよりも前に、教育が、仕事が、頑張ることが、疑いのないいいことだと前提してしまっているからだ。その上で「教育とはなにか」を語ろうとしても、「教育がいかにいいか」しか語ることしかできないのも当然だろう。そしてまた、それが教育をする側、ひいては権力のある側に都合のいい言説にならざるをえないことも。そういう意味で、定義をすることはときに政治的でもある。強いものによる定義をみすみす許してしまえば、語れなくなることがあるのだ。
 つまり、愛と恋とが「けれど」で対比されることを許してしまっているあいだは、わたしたちは愛を疑うことができないようにされている。けれどもやっぱり、本当は愛にも、悪い部分があるのではなかろうか。
 もっとも、「いいものである」ことを意味の中に含んだ言葉でしか語れないこともあるだろう。「美しさ」や「真摯さ」「善良さ」、またそもそも「良さ」のことを話すときに、「しかし、『良さ』とは良いものだろうか?」と問うことはナンセンスだ。この連載で書いたものだと、「やさしさ」のこともそんなふうにとらえている。現実のありようを超えていいものである言葉が先に立ってくれてはじめて、それを目指してよくなっていくことのできるわたし、というものもまた、ある。
 けれども、それらと同様に「愛」のことをいいものとして語りだそうとすると、現実のがわから邪魔が入る。わたしたちがすでによく知っている通り、愛はときに疎ましく、浅はかで、見るにたえない。人から向けられた愛情にうんざりすることも、自分の愛情が御しがたくなることも、しょっちゅう。そういうときに、しかし「愛」のよさを信じつづけようとすると、つい言いたくなるのだ。「このようなよくないものは、愛ではない」と。ではなにか。愛に似ているけれど、よくないもの。愛のよさを保つため、それを名指す言葉を失ったとき、やむなく対比されるのが「恋」ではないか。「恋」の語られることが、ひるがえって愛の不完全さを示す。
 あえて「恋と愛の違い」を真に受けると、こんな定義になりそうだ。

恋:
愛をよいものとするために愛から排外される、よくない部分。なかなか得がたいよいものとしての愛の存在を仮定することで、その得がたさのために、まだ愛ではないが、愛に似て見えるものを名指す必要が出てくる。そのとき、それが差し当たって恋と呼ばれる。

 しかし、ここで困った。「いのち短し 恋せよ乙女」感がまったくない定義になってしまった。恋というと思い浮かぶ情熱的な部分、人を惹きつける部分がまるで欠けている。サン=テグジュペリを挙げて恋について語ろうとするせいで愛の大部分を語りそびれるのと似て、愛のことに気をとられるあまり、恋のかなりの部分を語りそびれてしまった。
 そういえば、ひどいことを言われたことがあった。
 「君、恋エアプじゃん」
 こういう暴言をくれるのはおなじみ、おしゃべり相手の悪い友だち、エスちゃんと決まっている。エアプというのはゲーム用語で、エアープレイヤー、やってもないくせにゲームのことを語る者のことを指している。つまり、わたしが恋をしていないにもかかわらず、知ったような顔で恋について語っているというのだ。
 「いや、一応結婚してるんですけど……」
 「うーん。君から恋っぽい話、聞いたことないよね」
 「恋っぽい話、って、なによ」
 「わからんけど、ドキドキしたりしたことあんの?」
 正直に言おう。ない。だからこれは図星だった。
 昔から、恋愛を主軸にした作品にそこまで興味が持てない。恋愛ドラマや恋愛漫画にほとんどふれずに育ってきたし、おもしろいと思って観ていた映画が途中から恋愛の話に収斂していくとがっかりする。都合、「ドキドキ」を売りにしているアイドルやキャラクターにも食指が動かない。とはいえ夫との交際はそれなりにやってきたつもりだし、もっと昔には片思いだってなかったわけではない。まあ、それも身を焼くようなものではなく、なんとなくはじまって、なんとなく終わるばかりだったが。
 若干動揺しつつ、エアプじゃないやい、と思っていたのだったが、しかしこうなるといよいよ疑いが濃厚になってきた。愛に先立って恋を定義しておこうと思ったものの、まったく恋の像をつかみそこねてしまった。人たちのしている恋というものに、まるで近づいていけない。だいたい、恋の定義でありながら、まるで性のことにふれていない。この定義だと、たとえば過保護な肉親からの行きすぎた干渉も恋、ときに自己犠牲を強いる愛国心も恋、ということになってしまう。おかしい。
 恋、エアプかもしれない。

 ということで、「恋」の定義は後編に持ち越すことにしたい。たいして興味がないと言ってしまったにもかかわらず、引きつづき恋のことにかかずらうはめになった。どうしてだろう。以下は余談である。
 わたしが恋エアプかどうか、唯一はっきりと判断できそうなのが夫だろう。わたしの恋における貴重な当事者だ。夫ならエスちゃんの見ていない面だって見ているはず。ついでに定義にも助言をしてもらおうと思って、以上のようなことを長々と話して聞かせると、夫は言った。
 「恋と書いて、てがみと読みます」
 これには呆れた。謎かけ要素がないぶん、「下心」よりひどい。
 「読むか! バーカ! 読まん、という話を、してたんやろうが!」
 「ほんとだよ。漢検準一級で出る」
 「……本当?」
 うなずく夫。
 「魚へんの方だけどね」

鯉(音読み:リ 訓読み:こい、てがみ)

(日本漢字能力検定協会 漢字ペディア)

 本当だった。本当だが、ぜんぜん関係ない話だった。
 ああ、恋のこと、なんにもわからない。なんならいまが、人生でいちばん、恋に身を焼かれている。


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プロフィール
向坂くじら(さきさか・くじら)

詩人、国語教室ことぱ舎代表。Gt.クマガイユウヤとのユニット「Anti-Trench」で朗読を担当。著書『夫婦間における愛の適温』(百万年書房)、詩集『とても小さな理解のための』(しろねこ社)。一九九四年生まれ、埼玉県在住。

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