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サボる哲学 リターンズ! 第4回 己を打ちすて、たのしいをとりもどす

我々はなぜ心身を消耗させながら、やりたくない仕事、クソどうでもいい仕事をし、生きるためのカネを稼ぐのか? 当たり前だと思わされてきた労働の未来から、どうすれば身体をズラせるか? 気鋭のアナキスト文人・栗原康さんの『サボる哲学』(NHK出版新書)がWEB連載としてカムバック。万国の大人たちよ、駄々をこねろ!



よし、もういちど

 こんにちは。もう三月になりましたが、遅ればせながらあけましておめでとうございます。年明けから、とんでもないことになっておりましたが、みなさまお元気でしょうか? わたしはいつもながら元気バリバリ。今年も全力で文章を書かせていただきたいとおもいます。なにとぞよろしくお願いいたします。
 ということで、なにかたのしいはなしからはじめようとおもっていたのだが、そもそもたのしいってなんだろう。そうおもっていたら、ちょうどいい文章にでくわした。村澤真保呂、村澤和多里『中井久夫との対話』(河出書房新社)だ。
 著者のお二人はご兄弟。なんと精神科医の中井久夫さんとは家族ぐるみのつきあいだったという。お父さんが大学時代の友だちで、卒業後も中井さんがちょくちょく家に遊びにきていたらしい。そんなお二人が中井さんとの対話をもとにしながら、その思想をときあかしていく。めちゃくちゃいい本だ。
 なかでも「おお!」とおもわされたのが、後半のくだり。真保呂さんが中井さんとかわしたという会話だ。せっかくなので、引用してみよう。

中井 人間はね、赤ん坊から「喜怒哀楽」の順番に感情を覚えていくんだけれど、年をとったり精神を病んだりすると、「喜怒哀楽」の「楽」から順番に感情を失っていくものなんだ。
筆者 なるほど、でも「喜」と「楽」ってどう違うんですか? 同じような感情に思えるけど。
中井 満足すると「喜」。満足できないと「怒」。それが続くと「哀」。でも「楽」っていうのは、その三つの感情を超えた感情だね。
筆者 どういうことでしょう?
中井 わかりやすくいうと、ゲームに勝つと喜び、負けると怒る。そして負けつづけると哀しい。しかし、それでも「もう一度」ってゲームを続けようと思うのが、楽しむってことだな。つまり「喜怒哀」の全部を受け入れて、その先にあるのが「楽」というわけさ 。

村澤真保呂、村澤和多里『中井久夫との対話』(河出書房新社、二〇一八年)二二八~二二九頁。

 このくだりを読んで、ふとおもいだしたことがある。わたし自身、もじどおりゲームでこういう経験があるのだ。一〇年くらいまえ、ブラジルにいったときのことだ。アメリカのダラス経由でサンパウロにむかう。
 たまたま日本の友人たちと席がはなれてしまって、隣りには一五、六歳くらいのアメリカの青年。むこうが気をつかってはなしかけてくれた。たしか「これからサンパウロのミッションスクールにかようんだ」といっていたとおもう。「キリスト教のおしえをしりたいか?」ときいてきたので、とりあえず「ノー」とこたえる。
 そしたら、「きみはブラジルになにしにいくの?」ときいてきたので、「ぼくはアナキストです。アクティビストのつどいがあるんだ」とこたえた。せっかくなので、こちらも「アナキズムのはなしをききたいか?」ときいてみると、むこうも「ノー」という。……。これで会話が終わったかとおもいきや、青年は満面の笑みをうかべてこういった。「じゃあ、トランプをやろう」。オッケーだ。
 それでスピードというゲームをやったのだが、この青年がまためちゃくちゃ強い。瞬殺された。チクショウ。もういちどやるかときいてきたので、「イエス」とこたえる。つぎもまた瞬殺だ。「ワンモア?」「ワンモア!」。なんどやっても瞬殺される。しだいにどっちかが「ワンモア」というたびに、二人ともゲラゲラと笑うようになった。やばい、たのしい、やみつきだ。
 けっきょく、それからサンパウロに到着するまで、一〇時間ちかくスピードをやりつづけた。どうも深夜、日本の友人が心配して席までみにきてくれたらしいのだが、わたしたちが煌々と明かりをつけてトランプをしていたのでおどろいたらしい。ちなみに、朝起きてからもトイレがてらみにきたら、ぼくらが笑いながらトランプをやっていたので、こいつらあたまおかしいんじゃないかとおもったそうだ。否定はしない。
 だけど、このときの一〇時間。ときがとまったような感覚をいまでもよくおぼえている。勝ち負けなんか関係ない。それこそわたしはあまり英語が得意じゃないので、ほとんど会話らしい会話もしてないし、思想もぜんぜんちがうのだ。
 なのに、異様なほどにつながりを感じてしまう。トランプをおく手が自分なのか、相手なのかもわからなくなる。自分が溶けて相手とひとつになった。そうして、ただひとことだけこういうのだ。ワンモア! このワクワクした感じ。それがたのしいということなのだとおもう。遊ぼう。

存在レベルでつながっていこうぜ

 いや、これだけだとまだ「喜怒哀」の「喜」のニュアンスだけが強いかもしれない。村澤真保呂さんは、こんなエピソードもくわえている。どうもあるフランス人女性が失意のどん底にいたらしい。夫が若い女性と恋仲になって、でていってしまったのだ。その女性に、さきほどの中井さんのはなしをしたところ、涙をボロボロとながしながら「その精神科医の言葉は私の魂を救ってくれた」[※1]といったという。そして、こうつぶやいたのだ。「セラヴィ!」。それが人生、と。
 ようするに、失恋の怒りや哀しみ。それもたのしいということだ。たとえどんなにつらいおもいをするとわかっていても、それで身の破滅をまねくとわかっていても、よし、もういちどと欲してしまう。
 きっとそれはおなじ恋を繰りかえしてもいいということでもあるだろうし、あたらしい恋を欲するということでもあるだろう。なんどでも破滅をもとめてしまう。成功も失敗もない。そんなことを考える自分なんて消滅してしまうほど、だれかをおもう。それが「楽」なのだ。
 もうすこしだけ展開してみよう。数年前にいちど読んでから、たびたびおもいだしては書いたり、ひとにしゃべってしまうはなしがある。中里介山『大菩薩峠』だ [※2]。主人公は机竜之助。最強の剣士にして、理由なき殺人に快楽をおぼえるサイコパスだ。しかし本の後半、その主人公を翻弄するとんでもない婆さんがあらわれる。
 竜之助が京都の大原、寂光院あたりを歩いていたときのことだ。お腹がすいて、いまにも倒れそう。そのまえに、ひとりの婆さんがテコテコとやってきて、「やれやれ、お腹がすきました」といってのめりこんでしまった。そのあともずっと「お腹がすきました、お腹がすきました」とつぶやいている。
 すると、婆さん。かついできた大釜の下に火をくべて湯をわかし、そのブクブクと煮えたぎった熱湯のなかにドボンととびこんでしまう。「あっ!」。さすがの竜之助もおどろいた。婆さんが煮えていく。そして、まるであたりまえのように、自分の肉に大串を刺してむしゃむしゃと喰らいはじめた。うめえ。
 呆然とする竜之助。婆さんは「いかがでございます、よく煮えました、あなた様も、一片ひときれ召上れ」といって肉をすすめてくれた。串をうけとったものの、竜之助は食べられない。すると、婆さんは自分の肉をすべてたいらげ、ひとこと。「やれやれ、これで当分お腹が持ちましょう。飛んだお邪魔を致しました」。そういってえっちら、おっちらと歩きだし、姿を消してしまった。
 このエピソード、一見すると利己の暴走。みずからの欲望に執着するあまり、みずからを喰らいつくしてしまう強欲のはなしだ。餓鬼婆。
 だけどもう一方で、自分の肉を竜之助にさしだしている。いまにも餓死しそうなひとをみたら、おもわず自分を鍋の具材にして、相手に食わせてしまうのだ。みずからを消滅させてでも、相手に手をさしのべたい。というか、もう自分も相手もない。食われてひとつになってしまうのだ。そんな強烈な意志を感じる。
 いったい、これはなんなのだろうか。まえにジョルジュ・バタイユという思想家を読んでいたら、こんなことをいっていた。

 とりわけ、もはや客体はない、、、、、、、、。恍惚は愛ではない。愛は所有であり、客体を不可欠とし、同時に客体は主体の所有者、客体によって所有される主体の所有者となる。しかし恍惚においては、もはや主体=客体の関係はなくなり、この双方のあいだに「大きく口を開けた裂け目」が存在する。そしてこの裂け目のなかで、主体と客体は溶け去り、そこに移行が、伝達が出現するが、ただし一方から他方への移行、伝達ではない。一方も他方も、、、、、、明瞭な現存在を失うのである 。

ジョルジュ・バタイユ『内的体験』(出口裕弘訳、平凡社ライブラリー、一九九八年)一四六頁。

 ひとつになりたい。それは一般的にイメージされているような「愛」ではない。たいてい、愛というと主体と客体の関係を前提としているからだ。わたしはわたし、あなたはあなた。そのうえで、どちらかが一方を所有する、わがものにする。支配だよね。だけど、それじゃほんとうの意味でひとつにはなっていない。
 ひとつになるとは主体も客体もなくなることだ。自己と他者。両者のあいだには、大きく口をひらいた裂け目が存在している。その裂け目にとびこんで、ふたりひとつになって溶け去るのだ。恍惚である。
 じっさい、ぼくらは他人とひとつになれない。それぞれ生物学的な個体をもっているからだ。それでもひとつになるのだとしたら、自分の体を食わせるとか、たがいの肉体を引き裂いてクチャッと内臓をくっつけるしかないだろう。その場合、元の個体は消滅している。ひとつになりたい。それは死滅への意志なのだ。
 腹が減ったよう。ほれ、あんたも食いなされ。もはや自分の感情なのか、相手の感情なのかもわからない。自他の区別をこえていく。よろこびいさんで存在の裂け目にとびこんでいく。物理的な死に先んじて、死を感じてしまう。恍惚だ。それをなんどでも繰り返していくことはできるだろうか。餓鬼婆の精神。存在レベルでつながっていこうぜ。たのしい。お邪魔いたしました。

アナルコ・ニヒリスティック・インディビジュアリスティック・コミュニストなのだ

 よし、もうひとつギアをあげてみようか。たぶん、この精神を極限までつきつめていったのが大正時代のアナキスト、金子文子だ。
 文子は関東大震災の混乱のなか、同志であり、パートナーでもあった朴烈パクヨルとともに警察に予防拘束。その後、皇太子爆殺をもくろんでいたとして大逆罪で起訴されて、いちど死刑判決がくだったものの、恩赦がでて無期懲役になる。
 でも天皇のゆるしなどうけてたまるかと恩赦状をやぶり捨て、一九二六年七月、宇都宮刑務所栃木支所で自殺。二三歳のことでした、というひとなのだが、その思想がめちゃくちゃいい。しびれるのだ。
 ひとことでいうと、ニヒリズムアナキズム。この世界のあらゆる価値をニヒル、つまり虚無のなかに放りこむ。国のため、カネのため、家のために生きるのがよいことだ? その善悪の基準を無きものとする。ゼロになれ。だれにもなんにも縛られない。わたしはただわたし自身を生きるのだ。
 このニヒリズムがあらゆる支配はいらないんだというアナキズム思想とむすびついている。のだが、もうすこし本人のことばでみていこう。文子は、ニヒリズムについてこんなふうにいっている。

一口にいえば私の思想これに基く私の運動は生物の絶滅運動であります 。

鈴木裕子編『[増補新版]金子文子 わたしはわたし自身を生きる』(梨の木舎、二〇〇六年)三〇三頁。

 えっ、絶滅ですかとドン引きしたひともいるかもしれないが、とりあえずつづけてみよう。

地上における生けとし生ける者のすべての間に絶えず行われる生きんがための闘争、生きんがための殺し合いの社会的事実を見て、私はもし地上に絶対普遍の真理というものがあるとしたなら、それは生物界における弱肉強食こそ宇宙の法則であり、真理であろうと思います。すでに生の闘争と優勝劣敗の真理とを認める以上、私には「アイデアイリスト」(理想主義者)の仲間入をして、無権力、無支配の社会を建設するというような幸福な考え方のまねはできません。しかも生物がこの地上から蔭を潜めぬ限り、この関係による権力が終止せず、権力者は呶々どどとして自己の権力を擁護して、弱者を虐げる以上、そうして私の過去の生活すべての権力から蹂られて来たものである以上、私はすべての権力を否認し反逆して、自分はもとより人類の絶滅を期してその運動を計っていたのであります 。

鈴木裕子編『[増補新版]金子文子 わたしはわたし自身を生きる』(梨の木舎、二〇〇六年)三〇三頁。

 強者が弱者を支配する。それが世界の絶対真理であり、普遍的な価値なのだ。弱いものはなにをどうあがいてもムダである。だったら、いちど現にあるものをすべて破壊するところからしかはじまらないのではないか。よし、絶滅だ。
 いいかたを変えてみるよ。この世はクソだ、終わっている。ぜんぶおしまい。滅べばいい。先なんてない。将来なんていらない。たとえアナキズムであっても、それを将来めざすべき「無支配の理想」にしてしまったら、ひとはそのためになすべきことを強制される。正義面しただれかに支配されてしまうのだ。
 ならば、いまここで全人類が絶滅する。そのつもりで生きるのだ。いましかない。いまがすべて。いまだけを永遠に繰り返していてもいい。そうおもえるような行動にうってでるのだ。ワンモア。
 誤解しないでほしいのは、「絶滅」ということばをつかっているからといって、べつに無差別殺戮をしたいわけじゃないよ。挑もうとしたのは、あくまで権力者のトップ。そこに爆弾を投じて、みずからも死滅する。しかも力点がおかれているのは殺すことじゃない。自分が滅びていくことだ。成果なんてどうでもいい。死におけるまでおのれの命の炎を燃やしつくしていく。

でき得てもでき得なくても結果などは問題ではありませぬ。ただ私の生命の燃焼を欲するのであります 。

鈴木裕子編『[増補新版]金子文子 わたしはわたし自身を生きる』(梨の木舎、二〇〇六年)三四一~三四二頁。

 なにがわたしをこうさせたか。すこしだけ、文子の身の上話につきあってもらいたい。文子は一九〇三年、横浜うまれ。親の都合で出生届をだしてもらえなかった。だから無籍者とよばれ、ちっちゃいころはいじめられる。父は文子にはやさしかったけど、母にはDVをふるう。こわい。
 そのあげく、父は母の妹と不倫して家をでてしまった。極貧だ。母ははたらいてくれたけれど男をつくって同居して、そいつにカネをみついでやっぱり貧乏。その男は文子を毛嫌いしていて、暴力をふるう。地獄の日々だ。
 それから九歳のとき、父方のおばと祖母がくらす朝鮮のがんにひきとられる。だけど無籍者だったとしれて、その身内からもいじめられる。女中のようにあつかわれた。祖母の折檻。気にくわないと、食事ぬきで氷点下のなか外にだされる。それがなんどもつづくので、心配した近所の朝鮮人のおかみさんが家にあげてくれた。麦飯をくれる。うまい、やさしい、涙なのだ。
 だけど、そんなやさしい人たちが日本からきた金持ちにいいようにつかわれている。ちょっとでも逆らえば、すぐに暴力。ある日、朝鮮の人たちが日本の憲兵隊にひきずられてムチ打ちにあっているのをみた。鬼かよ。
 さて、その後も親戚のいじめはエスカレート。自殺をはかったけれどやめにした。ふとおもったのだ。どうせひとは死ぬ。だったら、死んだつもりでなんでもやれだ。ようこそ、ニヒリズムへ。
 一九一九年、三・一運動。抗日運動が激化する。弾圧されても弾圧されても、朝鮮の民衆が続々とたちあがる。文子もこれを芙江で目撃。共鳴だ。そこに心臓がバクバクするような生の躍動を感じてしまう。のちにこう語っている。

いかなる朝鮮人の思想より日本に対する反逆的気分を除き去ることはできないでありましょう。
 私は大正八年中朝鮮にいて朝鮮の独立騒擾そうじょうの光景を目撃して、私すら権力への反逆気分が起り、朝鮮の方のなさる独立運動を思う時、他人のこととは思い得ぬほどの感激が胸に湧きます 。

鈴木裕子編『[増補新版]金子文子 わたしはわたし自身を生きる』(梨の木舎、二〇〇六年)三〇六頁。

 その年、文子は帰国。父親にひきとられるのだが、とにかく嫁にいけという。女は結婚して家のため、夫のために奉仕するのがあたりまえだと。文子はいう。嫌だ、わたしは東京にいって勉強がしたい。だいたい、だれとつきあうかなんて自分できめるのだ。そういうと、「バカな、女じゃないかおまえは」と怒鳴られた。上等だよ。
 文子は、身ひとつで上京。それで仕事をしながら学校にかよっているうちに、友だちからニヒリズムやアナキズムの本をおしえてもらう。おでん屋ではたらいていたら、朝鮮人アナキスト、朴烈の詩にであう。タイトル、「犬ころ」。最高だ。これはもういっしょに行動するしかない。セラヴィ!
 なにがおこったのか。餓鬼婆の精神だ。日本人でありながら無籍者として、貧乏人として、女として、日本人に犬ころのように虐げられてきたわたし。日本人に犬ころのように虐げられ、たとえ犬死してでも復讐の牙をむこうとしていた朝鮮人のあなた。そのあなたに共鳴、共振してしまう。これはわたしだ。ともにたたかう。
 あなたとわたし、どっちがどっちだかわからなくなっていく。もちろん物理的にはひとつになれない。でも文子がその境界線をふみこえる。自他の区別をみうしない、猛烈ないきおいで存在の裂け目にとびこんでいく。文子が命を燃焼させようとしていたのは、そこなのだとおもう。
 日本人であるわたし。その日本人の根拠とされていた天皇制。なにせ万世一系の皇統だからね。日本人が日本人であることの証であり、日本らしさそのものだといわれていた。だったら、わたしもろともふっとばしてしまえばいい。そうしてなんにもなくなって、あなたとひとつになって溶け去っていく。恍惚だ。
 いきすぎた発想だとおもうだろうか。当時、帝国日本は朝鮮人にあからさまな暴力をふるって収奪しまくっていた。すこしでも日本人に逆らえば、不逞鮮人。犯罪者として容赦なくとりしまる。
 関東大震災のときには、これまでやってきたことをやりかえされるとおもったのか、すべての朝鮮人を不逞鮮人とみなして大虐殺していく。こんな腐った世界を終わらせるには、文子くらいの激烈さが必要だったのかもしれない。
 あらためまして。文子が日本人と朝鮮人、支配する者とされる者、その関係をとびこえていく。関係そのものを無に放りこむ。そうして、なんにもなくなったその先に感じとれるものを「幸福」とよんでいた。しあわせになろうよ。もちろん、それはともに死を賭してたたかった同志、朴烈にたいするおもいでもあっただろう。

そしてお役人に対してはいおう。どうか二人を一緒にギロチンに放り上げてくれ。朴とともに死ぬるなら、私は満足しよう。して朴にはいおう。よしんばお役人の宣告が二人を引き分けても、私は決してあなたを一人死なせてはおかないつもりです。――と 。

鈴木裕子編『[増補新版]金子文子 わたしはわたし自身を生きる』(梨の木舎、二〇〇六年)三五六頁。

 だが、それは朴烈へのおもいだけじゃない。きっと朝鮮の民衆にたいするおもいだけでもなかったのだろう。だって、「生物の絶滅運動」だからね。この世界に存在している強者と弱者。その垣根をとびこえて、あらゆる弱者とひとつになりたい。その熱情に魅せられて、あなたも、あなたも、わたしになって命を燃えあがらせる。絶滅への渇望だ。全人類、全生物と、存在レベルでつながっていきたい。この共同性をどうよんだらいいだろうか。存在のコミュニズム。
 そう考えると、文子はわたし自身を生きるといって、個人主義的アナキストを名のっていたが、同時にコミュニストでもあったのだとおもう。みずからを無のなかに放りこむ。なにものにも縛られない。それは他者にとびこみ、ひとつになるということであり、自己消滅への意志にほかならない。絶滅してもあなたを救う。あえて名づけるよ。アナルコ・ニヒリスティック・インディビジュアリスティック・コミュニストなのだ。

途中でやめる

 そろそろ、まとめにはいろうか。どうしてこんなはなしをしたのか。このかん、能登半島地震のニュースをみていて、あらためて統治の過剰を感じたからだ。いや、政府はなにもしていないんだよ。いざ災害がおこっても、道がわるいからといってほぼなにもしなかった。やる気すらみせなかった。
 でも、ならばとボランティアが災害支援にはいろうとしたら、ムダにひとがおしかけたら避難民の迷惑になる、自粛しろという。はにゃ? そんなふざけた制止はふりきって被災地にはいり、炊きだしをした政治家もいたけれど、人気とりのパフォーマンスはやめろといわれて猛バッシング。もうめちゃくちゃだ。
 政府のいうことはなんでも正しい。上からの命令には従いましょう。自主性をおもんじるはずのボランティアまで、そうしなければならないとおもわされている。というか、ボランティア的な活動ほどそうさせられるというべきか。政府の顔色をうかがって、自主的にうごく。いまそういう隷属的な自主性というか、きなくさい自己統治の言説がとぐろをまいているんだとおもう。
 おもえば二〇〇〇年代初頭から、よくセルフマネジメントということばがつかわれてきた。匿名のアナキスト集団、不可視委員会いわくだ [※3]。「I AM WHAT I AM」、それがいまの統治をものがたっている、と。「わたしはわたし」。汝、何者かであれ。この社会では、たえずそうしなければならないと命じられている。これがわたしだと表現しなければならなくなっている。
 毎日、SNSで発信して、自分のアイデンティティをかっちりとかためる。そのために適度な教養を身につける。リベラルな装い。ボランティア。SDGs。禁煙。筋トレ。目標をたてて、成果をだしてレベルアップ。いままでの自分を否定して、よりよい自分へと自分を高める。自己管理だ。
 その行為のひとつひとつがわるいわけじゃないよ。だけど、それがセルフマネジメントとむすびついた瞬間に、統治のひとコマに変わってしまう。自分の商品価値を自分であげる。なりたいわたし。すべての行動がひとつのアイデンティティに収斂されていく。「I AM WHAT I AM」。やればやるほど、自分の殻に閉じこもっていく。
 ほんとは人間なんて、そのつど他人の影響をうけて、いろんなことを考えてしまうものなのだ。ちょっと手をだして、やめてしまうことなんてたくさんある。友だちにさそわれて、バンドをやってすぐやめる。ちょっとおもしろそうだから農業に手をだして、たいへんだからすぐやめる。途中でやめる[※4]。それ、だいじ。
 だが、そんなことをしようものなら、おまえには自分がない、他人に依存しているとディスられる。もしかしたら、褒め殺しをしてくるひともいるだろう。あなたはそうした失敗を糧にして、いまのあなたをきずきあげたんですねと。なにがなんでも、確たるわたしにむすびつけてくるのだ。途中でやめただけなのに。
 自己と他者のあいだに垣根がはられていく。わたしはわたし、あなたはあなた。となりのあなたがみえなくなる。みえているのはまわりの評価だ。まわりといっても隣人じゃないよ。あなたに評価をくだす企業であり、国家であり、その分野で影響力をもっている有力者たちなのだ。
 セルフマネジメントの自主性とはなにか。わたしはわたし。そういえばいうほど、国家や会社にへりくだるわたしになってしまう。上から命じられたことばかりが気になって、自分でものを考えられない。自主的にうごこうとすればするほど、権力者に都合のよいようにつかわれてしまう。
 どうしたらいいか。まずはたのしいをとりもどそう。だって、ずっと自分の将来をみすえて、そのためだけに生きるだなんてつまらないじゃないか。うまくいってよろこんで、失敗して怒ってかなしむ。ただ、それだけだ。自分の人生が損得勘定ではかりにかけられる。かけがえのない生が抽象化される、選別される。つらい。
 むしろ途中でやめる。他人の影響をうけまくる。あきらかに人生をドロップアウトしているのに、なぜかなんどでも繰り返したくなってしまう。そういう「楽」に身をまかせてゆきたい。
 しかしいま、それができないくらい自己統治という名の統治が強力になってきているのかもしれない。もはやボランティアにいって無償奉仕をさせられて、というレベルではない。そもそも支援にいくこと自体が自粛させられるのだ。
 自分の評価につながるかどうか、相手の利益になるかどうか、成果がだせるかどうか。はじめから、そんなことばかりを意識させられる。そりゃ、なにもできなくなるよね。たぶん、ひとがほんとうにひとに手をさしのべるとき、そんな発想はヒョイと放り投げてしまうものなのだとおもう。
 あなたをおもい、われをわすれる。おもわず自己消滅を欲してしまう。ひとつになって、ずっといっしょにともに生きる。どこまでギアをあげられるのか。遊ぼう。ともに喰らおう。存在のコミュニズムを発動させよう。なんどでも、おなじことばを発していきたい。よし、もういちど。


[※1]村澤真保呂、村澤和多里『中井久夫との対話』(河出書房新社、二〇一八年)二二九頁。
[※2]以下の記述については、中里介山「椰子林の巻」『大菩薩峠』を参照のこと。本書はいま絶版かもしれないけど、青空文庫で全文読むことができます。
[※3]不可視委員会『来たるべき蜂起』(『来たるべき蜂起』翻訳委員会訳、彩流社、二〇一〇年)を参照のこと。
[※4]このことばについては、山下陽光さんのショップ名を参考にしました。よろしければ、以下のサイトをどうぞ。途中でやめるショップ (thebase.in)

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栗原康(くりはら・やすし)
1979年埼玉県生まれ。政治哲学者。専門はアナキズム研究。著書に『サボる哲学――労働の未来から逃散せよ』(NHK出版新書)『大杉栄伝――永遠のアナキズム』(角川ソフィア文庫)『はたらかないで、たらふく食べたい――「生の負債」からの解放宣言』(ちくま文庫)『村に火をつけ、白痴になれ――伊藤野枝伝』『アナキズム――一丸となってバラバラに生きろ』(岩波書店)『死してなお踊れ――一遍上人伝』(河出文庫)などがある。趣味はビール、ドラマ鑑賞、詩吟、河内音頭、長渕剛。

題字・イラスト 福田玲子

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